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2020年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2020年総まとめ

 

忘れられない年になった2020年も、いよいよ終わりに近づきました・・・

未だ禍中の今日ではありますが、ここは一応、歴史ブログ・・・今年も様々な新発見や発掘があったわけで・・・

とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 兵庫県神戸市西区にある弥生時代から鎌倉時代の集落遺跡=玉津田中遺跡から縄文時代の道具が見つかりました。
発掘されたのは弥生時代に使われていた土器と縄文時代の祭りに使われていたとされる人の顔を描いた土偶と石棒でどちらもおよそ2300年前の弥生時代前期の地層から見つかりました。
同じ年代の地層から弥生時代のものと縄文時代のものが発掘されるのは珍しいということです。
  愛媛県松山市下難波下難波腰折(こしおれ)遺跡から6世紀中ごろ~7世紀前半の古墳4基が見つかりました。
このうちの1基から木炭を敷き詰めた「木炭床」と呼ばれる施設を確認したという事で、全国的にも珍しい貴重な発見との事。
2月 京都市上京区京都府庁内の発掘調査で室町時代後期(戦国時代)に築かれた大規模な堀跡が見つかりました。
この堀跡は建物を守る防御施設(構=かまえ)の一部とみられ、最大3本が併存した可能性もあり、戦国期には社寺も民家も自力で守らねばならぬ緊迫した京の情勢を物語っています。
今回の堀は出土した遺物から応仁の乱(参照>>)後に築かれ、法華宗と延暦寺が衝突した天文法華の乱(参照>>)の終息に伴い埋められたとみられるそうです。
3月 戦国時代の下克上を代表する武将、松永久秀(まつながひさひで)(参照>>)を描いたとみられる江戸時代の肖像画が見つかりました。
大阪府高槻市市立しろあと歴史館によれば、これまで久秀の肖像画は、裏切りを繰り返すなどの悪人イメージで描かれた複数の浮世絵しかなかった中、貴重な資料として注目されるとの事。
  滋賀県草津市南笠町黒土(くろつち)遺跡国内最古級(7世紀末~8世紀初頭)の鉄製品鋳造施設跡が見つかりました。
これまでで最大となる口径1m以上の大型鍋釜が製造されていたことも分かり、近隣に、同時代の鋳造工房跡が出た榊差(さかきざし)遺跡(同市野路町)や製鉄施設の遺構も多い事から、「周辺が国家主導で整備された鉄製品の一大生産拠点だった可能性がある」との事。
  滋賀県長浜市は、地元ゆかりの江戸時代の科学技術者、国友一貫斎(いっかんさい)が描いた飛行機の設計図「阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術(おおとりひじゅつ)について、各部位の詳細を記した冊子が見つかったと発表しました。
「一貫斎が実際に飛行機を製作しようと考えていたことが裏付けられた」とみています。
4月 京都市東山区五条坂にある、明治から昭和にかけての京焼(清水焼)の窯「道仙窯」跡の発掘調査で、窯の構造や改修の変遷が分かりました。
窯の規模は時期によって3段階に分かれ、需給に応じて大きくしたり小さくしたりしていたと考えられ、京都の近代産業の一端が明らかになる成果。
  「花の御所」と呼ばれた室町時代の足利家の邸宅「室町殿(むろまちどの)」跡(京都市上京区)で、庭園に使われたとみられる長径3m近い石や、池の一部が見つかりました。
Dscn6369a600 専門家によると、ほかの庭園跡では例のない石の大きさで、将軍家の絶大な権力を示す貴重な資料との事。
滝をイメージした「滝石組」とみられる配置で発見された石は周辺に水が流れていた形跡がないため、枯れ滝だった可能性があると見られます。
5月 京都市上京区相国寺北側の旧境内地で、戦国時代の16世紀中頃にあった礎石建物跡が見つかりました。
大規模な寺院建築とみられるものの、文献には見当たらず、戦火などで同世紀のうちに廃絶したとみられます。
周辺では、建物に先んじた同年代の堀や溝の痕跡もあり、築造と廃絶を短期間に繰り返した乱世の政情不安を反映した遺構とみられています。
  豊臣秀吉が死去する前年の慶長2年(1597年)に築いた「京都新城(しんじょう)の遺構とされる石垣と堀の跡が、京都御苑(京都市)の一角で初めて見つかりました。
新城に関する史料はほとんどなく、どのような建物だったかを示す物証もなかったため、専門家は極めて貴重な発見だとしています。
  江戸時代に作られた国内最大の「木造豊臣秀吉坐像」大阪市旭区大宮神社で見つかりました。
秀吉は1598年の没後、「豊国大明神」として神格化されましたが、徳川幕府下では公に信仰できなかったとされ、その木像は全国でも二十数例しか確認されていません。
今回発見された木像は寄せ木造りで頭部の冠は欠けていますが、像高は81,9cmとこれまでの最大で、「秀吉信仰が大阪でもあったことを文献以外で示す初めての例で、極めて貴重だ」としています。
6月 琵琶湖竹生島にある宝厳寺の「観音堂」など4つの建物は、豊臣秀吉が築いた大坂城から移築された可能性が高いことが、滋賀県の調査でわかりました。
宝厳寺は滋賀県長浜市の竹生島にあり、国宝の「唐門」は、豊臣秀吉が築いた大坂城で本丸と二の丸をつなぐ「極楽橋」と呼ばれた建物の一部を、息子の秀頼が移築したことで知られています。
滋賀県が寺の修繕工事にあわせて、「唐門」の周辺にある4つの建物を調べたところ、構造などからいずれも、大坂城の「極楽橋」から移築された可能性が高いことがわかったということです。
  豊臣秀吉や養子の秀次の言動などを、そばで仕えた武将・駒井重勝が記した「駒井日記」自筆原本の一部が見つかりました。
調査にあたった専門家は「当時の武将の日記の原本が出てくることはほとんどなく、重要文化財クラスの価値がある」と指摘しています。
「駒井日記」は秀吉や秀次の言動などが記されていることから、当時の出来事を知る上で重要な歴史資料ですが、江戸時代の写しが数巻分残されているだけで原本は失われていると考えられていた中、東京大学史料編纂所がその一部とみられる日記をインターネットオークションで購入し、内容などを調べた結果、写しがある部分の自筆の原本そのものと判断されたのです。
  室町幕府の15代将軍足利義昭のため織田信長が築いた旧二条城(二条御所=参照>>(京都市上京区)で、城の最中心部「内郭」を囲ったとみられる堀跡が市の発掘調査で見つかりました。
室町通という幕府が最も重視したメインストリートを横切る異例の形で築かれ、乱世の緊迫を背景にした近世移行期の遺構とみられています。
専門家は「室町期のメインストリートを横断してまで出隅を設けた意図は何か。どのような建物があったのか。近世への移行期の城郭や京都を考える史料になる」としています。
7月 明智光秀本能寺の変(参照>>)織田信長を倒した直後、光秀の重臣・明智秀満(左馬助)船で瀬田川を渡ろうとし、瀬田城主・山岡景隆戦になったと記された文書が、石山寺(大津市)で見つかりました。
明智軍が船戦をしたとされる文書の発見は初めてで、「ほとんど分かっていない光秀、秀満の足跡に関する貴重な資料」との事。
Aketihidemitukosuiwatari800
歌川豊宣の筆による「明智左馬助の湖水渡り」(新撰太閤記)
専門家は、例の秀満の「湖水渡り」の伝説↑(参照>>)「瀬田橋の船戦が脚色されて、伝説になった可能性もあるのでは?」と分析しています。
  織田信長が築いた安土城(近江八幡市)の城跡の北部で、建物を建てたり、兵が戦に使ったりする平たん地(郭=くるわ・曲輪)が4ヶ所、最新のレーザー測量で見つかりました。
北部は発掘調査がこれまで行われておらず、「想像以上に城の遺構が安土山全体に広がっていることが分かり、これまで知られていなかった遺構の発見が期待できる」と考えられます。
  戦国時代から江戸時代にかけて鉄砲(火縄銃)の一大生産地だったで、鉄砲鍛冶と下請け職人が取り交わした納品台帳「通(かよい)」が見つかりました。
堺市に現存する最古の鉄砲生産現場である鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺区)の調査で発見された物で、「鉄砲製造がどのように分業されていたかや、鉄砲鍛冶と下請けとの関係性が分かる貴重な資料。堺のものづくりの原点につながる発見」との事で、これらの記録によって、江戸時代などの鉄砲製造がシステマティックな分業制だったことが裏付けられました。
8月 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)が、1300年以上前の絵画を「発見」しました。
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認したところ、絵は飛鳥時代に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似した描式から日本最古級の絵画とみられます。
  江戸~明治時代に、現在のJR大阪駅北側再開発区域「うめきた」(大阪市北区)にあった「梅田墓(はか)の発掘調査で1500体以上の埋葬人骨が出土しました。
市内でこれほど多くの埋葬跡が一度に見つかるのは初めて
で、全国的にも珍しく、庶民階級の墓とみられ、今後は骨を調べたりして葬送文化や生活環境などを詳しく分析するとの事。
「墓が密集しているのが都市的で、短時間でこれほど大規模に造るのは農村では考えられない」と指摘されています。
  高野山奥之院(和歌山県高野町)「豊臣家墓所」にある石塔11基の一つが、前田利家の四女で豊臣秀吉の養女となった豪姫の五輪塔とみられることが明らかになりました。
豊臣家墓所は奥之院の参道沿いの一角にあり、秀吉の母や弟の秀長の五輪塔など石塔が並んでいますが、今回豪姫の物と判明した五輪塔はこれまで調べられていませんでした。
銘文にある「秀吉公御養立」とは秀吉が養育したという意味で、専門家は「豪姫は自分が秀吉の養女だったと強調している。豊臣家の一員という強い意識を持っていたことが分かる」と解説。
  大津市南志賀南滋賀遺跡で古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)木製のこまが見つかりました。
木製のこまとしては国内最古で、祭祀に使われた可能性があるとの事。
一緒に出土した土器などから古墳時代後期のものと判明し、これまで最古とされていた藤原宮(奈良県橿原市)で見つかった7世紀後半のこまより古いことが分かりました。
こまの付近からは、斎串(いぐし)や桃の種など祭祀に用いられる道具も見つかり、市教委は「こまも祭祀で使われた道具の一つだった可能性があり、祭祀の実態を考える上で貴重な史料だ」としています。
9月 徳川家とゆかりのある酒々井町上本佐倉の浄土宗の寺院「清光寺」にて、昨秋の台風被害で建て替え方針が打ち出されている事で歴史調査をしたところ、江戸幕府との関係性などを示す書状の写しなど多数の古文書が、封じ込めてあったふすまの中から見つかりました。
桶狭間の戦い後、故郷に戻り独立した家康の書状の写しなどもあり、専門家は「中世の史料は相対的に少なく、史料的価値は高い。徳川家、江戸幕府と清光寺の関係解明のきっかけにもなる」と期待…「まさにタイムカプセル」と驚きを隠せない様子だったとの事。
  和歌山市出水に残る堤状の土盛りの発掘調査で、1585年に羽柴(豊臣)秀吉太田城を水攻めした(参照>>)際に築いた堤防である可能性が高い事がわかりました
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総光寺由来太田城水責図=部分(惣光寺蔵)
今回の初めて発掘調査で、土盛りの中からは中世の土器や鉄砲玉が出土。
中世末~江戸時代に築かれた大規模構造物で、専門家は「これまで根拠があいまいだったが、水攻めの堤防である可能性が高まった。太田城の攻防は紀州の中世と近世の転換点。秀吉軍の堤を築いた工法が判明したことは重要だ」と見ています。
  浜松市役所に隣接する旧元城小跡地(同市中区)で進めている浜松城の発掘調査で、本丸北東隅の石垣と本丸東側の堀の一部を確認しました。
本丸を囲む堀跡が見つかるのは初めてで、これまで絵図でしか分からなかった城の中枢部の全容解明に向け、一歩前進…発掘地点では、堀に向けて崩れ落ちたとみられる石垣の一部も見つかりました。
今後は周辺にあった本丸裏門や徳川秀忠が生まれた場所との伝承がある「御誕生場」の遺構の確認も期待できるそうです。
  京都を追われ、鞆の浦に滞在した室町幕府最後の十五代将軍・足利義昭を支援するため、戦国大名・毛利輝元が周防・長門・出雲の寺社に課したとされる労役(鞆夫=ともふ)について記した新史料が見つかりました。
史料は輝元が天正四年(1576年)~天正十年(1582年)ごろ、周防と長門の支配を担当した重臣3人に送った書状で、冒頭に「防長諸郡江鞆夫之事 申付候」とあり、輝元が防長諸郡へ鞆夫を課していたことが記されているそうです。
鞆夫の記述がある史料はこれまで8点しか確認されておらず、詳しい解明が進んでいない中、専門家は「労役に鞆の地名を冠している点が興味深く、郡単位で徴発されたことがわかる点も貴重だ」とコメントしています。
10月 奈良市「子どもセンター(仮称)の建設予定地となっている平城京域の柏木公園(同市柏木町)で、奈良時代の大型建物群跡が出土しました。
調査した市教委の担当者は「役人の邸宅ではないか」と推察し、専門家は「護衛に関する役所の可能性もありうる」と指摘しています。
最も立派なのが北側の建物で、南向きの庇が付き、柱の直径は約30cm、柱間の幅が3mと長いことなどから、京域でもかなり格の高い建物と推定されています。
現場は、平城京のメインストリートである朱雀大路に近い「左京七条一坊七坪」の区画で、殿上人の貴族か、それに次ぐクラスの役人の邸宅であった可能性があるとの事。
  戦国武将の上杉謙信武田信玄の軍勢が激突した川中島の戦い(参照>>)の直前に、謙信が家臣に宛てた書状が見つかりました。
東京大史料編纂所村井祐樹准教授によると、合戦前夜に出された書状の発見は、両軍を通じて初めてで「地名や人名を含め、戦いへと向かう当時の情勢が具体的に記されており、極めて貴重な発見だ」と話しています。
  小浜出身の幕末の志士梅田雲浜(参照>>)が安政の大獄(参照>>)の4か月前に書いた直筆の手紙が福井市内で見つかりました。
手紙は1858年の安政の大獄のおよそ4ヶ月前に、越前福井藩の坂部簡助に宛てたものと見られていて、長州藩へ送る木材の材木置き場を借りたいとの依頼や北潟湖を埋め立てて水田にする相談など福井藩とのやり取りが記されており、雲浜と福井藩との繋がりや幅広い人脈を知ることができるとか…
雲浜は安政の大獄の前に手紙などを井戸に捨てたため、残された資料は非常に少なく、直筆の手紙は当時の活動を知る貴重な発見だとの事です。
11月 奈良県橿原市藤原宮跡で長年進められてきた発掘調査で、重要な儀式が行われた大極殿を取り囲む回廊の全容が、ほぼ明らかになりました。
藤原宮跡の東北部にあたる区画で発掘調査の結果、大極殿の東側にあった回廊の様子が、今回の調査で大極殿をカタカナの「ロ」の字形に囲む東西約120m、南北、約165mの回廊の全容がほぼ明らかとなりました。
  JR兵庫駅南東に広がる「兵庫津遺跡」(神戸市兵庫区中之島2)で、江戸時代中期の町屋の遺構が見つかりました。
これまで兵庫城を中心とする大規模な町屋跡が発掘されてきましたが、規模はさらに広がることが確認されました。
同遺跡では、織田信長が西国進出の拠点として築城を指示した兵庫城を中心に、江戸時代の町屋や寺院の遺構が出土していましたが、今回新たに見つかったのは江戸中期の町屋8・9棟で、街路の造りは、江戸~明治期の絵図と一致しており、「町屋の遺構には火災で炭化したり、補修したりした跡があり、当時の生活を生々しく感じられる」との事です。
  瀬戸内海で活躍した村上海賊の主要家系の一つ・来島(くるしま)村上氏の重臣・村上吉郷(よしさと)に、戦国武将・大名の毛利元就が出した書状が確認されました。
書状は古書目録に記されていましたが、花押(かおう)の形状、文書の内容などから元就の書状に間違いないと判断されました。
出された年は不明なれど、内容は、年頭のあいさつを述べるとともに、太刀一腰(1本)と鳥目百疋(ひき)(銭1貫文)を贈ることがつづられている事から「吉郷が来島村上氏の重臣というだけでなく、ひとりの独立した海賊衆として元就から見られていたことが分かる。双方の関係を考えるうえで貴重な手がかりとなる」と評価されます。
12月 明治十八年(1885年)に大阪一帯が大きな被害を受けた淀川の大洪水を記録した石碑が大阪市東成区の蔵から見つかりました。(参照>>)
地元の郷土資料館や専門家による調査によると「濁流は滔々(とうとう)と流れ込み」「財産を集めるいとまもなく」などと氾濫した川からの水が家々を襲った様子が生々しく刻まれており、「石碑を見ることで、過去の水害を頭の片隅に置いて教訓としたい」との事。
  東京都内の男性が古美術商から購入した肖像画を東京大学史料編纂所などが調査したところ、室町幕府の将軍=足利義満の姿を、義満の死後150年ほどたった1550年前後に描かれたとみられる物である事がわかりました。
足利義満を描いた肖像画はこれまでに数点しか確認されておらず、黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴…専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的に気になったのは、6月の竹生島の唐門のニュースですかね。

