応仁の乱~摂津西部…兵庫津の争奪戦
文明元年(1469年)10月22日、東軍の山名是豊と赤松政則に兵庫津を攻撃された大内政弘軍が、敗戦を知って撤退を開始し、兵庫津争奪戦が終結しました。
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室町幕府第8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)の後継者争いや、幕府管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を継いでいく家系)の畠山(はたけやま)氏や斯波(しば)氏の後継者争いに、現事典で幕府を仕切ってる両巨頭=細川勝元(ほそかわかつもと=東軍)と山名宗全(やまなそうぜん=西軍)の勢力争いが加わって、ほぼ全国の武将を巻き込んで応仁元年(1467年)5月に勃発した応仁の乱(おうにんのらん)。
応仁元年(1467年)
●1月17日:【御霊合戦(畠山の後継者争い)】>>
●5月20日:【応仁の乱勃発(東軍が官軍となる)】>>
●5月28日:【五月合戦(停戦命令で一旦休憩)】>>
●10月2日:【東岩倉の戦い(大内政弘が西軍で参戦)】>>
●10月3日:【相国寺の戦い】>>
応仁二年(1468年)
●3月21日:【稲荷山攻防戦】>>
●11月3日:【足利義視のトンズラ事件】>>
とまぁ、こんな流れですが、、、
最初の段階では、将軍の居所である「花の御所」に陣を置いて将軍=義政から「山名追討命令」を得て官軍となった細川勝元の東軍と、そこからわずか500m西に陣を構えた(←なので西陣です)山名宗全の西軍とで、激しい市街戦が展開されるのですが、最も激しい戦いになったとされる10月の相国寺の戦いをピークに、翌年に雑兵を大量投入した稲荷山の攻防戦以降は、徐々に、その雑兵たちによる小競り合いのような戦いばかりになっていきます。
さらに、東軍の総大将を任されていた足利義視(よしみ=義政の弟)が伊勢(いせ=三重県)に逃亡したり比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市)に姿を隠したり、果ては西軍に加わったりして、もう何が何だか・・・
で、やがて戦いの中心は、もともと将軍家の後継者争いよりも深刻だった各武家の後継者争いや派閥争いにつながっていき、京都周辺で行われていた戦いは、ここらあたりから徐々に外=地方へと移行していく事になります。
そんな中、文明元年(1469年)に入って、備後(びんご=広島県東部)に下向していた山名是豊(これとよ)が現地の国人(こくじん=その地に根付く武士)や郎党を統合させる事に成功し、安芸(あき=広島県西部)の国人である吉川経基(きっかわつねもと)や毛利豊元(もうりとよもと=毛利元就の祖父)らを従えて京都に戻って来るとの知らせが・・・
この山名是豊という人は、その名でお察しの通り、西軍大将の山名宗全の息子=次男だったわけですが、後継の問題やら領地の問題やらで、父&兄と対立しており、この応仁の乱では東軍=細川派に属していたのです。
将軍=義政から牙旗(がき=錦の御旗みたいな)を与えられて官軍となっている東軍ですが、先の応仁元年(1467年)の5月に周防(すおう=山口県東南部)・長門(ながと=山口県西部)を領する 西国の雄=大内政弘(おおうちまさひろ)が西軍として参戦して来てからは少々分が悪い・・・現に、この段階でも摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)あたりでは大内軍が大暴れ中でした。
そこで細川勝元は、上洛する是豊に赤松政則(あかまつまさのり)をつけて兵庫津(ひょうごのつ=神戸港)の奪還を命じたのです。
この兵庫津は、おおもとは将軍家の所有で、南側を興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)、北側を東大寺(とうだいじ=同奈良市)が分割所有していたのですが、先の大内政弘参戦の際に、大内軍が兵庫津に上陸して、ここを占拠してしまっていたのです。
ま、当時は国内第一の港ですからね~遠征時の補給路の確保は戦略上の最優先事項です。
で、そんな兵庫津の奪回を命じられた山名是豊は、さらに赤松配下の小寺(こでら)や明石(あかし)等を引き連れて、大内配下の問田弘胤(といだひろたね)の守る兵庫津を攻撃したのです。
文明元年(1469年)10月16日に勃発した最初のぶつかり合いでは、「大内手打勝了(『大乗院寺社雑事記』による)」=大内側の勝利となりますが、2日後の18日には、数で勝る山名&赤松勢が力推しで攻め立てたうえに放火・・・火の勢い激しい中で問田弘胤が行方不明になってしまったため、大内&問田勢は指揮を失い、やむなく南都(なんと=奈良)方面目指して逃走していくのです。
この16日~18日にかけての戦いは、名のある武将も負傷するなど、かなり激しい戦いだったようで、無関係の一般住民も巻き込まれ、多くの人が犠牲となりました。
中でも、先の市街戦で屋敷を焼かれたために、前年の9月に領国の土佐(とさ=高知県)へと避難した一条教房(いちじょうのりふさ)(9月6日参照>>)の長男=一条政房(まさふさ)は、父のもとに向かうため、この兵庫津にて船を待っていたところを、たまたま乱入して来た山名勢に槍で一突きされて息絶えたのです。
もちろん、この時の政房は武装などしておらず直衣(のうし)狩衣(かりぎぬ)といった公家装束であったとか・・・さすがに、これには天皇以下朝廷も大いに悲しんだようですが、彼を刺した兵士の方も、まさか無関係の人とは知らなかったようで、相手が政房だったと知らされた後は、出家したか?自害したか?とにかく、この後は行方知れずになってしまったようです。
とにもかくにも、この兵庫津での問田勢の敗走の一報を受けて、連動する形で池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を包囲していた大内軍が、文明元年(1469年)10月22日に撤退を開始し、この兵庫津での戦いは終りました。
さらに11月16日に摂津中島(なかじま=大阪府大阪市東淀川区付近)に陣取っていた大内軍を撃破した山名&赤松勢は、その2日後の18日には、細川勝元からの論功行賞によって是豊には兵庫五ヶ荘が、政則には播磨(はりま=兵庫県西南部)・備前(びぜん=岡山県東南部)・美作(みまさか=岡山県東北部)の守護職が与えられ、ここに兵庫津における戦いは完結となります。
このあと、山名是豊は現在の尼崎市や吹田市あたりに展開する大内軍との交戦に突入しますが、敵を一掃するほどには至らず、あまり大きな成果を得られないまま文明二年(1470年)を迎え、今度は備後に突入して来た西軍相手に戦う事になりますが、そのお話は、また、いずれかの日付にて書かせていただきたいと思います。
ちなみに、今回の兵庫津の戦いの後は、これまで兵庫に来ていた明(みん=中国)との交易船が堺(さかい=大阪府堺市)の港に発着するようになるので、おそらくは、かの激戦により、しばらくは兵庫の港が使えないほどヒドイ状態になっていたものと思われます。
もちろん、ご存知のように、応仁の乱自体は、地方へに移行&グダグダ感を増しつつも、これからも続きますしね。
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