筒井順慶の吉野郷侵攻~飯貝本善寺戦
天正六年(1578年)10月7日、織田信長の石山合戦を受け、筒井順慶が吉野郷に侵攻すべく筒井城を出陣しました。
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そもそも、織田信長(おだのぶなが)が石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)とハッキリと敵対するようになったのは元亀元年(1570年)9月・・・その2年前に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて信長が上洛した際(9月7日参照>>)に1度は蹴散らしたものの、
再び舞い戻って将軍の仮御所を襲撃したり(1月5日参照>>)なんぞしていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らの討伐という大義名分で以って、彼らが起こした野田・福島(のだ・ふくしま=同福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、
途中から本願寺11代法主の顕如(けんにょ)率いる全国本願寺の総本山の石山本願寺が三好側として参戦して来た事に始まります(9月12日参照>>)。
もちろん、本願寺側にしてみれば、それまでに、立地条件の良い石山本願寺が建つ場所を、信長が「明け渡してほしい」なんて言って来ていた事など、
すでに敵対気味だった両者の関係を単に表面化させただけの参戦であったわけですが、この時に顕如が全国の本願寺門徒に対して、対信長への蜂起を促した事から、この後、各地で信長に対抗する一向一揆(いっこういっき)が勃発するわけです。
そんな中で、大和(やまと=奈良県)は吉野(よしの=奈良県吉野郡吉野町)にて本願寺門徒の聖地と崇められていたのが、飯貝(いいがい=奈良県吉野郡吉野町)の本善寺(ほんぜんじ)でした。
本善寺は文明八年(1476年)に第8世=蓮如(れんにょ)上人(3月25日参照>>)が創建したお寺ですが、この当時に本善寺を預かっていたのは、その蓮如の孫にあたる証珍(しょうちん)上人。
この方が、なかなか血気盛んな方で、上記の石山本願寺の参戦を知るや否や、自ら門徒率いて戦場に向かったり、顕如や教如(きょうにょ=賢の長男)から密命を受けて兵糧の運び込みをしたり、とかなり積極的なお方。
もともと本善寺のある、このあたりは、南北朝の時代に大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)が(7月23日参照>>)が籠って武装&城郭化していた場所で、本善寺の伽藍も、寺というよりは城郭のような堅固な造りになっており、寺の裏山には、イザという時に籠城可能な飯貝城(いいがいじょう)なる城もありました。
本善寺と飯貝城は、途中、大和の乱世(7月17日参照>>)のさ中に、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)=木沢長政(きざわながまさ)などによって1度焼き払われたものの、天文十五年(1546年)には復興されており、こういう時には思う存分に戦える場所となっていたのでした。
しかし、この状況を警戒していたのが、筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠として大和に勢力を持つ筒井順慶(じゅんけい)です。
筒井順慶は、これまでは、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)の大和平定の動き(11月24日参照>>)に反発し、
自身の支配圏を守るべく久秀と敵対関係になった(8月4日参照>>)ものの反信長では無かったわけですが、先の信長上洛の際に、久秀がいち早く信長傘下になって「大和は切り取り次第(武力で勝ち取った地は自分の物にしてOK)」の大義名分を信長からもらった事で、自然と「信長配下の久秀と戦う」という構図になっていたわけです。
ところが、その後、久秀が信長に反旗をひるがえした事で(8月4日参照>>)、その久秀と戦う=敵の敵は味方という感じで、徐々に合間を縫って信長と近しくなっていき、
天正二年(1574年)には信長に直接拝謁するとともに人質を出して臣従し、翌・天正三年(1575年)には、完全に信長配下の武将として、明智光秀(あけちみつひで)や細川藤孝(ほそかわふじたか)らとともに、この石山本願寺との合戦にも参戦するようになっていたのです。
そうなった以上、大和における本願寺門徒の一大拠点となっている本善寺を見過すわけにはいかなくなって来るわけです。
かくして天正六年(1578年)10月7日、筒井順慶は配下の諸将を率いて筒井城を出立し、その日のうちに十市(といち・とおち=奈良県橿原市十市町)まで進み、
すでに配下に取り込んでいる大和の国人衆=戒重(かいじゅう)氏や大仏供(だいふく)氏(ともに現在の桜井市付近が本拠)に「不穏な動きが無いか?」を探りつつ、かつ、彼らを威嚇しつつ、芦原峠(あしはらとうげ=奈良県高市郡高取町)を越えて吉野郷へと入ったのでした。
この天正六年(1578年)という年は、まさに石山合戦真っ盛りの年・・・2年前の第1次木津川口の海戦で、村上水軍(むらかみすいぐん)の戦い方に翻弄され(7月18日参照>>)、まんまと石山本願寺に兵糧を運び込まれてしまった信長が、
リベンジとばかりに全面鉄で覆われた鉄甲船(てっこうせん)を築造し(7月14日参照>>)、そのお披露目パーティ=観艦式を行ったのが、まさに、この1週間前の天正六年(1578年)9月30日でした(9月13日参照>>)。
おそらくは、そんなこんなを意識しての、今回の順慶の出陣・・・
さらに進軍する順慶は、10月11日には、飯貝をはじめ、下市(しもいち)や上市(かみいち=いずれも吉野郡吉野町)など、吉野一帯に放火し、周辺をことごとく焼き払ったのです。
先に書いた通り、イザという時には徹底抗戦の覚悟であった飯貝周辺の本願寺門徒たちも、集落を焼き払われ、その徹底した武力の前になす術なく、次第に退けられていきます。
吉野における本願寺門徒を抑えた事を確信した順慶は下市周辺の、監視のために砦(とりで)を構築しつつ、さらに奥へと進軍し、黒滝の雫の里(しずくのさと=奈良県吉野郡黒滝村中戸)まで進出します。
しかし、この地域の地侍たちは広橋城(ひろはしじょう=吉野郡下市町)に立て籠もったり、賀名生(あのう)や檜川(ひかわ=ともに奈良県五條市)の郷民も招き入れて激しく抵抗しました。
しかし・・・やがて主力となっていた侍たちが次々討死していく中で、皆、一様に武器を捨てて順慶の軍門に下る事となったのです。
こうして、吉野一帯は順慶の支配下に・・・これは、つまりは順慶を介して織田信長が間接支配をする地という事になったのです。
すぐ後の11月には、鉄甲船デビューの第2次木津川口の海戦があり(11月6日参照>>)、翌・天正七年(1579年)には石山本願寺に同調して信長に反旗をひるがえした荒木村重(あらきむらしげ)の有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市)も開城され(10月16日参照>>)、
さらに、信長の働きかけにより正親町天皇(おおぎまちてんのう)が勅命(ちょくめい=天皇の命令)を出して顕如に講和を呼びかけた事で、天正八年(1580年)、10年に及ぶ石山合戦が終結することになります(8月2日参照>>)。
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