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2020年10月28日 (水)

応仁の乱の余波?ギスギスMAX住民の宇治三室戸の合戦

 

文明十一年(1479年)10月28日、かねてより対立していた宇治の住民が三室戸を襲撃しました。

・・・・・・・・・

室町幕府第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者争いや、管領家(かんれいけ=将軍補佐役の家系)斯波(しば)畠山(はたけやま)の後継者争いに、時の有力者である細川勝元(ほそかわかつもと=東軍)山名宗全(やまなそうぜん=西軍)の権力争いが絡んで、その下にいる全国それぞれの武将を真っ二つにして争われた応仁の乱(おうにんのらん)・・・

Ouninnoransoukanzu2 応仁元年(1467年)5月20日に始まった大乱は、最初こそ激しかったものの(5月28日参照>>)、同年10月の相国寺(しょうこくじ=京都府京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をピークに、末端の兵士による小競り合い程度のものになっていき、

さらに翌年には、東軍総大将の足利義視(よしみ=義政の弟)が西軍に走る(11月13日参照>>)などしてグダグダになる中、

文明五年(1473年)には、両巨頭だった細川勝元と山名宗全が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事から、そのグダグダ感にも拍車がかかり、

結局、文明六年(1474年)の4月に、双方大将の後継者である細川政元(まさもと=勝元の嫡男)山名政豊(まさとよ=宗全の孫)和睦した事で、約10年に渡る応仁の乱が終結・・・

そして、京都に残っていた武将も徐々に領国へ帰国していく(11月11日参照>>)事になるのですが、

そもそもが、それぞれの武将が抱える家内の後継者争いや権力争いがある中で、乱の勃発によって将軍の名のもとに京都市街に出張して、それぞれが支持する側に立って戦っていた地方の武将たちですので、

例え将軍の後継者が足利義尚(よしひさ=義政の息子)に決まろうが、両大将の細川と山名が和睦しようが、もとからくすぶっていた地元での自身の個人的な勢力争いに決着がついたわけではないので、それぞれの戦いは継続される事になり、

彼らが京都を去って領国に戻る=それは、その戦場も彼らの地元=地方へと広がっていく事になるわけです。
(実際には、上記のグダグダの時点で、すでに地方へと飛び火してますが…)

そんな中、京都近郊の南山城の地でも、応仁の乱の4ヶ月前に、その引き金となった戦い=御霊合戦(1月17日参照>>)の時から後継者争いが勃発していた畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)畠山政長(まさなが=東軍)(←二人は従兄弟同士)の戦いが、応仁の乱が終結しても未だ収まる気配もなく続けられていたのです。
●【乱が終わっても続く畠山の戦い】>>

そうなると、戦場になる土地の住民はたまったもんじゃありません。

武士同志で、どこか遠くで勝手にドンパチやってるなら「勝手にどうぞ」てな物ですが、自分たちの土地が戦場になった場合は、田畑は荒らされるし、家は放火されるし、配下の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民だって兵士として駆り出されたりもするわけですから、

当然、無関係の住民たちの心も荒み、イライラがつのっていく・・・

そして、
そんな南山城の住民たちのイライラに、一つのキッカケが絡んで大爆発するのです。

それは、将軍職を息子の義尚に譲った先代将軍=足利義政の奥さんの日野富子(ひのとみこ)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)詣ででした。

文明十一年(1479年)4月17日に日野富子が、石清水八幡宮とともに宇治神明社(うじしんめいしゃ=京都府宇治市宇治琵琶)も参拝する予定となった事で、

早速、宇治一帯で富子を迎える準備が開始されるのですが、その参拝に道筋にあたる羽戸(はと=同宇治市羽戸山)周辺の掃除を三室戸(みむろと=宇治市莵道滋賀谷周辺)の郷民が行った事に、宇治側が文句をつけたのです。

もともと、その境界線を巡ってモメ事が耐えなかった宇治と三室戸・・・

「ここは、俺らの場所や!」
とばかりに宇治側の者が、掃除をしている三室戸の者を追い払い、改めて掃除をし直した事から、三室戸側がブチ切れたのです。

富子の参拝が無事終了した9日後の4月26日、三室戸側の住民が、大挙宇治に押し寄せて、アチコチに放火して回り、この火によって放生院(ほうじょういん=同宇治市宇治東内・橋寺)が炎上します。

もちろん、宇治側の住民も負けてはおらず迎え撃って合戦となり、両方に多くの死者や負傷者を出しました。

武力行使をされた側=つまり被害者側となった宇治の住民は、これを、幕府奉公衆宇治大路(うじおおち)真木島(まきしま)に訴え、さらに両者が幕府に訴えた事で、宇治側は勝訴しますが、それでも収まらない宇治の住民は、

Dscn176131000a 半年後の文明十一年(1479年)10月28日三室戸を襲撃して、観音堂(三室戸寺→)以下、周辺をことごとく焼き払ったのです。

事件はさらに続き・・・
翌文明十二年(1480年)の正月18日、今度は三室戸側の住民が宇治橋を焼き落としてしまいます。

ご存知のように、この宇治という地は、古くから京都から奈良へと向かう奈良街道の要所・・・このため、京都と奈良を結ぶ交通に支障を来してしまい、しばらくは、船で槙島(まきしま)を渡る状況になってしまったのだとか・・・

Uzigawa11200a
宇治橋

この5年後の文明十七年(1485年)には、今回の場所より、もう少し南の地域(現在の京都府相楽郡&同綴喜郡の周辺)で、あの山城の国一揆(やましろのくにいっき)が起こっています。

この山城の国一揆も、その、おおもとは両畠山氏の戦いにウンザリした住民たちの不満から・・・
●【下克上の至り~山城の国一揆】>>
●【山城国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い】>>

とは言え、このギスギス感は、まだまだ続くわけで・・・

本来なら、戦いとは無縁の一般住民も、ここは、大いなる平和をもたらしてくれる人が登場するまで、もう少し待たねばなりません。

ま、それが、織田・豊臣・徳川の戦国の三英傑って事になりますが、、、
 .

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2020年10月26日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第29回「摂津晴門の計略」の感想

 

お題にするほどの計略でもなかったような?大河ドラマ『麒麟がくる』第29回「摂津晴門の計略」の感想です。

なるほどー
先週の予告で染谷信長がなめるように眺めていた大石は、管領=細川昭元(ほそかわあきもと=国広富之さんが演じてた細川晴元の息子)の屋敷の藤戸石(ふじといし)ではなく、慈照寺(じしょうじ=銀閣寺)の庭に置かれていた九山八海(くさんはっかい)でしたか~

ま、昭元はドラマに出て来てない(よね?)ので、
室町幕府=足利全盛期の象徴でもある慈照寺の石を拝借するのを描いて、急ごしらえの二条御所(二条城)に、新将軍&信長の権限で以って各寺宝を半強制的に持って来てる感を出す演出だったわけですが、

それなら、『信長公記』にあるように、花いっぱいつけて、笛や太鼓で囃子ながら引っ張ってくのも描いた方が、半強制的感が出た気がしないでもない(【本圀寺の変からの二条御所の築造】参照>>)

とは言え、二条御所の建造自体があまり描かれた事がない場面なので、この場面があっただけでもありがたい。。。

その二条御所に天守があったのはびっくりしましたが、さすが天下のNHK様、あの二条御所のセットはスゴかった~ホントお見事な惚れ惚れするセットでしたね~

スタッフさんが天塩にかけた、あのセットなら、演じられる役者さんも、さぞかし力が入った事でしょうね。

そのせいなのか?
摂津鶴太郎さんの顔芸がどんどんスゴイ事にwww
今日なんか、今にも
「詫びろ!詫びろ!詫びろ!…」
と連呼しそうでした。

そんな摂津鶴太郎さんらに対し、先週から、寺社領地の横領やなんやらに憤慨していた長谷川光秀・・・
「そんなに怒りまくって、自分の横領の話はどないするんやろ?」
と思っていたら、なるほど~アレは摂津鶴ちゃんたちにハメられたという流れになるんですね。

ま、主人公ですからね~
汚い事をさせるわけにはいきませんね~~
って事は、やっぱり比叡山も本能寺もそういう(悪いのは適役の誰か)事になるんでしょうか?

