28年間に渡る享徳の乱~五十子・太田庄の戦い
長禄三年(1459年)10月14日、享徳の乱序盤の激戦=太田庄の戦いがありました。
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本日ご紹介する太田庄(おおたしょう)の戦いは、享徳三年(1454年)12月から文明十四年(1483年)11月までの28年間という長きに渡って混乱した享徳の乱(きょうとくのらん)という大乱の中での激戦の一つです。
まさに今日明日の長禄三年(1459年)10月14日と15日に太田庄(埼玉県熊谷市)でぶつかったので太田庄の戦いですが、その前後の対峙するこう着状態の期間も含めて五十子(いらこ・いかご=埼玉県本庄市)の戦いとも呼ばれます。
そもそもは、領国が関東でありながら、南北朝の混乱etc.のために京都の室町(むろまち=京都市上京区)にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、将軍は京都に滞在せねばならないために、留守になってしまう関東を治めるべく、自身の四男である足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方(かまくらくぼう)として、関東に派遣した事に始まります(9月19日参照>>)。
以来、将軍職は尊氏嫡男(実質は三男)の足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(かんとうかんれい=執事)には上杉(うえすぎ)氏が代々就く事になったわけですが、徐々に、鎌倉公方は将軍家と対立し、自らの道を歩み始めようとするようになったのです。
その最たる物が、第6代将軍=足利義教(よしのり)VS第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)でした。
…というのも、先々代の第4代将軍=足利義持(よしもち)が、息子の足利義量(よしかず=第5代将軍)に将軍職を譲ったものの、義量は子供がいないまま父より先に死に、その3年後に義持も次期将軍を指名しないまま亡くなってしまった事で、出家したいた義持の弟の中から、次期将軍をくじ引きで選ぶ事に・・・そのくじ引きで選ばれたのが第6代の足利義教だったわけですが、
どうやら持氏は、義持の猶子(ゆうし=養子)だったという話もあり、それなら持氏も「俺(持氏)にも将軍になる権利あるんちゃうん?」てな事からはじまり、不満ムンムンの鎌倉公方=足利持氏と、将軍=足利義教が一触即発の状態となる中、当時の関東管領=上杉憲実(うえすぎのりざね=山内上杉家8代当主)が、血気にはやる持氏を止めようとしたため、持氏は関東管領とも対立するようになります。
で結局、持氏は、その上杉憲実を討とうと軍を起こしたものの、逆に、上杉憲実と幕府によって永享十一年(1439年)2月、自刃に追い込まれてしまったのです(「永享の乱」参照>>)。
2年後の永享十三年(嘉吉元年=1441年)には、持氏の遺児である春王(しゅんのう・はるおう=持氏の次男)と安王(あんのう・やすおう=持氏の三男)を担いだ結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)の結城氏朝(ゆうきうじとも)が幕府に対抗しますが、コチラも鎮圧されてしまいます(「結城合戦」参照>>)。
ところが、そのわずか2ヶ月後・・・招かれた宴会の席にて将軍=義教が、播磨(兵庫県)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺害されるという事件が起こります(「嘉吉の乱」参照>>)。
将軍職は義教嫡男の足利義勝(よしかつ=第7代)が、わずか9歳で継ぐ事になりますが、鎌倉公方はどうする?
先の永享の乱のゴタゴタで一旦廃止となっていたものの、やはり「関東安定のためには鎌倉公方は必要」との事で、関東武士団の推す亡き持氏の四男=足利成氏(しげうじ)が新たな鎌倉公方となり、関東管領には先の上杉憲実の息子=上杉憲忠(のりただ=山内上杉家9代当主)が就任します。
まぁ、先にゴタゴタあったものの、将軍も代わった事ですし、この時の成氏は未だ10歳に満たない少年でした(永享の乱の時に4歳だったとされる)から、回りの大人から見れば扱いやすく、それでいて血筋は正統な跡継ぎなのですから、関東の武士団がサポートすれば「これでウマく行く」という感じだったのでしょう。
しかし・・・よその子は大きくなるのが早いww
いつしか成氏は、父の仇である上杉家を遠ざけ、アノ時も味方になっていてくれた結城氏や安房(あわ=千葉県南部)の里見(さとみ)氏などを重用するようになっていくのです。
やがて、これに不満を持った上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)=長尾景仲(ながおかげかね)と太田資清(おおたすけきよ=道心)が、宝徳二年(1450年)、成氏を襲撃するという事件が起こります。
この時は、江の島に避難して無事だった成氏ですが、当然、上杉家との距離は、益々開いていくわけで・・・
そんなこんなの享徳三年(1454年)12月、成氏が自らの御所に上杉憲忠を呼び寄せて騙し討ちする一方で、成氏に味方する里見らが、長尾景仲に代って上杉家の家宰となっていた長尾実景(さねかげ)父子を殺害したのです。
たまたま鎌倉を留守にしていた時に、この事件の報告を受けた長尾景仲は、報復すべく即座に兵を集めます。
一方の上杉憲忠の弟=上杉房顕(ふさあき)も、兄の後を継いで直ちに関東管領に就任し、従兄弟の上杉房定(ふささだ)と合流するとともに、上杉憲忠殺害などの一連の出来事を幕府に報告し、幕府から「成氏討伐」の許可を要請します。