ずいぶん前に竹生島に行った時に、すでに、
「この唐門は大坂城の極楽橋を移築した物」
って話を聞いた気がしてたのですが…

おそらくは、伝承的だった話が調査によって「その可能性が高くなった」という事なんでしょうね。

うめキタの梅田墓もそうですね。
梅田墓は、つい最近まで、いくつかのお墓が端っこの方に残されているままになってましたが、それを撤去すると同時に、地中に埋まってしまっている区域を発掘して、様々な事が新しく解明されたという事ですね。

明智秀満の湖水渡りが後世の創作だったのは、ちと残念ではありますが、
ま、落ち着いて考えたら、
「そら、そやろww」
という気もします。

そんな中でも、今年、特に驚いたのは、
「建て替えしようとしたお寺の襖の下から…」とか、
「ネットオークションで見つけて…」とか、
「普通に古物商から購入した」とか、
びっくりする偶然からびっくりするような史料が発見された事…

あるんですね~こういう事。。。

もちろん、それ以外の発見も「絶対!」なんて事はなく、研究者の方々のスルドイ推察や探究の末に導いた「ここぞ!」という場所を掘り進んでこその発見なわけで…

日々、こうして新たなる発見がされていくのだなぁ~とつくづく感じました。

私たちは、普段、
歴史の教科書を読んだり、書籍を読んだり、小説や時代劇で見たり…

そういう流れがあるために、ついつい
「ここで、こうなって」
「この人が登場して来て」
「ほんで、こうなって…」
歴史を一つの物語のように考えていきます。

もちろん、歴史を物語のように読み進んで行く事は大事です。

なぜなら、それによって、歴史の流れがス~ッと頭の中に入って来るから…
むしろ、私はそっち(物語)です。

「何年に何があって」
「アレが何年で…」
てな覚え方は、テストのための丸暗記であって、ちっとも面白くありません。

やはり、歴史を楽しむなら、とめどなく流れる大河のように、長い長い物語として思いめぐらす方が、ずっと楽しいです。

しかし、おおもとの「発見」という物は、まさに一つの「点」

私は、これら
新しく発見された「点」と、
以前に発見された「点」、
さらに昔からある「点」、
それぞれを一つ一つ、「もしかしたら、こうかも知れない?」と、考えられる(可能性のある)線でつないでいって、歴史という壮大な物語が紡がれていくと思うのです。

この先、また新しい発見があれば、その都度、新しい線をつなぎなおし…

もちろん、つなぎ合わせる線は複数あり、
ここは赤い線でつなぐ?
こことここをつなぐのはメッチャ太い線が良い
いや、反対に青くて細い線が良い?