一方、その頃、
事実上の主人公=駒ちゃんは…
将軍の滝藤義昭にスッカリ気に入られちゃって・・・

これまで、実在の曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)(1月4日参照>>)の役をやってるとおぼしき駒ちゃんですが、

どうやら、道三どころか施薬院全宗(やくいんぜんそう)(12月10日参照>>)の役どころも、駒ちゃんが担うような雰囲気ですね。。。

まぁ、史実として全宗が活躍し始めるのは秀吉の中国攻めあたりの頃からだし、当然、まだドラマにも出てきてないので、全宗は、これからドラマに出て来る可能性もありますが、駒ちゃんの活躍ぶりを見る限り、あまり出番は無いような気がしますね~

ただ、史実に残る道三と全宗というこのお二人は、ともに貧しい人たちのための医療を目指した名医ではありますが、上記にリンクしたそれぞれのページを見ていただければお解りの通り、そのやり方は違います。

道三は権力者の力を借りる事無く慈善的に貧困者の医療に尽くした人・・・
一方の全宗は天下人となった秀吉のもとで、その金と力をフル活用して、貧困者を救うための医療設備と制度を構築した人。。。

なので、
このお二人のやった事を同一人物の行いに集約してしまうのは、ちょっとマズくはないかぇ?
と思っていたところ、案の定、駒ちゃんがキャラ変しましたね。

これまでは、
「お金を儲けるつもりはない」
なんなら、あの天下の万能薬を、
「貧しいならタダで差し上げちゃうワ」
くらいの雰囲気だったのが、ここに来て
「1千貫貯める!」
と大ハリキリになっちゃいましたww

そんな中、、、
流浪関白の本郷前久様・・・

信長の事をべた褒めしてましたが、そんなに信長LOVEなら、幕臣の光秀じゃなく、直接、信長にコンタクトを取れば?
だって、以前、小野伊呂波大夫川口帰蝶姫とメッチャ仲良くなかったでしたっけ?

あの本木道三父上と信長の面会の時にエキストラのバイト雇ったり、武具の調達とか、直接会って頼んでましたよね?
確か、長谷川光秀一家の落城からの逃避も、帰蝶姫が伊呂波大夫に頼んだ事になってました。
弟のように思ってる前久様がお困りなら、なぜ今、その人脈を使わないんだろう?

ま、この後、前久様は別の人を頼って丹波に隠れ住むので仕方ないんでしょうけど・・・(紀行でやってた)

に、しても、
今更ながら、天皇様の事を気にかけ出す長谷川光秀さん・・・

来週は、そろそろ金ヶ崎(4月26日参照>>)だというのに・・・いつになったら長谷川光秀は染谷信長の家臣になるんやろ?

幕臣のままで、あの退き口(4月27日参照>>)殿(しんがり)云々の話は、どないするんやろ?

とまぁ、色々と、これからの展開に興味津々・・・

来週は久しぶりに川口帰蝶姫も出るようなので楽しみにしながら待っております。

★来週、もしくは、これから起きる出来事は…
 いよいよ信玄登場?
 ●【今川館の攻防戦】>>
 ●【家康の遠江侵攻】>>
 ●【家康が引馬城攻略】>>
 ●【今川氏滅亡~掛川城の攻防戦】>>
 朝倉関連
 ●【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】>>
 ●【危機一髪~金ヶ崎の退き口】>>
 ●【金ヶ崎の退き口で殿の秀吉は…】>>
 天皇家
 ●【正親町天皇と織田信長】>>
 来週から出るっぽい筒井順慶の
 ●【松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦】>>
 ●【松永×三好・筒井の大仏殿の戦い】>>
 ●【松永久秀VS筒井順慶~辰市城の戦い】>>
 ●【筒井順慶の吉野郷侵攻~飯貝本善寺戦】>>
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2020年10月22日 (木)

応仁の乱~摂津西部…兵庫津の争奪戦

 

文明元年(1469年)10月22日、東軍山名是豊赤松政則に兵庫津を攻撃された大内政弘軍が、敗戦を知って撤退を開始し、兵庫津争奪戦が終結しました。

・・・・・・・・

室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)後継者争いや、幕府管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を継いでいく家系)畠山(はたけやま)氏や斯波(しば)氏の後継者争いに、現事典で幕府を仕切ってる両巨頭細川勝元(ほそかわかつもと=東軍)山名宗全(やまなそうぜん=西軍)勢力争いが加わって、ほぼ全国の武将を巻き込んで応仁元年(1467年)5月に勃発した応仁の乱(おうにんのらん)

応仁元年(1467年)
●1月17日:御霊合戦(畠山の後継者争い)】>>
●5月20日:応仁の乱勃発(東軍が官軍となる)】>>
●5月28日:五月合戦(停戦命令で一旦休憩)】>>
●10月2日:東岩倉の戦い(大内政弘が西軍で参戦)】>>
●10月3日:相国寺の戦い】>>
応仁二年(1468年)
●3月21日:稲荷山攻防戦】>>
●11月3日:足利義視のトンズラ事件】>>

とまぁ、こんな流れですが、、、
Ouninnoransoukanzu2 最初の段階では、将軍の居所である「花の御所」に陣を置いて将軍=義政から「山名追討命令」を得て官軍となった細川勝元の東軍と、そこからわずか500m西に陣を構えた(←なので西陣です)山名宗全の西軍とで、激しい市街戦が展開されるのですが、最も激しい戦いになったとされる10月の相国寺の戦いをピークに、翌年に雑兵を大量投入した稲荷山の攻防戦以降は、徐々に、その雑兵たちによる小競り合いのような戦いばかりになっていきます。

さらに、東軍の総大将を任されていた足利義視(よしみ=義政の弟)伊勢(いせ=三重県)に逃亡したり比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市)に姿を隠したり、果ては西軍に加わったりして、もう何が何だか・・・

で、やがて戦いの中心は、もともと将軍家の後継者争いよりも深刻だった各武家の後継者争いや派閥争いにつながっていき、京都周辺で行われていた戦いは、ここらあたりから徐々に外=地方へと移行していく事になります。

そんな中、文明元年(1469年)に入って、備後(びんご=広島県東部)に下向していた山名是豊(これとよ)が現地の国人(こくじん=その地に根付く武士)郎党を統合させる事に成功し、安芸(あき=広島県西部)の国人である吉川経基(きっかわつねもと)毛利豊元(もうりとよもと=毛利元就の祖父)らを従えて京都に戻って来るとの知らせが・・・

この山名是豊という人は、その名でお察しの通り、西軍大将の山名宗全の息子=次男だったわけですが、後継の問題やら領地の問題やらで、父&兄と対立しており、この応仁の乱では東軍=細川派に属していたのです。

将軍=義政から牙旗(がき=錦の御旗みたいな)を与えられて官軍となっている東軍ですが、先の応仁元年(1467年)の5月に周防(すおう=山口県東南部)長門(ながと=山口県西部)を領する 西国の雄=大内政弘(おおうちまさひろ)西軍として参戦して来てからは少々分が悪い・・・現に、この段階でも摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)あたりでは大内軍が大暴れ中でした。

そこで細川勝元は、上洛する是豊に赤松政則(あかまつまさのり)をつけて兵庫津(ひょうごのつ=神戸港)奪還を命じたのです。

この兵庫津は、おおもとは将軍家の所有で、南側を興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)、北側を東大寺(とうだいじ=同奈良市)が分割所有していたのですが、先の大内政弘参戦の際に、大内軍が兵庫津に上陸して、ここを占拠してしまっていたのです。