こうして享徳の乱が始まったのです。
ちなみに、義教の後を継いだ7代将軍=義勝は在任わずか8ヶ月で病死してしまったため、嘉吉三年(1443年)に、その弟の足利義政(よしまさ=義教の三男)が第8代将軍に就任しています(当時8歳)。
乱勃発まもなくの頃は、分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)にて長尾景仲率いる上杉軍に大勝利した成氏でしたが、享徳四年(1455年)の4月になって、「成氏討伐」を決定した幕府の命で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)の今川範忠(いまがわのりただ)が出陣・・・
勝利の勢いに乗って各地を転戦する成氏の留守を狙って、成氏の本拠=鎌倉に攻撃を仕掛け、ここを占領してしまいます。
このため、鎌倉に戻れなくなった成氏は、やむなく下総(しもうさ=千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺の隅田川東岸)の古河(こが=茨城県西部)に入って古河城(こがじょう=茨城県古河市)を普請し、ここを自らの御所とし、更なる戦いに挑みます。
なので、これより後は、足利成氏は「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれます。
(↑幕府からの討伐命令が出てる以上、正式な公方ではありません)
こうして成氏が古河を拠点に反撃し始めた事から、上杉家の領国だった上総(かずさ=千葉県中部)や安房も成氏派に占領され、利根川を挟んで東側が古河公方=成氏派、西側が関東管領=上杉派に分断された形となって、戦いは関東各地に広がっていきました。
一方、幕府は、長禄元年(1457年)に、そんな成氏派に対抗するため、上杉持朝(もちとも=扇谷上杉家当主・相模国守護・上杉憲忠の岳父)に河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を、その執事の太田資清(おおたすけきよ)に岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市・岩槻城)を、資清の息子=太田道灌(どうかん)には江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築させて(4月8日参照>>)守りを固める一方で、将軍=義政の兄である足利政知(まさとも=義教の次男)に、執事として渋川義鏡(しぶかわよしかね)と上杉教朝(のりとも)の二人をつけて、正式な鎌倉公方とするため関東に下向させます。
しかし、すでに混乱状態にある関東で、鎌倉に入れなかった政知らは、やむなく、少し手前の伊豆(いず=伊豆半島)の堀越(ほりごえ・ほりこし=静岡県伊豆の国市)に御所を構え、以後、ここを本拠としたので、足利政知は「堀越公方(ほりごえくぼう)」と呼ばれます。
(↑上記の通り、こっちが正式な公方です)
そんなこんなの長禄三年(1459年)の中頃、上杉方が利根川西岸の五十子(いらこ=埼玉県本庄市五十子)に本陣を置いて、一族の主だった者を集結させた事を知った成氏は、その五十子に攻撃を仕掛けるべく出陣します。
かくして長禄三年(1459年)10月14日、両軍は上杉本陣の五十子近くの太田庄でぶつかるのです。
激戦は丸一日続き、この日の戦いで上杉教房(のりふさ=持房の息子)をはじめとする主力武将が討死を遂げ、上杉方の敗戦となりました。
続く15日の朝方には、利根川を渡った上杉軍が海老瀬口(えびせぐち=群馬県邑楽郡板倉町)にて交戦し、夕方には羽継原(はねつぐはら=群馬県館林市)にて戦いましたが、形勢不利な状況は否めず・・・やむなく五十子へと引き返しました。
この戦いで大打撃を受けた上杉方としては「五十子の本陣もヤバイ?」てな雰囲気でしたが、どうやら成氏側も痛手を被ったようで、五十子にやって来ることなく、成氏の古河方もそのまま撤退して行ったので、五十子は上杉が確保・・・
以後、ここを拠点に長期戦に突入していく事になります。
幕府も、将軍=義政の名で関東の武士たちに成氏追討命令を出しますが、すでに関東一円が混乱状態の中、各武将たちにとっては将軍の追討命令よりも、自分に降りかかる目の前の合戦が最優先なわけで、なかなか古河方に決定打を出せないまま・・・
こうして、度々の小競り合いを続けながらも大きな決着がつかぬままの両軍・・・文正元年(1466年)には成氏が五十子の本陣を攻撃する一幕もありながらも、一方の上杉方では総大将とも言うべき上杉房顕が五十子にて急死。
それでもにらみ合いと小競り合いが続いておりましたが、文明五年(1473年)になって、山内上杉家の執事職を継げなかった長尾景春(ながおかげはる=長尾景仲の孫)が乱を起こし、
【江古田・沼袋の戦い】>>
【用土原の戦い】>>
そのゴタゴタで景春に攻撃された五十子の本陣はボロボロ・・・解体を余儀なくされます。
もちろん、五十子の本陣はなくなっても、享徳の乱はもうしばらく続くのですが、ご存知のように、この間、都では、あの応仁の乱(おうにんのらん)が勃発(5月20日参照>>)していたわけで・・・
もはや関東も関西も収拾のつかない動乱の戦国へと突入・・・なので享徳の乱は関東における戦国の幕開けとも称されています。
とりあえず、28年に渡る大乱について、サラッと書かせていただきましたが、もう、何が何だか状態ですねww
まぁ、享徳の乱の終焉については、また後日・・・いずれかの日付にて書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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