なんて事を考えながら…
歴史は、そこが楽しいんですよね~(←個人の感想ですww)

「これが絶対正しい!」ではなく「…かも知れない」を許容できなきゃ、歴史は楽しめません(笑)

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、
コロナ禍の中、1番に思う事は「悪疫退散!」

いつもブログを見に来てくだる皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

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2020年12月28日 (月)

三淵様のアバン死がカッコイイ~大河ドラマ『麒麟がくる』第38回「丹波攻略命令」の感想

いよいよ最終章となった大河ドラマ『麒麟がくる』第38回「丹波攻略命令」の感想です。

今年の大河ドラマ=9月20日放送の第24回(24回の感想>>)で覚えた新しい言葉「アバン死」・・・

「アバンタイトル=オープニングタイトルが出る前に死んでしまう」ドラマ演出の事だそうですが、今回もまた、その時の向井義輝将軍様以来のアタック三淵様のアバン死。。。

とは言え、先の義輝様の時も、今回の三淵様も、何やら、今年の大河ドラマはアバン死の時の方が描き方がカッコイイな~

アタック三淵様の死を惜しみ
「信長様に直訴します」
という長谷川光秀に対し、
「いわれなき情けをおかけいただく事は武士の恥」
「捨てられる花にも、1度は咲いてみたという誇りがある」
と言う谷原三淵様・・・素敵でした。

そうそう、そうなんですよ。

今回の大河・・・演じておられる長谷川さんは嫌いでは無いのに、なぜか主人公の光秀に、個人的に感情移入できなのは、主人公が武士らしいところを、あまり見せないような設定になっているからかも知れない・・・

「麒麟を連れてくる」のがメインテーマだからなのかも知れませんが、
とにかくドラマの光秀は
「戦いは嫌」「平和が良い」で、
で誰かが戦おうとすると、代替え案を出す事もなく、
ただ「矛を収めてください」と頼み、
(久秀の時には貰った領地を勝手にあげると言ってたけど…←これこそ武士にはあるまじき行為だと思う)

誰かが死ぬ事になると、これまた、何の解決策もないまま
「死なないでください」と頼む。。。

あくまで個人的な好みではありますが、
戦国武将たる者、時と場合によっては、ただ生きながらえる事より、
華々しく散り、潔く去る事の方が、誇り高き生き様の場合もある気がするのです。

予告を見る限りでは、これから、あの吉田久秀にも
「寝返らないで!」
と頼むみたいですが、このドラマでは、そのおおもとの種まいたのが光秀という設定ですよね?

去る第32回の「反撃の二百挺」(11月16日の感想>>)で、姉川の戦いに使用する鉄砲を、未だ幕臣の立場である光秀が、幕臣並で信長配下の久秀と絶賛敵対中の筒井順慶「信長に会わせる」という無謀な約束を勝手にして譲ってもらったわけですから、

自分が先に、そんな裏切り行為をしておいて
「裏切らないで」
も、何も・・・果たして、この(予告の場面の)時には、何かしらの譲歩的な案を持って来るのか?否か?
楽しみなシーンである事は確かです。

そしてタイトル後に登場したのが、先週(37回感想>>)から気になってた斎藤利三・・・

その気になってた理由は、
先週、主人公の光秀が、それより以前にハッキリと「滝藤公方様の家臣になります」染谷信長の家臣へのお誘いを断っていたにも関わらず、いつの間にか、すっかり織田の家臣に納まってる感出して登場してて、それなら、今後、主君の稲葉一鉄ケンカして、勝手に光秀の家臣になる斎藤利三の事が問題になった時、どう処理するんだろう?
という疑問を持った…って事なんですが、、、

案の定、思いっきり自分の事を棚に上げた会話してました。

斎藤利三が、稲葉一鉄の事を
土岐頼芸の家臣だったのを、
斎藤道三に分があると見て道三に乗り換え、
道三の嫡男=高政が有利となると、また乗り換え、
高政が亡くなると嫡男の龍興に乗り換え
信長が勝つと見て龍興を見捨てた」

と、シレっと「むしろ忠臣やん!」
(↑高政死んだら、その家督を継ぐ龍興にそのまま仕えてるんは当たり前ですよね?)
と思える事まで盛り込んでの悪口言いまくり、

「侍は、己の主君に誇り持たねば、戦で命をなげうつ事はできません」
「明智様がご主君なら、いかなる戦にも身をなげうつ事ができる」
と、メッチャごもっともな事、言うてはりましたが、

このドラマの光秀って・・・
岐阜から落ちて来た浪人に家を貸して住まわせてくれた恩人=ユースケ・アサクラに、後足で砂をかけるような仕打ちして滝藤公方様に仕え、公方様が不利と見るや、いつの間にか織田の家臣に納まってる人ですが大丈夫ですか?
と聞き返したいです。
そこンとこ、どないなってるんでしょう?

さらに、その後の信長との会話で
「人一人の命でも大事」
とおっしゃってましたが、幕臣でありながら織田の配下のようにしてアサクラ攻めたり比叡山攻めたりしてたアナタの兵たちは、すでに多数お亡くなりになっているかと思いますが…
OPクレジットに登場しないエキストラでも人一人ですよ!
そこンとこは、どないなってるんでしょう?

しかも、
「殿は三淵様にも紙切れ一枚で、死をお命じに…」
って信長に文句言ってましたが、

先週、三淵弟の眞島藤孝さんが、
「私とともに合戦に出るなら、織田の家臣として迎え入れる」
(と、信長が言ってる)
ていうのを、冒頭のように、谷原三淵さんが(武士の誇りとともに蹴って、
それで切腹→ですよね?

ほんの10分前に、主人公とともにカッコイイ谷原三淵さんの決意を聞いたばかりだけに、なんか、今更、信長に文句言うのは違う気がします。

そら信長に「帰れ!」て言われるわ!。

ま、その後すぐに
「呼び戻せ」
て言って、南蛮人コスプレ衣装をプレゼントしてくれるようなお茶目な信長さんで、今回は事なきを得ましたが・・・

その後、家に帰ってコスプレ衣装を着てみる光秀・・・
って、このシーン↑いる?
とツッコミ入れようと思うものの、
思わず、長谷川さんのタイツに包まれた足首の細さに息を呑むのであったwww

…にしても、丹波平定を命じられて丹波見分に向かおうとする光秀クンに、
「頼み事できる人が伊呂波大夫しかいない」
(↑と光秀が言ってた)

のは、ちょっと残念な設定・・・

とは言え、

凛々しく成長した子供店長清史郎クンと、
美しく成長した芦田愛菜ちゃんには、
ホッとするひとときをいただきました。

しかも・・・

愛菜ちゃんが活けていた花が、聖母マリアを象徴する百合の花だったり、
丹波で頼れる人物に小畠永明の名を出して来たり、
何気に現地の治水を気にしたり(【福知山の明智藪】参照>>)
とかとか、、、

それに加え、玉三郎天皇様の譲位の一件が、信長から譲位を迫ったのではなく、
天皇主導で、しかも、天皇家が最も力があったであろう「治天(ちてん)の君」の院政時代(【白河上皇の院政】参照>>)を目指しての天皇の希望としたところは、さすがのNHK様であります。

これだから、やっぱり大河ドラマは見逃せません。

こうして、
そこかしこで歴ヲタ心をくすぐって来る感がたまらんww

久々の本郷前久様も出て来たし・・・

来週も楽しみです。

★光秀の丹波攻め関連ページ
 ●籾井城の戦い>>
 ●福知山攻略戦>>
 ●八上城攻防戦>>
 ●黒井城・攻略>>
 ●山家城の戦い>>
 ●丹波平定の報告>> 
 .

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2020年12月24日 (木)

長篠の後~武田から城奪回作戦の家康…光明城と二俣城の戦い

 

天正三年(1575年)12月24日、かつて武田信玄に奪われた二俣城を徳川家康が開城させました。

・・・・・・・・

二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)天竜川二俣川に挟まれた天然の要害を利用した堅城ですが、もともとは、戦国の初めの斯波(しば)との戦いのために今川(いまがわ)の家臣であった松井(まつい)(松井宗信?)が構築したとされます。

つまり、今川配下の城でした。

ところが、永禄三年(1560年)5月19日に起こった桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市もしくは名古屋市緑区)の戦いで、海道一の弓取りと呼ばれた大物=今川義元(いまがわよしもと)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に敗れて討死した(5月19日参照>>)事で、大黒柱を失った今川に陰りが見え始めます。

それでも二俣城主の松井宗恒(まついむねつね=宗信の息子)は、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に仕える忠臣だったわけですが、そこに、信長の仲介によって、三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の間に「今川の領地の西半分の遠江(とおとうみ=静岡県西部)を德川が、東半分の駿河(するが=静岡県東部)を武田が切り取る(武力で奪って治める)約束が交わされ、永禄十一年(1568年)の12月に信玄が今川の本拠である今川館(静岡県静岡市・後の駿府城)攻撃し(12月13日参照>>)、氏真が慌てて逃げた先の掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を家康が攻撃する(12月27日参照>>)という見事な連携プレーで翌永禄十二年(1569年)5月、今川を滅亡に追い込みました。

しかし、これは掛川城を攻めあぐねていた家康に、信玄との戦闘を繰り返していた(1月18日参照>>)相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)が声をかけて、自らの息子=北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を握るという条件で德川と北条の間に結ばれた同盟のもとに行われた無血開城によってもたらされた今川滅亡だった事で、駿河を取るつもりだった信玄は激おこ・・・信玄は北条はもちろん、織田&德川とも決別します(7月12日参照>>)

一方、今川の滅亡を受けた二俣城の松田は、一旦は信玄の従属する道を選びますが、すでに引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・後の浜松城)まで手に入れている(12月20日参照>>)德川軍からの攻撃にさらされ、やむなく降伏・・・つまり、ここで二俣城は德川の配下となりました。

その後も、信玄は、東の北条と国境線を争う(【三増峠の戦い】参照>>)一方で駿河での領地拡大(【蒲原城奪取!】参照>>)(【深沢城攻防】参照>>)にも転戦する日々でしたが、やがて元亀三年(1572年)、その目は西へと向きます。

Hitokotozakasinrozucc有名な武田信玄の西上作戦(せいじょうさくせん)です。
信玄の進路図
クリックしていただくと大きいサイズで開きます

「最終目標は上洛だった?」とも言われる武田軍の西への遠征で、武田と戦う家康は、一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)で敗れ(10月13日参照>>)、二俣城は奪い返され(10月14日参照>>)、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)でも不名誉な敗北(12月22日参照>>)・・・