ま、当時は国内第一の港ですからね~遠征時の補給路の確保は戦略上の最優先事項です。

で、そんな兵庫津の奪回を命じられた山名是豊は、さらに赤松配下の小寺(こでら)明石(あかし)等を引き連れて、大内配下の問田弘胤(といだひろたね)の守る兵庫津を攻撃したのです。

文明元年(1469年)10月16日に勃発した最初のぶつかり合いでは、「大内手打勝了(『大乗院寺社雑事記』による」=大内側の勝利となりますが、2日後の18日には、数で勝る山名&赤松勢が力推しで攻め立てたうえに放火・・・火の勢い激しい中で問田弘胤が行方不明になってしまったため、大内&問田勢は指揮を失い、やむなく南都(なんと=奈良)方面目指して逃走していくのです。

この16日~18日にかけての戦いは、名のある武将も負傷するなど、かなり激しい戦いだったようで、無関係の一般住民も巻き込まれ、多くの人が犠牲となりました。

中でも、先の市街戦で屋敷を焼かれたために、前年の9月に領国の土佐(とさ=高知県)へと避難した一条教房(いちじょうのりふさ)(9月6日参照>>)の長男=一条政房(まさふさ)は、父のもとに向かうため、この兵庫津にて船を待っていたところを、たまたま乱入して来た山名勢に槍で一突きされて息絶えたのです。

もちろん、この時の政房は武装などしておらず直衣(のうし)狩衣(かりぎぬ)といった公家装束であったとか・・・さすがに、これには天皇以下朝廷も大いに悲しんだようですが、彼を刺した兵士の方も、まさか無関係の人とは知らなかったようで、相手が政房だったと知らされた後は、出家したか?自害したか?とにかく、この後は行方知れずになってしまったようです。

とにもかくにも、この兵庫津での問田勢の敗走の一報を受けて、連動する形で池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を包囲していた大内軍が、文明元年(1469年)10月22日に撤退を開始し、この兵庫津での戦いは終りました。

さらに11月16日に摂津中島(なかじま=大阪府大阪市東淀川区付近)に陣取っていた大内軍を撃破した山名&赤松勢は、その2日後の18日には、細川勝元からの論功行賞によって是豊には兵庫五ヶ荘が、政則には播磨(はりま=兵庫県西南部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護職が与えられ、ここに兵庫津における戦いは完結となります。

このあと、山名是豊は現在の尼崎市吹田市あたりに展開する大内軍との交戦に突入しますが、敵を一掃するほどには至らず、あまり大きな成果を得られないまま文明二年(1470年)を迎え、今度は備後に突入して来た西軍相手に戦う事になりますが、そのお話は、また、いずれかの日付にて書かせていただきたいと思います。

ちなみに、今回の兵庫津の戦いの後は、これまで兵庫に来ていた(みん=中国)との交易船が(さかい=大阪府堺市)の港に発着するようになるので、おそらくは、かの激戦により、しばらくは兵庫の港が使えないほどヒドイ状態になっていたものと思われます。

もちろん、ご存知のように、応仁の乱自体は、地方へに移行&グダグダ感を増しつつも、これからも続きますしね。
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2020年10月19日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第28回「新しき幕府」の感想

 

久々に、武将同士の駆け引きや腹の探り合いの場面が多くて、個人的にはウキウキ気分大河ドラマ『麒麟がくる』第28回「新しき幕府」の感想です。

ナレーションでしたが、上洛後の三好とのなんやかんやも語られたし、将軍就任や仮御所の本圀寺の変も描かれ、それに伴う桂川の戦いも会話から察する事ができたし、これキッカケの二条城の築造もしっかり描かれてましたね。
●【義昭を奉じ~織田信長の上洛】>>
●【第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任】>>
●【本圀寺の変と桂川の戦い】>>
●【本圀寺の変からの二条御所の築造】>>

ただ、今回の本圀寺の変には、、、
攻撃側(三好勢)には信長に岐阜(美濃)を奪われた斎藤龍興がいたはず、

一方で、
防衛側(将軍側)には三好三人衆と袂を分かった三好義継がいたわけで。。。

まぁ、斎藤龍興からの岐阜奪取は、ほぼナレーションだったし、
三好義継は本圀寺の援軍として駆け付けるだけだし、そもそも誰が義継で誰が三人衆なんだかわからないモブキャラだったので仕方ないのかも知れませんが、

龍興の父は、主人公の大親友だった海猿伊藤義龍ですし(第19回参照>>)
義継の父(養父)主人公が命懸けで(大ケガしてた)助けた三好長慶なわけですし(第6回参照>>)

前半部分で、けっこう丁寧に描いていた人たちの後継ぎさんなんですから、せめて、もう少しスポット当てて、その因縁めいた雰囲気を醸しだしてみても良かったような~
↑コレはあくまで「歴史は大河の流れのようにつながっていく」と考える私の個人的な好みですが…

に…しても、
二条城の構築現場にて展開されたお地蔵さんの扱い方の是非。。。

神も仏も信じず、お地蔵さんの頭をペチペチしちゃう染谷信長と、その態度に不信感を抱く長谷川光秀・・・

おそらく、ここが、この先の比叡山焼き討ちや本能寺の変につながっていく二人の間の隙間風になるんでしょうけど、
(後日、光秀構築の福知山城にはいっぱい石仏が使われてる事はスルーなのかな?)

なんか、今日の信長さんは、いつの間にか定番の信長さんになってる。。。

確か、最初は「これまでにない信長像を描く」というフレコミで、文字通り、そんな風な染谷信長だった気がするんですが、ここに来て、いきなり定番の鬼のような信長になってしまったような。

光秀は光秀で、なんか急にエラそうな感じになってるし・・・

不肖私、情けない事にキャラ変についていけてない(ToT)
しかも、無言の演技が多い今回の長谷川光秀は、未だに、その心も読めないでいます。

これが、信長もしくは秀吉が主役のドラマで、光秀が敵役あるいはライバル的立ち位置の人なら、「何を考えているかわからない=心の読めないキャラ」という設定で充分通用するし、そういう描き方もアリだと思うんですが、
今回は主役ですからね~

主役の心が読めないと、見てる側は、なかなか共感できないわけで・・・ともに怒り、ともに戦いたい視聴者の一人としては、ちょっと寂しいです。

そこを、埋めるために、わざわざ将軍様とともに地下の隠し部屋に入って思い出話に花を咲かせたのかも知れませんが、やはり、あそこは、将軍様の護衛はモブキャラの誰かに任せてでも、主役には最前線でカッコ良く戦って欲しかったです。
(思い出話は、また別の機会に…)

ま、「将軍を守る」「父の代から土岐氏が主君」は、後の本能寺の変の動機につながるための伏線かも知れないですが・・・(♪時は今…♪やからね)

とは言え、その将軍=滝藤義昭さんは良いですね~
これまで抱いていた足利義昭のイメージとは違いますが、滝藤さんの演技が素敵なので、あれはあれでドラマとしてはアリな気がしてます。

また、初登場でいきなりの悪役臭プンプンの摂津鶴太郎さんも小気味良いですね。
この先、どんなイケズな計略をされるのか?楽しみです。

楽しみと言えば、今回は名前だけ出た筒井順慶・・・
順慶は大和郡山城を構築する際に光秀から色々教えてもらったとされるし、例の洞ヶ峠の一件(6月11日参照>>)もあるので、おそらく、これから、長谷川光秀と仲良くなるんでしょうね。

予告編では染谷信長がデッカイ石をなめるように見てたので、ひょっとしたら管領=細川昭元(晴元の息子)の屋敷跡から藤戸石(ふじといし)を運ぶ場面があるのかも知れません。('-'。)(。'-')。ワクワク

