松永久秀に城を奪われた筒井順慶の報復~大和高田城の戦い
永禄八年(1565年)11月26日、松永久秀に筒井城を奪われた筒井順慶が、布施氏の合力を得て大和高田城を攻撃しました。
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もともと、興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地・・・武士政権として全国に守護(しゅご=県知事みたいな)や地頭(じとう=荘園等の管理者)を設置した鎌倉幕府でも、大和での守護的役割を果たしていたのは武士ではなく興福寺だったのです。
しかし、その後、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて、大和の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)となって行き、南北朝の動乱や応仁の乱を経て、大和も群雄割拠する戦国時代へと突入していきました。
そんな中で、『衆徒』からのし上がって筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠としてする筒井(つつい)氏が、筒井順興(つついじゅんこう)&順昭(じゅんしょう)父子の時代に、『国民』の代表格である越智(おち)氏を抑え、大和での最大勢力となるものの、その順昭が亡くなり、わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が叔父=筒井順政(じゅんせい)の後見のもと後を継いだ頃、
永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)の後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して、事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)配下の松永久秀(まつながひさひで)が、その翌年から大和平定に乗り出して来たわけです(11月24日参照>>)。
★ここまでの奈良の戦国に関しては
●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い
●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
●奈良統一を目指す~筒井順昭の柳生城攻防戦
●奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦
●松永久秀の奈良攻略~第2次井戸城の戦い
●キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防
ここから始まった松永久秀VS筒井順慶による奈良争奪戦・・・
大和平定を開始した永禄二年(1559年)には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、そこを拠点とする松永久秀は、やがて勢いを失い始めた主家の三好に反比例するように、久秀が三好をしのぐ勢いを持ち始めます。
一方、これまでの経緯により、多くの国衆が筒井の配下となっていた大和ですが、相手が天下人=三好をしのぐ勢いの松永久秀となると、当然、その身の振り方も変わって来るわけで・・・筒井に友好的だった者も、しだいに松永になびくようになって行きます。
そんな中の一人が高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)を本拠とする高田(たかだ)氏・・・これまで、約100年に渡って、筒井の与力を務めていたものの、ここに来て反旗をひるがえしたのです。
そんなこんなの永禄八年(1565年)11月18日、松永久秀が順慶の筒井城を攻撃します。
実は、この時すでに、三好長慶亡きの後に三好を継いだ長慶の甥=三好義継(よしつぐ)と彼をサポートする三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)とは距離を置いていた松永久秀に対し、逆に、敵の敵は味方とばかりに筒井順慶は三好三人衆と同盟を結んでいました。
それに気づいた松永久秀が、この2日前の11月16日に飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を三好三人衆に攻撃された事を受けて、
「未だ同盟の足並みそろわぬうちに…」
と、筒井城を急襲したのでした。
その電光石火の攻撃に、三好の援軍が望めないと判断した順慶は、やむなく筒井城を捨てて、味方である布施(ふせ)氏の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと慌ただしく落ちていったのです(【筒井城攻防】参照>>)。
しかし、当然の事ながら、今回の事は、兵力を温存せんがための早目の撤退であって、順慶が「負け」を認めたわけではないですから、ここで布施氏の合力を得た順慶は、すかさずリベンジに出るわけで・・・
もちろん、ここで危険を犯して順慶を受け入れた布施氏とて、その目標は久秀打倒!
そのターゲットは、ここに来て離反した高田城を守る高田当次郎(たかだとうじろう)・・・
かくして永禄八年(1565年)11月26日、高田に攻め寄せた筒井&布施連合軍は、城下を焼き払います。
これに報復する高田方は、人質として預かっていた布施氏の面々を串刺しの刑にして対抗・・・その後、高田城に激しく攻めかかる筒井・布施勢でしたが、高田方の守りは固く、合戦は続くものの、なかなか落とせない。
そこで筒井方は高田城の周りに13の付城(つけじろ=攻撃の拠点とする城)を構築し、さらに、二重の堀を巡らして、そこには二間~三間(4~5m)おきに綱を張り巡らして鳴子(なるこ=人が引っかかると音が鳴る装置)を設置し、ネズミ一匹逃がさぬように慎重に、かつ、厳しく攻め立てます。
しかし、結局、最後まで高田城は落城せず・・・
この戦いが終わるのは、なんと永禄十一年(1568年)の10月の事。
そう、室町幕府の第15代将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した、あの織田信長(おだのぶなが)の登場です。
この永禄十一年(1568年)の9月に上洛して三好三人衆らを蹴散らして、三好の本拠地だった芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に入った信長(9月7日参照>>)のもとに、いちはやく参じて、その傘下を表明し、「大和は切り取り次第(奪い取った地は自由に治めて良い)」のお墨付きを得た松永久秀が、
その「将軍&信長」という後ろ盾を得て、高田城への囲みを解くよう介入して来たのです。
ご存知のように、
これ以降の三好三人衆は信長との抗戦にまい進する状態になるわ、信長の登場によって大和の国衆たちが織田になびくわで、3年かかっても高田城を落とせなかった筒井順慶は、ますます孤立無援の状態となってしまうのですが、、、
それはそこ、乱世の梟雄(らんせのきょうゆう)と称される松永久秀が、このまま信長の傘下として、のほほんとおとなしくしているわけはなく・・・久秀が信長に反旗をひるがえしてくれた事により、順慶が信長に近づくスキできて、今度は順慶が織田の傘下となるわけですが、そのお話は信貴山城の戦いのページ>>でどうぞm(_ _)m
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