ところが、年が明けた元亀四年(1573年)の1月、さらに西の野田城(のだじょう=愛知県新城市)攻防戦(1月11日参照>>)を最後に武田軍本隊は甲斐へとUターン(別動隊は3月に岩村城を攻撃してます>>)・・・そう、御大信玄が病に倒れ、そのまま、3ヶ月後4月に亡くなってしまったのです。

亡くなる際の信玄の遺言では「3年隠せ」(4月16日参照>>)と言われた信玄の死ですが、そこは、スパイ=忍者大国戦国日本、意外に早く、周辺の武将にバレていたようで・・・

というか、家康の場合は、信玄の死の2ヶ月後の6月に、当時は武田の傘下であった作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)信昌(のぶまさ=当時は貞昌)父子が德川に寝返った事によって信玄の死を知り、すかさず3ヶ月後の天正元年(元亀4年から改元=1573年)の9月、武田方の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)奪い取ったのです(長篠城の戦い>>)

ちなみに、この時に德川に奪われた長篠城を、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)が取り返しに来るのが、教科書にも載る有名な「長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い」なわけですが(長篠設楽原の戦い>>)・・・

そうです・・・この時期、石山合戦や中国攻め等々、何かと信長の動きが激しくて後回しにされがちですが、

勝頼×家康(時々信長)の間では、先の信玄の死をキッカケに、武田が滅亡する甲州征伐まで、上記の長篠城争奪戦のような「駿河⇔遠江・取ったり取られたり大決戦」が繰り広げられる事になるのです。

とりあえず、時系列で並べると…
天正元年(1573年)9月:家康が長篠城奪取>>
●天正二年(1574年)5月:勝頼が高天神城奪取>>
●天正三年(1575年)5月:有名な長篠設楽ヶ原>>
● 同       6月:家康が光明城奪取
● 同       8月:家康が諏訪原城奪取>>
● 同      11月:信長が岩村城奪回>>
● 同      12月:家康が二俣城奪回(←今日ココ)
●天正七年(1579年)9月:家康が持船城奪取>>
●天正九年(1581年)3月:家康が高天神城奪回>>
●天正十年(1582年)2月:信長が甲州征伐開始>>
● 同       3月:勝頼自刃で武田滅亡>>

Motifunezyoukoubou
(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

で、こんな感じの大まかな流れの中
(話が前後したうえに経過説明に時間かかって恐縮です)
本日は、天正三年(1575年)12月24日第2次二俣城の戦い・・・

先の信玄の西上作戦の時に奪われた二俣城を、家康が奪回する戦いです。

・‥…━━━☆

上記の通り、
信長との強力タッグで天正三年(1575年)5月の長篠設楽ヶ原の戦いで武田勢を撤退させる事に成功した家康は、亡き信玄に奪われたままになっている二俣城の奪回に乗り出します。

まずは、その拠点となるべき付城(つけじろ=攻撃拠点とするための砦)として
毘沙門堂砦(びしゃもんどうとりで=静岡県浜松市天竜区二俣町)
鳥羽山城(とばやまじょう=同天竜区二俣町鹿島)
蜷原砦(になはらとりで=同天竜区二俣町二俣)
和田ヶ島砦(わだがしまとりで=同天竜区渡ヶ島)
4か所を構築して二俣城を取り囲んだかと思うと、

先の設楽ヶ原から、わずか1ヶ月後の6月24日、武田傘下の将=朝比奈又太郎(あさひなまたたろう)が守る光明城(こうみょうじょう=同天竜区山東字光明山・光明寺跡)を急襲します。

まずは大手に当たる仁王堂口から本多忠勝(ほんだただかつ)榊原康政(さかきばらやすまさ)らが攻め上り、元本堂の北側に残っていた鏡石に目印となる德川の旗を立て、次に本隊が城の南側から、別動隊が西と北から…と三方から同時に攻め込まれたため、朝比奈は城を守り切れず降伏・・・一命を許されて、甲州方面に向かって落ちていきました。

そして7月には、武田傘下として遠江北部で勢力を誇っていた犬居城(いぬいじょう=同天竜区春野町堀之内)天野景貫(あまのかげつら)が德川の勢いに押されて城を退去・・・事実上の天野氏滅亡となり、二俣城は孤立していきます。

さらに1ヶ月後の8月24日、家康は、武田譜代の家臣=今福友清(いまふくともきよ)が守る諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)を開城させ(8月24日参照>>)いよいよ二俣城は、全くの孤立無援の城となってしまいます。

この時、二俣城を守っていた依田信蕃(よだのぶしげ)・・・

この状況を知った武田勝頼からは、
「開城しても良い」
との連絡を受け取っていましたが、それが、勝頼の直筆でなかった事から、頑なに開城を拒んで籠城を決意したのでした。

しかし、もはや孤立無援となった城での籠城では、ほどなく先が見えて来るもの・・・

12月に入って和平交渉が開始され、家康側からは大久保新十郎(おおくぼしんじゅうろう・泰忠?)と榊原康政が代表人質として出て、籠城する依田側からは依田信蕃の弟の依田善九郎(ぜんくろう)源八郎(げんぱちろう)が出て、12月23日に開け渡しの一切云々が行われる事になりました。

しかし、23日当日は、あいにくの雨模様・・・
依田側から、
「雨の日に藁笠(わらかさ)かぶって城を出るのはカッコ悪いので、晴れた日にしてちょ」
との申し入れがあり、家康がこれを承諾したところ、

翌・天正三年(1575年)12月24日が見事に晴れ渡ったので、約束通り、代表で人質となった4名が二俣川あたりで対峙する間に、開け渡しが行われ、一切が終了した後、人質が、それぞれ返され、二俣城開城の全行程が終了と相成りました。

武田軍が去った二俣城は、家康の重臣=大久保忠世(ただよ)が城将として入り、以後は德川の城となりました。

ただし、本来なら二俣城を追われた依田信蕃は、先の朝比奈と同様に、武田の本拠である甲斐に戻るべきところを、なんと、未だ武田方の城として孤立状態となっている高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)へと入り、一戦交える気満々だったのだとか・・・

とは言え、
この高天神城で合戦が行われるのは天正九年(1581年)3月の事(【第3次高天神城の戦い】参照>>)・・・まさに、武田滅亡のカウントダウンが始まった頃でした。
 .

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2020年12月21日 (月)

ミッチー、幕臣やめるってよ…大河ドラマ『麒麟がくる』第37回「信長公と蘭奢待(らんじゃたい)」の感想

第3コーナー周って、めっちゃスパートかけて来た大河ドラマ『麒麟がくる』第37回「信長公と蘭奢待(らんじゃたい)の感想です。

いやぁ、残り時間が少ないため、速い速いwwε=ε=ε=

石橋信玄殿の
「出陣じゃぁ~~」
に始まり、
染谷信長蘭奢待に終わったという事は

元亀三年(1572年)10月から
天正二年(1574年)3月までを一気に駆け抜けた感じ…

ま、これまでも、「〇年後」みたいな事もありましたし、他のドラマでも2~3年飛ばすパターンはありますが、今回の場合、この間には色々重要な事が起こってる間なので、本来ならじっくり見たいところ・・・

・‥…━━━☆
(一応、ご参考まで)
↓この間に起こる麒麟関連の出来事
緑字は一応ドラマに出て来た出来事)
元亀三年(1572年)
10月13日=武田×德川:一言坂の戦い>>
10月14日=武田×德川:二俣城の戦い>>
10月22日=武田×德川:仏坂の戦い>>
12月22日=武田×德川三方ヶ原の戦い>>
12月23日=武田×德川:犀ヶ崖の戦い>>
元亀四年=天正元年(1573年)
1月11日=武田×德川野田城の戦い>>
2月22日=将軍×織田今堅田>>
3月2日=武田×織田岩村城攻防>>
4月4日=将軍×織田上京焼き討ち>>
4月12日=信玄死去>>
6月22日=家康が信玄の死を知る(↓長篠城・参照)
7月3日=信長が大船で琵琶湖を渡り京都侵入>>
7月18日=将軍降伏槇島城の戦い>> 
8月14日=織田×朝倉刀禰坂の戦い>>
8月20日=朝倉滅亡一乗谷の戦い>>
8月28日=浅井滅亡小谷城の戦い>>
9月8日=武田×德川長篠城の戦い>>
10月25日=織田×一向衆:長島一向一揆>>
11月16日=三好義継切腹:若江城の戦い>>
12月26日=松永降伏多門山城の戦い>>
天正二年(1574)
1月20日=織田×一向衆:越前一向一揆>>
2月5日=織田×武田:明智城の戦い>>
3月19日=秀吉が城持ちに…長浜城>>
3月28日=信長が蘭奢待削り取り>>
・‥…━━━☆ 

やはり、コロナのせいなんでしょうね~

なんたって、本来なら、とっくに撮影は終わってる時期ですから、すでに次の仕事を抱えていいる方も多いでしょう

まして、大河に出るような人気の俳優さんですから、そこを、何とかスケジュールを調整して撮影されているのだとお察しします。

ただ、あまりにも速いww

速すぎて、長谷川光秀が、いつ、織田家の家臣になったのかワカラン。。。

確かに、先週の最後に泣きながら公方様とお別れしたのは描かれてましたが、以前、信長から
「ワシの家臣になるか、公方様につくか、どっちか選べ」
って聞かれて、ハッキリ「公方様」って言って、信長の家臣の話を蹴ってましたから、

もし、織田の家臣になるなら、そこは、ちゃんと信長様に対してケジメつけなきゃいけないんじゃない?
しかも、そこは結構な見せ場なんじゃ?

まして、ドラマでは、すでに長谷川光秀が染谷信長に嫌悪感を抱いてる描写になってるのに、なぜ?今のこのタイミングで配下になってるんだろ?

普通、
「この人なら麒麟連れて来るかも(←尊敬&信頼できる)
って思って、家臣になるんじゃ?
(実際には、本能寺の変の1年前でも光秀は「信長に忠誠誓ってる」し、信長も「1チャン頑張ってんのは光秀」って言ってる…だからこそ、本能寺の変は謎ww)

後に、稲葉一鉄とケンカして勝手に光秀の家臣になる斎藤利三の事が問題になると思うけど、
それなら、光秀自身が、いつの間にか織田の家臣になってるのも問題なのでは?