来週、もしくは、これから起きる出来事は…
 いよいよ信玄登場?
 ●【今川館の攻防戦】>>
 ●【家康の遠江侵攻】>>
 ●【家康が引馬城攻略】>>
 ●【今川氏滅亡~掛川城の攻防戦】>>
 朝倉関連
 ●【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】>>
 ●【危機一髪~金ヶ崎の退き口】>>
 ●【金ヶ崎の退き口で殿の秀吉は…】>>
 あと吉田久秀の会話でサラッと語られただけの
 ●【松永×三好・筒井の大仏殿の戦い】>>
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2020年10月14日 (水)

28年間に渡る享徳の乱~五十子・太田庄の戦い

 

長禄三年(1459年)10月14日、享徳の乱序盤の激戦=太田庄の戦いがありました。

・・・・・・・・

本日ご紹介する太田庄(おおたしょう)の戦いは、享徳三年(1454年)12月から文明十四年(1483年)11月までの28年間という長きに渡って混乱した享徳の乱(きょうとくのらん)という大乱の中での激戦の一つです。

まさに今日明日の長禄三年(1459年)10月14日と15日に太田庄(埼玉県熊谷市)でぶつかったので太田庄の戦いですが、その前後の対峙するこう着状態の期間も含めて五十子(いらこ・いかご=埼玉県本庄市)の戦いとも呼ばれます。

そもそもは、領国が関東でありながら、南北朝の混乱etc.のために京都の室町(むろまち=京都市上京区)にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)が、将軍は京都に滞在せねばならないために、留守になってしまう関東を治めるべく、自身の四男である足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう)として、関東に派遣した事に始まります(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以来、将軍職は尊氏嫡男(実質は三男)足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(かんとうかんれい=執事)には上杉(うえすぎ)が代々就く事になったわけですが、徐々に、鎌倉公方は将軍家と対立し、自らの道を歩み始めようとするようになったのです。

その最たる物が、第6代将軍=足利義教(よしのり)VS第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)でした。

…というのも、先々代の第4代将軍=足利義持(よしもち)が、息子の足利義量(よしかず=第5代将軍)に将軍職を譲ったものの、義量は子供がいないまま父より先に死に、その3年後に義持も次期将軍を指名しないまま亡くなってしまった事で、出家したいた義持の弟の中から、次期将軍をくじ引きで選ぶ事に・・・そのくじ引きで選ばれたのが第6代の足利義教だったわけですが、

どうやら持氏は、義持の猶子(ゆうし=養子)だったという話もあり、それなら持氏も「俺(持氏)にも将軍になる権利あるんちゃうん?」てな事からはじまり、不満ムンムンの鎌倉公方=足利持氏と、将軍=足利義教が一触即発の状態となる中、当時の関東管領=上杉憲実(うえすぎのりざね=山内上杉家8代当主)が、血気にはやる持氏を止めようとしたため、持氏は関東管領とも対立するようになります。

で結局、持氏は、その上杉憲実を討とうと軍を起こしたものの、逆に、上杉憲実と幕府によって永享十一年(1439年)2月、自刃に追い込まれてしまったのです「永享の乱」参照>>)

2年後の永享十三年(嘉吉元年=1441年)には、持氏の遺児である春王(しゅんのう・はるおう=持氏の次男)安王(あんのう・やすおう=持氏の三男)を担いだ結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)が幕府に対抗しますが、コチラも鎮圧されてしまいます「結城合戦」参照>>)

ところが、そのわずか2ヶ月後・・・招かれた宴会の席にて将軍=義教が、播磨(兵庫県)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)殺害されるという事件が起こります「嘉吉の乱」参照>>)

将軍職は義教嫡男の足利義勝(よしかつ=第7代)が、わずか9歳で継ぐ事になりますが、鎌倉公方はどうする?

先の永享の乱のゴタゴタで一旦廃止となっていたものの、やはり「関東安定のためには鎌倉公方は必要」との事で、関東武士団の推す亡き持氏の四男=足利成氏(しげうじ)が新たな鎌倉公方となり、関東管領には先の上杉憲実の息子=上杉憲忠(のりただ=山内上杉家9代当主)が就任します。

まぁ、先にゴタゴタあったものの、将軍も代わった事ですし、この時の成氏は未だ10歳に満たない少年でした(永享の乱の時に4歳だったとされる)から、回りの大人から見れば扱いやすく、それでいて血筋は正統な跡継ぎなのですから、関東の武士団がサポートすれば「これでウマく行く」という感じだったのでしょう。

しかし・・・よその子は大きくなるのが早いww

いつしか成氏は、父の仇である上杉家を遠ざけ、アノ時も味方になっていてくれた結城氏や安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)などを重用するようになっていくのです。

やがて、これに不満を持った上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)長尾景仲(ながおかげかね)太田資清(おおたすけきよ=道心)が、宝徳二年(1450年)、成氏を襲撃するという事件が起こります。

この時は、江の島に避難して無事だった成氏ですが、当然、上杉家との距離は、益々開いていくわけで・・・

そんなこんなの享徳三年(1454年)12月、成氏が自らの御所に上杉憲忠を呼び寄せて騙し討ちする一方で、成氏に味方する里見らが、長尾景仲に代って上杉家の家宰となっていた長尾実景(さねかげ)父子を殺害したのです。

たまたま鎌倉を留守にしていた時に、この事件の報告を受けた長尾景仲は、報復すべく即座に兵を集めます。

一方の上杉憲忠の弟=上杉房顕(ふさあき)も、兄の後を継いで直ちに関東管領に就任し、従兄弟の上杉房定(ふささだ)と合流するとともに、上杉憲忠殺害などの一連の出来事を幕府に報告し、幕府から「成氏討伐」の許可を要請します。

こうして享徳の乱が始まったのです。
ちなみに、義教の後を継いだ7代将軍=義勝は在任わずか8ヶ月で病死してしまったため、嘉吉三年(1443年)に、その弟の足利義政(よしまさ=義教の三男)が第8代将軍に就任しています(当時8歳)。

乱勃発まもなくの頃は、分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)にて長尾景仲率いる上杉軍に大勝利した成氏でしたが、享徳四年(1455年)の4月になって、「成氏討伐」を決定した幕府の命で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川範忠(いまがわのりただ)が出陣・・・

勝利の勢いに乗って各地を転戦する成氏の留守を狙って、成氏の本拠=鎌倉に攻撃を仕掛け、ここを占領してしまいます。

このため、鎌倉に戻れなくなった成氏は、やむなく下総(しもうさ=千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺の隅田川東岸)古河(こが=茨城県西部)に入って古河城(こがじょう=茨城県古河市)を普請し、ここを自らの御所とし、更なる戦いに挑みます。

なので、これより後は、足利成氏は「古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。
(↑幕府からの討伐命令が出てる以上、正式な公方ではありません)

こうして成氏が古河を拠点に反撃し始めた事から、上杉家の領国だった上総(かずさ=千葉県中部)や安房も成氏派に占領され、利根川を挟んで東側が古河公方=成氏派、西側が関東管領=上杉派に分断された形となって、戦いは関東各地に広がっていきました。

一方、幕府は、長禄元年(1457年)に、そんな成氏派に対抗するため、上杉持朝(もちとも=扇谷上杉家当主・相模国守護・上杉憲忠の岳父)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を、その執事の太田資清(おおたすけきよ)岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市・岩槻城)を、資清の息子=太田道灌(どうかん)には江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築させて(4月8日参照>>)守りを固める一方で、将軍=義政の兄である足利政知(まさとも=義教の次男)に、執事として渋川義鏡(しぶかわよしかね)上杉教朝(のりとも)の二人をつけて、正式な鎌倉公方とするため関東に下向させます。

しかし、すでに混乱状態にある関東で、鎌倉に入れなかった政知らは、やむなく、少し手前の伊豆(いず=伊豆半島)堀越(ほりごえ・ほりこし=静岡県伊豆の国市)に御所を構え、以後、ここを本拠としたので、足利政知は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれます。
(↑上記の通り、こっちが正式な公方です)

