上杉謙信の富山城尻垂坂の戦い~裏で糸ひく武田信玄
元亀三年(1572年)10月1日、武田信玄の意を受けて蜂起した加賀・越中の一向宗徒が占拠した富山城を、尻垂坂の戦いに勝利した上杉謙信が落として対抗しました。
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神通川(じんつうがわ)挟んで西に神保長職(じんぼうながもと)、東に椎名康胤(しいなやすたね)などがいたものの、未だ一国を統括するほどの大物がいなかった戦国の越中(えっちゅう)富山・・・
そこに祖父の代から度々遠征しては、ここらへんを配下に治めたい越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、それを阻止しておきたい甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん=晴信)が、何度も川中島で戦い(8月5日参照>>)ながらも、一方で、その都度、いずれかの越中の武将に味方しつつ代理戦争を繰り返しておりました。
●永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
●永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>
そんな中、上記の永禄十一年(1568年)の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)攻防の直後、前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍候補の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)あたりから、すでに信濃(しなの=長野県)を手に入れた信玄は、これまで北東に向かっていた矛先を南西に向け、今川義元(いまがわよしもと)を失って衰退気味の駿河(するが=静岡県東部)にシフトチェンジするのです(12月12日参照>>)。
(信長の仲介で、信玄と家康が同時に攻め込み、今川亡き後は信玄が駿河、家康が遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する約束ができていたとされる)
一方の謙信は元亀二年(1571年)、3度目の攻撃で、やっと松倉城を陥落させたものの、これまで同盟を結んでいた相模(さかみ=神奈川県)の北条が、北条氏康(ほうじょううじやす)から息子の北条氏政(うじまさ)に代替わりした事で謙信との同盟を破棄して信玄と同盟を復活させたので、謙信は北条と敵対する事になります。
そこで信玄は、謙信傘下である神保長職の寝返り工作を実施するとともに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)の縁をフル活用して加賀&越中の本願寺宗徒を焚きつけて一向一揆(いっこういっき)を蜂起させて、謙信の行方を阻もうとしたのです。
これを受けて、信玄の勧誘に応じずに主君=長職の寝返りに反発して謙信に忠誠を誓う一部の神保家臣は日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もり抵抗しますが、元亀三年(1572年)6月15日、一揆の勢いに押されて日宮城は開城となり(6月15日参照>>)、さらに神通川を越えた富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも一揆勢が摂取してしました。
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
信玄が関与しようがしまいが、もとより父の代から戦って来た一向一揆・・・西への道を阻む彼らを撃つべく、上杉謙信率いる約1万の軍勢が常願寺川(じょうがんじがわ)近くの新庄に陣を構えたのは元亀三年(1572年)8月17日の事でした。
対する一揆の軍勢はわずかに4千・・・一向一揆の総指揮を取る瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)の僧=杉浦玄任(すぎうらげんとう)は8月20日付けの書状にて、
「八月十八日に謙信が新庄に陣を置いたので我らの大半富山に陣取りましたが、両者の距離は一里(約4km)ばかりしかありません。
一騎でも二騎でも、とにかく早く支援する事が大事やと思うてください」
と、未だ加賀(かが=石川県南部)にいる味方に援軍の要請をしています。
この間にも謙信は、ぬかりなく・・・
「留守の間に、信玄を越後へ侵入をさせてはならない」
とばかりに、重臣の直江景綱(なおえかげつな)らの精鋭に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)の警備を厳重にするよう釘を刺しております。
そんな中、最初の衝突は富山城と新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)の間にある尻垂坂(しりたれざか=富山県富山市西新庄)にて起こります。
そこは、当時、びや川(神通川と常願寺川の間を流れる川)の堤に向かう長い坂道となっており、当日は、ここんところの降り続いた雨のせいで、一帯の地面がぬかるんで深い泥田のようになってしまっていたので、一揆勢は、足をとられ、少々動きが止まったのです。
そこへ上杉勢が襲いかかり、激しい戦いとなったため、瞬く間にびや川は血で真っ赤に染まったと伝えられています。
尻垂坂の戦いは、上杉謙信の勝利となったのです。
戦場のそばで首実検をした謙信は、大きく掘った穴の中に討ち取った敵の首を埋めて、その上に石塔を建てて供養したと伝えられていますが、それが現在の西新庄にある正願寺(せいがんじ)というお寺の近くに鎮座する「薄地蔵(すすきじぞう)」と呼ばれるお地蔵様なのだとか・・・