ま、来週くらいに、そんなシーンが出てくるかも知れないので、期待しときますが。。。

ちなみに、眞島細川藤孝さんが織田に寝返るのは、上記の一覧↑の7月3日=信長が大船で琵琶湖を渡って京都にやって来た時です。
荒木村重とともに信長を出迎えてます。

ところで、
三河の忍びであるはずの岡村菊丸さんが、メッチャ貴重な情報を光秀にくれたり
医療のための寄付金を、滝藤公方様に軍事費用に横領された門脇お駒ちゃんが、その事を忘れたかのように公方引退宣言を突き付けたり、色々と忙しい・・・

時間が無い中でも、ユースケ・アサクラは何とか気高き最期を迎えられたものの、秒で滅亡の浅井様はお気の毒・・・お市っちゃん(+娘3人)を助ける描写も無しとは…

やはり、想像以上にスケジュール調整が難しいのでしょうね。

とは言え、蘭奢待の再現度はスバらしかったですね~
さすがは天下のNHK様・・・あの削り取りの跡まで、見事な再現でした。

玉三郎天皇様は、相変わらず気品があり、
そして、「朕の預かり知らぬところ」
と、武将たちを手のひらで転がしてる感がたまりませんな。

ところで、
予告見てると、いわゆる「第六天魔王」っぽい信長ファッションが出て来たので、
「おぉ~いよいよ染谷信長さんが、あのお姿を…」
と思って、よ~く見たら、

Kirin38
↑NHK大河ドラマ予告

光秀やないか~いwwα==(゜゜#d)

どういう経緯で、この格好をするのかな?
仮装パーティとかするんかな?
楽しみやわv(^o^)v

来週からは、いよいよ光秀最大の見せ場=丹波攻めですしね~
さゆりママは再登場するのかな?

★光秀の丹波攻め関連ページ
 ●籾井城の戦い>>
 ●福知山攻略戦>>
 ●八上城攻防戦>>
 ●黒井城・攻略>>
 ●山家城の戦い>>
 ●丹波平定の報告>> 
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2020年12月15日 (火)

宇都宮国綱が守り切った宇都宮城~長きに渡る北条との戦い

 

天正十三年(1585年)12月15日、日光山衆徒と北条氏直の配下が宇都宮国綱の宇都宮領へと侵攻しました。

・・・・・・・・

藤原北家の流れを汲み、平安時代から宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)一帯を領地として来た宇都宮氏でありましたが、天文十八年(1549年)に、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮20代当主の宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)が討死して、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)が家督を継いだ事で家臣同志が覇権を巡って争い、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)に、本拠の宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られ、一時は守りの堅固な山城=多気城(たげじょう=栃木県宇都宮市)に移った事もありました。

しかも、その広綱も若くして病死した天正四年(1576年)に、息子の宇都宮国綱(くにつな)が、わずか9歳で当主となった事で、家中の乱れは治まる気配もありませんし、そこに付け込んで、関東支配を目論む北条(ほうじょう)の動きも活発に・・・

そこで国綱は常陸(ひたち=茨城県の大部分)佐竹(さたけ)や、下総(しもうさ=千葉県北部と茨城・埼玉・東京の一部)結城(ゆうき)甲斐(かい=山梨県)武田(たけだ)などと手を結んで北条に対抗しますが、天正六年(1578年)には、その武田勝頼(たけだかつより)からの侵攻を受ける始末・・・

そして、もちろん、周囲の戦国の世の情勢も目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月には勝頼自刃で武田が滅び(3月11日参照>>)、6月には、その武田を滅ぼした織田信長おだのぶなが)本能寺(ほんのうじ=京都府京都市)に倒れ(6月2日参照>>)、翌・天正十一年(1583年)には織田家内の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を、同じく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が破り(4月23日参照>>)、その秀吉の勢いに織田家後継者を自負する織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を巻き込んで天正十二年(1584年)に起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いが終結を見(11月16日参照>>)、信雄を味方に引き込んだ秀吉が紀州(きしゅう=和歌山県北西部)征伐(3月28日参照>>)から四国平定(7月26日参照>>)(←この間に秀吉は関白就任)、そして北陸へ(8月29日参照>>)と向き始めた天正十三年(1585年)12月15日

北条方に扇動された日光山(にっこうさん=栃木県日光市にある輪王寺)の僧兵らとともに北条勢が出陣し、宇都宮と宇都宮大明神(うつのみやだいみょうじん=宇都宮二荒山神社)をことごとく破却したのです。

Houzyouuzinao300 さらに5日後の12月20日には、北条氏直(ほうじょううじなお=第5代当主)自らが軍勢を率いて宇都宮に乱入し、大明神の御殿や楼門・回廊、さらに東勝寺(とうしょうじ=栃木県宇都宮市)など周辺の社寺を焼き討ちします。

さらにのさらに12月25日にも合戦がありましたが、この時に駆け付けた、同盟者=佐竹義重(さたけよししげ)の援軍の活躍で、何とか、これ以上の侵攻を防ぐ事ができました。

ところが案の定・・・翌・天正十四年(1586年)に、またもや宇都宮に侵攻して来た北条氏政(うじまさ=氏直の父)が、当時は宇都宮傘下に属していた皆川広照(みながわひろてる)皆川城(みながわじょう=栃木県栃木市皆川城内町)を攻略すると、その勢いのまま、攻略したばかりの皆川氏と、未だにお家騒動上等の壬生氏を先鋒に据えて、宇都宮城へと迫ったのです。

しかし、この時、宇都宮城を守っていた宇都宮家臣の玉生高宗(たまにゅう・たもうたかむね)が、雨あられと降り注ぐ火矢攻撃を見事に防ぎ切り、後に「武功の仁」と賞賛されたのだとか・・・

そんな中、天正十七年(1589年)には、これまで宇都宮方であった真岡城(もおかじょう=栃木県真岡市)主の芳賀高継(はがたかつぐ)が北条側に寝返ったとの噂が立った5月に、下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張る那須(なす)と、その家臣の大関(おおぜき)(12月8日参照>>)多気城を攻め、8月には日光山衆徒が宇都宮方の塩谷(しおや・しおたに)倉ヶ崎城(くらがさきじょう=栃木県さくら市・喜連川城とも) を落城させました。

さらに9月には北条氏邦(うじくに=氏政の弟)率いる8000騎が宇都宮へ侵攻し、城下を焼き討ちしながら多気城へと迫りましたが、結局落とせぬまま、翌10月には囲みを解いて引き揚げていきました。

そう・・・
周辺武将がほぼほぼ北条へとなびき、その北条に何度にも渡って侵攻され、もはや風前の灯のギリギリ状態となっていた宇都宮城でありましたが、結局、最後まで、北条が、この宇都宮城を落とす事は無かったのです。

そして、
この翌年の天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(6月14日参照>>)

この時、同盟者の佐竹義宣(よしのぶ=義重の息子)とともに、いち早く小田原に参陣し、秀吉に謁見して恭順姿勢を見せた宇都宮国綱は、見事、そのまま、豊臣政権の大名として生き残る事に成功し、ご存知のように、北条は秀吉の前に散る事になります(7月5日参照>>)

ただし、国綱自身はこの7年後に改易を言い渡され(10月13日参照>>)、大名としての宇都宮氏は無くなりますが、家名と血筋は脈々と受け継がれ、水戸藩の一員として明治維新を迎えています。

まぁ、なんだかんだで、戦国は生き残ったモン勝ちかも…ですね。
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2020年12月14日 (月)

長谷川光秀の泣きシーン(おえつ)~大河ドラマ『麒麟がくる』第36回「訣別(けつべつ)」の感想

 

光秀の推しメン変更に沸いた大河ドラマ『麒麟がくる』第36回「訣別(けつべつ)の感想です。

廊下で控えてるのは良かったけど、からの文を受けて、
許可も取らず、いきなり声をかけちゃうのってどーなの?
とか、

織田家の重臣中の重臣である柴田様佐久間様がよ、
わざわざ、幕臣の(まだ訣別してない)光秀宅に来て、
「何かと相談に乗ってくれ」とか、
「明智殿の思うところを殿に直言していただきたい」とか、
織田家の主従関係はどないなってんねん!なぜ?幕臣に頼る?
とか、

「福祉医療に使ってくれ」と一般市民から寄付された金を、
『鉄砲買う事にしたけど勝ったら返すから』の手紙一つで、
公方様が使っちゃうのは詐欺に当たるんじゃ?
とか、

幕府と信長を敵対させようとしてた摂津鶴ちゃんを排除したにも関わらず、
なんで、まだ、妻子の人質話は引き継ぎされてんの?
「信長に近すぎている光秀は、いつ幕府を裏切るかワカラン」
からの、妻子人質やったはずなので、
「鶴ちゃん失脚=光秀信じる」方針になったら、人質はいらんのやないの?
とか、

ハネムーン気分の坂本城天守見物で、
古典の今様をデュエットカラオケのように
月は舟 星は白波
雲は海、いかに漕ぐらん…
と掛け合うなんざ、文学部同志のカップルでもムズいゾ!
とか、

「十兵衛が坂本にいると便利!翌日には来るモン」
とネット通販のように言われたり(←ちなみにこの時点でもまだ幕臣)
とか、

幕府が信長を追い落とそうとしている事を、
奉公衆も解ってるし、信玄も浅井・朝倉も知ってるし、
信長自身も、そう感じてるのに、
光秀だけが
「信長様には公方様がついておられます」
「もし、その(敵対する)ような動きがあれば、私が食い止めます」
って、信じ切って言ってる。。。
この人(主人公)「戦国一の切れ者」じゃ無かったの?
とか、

とまぁ、
素朴な疑問は様々あれど、今回も、なかなかの見応えのある回でした。

なんせ、ようやく長谷川光秀が公方様と訣別して、織田家の家臣になるんですからね~

公方様&三淵様と光秀さんのやり取りからの泣き(おえつ)走り去る姿・・・俳優さんたちの名演技に引き込まれます。
(あまりに泣きがスゴイので、ちょっと失恋少女のようでもありましたが)

脱糞までしての危機一髪だった家康クンの三方ヶ原(参照>>)
家臣の伝達のみで終わってしまったのは、残りの放送時間の関係で致し方ない
(ジャニ所属の方に脱糞は許されんやろし)
ところですし、

なんと言っても、あの信長の意見書を、ちゃんと、しかも信長目線で紹介してくださった。。。
(【信長の意見書に義昭が反旗】参照>>)
コレ↑ドラマやと、なかなかにスルーされがちです。

なんせ、この意見書の内容が、もし本当だとしたら、
公方様はかなり厄介な無謀様ですから、
信長を魔王のように描きたいドラマでは、触れないのが無難です。

ところで・・・
やはり、とてつもなく残り時間が無いのでしょうね。。。

予告を見る限り、来週は、
信玄さんは開始早々お亡くなりになり(参照>>)
公方様が挙兵して(参照>>)
おそらくは斎藤龍興もナレ死であろう刀禰坂(参照>>)
からの、
ユースケ・アサクラが去り(参照>>)
浅井長政も去り(参照>>)
公方様が滞在する若江城(参照>>)はやってくれるのか?