そんなこんなの長禄三年(1459年)の中頃、上杉方が利根川西岸の五十子(いらこ=埼玉県本庄市五十子)に本陣を置いて、一族の主だった者を集結させた事を知った成氏は、その五十子に攻撃を仕掛けるべく出陣します。

かくして長禄三年(1459年)10月14日、両軍は上杉本陣の五十子近くの太田庄でぶつかるのです。

激戦は丸一日続き、この日の戦いで上杉教房(のりふさ=持房の息子)をはじめとする主力武将が討死を遂げ、上杉方の敗戦となりました。

続く15日の朝方には、利根川を渡った上杉軍が海老瀬口(えびせぐち=群馬県邑楽郡板倉町)にて交戦し、夕方には羽継原(はねつぐはら=群馬県館林市)にて戦いましたが、形勢不利な状況は否めず・・・やむなく五十子へと引き返しました。

この戦いで大打撃を受けた上杉方としては「五十子の本陣もヤバイ?」てな雰囲気でしたが、どうやら成氏側も痛手を被ったようで、五十子にやって来ることなく、成氏の古河方もそのまま撤退して行ったので、五十子は上杉が確保・・・

以後、ここを拠点に長期戦に突入していく事になります。

幕府も、将軍=義政の名で関東の武士たちに成氏追討命令を出しますが、すでに関東一円が混乱状態の中、各武将たちにとっては将軍の追討命令よりも、自分に降りかかる目の前の合戦が最優先なわけで、なかなか古河方に決定打を出せないまま・・・

こうして、度々の小競り合いを続けながらも大きな決着がつかぬままの両軍・・・文正元年(1466年)には成氏が五十子の本陣を攻撃する一幕もありながらも、一方の上杉方では総大将とも言うべき上杉房顕が五十子にて急死

それでもにらみ合いと小競り合いが続いておりましたが、文明五年(1473年)になって、山内上杉家の執事職を継げなかった長尾景春(ながおかげはる=長尾景仲の孫)が乱を起こし、
【江古田・沼袋の戦い】>>
【用土原の戦い】>>
そのゴタゴタで景春に攻撃された五十子の本陣はボロボロ・・・解体を余儀なくされます。

もちろん、五十子の本陣はなくなっても、享徳の乱はもうしばらく続くのですが、ご存知のように、この間、都では、あの応仁の乱(おうにんのらん)が勃発(5月20日参照>>)していたわけで・・・

もはや関東も関西も収拾のつかない動乱の戦国へと突入・・・なので享徳の乱は関東における戦国の幕開けとも称されています。

とりあえず、28年に渡る大乱について、サラッと書かせていただきましたが、もう、何が何だか状態ですねww

まぁ、享徳の乱の終焉については、また後日・・・いずれかの日付にて書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
 .

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2020年10月12日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第27回「宗久の約束」の感想

今日は、ちょっと辛口でゴメンナサイな大河ドラマ『麒麟がくる』第27回「宗久の約束」の感想です。

のっけから、
将軍らしくない滝藤義昭の事を
「6歳で寺に預けられて僧侶としてお暮しになったので…」
て・・・

いやいや、
跡取り以外の武家の子息が、幼い頃に寺に預けられる事は、当たり前とまでは言わないものの、戦国ではよくある話です。

当主候補が複数いる中では、幼いうちに「跡取りではない」事を明確にしておかないと、のちのち後継者争いでモメたりしますからね。

しかし、一方で、
世は戦国ですから、その当主候補が先々も万全である保証はないわけで・・・
その時に、寺に入っていた子息が即座に還俗(げんぞく=出家していた人が一般に戻る事)して後を継ぐのです。

思うに、幼き頃に寺に預けられた彼ら(一般的に次男や三男等)は、イザという時のピンチヒッターとして寺に入ってるだけなんじゃないのかな?

なんせ、寺に入って出家してる=俗世間とは縁切ってる状態なので、寺にいる間は後継者候補とはみなされないぶん、ライバルから命狙われる確率も少ないわけで・・・(もちろん例外的に命狙われる場合もあるでしょうけど)

実際、第6代将軍の足利義教も寺にいたし(6月24日参照>>)

なかなか子供ができなかった8代将軍の足利義政は早く後を継がせいがため弟の義視(1月7日参照>>)をわざわざ還俗させましたし(義尚が生まれたためにややこしくなりましたが…)

龍造寺隆信なんかは、少弐(しょうに)に一家斬殺された中で(寺に預けられてたおかげ?)の生き残りですし(1月11日参照>>)

なんなら、このドラマにも登場した今川愛之助義元さんも4歳で寺に預けられながら(6月10日参照>>)も、桶狭間(おけはざま)の頃は東海一の弓取りになってますが、初登場の頃から、そんな描写(寺で育ったから武将としての自覚がない感じ)は無かったですよね?
むしろ、これまでのおじゃる感を払拭するような名将に描かれてました。

なのに、なんで、この滝藤義昭だけ、寺で育ったせいで名刀見てビビるような人に描かれているんでしょう?
一つのドラマ内で、2種類のポリシーがあるのは、ちょっといただけない気がします。
(将軍を演じておられるのが滝藤さんなので、どこかでキャラが豹変する設定なのかも知れませんが…)

そんな中、染谷信長が、
「三好勢の戦力と、朝廷の意向(現在の義栄を見限り義昭を推挙してくれるかどうか)を探ってくれぬか?」
長谷川光秀に問い、
「やってみましょう!」
と光秀が颯爽と答える場面には、
「よっしゃ~!やっと光秀か活躍する~」
と、惚れ惚れしましたが・・・
(信長が浅井長政に会いに行く話をしてくれたワ…6月28日の前半部分参照>>

残念ながら、何の事はない、結局、駒ちゃんと伊呂波大夫からの情報頼みでした。

そんな駒ちゃんの紹介で陣内宗久と面会する長谷川光秀・・・

ここでの陣内さんのセリフが長ければ、駒ちゃんのセリフも長い・・・ほんで、その後に光秀登場しますが、駒ちゃんの主役感がハンパない。

これまで、ずっと思ってました。
長谷川光秀が主役で、主役の特権フルに使って、何もしてないのにアゲアゲされまくってるにも関わらず、なぜか主役に見えない・・・と、

脚本家さんのインタビューを見て、ようやくわかりました。

どうやら、今回の大河は、これまでにはない「市井の人たちの目線」での戦国を描きたいのだと・・・

よくある「戦国武将の国盗りの物語」「群雄割拠の覇権争い」ではなく、
戦いに巻き込まれ、家を焼かれ、
「もう、誰でも良いから とにかく、戦いの無い世にして~」
って思ってる市井の人々。

なので、架空の人物である駒ちゃんに、あんな重要な事を長々と話させ、政治にも関与させるんですよね?

なるほど…これまでの大河にない新しい描き方である事は確かです。

それなら、番組開始前の「今年の大河は明智光秀が主役」とのフレコミはいらなかった?気がしないでもないですが、この描き方が成功か否かは、最終回まで待たないと何とも言えませんね。

ただ、市井の歴史好きとしては、
滝藤義昭&染谷信長の上洛した際の
「すでに三好勢は京にいなかった」
というナレーションで、あたかも、その時点で事が完結したかに思えたのが気になりました。
(↑これは個人の感想…そう思ってない方もおられるでしょう)

そもそも畿内というのは、京の周辺にある山城(やましろ=京都府南部)大和(やまと=奈良県)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府南部)摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県南東部)の5つで京の都そのものは含まれません。

確かに畿内を牛耳ってる三好(三人衆)勢なので、その真ん中にある京も、事実上掌握してたと思いますが、本拠ではないし、そもそも担いでる将軍=義栄も、1度も京都には入ってません。

この時期に三好勢が本拠としていたのは、
京都府内では勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)淀城(よどじょう=京都府京都市伏見区・淀古城)
あとは大阪方面の芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市)くらい??
(上記の勝竜寺城や淀城は「京の都」ではないです)

