応仁の乱の余波?ギスギスMAX住民の宇治三室戸の合戦
文明十一年(1479年)10月28日、かねてより対立していた宇治の住民が三室戸を襲撃しました。
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室町幕府第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者争いや、管領家(かんれいけ=将軍補佐役の家系)の斯波(しば)や畠山(はたけやま)の後継者争いに、時の有力者である細川勝元(ほそかわかつもと=東軍)と山名宗全(やまなそうぜん=西軍)の権力争いが絡んで、その下にいる全国それぞれの武将を真っ二つにして争われた応仁の乱(おうにんのらん)・・・
応仁元年(1467年)5月20日に始まった大乱は、最初こそ激しかったものの(5月28日参照>>)、同年10月の相国寺(しょうこくじ=京都府京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をピークに、末端の兵士による小競り合い程度のものになっていき、
さらに翌年には、東軍総大将の足利義視(よしみ=義政の弟)が西軍に走る(11月13日参照>>)などしてグダグダになる中、
文明五年(1473年)には、両巨頭だった細川勝元と山名宗全が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事から、そのグダグダ感にも拍車がかかり、
結局、文明六年(1474年)の4月に、双方大将の後継者である細川政元(まさもと=勝元の嫡男)と山名政豊(まさとよ=宗全の孫)が和睦した事で、約10年に渡る応仁の乱が終結・・・
そして、京都に残っていた武将も徐々に領国へ帰国していく(11月11日参照>>)事になるのですが、
そもそもが、それぞれの武将が抱える家内の後継者争いや権力争いがある中で、乱の勃発によって将軍の名のもとに京都市街に出張して、それぞれが支持する側に立って戦っていた地方の武将たちですので、
例え将軍の後継者が足利義尚(よしひさ=義政の息子)に決まろうが、両大将の細川と山名が和睦しようが、もとからくすぶっていた地元での自身の個人的な勢力争いに決着がついたわけではないので、それぞれの戦いは継続される事になり、
彼らが京都を去って領国に戻る=それは、その戦場も彼らの地元=地方へと広がっていく事になるわけです。
(実際には、上記のグダグダの時点で、すでに地方へと飛び火してますが…)
そんな中、京都近郊の南山城の地でも、応仁の乱の4ヶ月前に、その引き金となった戦い=御霊合戦(1月17日参照>>)の時から後継者争いが勃発していた畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)と畠山政長(まさなが=東軍)(←二人は従兄弟同士)の戦いが、応仁の乱が終結しても未だ収まる気配もなく続けられていたのです。
●【乱が終わっても続く畠山の戦い】>>
そうなると、戦場になる土地の住民はたまったもんじゃありません。
武士同志で、どこか遠くで勝手にドンパチやってるなら「勝手にどうぞ」てな物ですが、自分たちの土地が戦場になった場合は、田畑は荒らされるし、家は放火されるし、配下の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民だって兵士として駆り出されたりもするわけですから、
当然、無関係の住民たちの心も荒み、イライラがつのっていく・・・
そして、
そんな南山城の住民たちのイライラに、一つのキッカケが絡んで大爆発するのです。
それは、将軍職を息子の義尚に譲った先代将軍=足利義政の奥さんの日野富子(ひのとみこ)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)詣ででした。
文明十一年(1479年)4月17日に日野富子が、石清水八幡宮とともに宇治神明社(うじしんめいしゃ=京都府宇治市宇治琵琶)も参拝する予定となった事で、
早速、宇治一帯で富子を迎える準備が開始されるのですが、その参拝に道筋にあたる羽戸(はと=同宇治市羽戸山)周辺の掃除を三室戸(みむろと=宇治市莵道滋賀谷周辺)の郷民が行った事に、宇治側が文句をつけたのです。
もともと、その境界線を巡ってモメ事が耐えなかった宇治と三室戸・・・
「ここは、俺らの場所や!」
とばかりに宇治側の者が、掃除をしている三室戸の者を追い払い、改めて掃除をし直した事から、三室戸側がブチ切れたのです。
富子の参拝が無事終了した9日後の4月26日、三室戸側の住民が、大挙宇治に押し寄せて、アチコチに放火して回り、この火によって放生院(ほうじょういん=同宇治市宇治東内・橋寺)が炎上します。
もちろん、宇治側の住民も負けてはおらず迎え撃って合戦となり、両方に多くの死者や負傷者を出しました。
武力行使をされた側=つまり被害者側となった宇治の住民は、これを、幕府奉公衆の宇治大路(うじおおち)氏と真木島(まきしま)氏に訴え、さらに両者が幕府に訴えた事で、宇治側は勝訴しますが、それでも収まらない宇治の住民は、
半年後の文明十一年(1479年)10月28日、三室戸を襲撃して、観音堂(三室戸寺→)以下、周辺をことごとく焼き払ったのです。
事件はさらに続き・・・
翌文明十二年(1480年)の正月18日、今度は三室戸側の住民が宇治橋を焼き落としてしまいます。
ご存知のように、この宇治という地は、古くから京都から奈良へと向かう奈良街道の要所・・・このため、京都と奈良を結ぶ交通に支障を来してしまい、しばらくは、船で槙島(まきしま)を渡る状況になってしまったのだとか・・・
この5年後の文明十七年(1485年)には、今回の場所より、もう少し南の地域(現在の京都府相楽郡&同綴喜郡の周辺)で、あの山城の国一揆(やましろのくにいっき)が起こっています。
この山城の国一揆も、その、おおもとは両畠山氏の戦いにウンザリした住民たちの不満から・・・
●【下克上の至り~山城の国一揆】>>
●【山城国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い】>>
とは言え、このギスギス感は、まだまだ続くわけで・・・
本来なら、戦いとは無縁の一般住民も、ここは、大いなる平和をもたらしてくれる人が登場するまで、もう少し待たねばなりません。
ま、それが、織田・豊臣・徳川の戦国の三英傑って事になりますが、、、
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