さすがに染谷信長の「蘭奢待の削り取り」の一件は、
サブタイトルにもなってるので、くわしくやってくれそう(参照>>)
やけど、

その間には、
家康クンが長篠城奪う(参照>>)し、
長島一向一揆(参照>>)もあるし、
越前でも一向一揆(参照>>)あるし、

天正二年(1574年)2月5日には、
信玄の後を継いだ武田勝頼明智城を落とします(参照>>)
いくら時間がなくても、
主人公がもといた城(というドラマでの設定)の話をスルーできない気が…

また、
生涯のライバルである秀吉の長浜城入り(参照>>)も、ナレーションスルーなんでしょうね。。。
(↑時間がないので仕方ない)

ただ、ユースケ・アサクラをまるッと裏切る朝倉景鏡さんの予告での表情↓には期待大!

37kirinkageakira

このシーン、絶対見たい!ww

さぁ、あと、残すは8回・・・
麒麟がくるまで突き進め!

*逃げた鳥は、また、最終回に公方様のもとに戻って来るんだろうなぁ。。。独り言
 .

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2020年12月 9日 (水)

十市氏の内紛~松永久秀と筒井順慶の狭間で…

 

永禄十二年(1569年)12月9日、筒井順慶配下&興福寺衆500名が十市城に入って来たため、松永久秀派の河合清長以下6名が城を出て今井に移りました。

・・・・・・・

管領(かんれい=室町幕府下での将軍補佐)家の畠山(はたけやま)の重臣で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)だった木沢長政(きざわながまさ)大和(やまと=奈良県)に侵攻して来た天文年間(1532年~1555年)頃に(7月17日参照>>)、その木沢長政に味方する義弟の筒井順昭(つついじゅんしょう=順慶の父)と袂を分かって抵抗した十市遠忠(とおちとおただ=奥さんが順昭の姉)は、木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗れて討死した(3月17日参照>>)事に乗じて勢力を拡大し、一介の土豪(どごう=一部地域の小豪族)に過ぎなかった十市(とおち)を与力衆を持つ大名クラスに押し上げた事で十市氏中興の祖と呼ばれます。

この頃に彼が構築した十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)は、同時代の大和において各段に優れた平城だったとされますが、その遠忠亡き後に後を継いだ嫡男の十市遠勝(とおかつ)の時に、未だ若年の弱さを突かれて筒井氏の侵攻を許し吉野(よしの=奈良県南部)へと落ちるハメに・・・

そんなこんなの永禄二年(1559年)、今度は、三好長慶の重臣の松永久秀(まつながひさひで)大和の平定に乗り出します。(7月24日参照>>)

この松永久秀の侵攻に対して、十市遠勝は畠山高政(はたけやまたかまさ=管領畠山政長の孫)らとともに抵抗しますが、力及ばず・・・やむなく、娘のおなへ(御料)と重臣の息子を人質として差し出して松永久秀に降伏し、何とか十市氏の旧領を回復します。

しかし永禄十年(1567年)、松永久秀が、主家の三好を引き継ぐ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=長慶亡き後に養子の義継を補佐した3人…三好長逸・三好政康・石成友通)と対立して東大寺で戦う(10月10日参照>>)と、遠勝が、今度は三好に味方した事から、家中の重臣たちが松永派と三好派に大分裂を起こします。

そんなこんなの永禄十一年(1568年)9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛・・・畿内を牛耳っていた三好三人衆が蹴散らされる一方で、すかさず信長に謁見した松永久秀は信長から「大和は切り取り次第(久秀が自身で勝ち取った地は治めて良い)」のお墨付きを獲得するのです(9月7日参照>>)

三好が信長に蹴散らされたため、十市家内の三好派は、先の東大寺大仏殿の戦いの時に三好と連合を組んでいた筒井順慶派へと移行して、ここからは「松永派VS筒井派」となるのですが、そんな永禄十二年(1569年)の10月、当主の遠勝が病死してしまいます。

とは言え、当然の事ながら、当主が死んだとて家内の分裂は残ったまま・・・

なんせ、先に書いた通り、一旦は人質を差し出して松永久秀に下ったわけですから、それを重んじて松永を推す者と、今や十市氏の本拠である大和の国のほとんどを支配下に治めた筒井順慶を頼った方が良いとする者・・・どちらにも言い分があるわけで。。。

そんな中、ますます久秀との関係を濃密に…と考えた親松永派のおなへ&河合清長(かわいきよなが=十市の重臣)らは、松永久秀配下の竹下(たけした)を通じて、久秀に十市城を明け渡す誓約を結んだのです。

しかし、これを知った親筒井派の十市遠長(とおなが=遠勝の弟)は、すかさず順慶に連絡・・・

かくして永禄十二年(1569年)12月9日、筒井順慶配下の者が縁のある興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の衆徒を含む約500名で以って十市城に入城して来たため、身の危険を感じた河合清長以下6名の重臣は、遠勝未亡人とおなへを奉じて城を退去し、今井(いまい=橿原市今井町)にある河合清長の屋敷へと逃れました。

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今井町に残る河合清長の屋敷(現在の今西家住宅)

このため、十市城の主権は筒井派が握る事になり、当時は本拠の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を松永久秀に奪われたままになっていた順慶にとっては再起を図る絶好の拠点ができた事になります。

もちろん、順慶を警戒する久秀は、先の「城の明け渡し」誓約を盾にして城に籠る筒井派に開城を要求しますが、当然、応じるはずも無く・・・逆に、久秀の執拗な開城要求に徹底抗戦を決意した順慶は、翌元亀元年(1570年)の7月27日、自らが手勢を率いて十市城に入城しています。

結局、このまましばらくは、信長の後ろ盾を得ている松永久秀と、大和の有力国人を手中に収めている筒井順慶の両者が相対するのと同様に、十市家内の対立も続く事になるのですが、ご存知のように、この間の信長は勢いは増していくばかり・・・

徐々に、信長の勢いに押されて、大和の国人たちの中にも、信長になびく=信長を後ろ盾にする松永久秀に傾く者も出てくるわけで・・・

そんな中、元亀元年(1570年)に、あの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市)の退き口(4月)から態勢立て直しの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月)(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)で、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)にダメージを与えた信長が、敵対する三好三人衆と戦う野田福島の戦い(8月26日参照>>)に、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗の総本山)顕如(けんにょ)が参戦し(9月14日参照>>)、さらに甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)対信長戦に参戦し始めた事で、信長はなかなかのピンチ・・・

おそらく織田からの松永への援軍は望めないだろう状況下に久秀は信長に反旗をひるがえし、石山本願寺と結んだ元亀二年(1571年)8月に、筒井順慶の辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を攻撃しますが、ここでは手痛い敗北を喰らってしまいます(8月4日…内容カブッてますがお許しを>>)

戦いに勝った順慶は、この時に勝ち取った首級のうち240を信長のもとに献上して、自らの存在を信長にアピールし、その勢いのまま、筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取ります(11月26日参照>>)

一方、久秀は、天正元年(1573年)12月に織田勢に攻められた多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町 )を開城し(12月26日参照>>)信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)へと退去して信長に降伏します

てな事で、十市城は相変わらず筒井派の面々が占拠するものの、上記の通り、松永久秀も筒井順慶も織田の傘下に納まった事で、十市氏の家中の分裂は続くものの、表面的には穏やかな時間が過ぎ、事実上、大和の地は織田信長の間接支配の地となった事で、天正三年(1575年)の3月には、信長は東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)正倉院蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来ています(3月28日参照>>)

そんな信長の蘭奢待見物から4ヶ月後の7月には、十市氏の松永派の中心人物とも言える娘=おなへが、久秀の嫡男=松永久通(ひさみち)と結婚・・・これをキカッケに、翌・天正四年(1576年)3月5日松永久通が実力行使に出ます

そう、筒井派に占領されっぱなしの十市城を攻めたのです。

両者の激しい戦いが数日間に渡って繰り広げられ、どちらにも多くの死傷者が出ましたが、ついに3月25日、十市城勢は、その討死者の多さに合戦の継続が難しくなったとみえ、やむなく開城したのでした。

こうして勝利した松永久通でしたが、そこに、早くも織田信長が介入・・・開城の翌日に検分にやって来た塙直政(ばんなおまさ=原田直政:信長から大和守護を任されている家臣)によって十市城は接収され、久通は占領していた森屋城(もりやじょう=奈良県磯城郡田原本町)を開け渡すよう命じられ、その森屋城に、今回、十市城に籠って戦っていた十市遠長らの面々が入る事になり、十市の内紛は、一応の解決となります。

んん??
命懸けの激戦だったワリには、何だか、無かった事にされてるような不思議な結末??