もうチョイあったかも(何か忘れてる気がするww)ですが、とにかく、京の都に、屋敷はあったとしても、城的な物持ってるのは将軍くらいです(寺が武装してる感はあります)

今では、京都というと京都府全体か、あるいは、いわゆる京都観光する京都市とその周辺も含まれたりしますが、

この時代の京の都は、上洛という言葉でもお察しの通り洛内の狭い部分だけですから、細川勝元応仁の乱のために構築した船岡山城(ふなおかやまじょう=京都市北区)がギリなものの、洛内に城的な物を将軍以外が建てるのは豊臣秀吉天下統一の時代(将軍じゃないけど関白なんで)まで無かったように思います。

何が言いたいかと言いますと、いずれにしても、遠征での戦いではなく、敵を迎え撃つ戦いなら本拠の城に籠るか、勝手知ったる場所を選ぶのが得策だと思えるので、信長が来た時点で洛中にはいないのは当然なんじゃないか?と・・・つまり、京の都争奪の戦いは、ここからであって、「信長が京都に来て、三好が京都を去った」では終わったわけではないという事です。

ちなみに史実での、上洛後の信長は、10月2日~13日までの11日間、芥川山城に滞在していて、その時に、今井宗久やら松永久秀やら三好義継(←義栄が14代将軍になった時点で三好三人衆とは袂を分かってます)といった多くの人たちが列をなして信長に面会しに来てますが(9月7日参照>>)

私個人的には、この「芥川山城に滞在」して「そこに皆が列をなして…」というのが、とても重要な事のように考えてます。

というのは、この芥川山城が、かの三好長慶が戦国初の天下人として畿内を掌握していた場所(5月9日参照>>)だからです。

前政権の本拠地をぶん取って、そこから内外に自分が牛耳った事を示すのが重要だったのではないか?と。。。

ま、そこらあたりは翌週から、しっかり描いてくださる物と期待しておしますが・・・

たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…
●【第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任】>>
●【本圀寺の変と桂川の戦い】>>
●【本圀寺の変からの二条御所の築造】>>

★時間がないので、たぶんスルーやけど
 上洛してから2か月間に起こった事

●【信玄が駿河に進攻~薩埵峠の戦い】>>
●【今川館の攻防戦~信玄が駿河を攻略】>>
●【家康の遠江侵攻】>>
●【家康が引馬城攻略】>>
●【今川氏滅亡~掛川城の攻防戦】>>

 

追記:
言い忘れました~

最後に、
「ワシの家臣になるか、将軍の配下になるか、すぐに選べ」
っていう染谷信長の問いに
「将軍様です」
って、あんなにハッキリ答えたら、今度、信長の家臣になる時、メッチャ気まずいですが、大丈夫なんやろか?
 .

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2020年10月 7日 (水)

筒井順慶の吉野郷侵攻~飯貝本善寺戦

 

天正六年(1578年)10月7日、織田信長の石山合戦を受け、筒井順慶が吉野郷に侵攻すべく筒井城を出陣しました。

・・・・・・・・・

そもそも、織田信長(おだのぶなが)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)ハッキリと敵対するようになったのは元亀元年(1570年)9月・・・その2年前に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)奉じて信長が上洛した(9月7日参照>>)に1度は蹴散らしたものの、

再び舞い戻って将軍の仮御所を襲撃したり(1月5日参照>>)なんぞしていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通らの討伐という大義名分で以って、彼らが起こした野田福島(のだ・ふくしま=同福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、

途中から本願寺11代法主の顕如(けんにょ)率いる全国本願寺の総本山の石山本願寺が三好側として参戦して来た事に始まります(9月12日参照>>)

もちろん、本願寺側にしてみれば、それまでに、立地条件の良い石山本願寺が建つ場所を、信長が「明け渡してほしい」なんて言って来ていた事など、

すでに敵対気味だった両者の関係を単に表面化させただけの参戦であったわけですが、この時に顕如が全国の本願寺門徒に対して、対信長への蜂起を促した事から、この後、各地で信長に対抗する一向一揆(いっこういっき)が勃発するわけです。

そんな中で、大和(やまと=奈良県)吉野(よしの=奈良県吉野郡吉野町)にて本願寺門徒の聖地と崇められていたのが、飯貝(いいがい=奈良県吉野郡吉野町)本善寺(ほんぜんじ)でした。

本善寺は文明八年(1476年)に第8世=蓮如(れんにょ)上人(3月25日参照>>)が創建したお寺ですが、この当時に本善寺を預かっていたのは、その蓮如の孫にあたる証珍(しょうちん)上人

この方が、なかなか血気盛んな方で、上記の石山本願寺の参戦を知るや否や、自ら門徒率いて戦場に向かったり、顕如や教如(きょうにょ=賢の長男)から密命を受けて兵糧の運び込みをしたり、とかなり積極的なお方。

もともと本善寺のある、このあたりは、南北朝の時代に大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)(7月23日参照>>)が籠って武装&城郭化していた場所で、本善寺の伽藍も、寺というよりは城郭のような堅固な造りになっており、寺の裏山には、イザという時に籠城可能な飯貝城(いいがいじょう)なる城もありました。

本善寺と飯貝城は、途中、大和の乱世(7月17日参照>>)のさ中に、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)などによって1度焼き払われたものの、天文十五年(1546年)には復興されており、こういう時には思う存分に戦える場所となっていたのでした。

Tutuizyunkei600a しかし、この状況を警戒していたのが、筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠として大和に勢力を持つ筒井順慶(じゅんけい)です。

筒井順慶は、これまでは、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)大和平定の動き(11月24日参照>>)に反発し、

自身の支配圏を守るべく久秀と敵対関係になった(8月4日参照>>)ものの反信長では無かったわけですが、先の信長上洛の際に、久秀がいち早く信長傘下になって「大和は切り取り次第(武力で勝ち取った地は自分の物にしてOK)」の大義名分を信長からもらった事で、自然と「信長配下の久秀と戦う」という構図になっていたわけです。

ところが、その後、久秀が信長に反旗をひるがえした事で(8月4日参照>>)、その久秀と戦う=敵の敵は味方という感じで、徐々に合間を縫って信長と近しくなっていき、

天正二年(1574年)には信長に直接拝謁するとともに人質を出して臣従し、翌・天正三年(1575年)には、完全に信長配下の武将として、明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)らとともに、この石山本願寺との合戦にも参戦するようになっていたのです。

そうなった以上、大和における本願寺門徒の一大拠点となっている本善寺を見過すわけにはいかなくなって来るわけです。

かくして天正六年(1578年)10月7日筒井順慶は配下の諸将を率いて筒井城を出立し、その日のうちに十市(といち・とおち=奈良県橿原市十市町)まで進み、

すでに配下に取り込んでいる大和の国人衆=戒重(かいじゅう)大仏供(だいふく)(ともに現在の桜井市付近が本拠)「不穏な動きが無いか?」を探りつつ、かつ、彼らを威嚇しつつ、芦原峠(あしはらとうげ=奈良県高市郡高取町)を越えて吉野郷へと入ったのでした。

この天正六年(1578年)という年は、まさに石山合戦真っ盛りの年・・・2年前の第1次木津川口の海戦で、村上水軍(むらかみすいぐん)の戦い方に翻弄され(7月18日参照>>)、まんまと石山本願寺に兵糧を運び込まれてしまった信長が、

リベンジとばかりに全面鉄で覆われた鉄甲船(てっこうせん)を築造し(7月14日参照>>)、そのお披露目パーティ=観艦式を行ったのが、まさに、この1週間前の天正六年(1578年)9月30日でした(9月13日参照>>)

おそらくは、そんなこんなを意識しての、今回の順慶の出陣・・・

さらに進軍する順慶は、10月11日には、飯貝をはじめ、下市(しもいち)上市(かみいち=いずれも吉野郡吉野町)など、吉野一帯に放火し、周辺をことごとく焼き払ったのです。