現在は、この付近に坂はなく平地となっていますが、この薄地蔵がある事で、この付近が尻垂坂の戦いの古戦場とされています。
この尻垂坂の敗北は一向一揆に大きなダメージを与え、多くの者が軍列から離脱し、隊の分裂がそこかしこで起こり、一向一揆に味方していた武将たちの中にも謙信に降伏する者が出始めます。
この時、一揆と信玄の連絡役として活躍していた飛騨(ひだ=岐阜県北部)の高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)主=江馬輝盛(えまてるもり)(10月27日参照>>)も、今回の尻垂坂の戦いをキッカケに、9月17日に上杉の陣を訪れて降伏し、以降は謙信に従うようになります。
この江馬輝盛と同じように、9月17日頃から、続々と一揆勢が引き上げていった事がうかがえ、細かな事は不明なれど、これにて富山方面に展開した一向一揆は潰滅状態になり、富山城も謙信の物になったものと思われます。
なので、今回の尻垂坂の戦いは富山城の戦いとも呼ばれます。
元亀三年(1572年)10月1日付で、味方であった勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)に発した武田信玄&勝頼(かつより=信玄の四男)父子の連署状で、
「越中の富山城落城と聞いて不満に思ってます。
でも、戦いに勝敗はつきものなので仕方ないですが、今後も加賀&越中での対陣には備えを怠らないようにしてください。
僕らも先陣が越中との国境まで侵入したのですが、途中で私(信玄)が病気になってしまい、そこから先への侵攻をためらっていたところ、たまたま敵(謙信)も兵を退けたので、わが軍も帰陣しました。
今は病気もよくなって、すっかり元気ですので、次回は必ず信玄&勝頼父子して出馬しますので、越中の国を太平にされるよう、命を惜しまず頑張ってください」
てな事を書いています。
それにしても、
書かなくても良い病気の事を、わざわざ書くのは、相当重かったのか?本当に完治したのか?微妙なところですよね~
でも、少しは良くなって落ち着いていた事は確かでしょうね。
なんせ、この手紙の2日後の10月3日、信玄は本拠の甲斐を出発して、「上洛するつもりだったのか?」との噂もあるあの西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのですから・・・
10月13日には一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(参照>>)、
10月14日からは二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市)(参照>>)、
10月22日には別動隊が仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(参照>>)、
そして12月には、三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)をコテンパンにする、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区三方原町)(12月22日参照>>)と続き、
翌・元亀四年(天正元年・1573年)の1月には野田城(1月11日参照>>)と、どんどん西に・・・
一方、謙信と一向一揆の関係は・・・
、翌・元亀四年(天正元年・1573年)の3月に、謙信が春日山城に戻ったのを見計らって、再びの信玄の声掛けに応じた一向一揆は、謙信と結んだ和睦を一方的に破棄して富山城を奪い返します。
これに激怒した謙信が再び富山城を奪い返すものの、謙信が越後に戻ると、またまた一向一揆が・・・てな事が、しばらく繰り返されるのですが・・・
ところが、そんな中、信玄率いる武田の本隊は、上記の野田城の戦いを最後に西上作戦をストップして帰路につきます。
(別動隊は3月に岩村城を落としていますが…参照>>)
そうです。
ご存知のように、この天正元年(1573年)の4月に信玄が病死するのです(4月12日参照>>)。
これによって、この後の戦国の構図が変わっていきます。
この尻垂坂の戦いの時には、
「先に一揆と和睦しといて、その間に信玄を殺ってしまいなはれ。
信玄がおれへんよーなったら、何もせんでも一揆は自然消滅しますわ!」
などと、謙信に応援メッセージを送ってくれていた織田信長が、
7月には将軍=足利義昭の籠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を落とし(7月18日参照>>)、
8月には越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)と北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を葬り去り、さらに、その直後から始まった越前一向一揆とのゴタゴタを天正三年(1575年)8月に一せん滅(8月12日参照>>)・・・
これには、さすがの謙信も反応・・・なんせ、越前の先は加賀&越中ですから・・・
かくして天正四年(1576年)3月、富山への侵攻を開始する謙信。
天正四年(1576年)
3月17日=富山へ侵攻>>
8月4日=飛騨へ侵攻>>
天正五年(1577年)
9月13日=七尾城攻略>>
9月18日=手取川の戦い>>
9月24日=能登平定~松波城の戦い>>
この間の天正四年(1576年)の5月には、ここで、こんなに戦った一向一揆=本願寺と和睦を結んで(5月18日参照>>)、いわゆる『信長包囲網』の一翼を担う事になるのですから、このあたりから謙信は、完全に、ターゲットを信長に絞ったようですね。
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