そうです。
よくよく考えれば、この時点では、すでに松永も筒井も織田の傘下・・・
久通の十市城攻めは、信長の預かり知らぬ所で勝手にやっちゃった、まさに内紛なわけで、本来なら怒られちゃう事なんですが、

この頃の信長は石山本願寺との合戦に忙しく、その合戦には久通父の松永久秀も出陣して頑張ってた事で、どうやら信長としては、大ごとにせず、なるべく穏便に終了させたかったようです。

こうして、一旦は収まった十市氏の内紛ですが、ご存知のように、この翌年の天正五年(1577年)10月に、またまた信長に反旗をひるがえした松永久秀が信貴山城にて自刃(10月3日参照>>)してしまった事で、息子の久通も自刃して、またもや十市の娘=おなへが動き出します。

夫を亡くし、いきなり実家に戻って来たおなへが、十市氏嫡流を主張し、布施氏(ふせし=奈良県葛城市周辺の国衆)から婿養子を取って、夫となった彼を十市藤政(ふじまさ)と名乗らせて十市氏の家督を継いだのです。

納得がいかない遠長らと、またもやのお家騒動となりますが、松永亡き今、元松永派も筒井の傘下なら、遠長ら筒井派も、当然、筒井の傘下・・・まして、その上には信長がいるわけで・・・

両者に個人的な確執はあるものの、表立って合戦に至るなんて事はできないわけで・・・

結局、こうして十市氏の内紛は幕を閉じる事になります。

当事者から見れば、まだまだ、言いたい事もあるだろうし、秘めた思いもあるだろうし、収まりがつかない事もあるかも知れませんが、
今年ハヤリの
「大きな国を作る」
「平和をもたらす」
という事は、こういう事なのかも知れません。

ちょうどこの頃は、信長は、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を築城した頃(2月23日参照>>)・・・もはや、天下も見えて来た感じ??

おそらく、これが未だ戦国真っただ中の頃なら、両者の戦いに関与する者がいても、仲介する者はおらず、どちらかが倒れるまで長々と戦いを繰り返していたのかも知れませんが、やはり「時代が変った」という事なのでしょうね。

今回の場合は、まさに時代を変えたのは信長さん・・・

とは言え、その信長さんも、この5年後に本能寺に倒れ(6月2日参照>>)、今しばらく戦国は続く事になりますが。。。
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2020年12月 7日 (月)

俳優さんたちの演技がスゴかった大河ドラマ『麒麟がくる』第35回「義昭、まよいの中で」の感想

サブタイトル通り、滝藤公方様が主役だった大河ドラマ『麒麟がくる』第35回「義昭、まよいの中で」の感想です。

いやぁ、今回はなかなかの神回でしたね。。。

「危ない」
と言われているのに、たった一人で突き進んで行く所や、
あんだけの人数の武装した侍に襲われながらも、紙一重でかわしつつ(足ケガしてたけど)滝藤公方様のもとに走っていく所なんか、往年の893映画や、絶対死なない完全無欠の時代劇を見ているようで…

あ、これ↑は、白い目のイケズ発言ではなく、本心から褒めてます。
こういう王道系は、純粋に好みなので…

また、今回は、フラグ立ちまくりの回でもありましたね。

序盤の佐々木蔵之介秀吉の雰囲気は、まさにこの先、主人公の長谷川光秀のライバル(いや敵?)になるであろう怪しい雰囲気を醸しだしていました。

とは言え、
初登場の秀吉ママは、ただのオシャベリなのか?否、ひょっとしたら、話している相手が明智様の妻子とわかっていて、横にいる駒ちゃんが公方様のカノジョだと知っていて…わざと、モメ事の火種となる事を話したのかも(←考え過ぎか?)

なんせ、今回は、あの秀吉ママの話から様々な事が波及し、もし、あの時点で木村奥様や駒麦ちゃんが、光秀さんの幕府での立ち位置を知らされなければ、あの暗殺劇を防ぐ事もできなかったわけですから…

滝藤公方様と駒麦ちゃんは、まるで倦怠期の夫婦のように、
「何をイライラしておる?」
「何でも私のせいにして…」
「何が不満なんだ?」
と…

とても公方様と、一介の戦争孤児薬売りとは思えぬセリフのやり取りではありましたが、演じられるお二人の迫真の演技により、「駒ちゃんに吐露する」という形で、公方様の苦悩が視聴者に語られ、これはこれで良いシーンでした。

(↓架空キャラのおかげで時間短縮ゾーン)
公方様の告白→からの、
駒ちゃんが光秀の危険を知る→からの
尾野伊呂波大夫に頼む→からの
知らされた眞島藤孝が光秀に注意を促す

そして、暗殺隊を振り切って本圀寺の奥の奥ににる公方様のもとへ…

さらに、以前の本圀寺の変のお籠り作戦の違和感へのフラグを回収…なるほど、ここで公方様を説得するために、本来なら最前線で戦って大目立ちだったはずの光秀を、奥の奥で公方様と共に隠れるような演出をされたわけですね?(第28回「新しき幕府」参照>>)

第28回の放送当時は、「せっかくの光秀大活躍の場である本圀寺の変なのに…」とちょっと残念でしたが、今回の同じ本圀寺での説得劇は、45分の放送時間の中でも最もキモなると場面でしたから、はなから、そういう意図がおありであったのなら納得です。

久々の谷原三淵様の颯爽としたご活躍シーンもカッコ良かったですしね。

ただ、ここは本圀寺だったはずなのに、
(信長が道を外れるようなら)この二条城で公方様をお守りします」
て…言ってたような???
ま、この発言そのものが最終回の本能寺へのフラグなんでしょうけど

また、滝藤公方様の
「信長とは、ワシは性が合わぬ」告白には、ちょっと驚き…

しかも、最近ならまだしも、「会うた時から」???
上洛の時とか二条御所建設の時とか、メッチャ喜んでたみたいでしたが、そんな伏線あったかな?
(見逃してるかも)

とは言え、
これまで、幕府内の複数人悪行を一手に引き受け、半沢を彷彿とさせる顔芸で憎たらしさ満載の幕臣を演じてこられた摂津鶴太郎さんのご勇退には「お疲れ様」と…

そして、入れ替わるように玉三郎帝さま関連で登場されたのが、石橋三条西公卿さま…

てか、この方がいるなら堺東庵先生と碁を打つシーンいらなかったんじゃ?
とも思いますが、それでも、万葉集を通じて光秀の教養の深さを表現し、かつ、光秀が三条西さまの覚えめでたき人物になる描写も良かったですね。

なんせ、この三条西さまは、将来、眞島藤孝さんへ、その命を助ける事(【田辺城攻防】参照>>)になる「古今伝授」を授ける人ですからね~

アッ、伊呂波大夫の三条西さまを光秀に紹介のくだりは、残り時間が少ない中の時間短縮という事で…納得です。

あと、最後に、
長谷川光秀さんの公家装束の似合わなさには、ホント感心させられました~

おそらく、実際に長谷川さんがお公家さんの役を演じられる時は、シックリバッチリお似合いになるのでしょうが、今回は、ナイショで御所に行くために三条西家のご用人に変装してというテイでの公家装束…ただ、衣装を着て立っているだけで、その取って付けた感が醸しだされているのって、つくづく「俳優さんってスゴイな」と…(もちろん、苦悩の滝藤さん&怪しい佐々木さんの演技もネ)

とにもかくにも、今回は
光秀と秀吉、
光秀と信長様、
光秀と公方様、
公方様と信長様、
と、色々のフラグと伏線回収、そして俳優さんの演技が見事な回でありました。

来週は、いよいよ信玄公が動く???
【一言坂の戦い】>>
【三方ヶ原の戦い】>>
【犀ヶ崖の戦い】>>
【野田城・攻防戦】>>
のあたりかな?

いや、公方様VS信長さんまで行っちゃうのかな?
【義昭が反旗】>>
【上京焼き討ち】>>
【信長の大船建造】>>
【槇島城攻防】>>

いずれにしても、楽しみですね。
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2020年12月 4日 (金)

内助の功で貞女の鑑~山内一豊の妻・見性院

 

元和三年(1617年)12月4日、貞女の鑑として知られる山内一豊の妻=見性院がこの世を去りました。

・・・・・・・

戦国時代を生き抜き、江戸幕府のもとで土佐(とさ=高知県)藩初代藩主となった山内一豊(やまうちかずとよ)の奥さんである見性院(けんしょういん)は、『内助の功』で知られた女性です。

一昔前は、夫を影から支える献身的な姿が「理想の女性像」とされ、その逸話が教科書等に掲載され、戦国の女性としては一二を争う有名人となっています。

その中でも有名な代表的逸話は・・・

・‥…━━━☆

逸話…1ッめ『常山紀談』より

一豊が織田信長(おだのぶなが)に仕えていた頃、安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)下にて馬の市がたち、そこで東国一の駿馬と称される見事な馬を見つけたものの、未だ下っ端の一豊にとってはかなりの高額で、しかたなく諦めて帰って来たところ、

奥さんが、鏡の中に隠していた持参金を差し出して
「そんなに良い馬なら、これで買うてきなはれ」
と・・・

「ヤッター!!」
と、一豊は、一瞬、喜んだものの、一方で
「今まで、メッチャ貧乏して来て喰う物にも困っっとたのに、お前は、こんな大金隠し持ってたんか!」
と、ちょっとご機嫌ナナメ
(NHKのドラマ「一億円のさよなら」みたい…上川さん大河で一豊やってたしww)

すると奥さんは、
「これは、私が嫁に来る時に、父が、『常の事には使わんと、夫の一大事にこそ、お出しなさい』と持たせてくれた物です。
日頃の貧しさは、なんぼでも我慢できます。
今度、馬揃えがあると聞きました。
それだけの良い馬なら、それに乗って見参しなはれ。
天下の見ものとなりましょう」
と・・・

果たして、奥さんの言った通り・・・馬揃えにて、一豊の乗った馬が信長の目にとまり
「山内は長く浪人していたと聞いたが、見事な馬を準備して馬揃えに挑んだ姿勢は武士の誉れ…そんな家臣を持った俺も鼻高々やで!」
と喜び、以後の一豊の出世の足掛かりになったとか・・・

逸話…2ッめ『旧記』より

一豊が近江(おうみ=滋賀県)長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)にいた頃、奥さんが、古い着物の使える部分だけを、細かいはぎれにして集めて縫い合わせ、一つの小袖(着物)に仕上げたのを見て、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大いに感激し、「皆の嫁さんに作り方を教えてあげるように」と勧めた・・・と、

そう、要するに、廃品となるはずの着物をパッチワークでオシャレな別の着物にしたわけですが、その手際も見事で、人々を驚かせたとか・・・

逸話…3ッめ『藩翰諸』より

秀吉亡き後の関ヶ原の戦いの時、上洛要請を拒む会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討伐(4月1日参照>>)すべく、東北へと出陣した豊臣五大老の一人=徳川家康(とくがわいえやす)に従って、ともに出陣していた山内一豊