先に書いた通り、イザという時には徹底抗戦の覚悟であった飯貝周辺の本願寺門徒たちも、集落を焼き払われ、その徹底した武力の前になす術なく、次第に退けられていきます。

吉野における本願寺門徒を抑えた事を確信した順慶は下市周辺の、監視のために(とりで)を構築しつつ、さらに奥へと進軍し、黒滝の雫の里(しずくのさと=奈良県吉野郡黒滝村中戸)まで進出します。

しかし、この地域の地侍たちは広橋城(ひろはしじょう=吉野郡下市町)に立て籠もったり、賀名生(あのう)檜川(ひかわ=ともに奈良県五條市)の郷民も招き入れて激しく抵抗しました

しかし・・・やがて主力となっていた侍たちが次々討死していく中で、皆、一様に武器を捨てて順慶の軍門に下る事となったのです。

こうして、吉野一帯は順慶の支配下に・・・これは、つまりは順慶を介して織田信長が間接支配をする地という事になったのです。

すぐ後の11月には、鉄甲船デビューの第2次木津川口の海戦があり(11月6日参照>>)、翌・天正七年(1579年)には石山本願寺に同調して信長に反旗をひるがえした荒木村重(あらきむらしげ)有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市)も開城され(10月16日参照>>)

さらに、信長の働きかけにより正親町天皇(おおぎまちてんのう)勅命(ちょくめい=天皇の命令)を出して顕如に講和を呼びかけた事で、天正八年(1580年)、10年に及ぶ石山合戦が終結することになります(8月2日参照>>)
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2020年10月 5日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第26回「三淵の奸計(かんけい)」の感想

 

今週は駒ちゃんが出なかった大河ドラマ『麒麟がくる』第26回「三淵の奸計(かんけい)の感想です。

そうですか~
先週のチュウ太郎のくだりは、今回への準備だったわけですね。

にしても、
谷原三淵のアタックチャンスが幼子の毒殺だったとは、何だか後味が悪い。。。

いや、解りますよ。
世は戦国なんですから、幼子と言えど、大国の跡取りになる人物・・・
子供だから…と情けをかけていてはやっていけません。

実際にも、義景の長男は、家内の勢力争いによって毒殺された可能性が高いわけですが、それをドラマの中で「(現段階で)主人公側の人がやっちゃう」ってのは、どうなんでしょう?

もちろん、ドラマでは誰に毒を盛られたかは明らかではありませんが、今回の題名が三淵の奸計(かんけい=悪だくみ)ですからね~やっぱり、そうなんでしょうね。

でも、だとしたら、長谷川光秀は、何であんなにユースケ・アサクラに上洛を勧めてたんだろう?

確か・・・
光秀から見た滝藤義昭に対する印象を聞いて、最初はそうでもなかったユースケ・アサクラに
「でも、力のある大名が手助けすれば…」
とか言って、ノリ気にさせてましたよね?

なのに、「器じゃない」とか言い出して、手のひら返しで染谷信長一本にしちゃう・・・一旦、ノリ気のなったのを諦めさせるための長男毒殺??なのだとしたら、ちょっと悲しい。。。

まだ、朝倉内のお家騒動の方が納得できる気がします
(ドラマ内でもお家騒動が原因という設定なのかも知れませんが、だとしたら「三淵の奸計」という題名にしたのが??)

にしても、息子が亡くなった後でも、ユースケ・アサクラは滝藤義昭らの「岐阜に行く」手紙にご立腹で、未だ、上洛したがってる感ありましたが・・・(実際にはかなりショックを受けて、しばらく内政が手につかなかったようですが…)

一応、定説では、
朝倉義景は足利義昭を越前に保護する事には積極的で、なんなら、幽閉されていた興福寺を脱出する時点から密かに協力していたとも言われますが、一方で、上洛に関しては終始乗り気ではなかったとされています。

もちろん、コレ(↑現段階で定説となっている歴史が絶対に正しいわけではありませんが、どのみちドラマ内でも信長だけが義昭を担いで上洛する流れなのでしたら、いらん事は言わんと、そのままユースケ・アサクラは上洛する気がないままでも良かったんじゃ?とも思います。

ただ、ひょっとしたら、今回のユースケ・アサクラの怒り爆発が今後の物語の展開に絡んで来るのやも知れませんので、油断できませんね。。。

ところで、今回で3回目の毒殺・・・
いつか長谷川光秀も毒盛られるんでしょうか?
そして、それを助けるのが、何にでも効く夢の薬を持ってる駒ちゃんとか?
そのために、長々と薬のくだりをやってるのかしらん(今週はなかったけど…)

実際に光秀は、丹波攻略のあたりでは、体調が檄ヤバだった(10月29日参照>>)みたいですが、その時に曲直瀬道三(まなせどうさん)(1月4日参照>>)の代わりに駒ちゃん活躍するのかな?

ところで、今週のドラマの前後では、実際には浅倉は毎年のように若狭に出兵(【朝倉義景の若狭侵攻】参照>>)してますが、そこのところは、まったくスルーで、ちょっと残念・・・ただ、松永久秀と三好が奈良でゴチャゴチャやってる(【大仏殿の戦い】参照>>)というのは、一応、セリフの中に出て来ましたね。

あと、
今のところ、ただの傍観者で、何をしたわけでもない長谷川光秀が、
誰もが信頼し、誰もが好きになり、誰もがそばに置きたがる設定・・・さすがに今回は、自分でも(なぜなのか)サッパリわからない」と言ってましたが、そのセリフをドラマ内で言っちゃうなら、こっちも外から「それはあなたが主人公だからですよ!」とツッコミたい。

私としては、
もう、そろそろ、その主人公の特権なしで、長谷川光秀が活躍するような展開になっても良いのではないか?と思っています。

未だに、信長にも義昭にも仕官していないため、重要人物に関わる時は、ほどんどが伊呂波大夫と駒ちゃん頼みになってしまっているのが気にかかります。

予告を見る限りでは来週も、駒ちゃんの紹介で陣内宗久に会いにいくようですが、できれば、そろそろ、どなたかの正式な配下となって、自らの力で人脈を広げつつ、歴史の表舞台に躍り出ていただきたいと、一ファンとして願っております。

そう遠くない未来、長谷川光秀が自らの才覚で大活躍する日を楽しみにしている今日この頃です。

たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…
●【義昭の「僕を京都に連れてって」】>>
●【義昭を奉じ~織田信長の上洛】>>
●【六角承禎~観音寺城の戦い】>>
●【松永VS筒井~筒井城攻防戦い終結】>>
●【足利義昭が第15代将軍に就任】>>

あと、後の姉川の戦いで討死する遠藤喜右衛門さんのページの前半部分で、上洛目前の信長が、妹婿の浅井長政に面会したエピソードを書いておりますので、コチラもご参照のほど↓
●【遠藤喜右衛門、命がけの奇策in姉川】>>
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2020年10月 1日 (木)

上杉謙信の富山城尻垂坂の戦い~裏で糸ひく武田信玄

 

元亀三年(1572年)10月1日、武田信玄の意を受けて蜂起した加賀・越中の一向宗徒が占拠した富山城を、尻垂坂の戦いに勝利した上杉謙信が落として対抗しました。

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神通川(じんつうがわ)挟んで西に神保長職(じんぼうながもと)、東に椎名康胤(しいなやすたね)などがいたものの、未だ一国を統括するほどの大物がいなかった戦国の越中(えっちゅう)富山・・・

Uesugikensin500 そこに祖父の代から度々遠征しては、ここらへんを配下に治めたい越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、それを阻止しておきたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が、何度も川中島で戦い(8月5日参照>>)ながらも、一方で、その都度、いずれかの越中の武将に味方しつつ代理戦争を繰り返しておりました。
●永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
●永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>