一方、奥さんは、その留守を大坂屋敷にて守っていたわけですが、その時、家康に敵対して景勝と連携を取る石田三成(いしだみつなり)(7月19日参照>>)は、家康とともに出陣している武将の妻子を大坂城に集めて、言わば人質のように抱え込んだのです。
(この時、大坂城への入城を拒んだ細川忠興の妻ガラシャ(玉)は自害しています)>>

これを知った家康は、会津に向かう途中の小山評定(おやまひょうじょう)にて、この事実を、ともに行軍する皆に知らせて、どちら(家康か?三成か?)に味方するか?を問うわけですが、当然、大坂にいる妻子の様子がわからぬ武将たちには動揺が走ります(7月25日参照>>)

しかし、この時すでに、妻からの詳細な知らせを密かに受け取っていた一豊は慌てず、
「このまま、家康様のお味方ををします!」
1番に声を挙げて、その評定の場の雰囲気を、一気に家康派に傾かせて家康を大いに喜ばせ、その後の土佐藩主就任の糸口となったのだとか・・・

皆が右往左往する中で、彼女だけが冷静に、夫に現状を報告したおかげ・・・てな事です。(実際には他にもいる…黒田の嫁とか真田の嫁とか)

・‥…━━━☆

てな感じで・・・有名ではありますが、どれも後世に書かれた物・・・『常山紀談』と『藩翰諸』は江戸時代で、『旧記』に至っては明治に編さんされた書物です。

もちろん、著者の創作ではなく、ちゃんとした出典のある逸話ではあるものの、あくまで逸話・・・史実かどうかはわかりません。

なので、ここまで有名なエピソードを持ちながらも、見性院さんの本名も、「千代」「まつ」が有力なれど、それは誰かと混同されていて、それ以外の名前の可能性もあり、その生年も、亡くなった時の記録=「元和三年(1617年)12月4日に61歳で亡くなった」から逆算するしかなく、その出自も、近江(滋賀県米原市)美濃(みの=岐阜県南部)郡上八幡(ぐじょうはちまん)など、諸説あります。

つまり、これだけ豊富かつ有名なエピソートを持ちながらも、史実としての彼女は謎だらけ・・・

もちろん、これは彼女に限った事ではありません。

戦国の女性というのは、夫を亡くして若い後継者の後見人のような立場(淀殿とか)になるなど、よほど政治的に重要な立場にならない限り、歴史上の表舞台にな登場しないのです。

それは、逆に考えれば、一豊の妻=見性院さんは、その生涯のほとんどを夫とともに生活し、夫が新しい領地に移れば、自分も同じ場所に行き、(戦国なので平穏無事とはいかないまでも)夫婦仲良く過ごしていた事になります。

そんな中で、夫=一豊は、合戦での武功があまり聞かれない中で浪人から順調に出世し、最後には土佐藩の藩祖となる事から、「そこには、影で夫を支えた賢い奥さんがいたんじゃないか?」てな事から、これらのエピソードが生まれるべくして生まれたのだと思います。
(実際には後方支援などの地味な活躍が多数あったと思いますが…)

ただ、戦前は「貞女の鑑」「夫を支える妻」として、「男尊女卑」のお手本みたいにもてはやされた彼女の逸話ですが、今、改めて読んで見ると、ちょっと違う気がします。

と、いうのも、実は、戦国時代は日本の歴史上、最も女性の権利が高かった時代と言われており、この後の明治~戦前などのように、嫁いだ女性が夫にかしずき、言われるがまま家政婦のように働く存在では無かったのですね。

たとえば、最初の馬買う逸話で登場する「奥さんの持参金」・・・

今だと、金持ちのお嬢様が多額の持参金持って結婚すれば、そのお金は夫婦の物(どっちがどんだけ稼いでいようが二人の物)・・・って感覚になりますが、この時代の持参金=いわゆる化粧料は、その名の如く「奥さんの私物」なのです。

なので、万が一離婚となると、夫は妻に、その持参金全額を持たせて実家に戻さねばならないという事もしばしば。。。

当然、この時の奥さんも、反論して、怪訝がる夫に自分の意見をハッキリ言ってます。

小袖のパッチワークの時も、「貧乏だから…」とコソコソやるのではなく、堂々と「これドヤ!」くらいの勢いで皆に披露するし、関ヶ原の時も、敵情視察的な行動ですばやく夫に内情を知らせています。

つまり、彼女は、夫にかしずき、言われるがままの嫁ではなく、むしろ、自身の意見をしっかり持った独り立ちした女性だったのだと思います。

それが垣間見えるのが、夫=一豊が亡くなった後・・・そう、ここからは逸話ではなく、史実と言われる史料(主に手紙ですが…)に、彼女がチョイチョイ登場して来るのです。

慶長十年(1605年)9月20日、彼女が49歳の時に夫=一豊が亡くなり、彼女は、その約半年後の3月7日に土佐を出て、まずは京都は伏見(ふしみ=京都市伏見区)の山内家の屋敷に入った後、6月13日に新しく建てた京都桑原町の屋敷に移り住んだとの事なのですが、

実はコレ・・・土佐を出て京都に行くことも、さらにそこから引越する事も、回りは全員反対していたのに、ガンと聞く耳持たずの強行突破なんです。

家臣の手紙に・・・
上洛に関しては、
「康豊様が、強くお止めになりましたが、上洛されます」
とあり、
その後の伏見から桑原への引越に関しても、
「侍女までもが何度も御止まりになるよう申し上げましたが、見性院様がお決めになったので、もう何も申し上げられません」
と、もはや諦めムードですよね。

上記の「康豊様」というのは、一豊の弟=山内康豊(やすとよ)の事で、夫亡き今となっては、彼女にとって1番身近で1番頼れる人物だったわけですが、そんな人の言う事もハネのけるくらいのガンコさ・・・

いや、ガンコとかワガママというのではなく、ひょっとしたら、彼女の心の内には、何かしらの譲れない思いがあったのかも知れません。

ご存知の方も多かろうと思いますが、彼女は、天正十三年(1585年)に居城のある長浜一帯を襲った地震によって一豊との間に授かった愛娘=与祢(よね=享年6)を亡くして涙に暮れていた時、たまたま長浜城外で捨てられていた男の子(実は家臣の北村十右衛門の子?)を拾い、我が子のように育てますが、その子が10歳になった頃に、一豊の命により出家させています。

これには文禄四年(1595年)に起こった、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)の切腹事件(7月15日参照>>)が絡んでいるとか・・・この事件に少なからず関わっていた一豊が、
「山内家の血筋でない彼に家督を継がせると後々問題になるのではないか?」
と考えた事に端を発するようで、事実、その後、弟の康豊の息子=山内忠義(ただよし)を養子に迎えて、山内家の後継者としています。

…で、見性院さんが土佐を出て京都に来た頃には、かの捨て子だった坊やが、湘南宗化(しょうなんそうけ)と号して妙心寺(みょうしんじ=京都市右京区花園)塔頭(たっちゅう=大寺院の付属する寺)大通院(だいつういん)2代目住職をやっていたのです。

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山内家の菩提寺=妙心寺大通院

しかも、その頃の湘南宗化は、朝廷から紫衣(しい・しえ=高僧が身に着ける色の衣)を許されるほどの高僧になっていたわけで・・・もちろん、京都に着いた彼女は、すぐさま湘南宗化に会いに行きますが、おそらくは、ただ会うだけではなく、(拾い子とは言え)愛情注いで育てた息子の近くに、彼女はいたかったのでしょう。

ただ、さすがは貞女の鑑・・・理由はそんな個人的な物だけではありません。

一豊死去の半年ほど前の慶長十年(1605年)4月に、後継者=忠義と徳川家康の養女=阿姫(くまひめ=家康の姪・松平定勝の娘)との結婚が成立して徳川家との太いつながりができた事、また、その忠義の後見人に実父の康豊が就任した事・・・

つまり、ここで、山内家の系統(けいとう)が弟=康豊の血筋に移り、しかも、上記の通り、その家系は徳川家と深い関係を構築したわけで。。。

そう、土佐の事&山内家の行く末を彼女が心配する必要がなくなったのです。

いや、残る心配はただ一つ、いかにして、現在の良い状況を維持するか?です。

それには、刻一刻と移り変わるであろう日々の情報を得て、この先の動向を見極めねばなりません。

ひょっとしたら、彼女は京都にて、様々な世間の情報を得ようとしていたのではないでしょうか?

生前の一豊には二人の妹がいましたが、すぐ下の妹が、当時は京都所司代(きょうとしょしだい=京都の治安維持)だった前田玄以(まえだげんい)の家臣の松田政行(まつだまさゆき)と再婚しており、もう一人の妹が産んだ男子は、その松田政行の養子になっていて、その妹たちも京都にいたのです。

湘南宗化と言い、二人の妹と言い、その旦那と言い・・・身近な人が、距離的にも身近な場所にいて、しかも、こんなに情報を得やすい関係性は無いわけで・・・

おそらく彼女は、単なるワガママで京都に引っ越したわけではない・・・それが垣間見えるのが、晩年の彼女が出したいくつかの手紙です。

後継者となった養子=忠義に宛てたある手紙では
「常に徳川家への忠誠を示す事を忘れたらアカン」
とカツを入れたり、
高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)さんに、ちゃんと土佐の名物を贈っときや」
と、德川にも、豊臣家にも、気を使うよう指示しています。

また、義弟の康豊への手紙には、
「なんや、伏見の屋敷には、土佐からしょっちゅう飛脚が来てるみたいやけど、私のとこには去年の7月から、ぜんぜん手紙が来てへんねんけど、どないなってんの?」
と、自分の所に情報が入って来ない事に少々ご立腹のご様子・・・

もちろん、隠居の身となった寂しさもあったであろうと思いますが、やはり、情報の集まる京都にて、あちこちに様々なアンテナを張り巡らせていたようにも感じます。

とは言え、
一方で、普段は自身の屋敷にて『古今和歌集』『徒然草』などの古典を読みながら、静かな日々を過ごしていたという彼女・・・元和三年(1617年)12月4日、最愛の息子である湘南宗化に看取られながら、彼女は61歳の生涯を閉じました。

戦国という波乱万丈な世を生きながらも、常に夫とともに生活し、実子を失いながらも、その生まれ代りのような息子に看取られ・・・「山内一豊の妻」なる彼女は、戦国の渦の中でも自らの意思を貫き、強くたくましく生きた女性だったに違いありません。
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