そんな中、上記の永禄十一年(1568年)の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)攻防の直後、前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍候補の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)あたりから、すでに信濃(しなの=長野県)を手に入れた信玄は、これまで北東に向かっていた矛先を南西に向け今川義元(いまがわよしもと)を失って衰退気味の駿河(するが=静岡県東部)シフトチェンジするのです(12月12日参照>>)
(信長の仲介で、信玄と家康が同時に攻め込み、今川亡き後は信玄が駿河、家康が遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する約束ができていたとされる)

一方の謙信は元亀二年(1571年)、3度目の攻撃で、やっと松倉城を陥落させたものの、これまで同盟を結んでいた相模(さかみ=神奈川県)の北条が、北条氏康(ほうじょううじやす)から息子の北条氏政(うじまさ)に代替わりした事で謙信との同盟を破棄して信玄と同盟を復活させたので、謙信は北条と敵対する事になります。

そこで信玄は、謙信傘下である神保長職の寝返り工作を実施するとともに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)の縁をフル活用して加賀&越中の本願寺宗徒を焚きつけて一向一揆(いっこういっき)を蜂起させて、謙信の行方を阻もうとしたのです。

これを受けて、信玄の勧誘に応じずに主君=長職の寝返りに反発して謙信に忠誠を誓う一部の神保家臣は日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もり抵抗しますが、元亀三年(1572年)6月15日、一揆の勢いに押されて日宮城は開城となり(6月15日参照>>)、さらに神通川を越えた富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも一揆勢が摂取してしました。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

信玄が関与しようがしまいが、もとより父の代から戦って来た一向一揆・・・西への道を阻む彼らを撃つべく、上杉謙信率いる約1万の軍勢常願寺川(じょうがんじがわ)近くの新庄に陣を構えたのは元亀三年(1572年)8月17日の事でした。

対する一揆の軍勢はわずかに4千・・・一向一揆の総指揮を取る瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)の僧=杉浦玄任(すぎうらげんとう)は8月20日付けの書状にて、
「八月十八日に謙信が新庄に陣を置いたので我らの大半富山に陣取りましたが、両者の距離は一里(約4km)ばかりしかありません。
一騎でも二騎でも、とにかく早く支援する事が大事やと思うてください」
と、未だ加賀(かが=石川県南部)にいる味方に援軍の要請をしています。

この間にも謙信は、ぬかりなく・・・
「留守の間に、信玄を越後へ侵入をさせてはならない」
とばかりに、重臣の直江景綱(なおえかげつな)らの精鋭に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)の警備を厳重にするよう釘を刺しております。

そんな中、最初の衝突は富山城と新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)の間にある尻垂坂(しりたれざか=富山県富山市西新庄)にて起こります。

そこは、当時、びや川(神通川と常願寺川の間を流れる川)の堤に向かう長い坂道となっており、当日は、ここんところの降り続いた雨のせいで、一帯の地面がぬかるんで深い泥田のようになってしまっていたので、一揆勢は、足をとられ、少々動きが止まったのです。

そこへ上杉勢が襲いかかり、激しい戦いとなったため、瞬く間にびや川は血で真っ赤に染まったと伝えられています。

尻垂坂の戦いは、上杉謙信の勝利となったのです。

戦場のそばで首実検をした謙信は、大きく掘った穴の中に討ち取った敵の首を埋めて、その上に石塔を建てて供養したと伝えられていますが、それが現在の西新庄にある正願寺(せいがんじ)というお寺の近くに鎮座する「薄地蔵(すすきじぞう)と呼ばれるお地蔵様なのだとか・・・

現在は、この付近に坂はなく平地となっていますが、この薄地蔵がある事で、この付近が尻垂坂の戦いの古戦場とされています。

この尻垂坂の敗北は一向一揆に大きなダメージを与え、多くの者が軍列から離脱し、隊の分裂がそこかしこで起こり、一向一揆に味方していた武将たちの中にも謙信に降伏する者が出始めます。

この時、一揆と信玄の連絡役として活躍していた飛騨(ひだ=岐阜県北部)高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)主=江馬輝盛(えまてるもり)(10月27日参照>>)も、今回の尻垂坂の戦いをキッカケに、9月17日に上杉の陣を訪れて降伏し、以降は謙信に従うようになります。

この江馬輝盛と同じように、9月17日頃から、続々と一揆勢が引き上げていった事がうかがえ、細かな事は不明なれど、これにて富山方面に展開した一向一揆は潰滅状態になり、富山城も謙信の物になったものと思われます。

なので、今回の尻垂坂の戦いは富山城の戦いとも呼ばれます。

元亀三年(1572年)10月1日付で、味方であった勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)に発した武田信玄&勝頼(かつより=信玄の四男)父子の連署状で、 
「越中の富山城落城と聞いて不満に思ってます。
でも、戦いに勝敗はつきものなので仕方ないですが、今後も加賀&越中での対陣には備えを怠らないようにしてください。
僕らも先陣が越中との国境まで侵入したのですが、途中で私(信玄)が病気になってしまい、そこから先への侵攻をためらっていたところ、たまたま敵(謙信)も兵を退けたので、わが軍も帰陣しました。
今は病気もよくなって、すっかり元気ですので、次回は必ず信玄&勝頼父子して出馬しますので、越中の国を太平にされるよう、命を惜しまず頑張ってください
てな事を書いています。

それにしても、
書かなくても良い病気の事を、わざわざ書くのは、相当重かったのか?本当に完治したのか?微妙なところですよね~

でも、少しは良くなって落ち着いていた事は確かでしょうね。

なんせ、この手紙の2日後の10月3日、信玄は本拠の甲斐を出発して、「上洛するつもりだったのか?」との噂もあるあの西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのですから・・・

10月13日には一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(参照>>)
10月14日からは二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市)(参照>>)
10月22日には別動隊が仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(参照>>)
そして12月には、三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)をコテンパンにする、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区三方原町)(12月22日参照>>)と続き、
翌・元亀四年(天正元年・1573年)の1月には野田城(1月11日参照>>)と、どんどん西に・・・

一方、謙信と一向一揆の関係は・・・
、翌・元亀四年(天正元年・1573年)の3月に、謙信が春日山城に戻ったのを見計らって、再びの信玄の声掛けに応じた一向一揆は、謙信と結んだ和睦を一方的に破棄して富山城を奪い返します。

これに激怒した謙信が再び富山城を奪い返すものの、謙信が越後に戻ると、またまた一向一揆が・・・てな事が、しばらく繰り返されるのですが・・・

ところが、そんな中、信玄率いる武田の本隊は、上記の野田城の戦いを最後に西上作戦をストップして帰路につきます。
(別動隊は3月に岩村城を落としていますが…参照>>

そうです。
ご存知のように、この天正元年(1573年)の4月に信玄が病死するのです(4月12日参照>>)

これによって、この後の戦国の構図が変わっていきます

この尻垂坂の戦いの時には、
「先に一揆と和睦しといて、その間に信玄を殺ってしまいなはれ。
信玄がおれへんよーなったら、何もせんでも一揆は自然消滅しますわ!」
などと、謙信に応援メッセージを送ってくれていた織田信長が、

7月には将軍=足利義昭の籠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を落とし(7月18日参照>>)
8月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を葬り去り、さらに、その直後から始まった越前一向一揆とのゴタゴタを天正三年(1575年)8月に一せん滅(8月12日参照>>)・・・

これには、さすがの謙信も反応・・・なんせ、越前の先は加賀&越中ですから・・・

かくして天正四年(1576年)3月、富山への侵攻を開始する謙信。
天正四年(1576年)
 3月17日=富山へ侵攻>>
 8月4日=飛騨へ侵攻>>
天正五年(1577年)
 9月13日=七尾城攻略>>
 9月18日=手取川の戦い>>
 9月24日=能登平定~松波城の戦い>>

この間の天正四年(1576年)の5月には、ここで、こんなに戦った一向一揆=本願寺と和睦を結んで(5月18日参照>>)、いわゆる『信長包囲網』の一翼を担う事になるのですから、このあたりから謙信は、完全に、ターゲットを信長に絞ったようですね。
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