内助の功で貞女の鑑~山内一豊の妻・見性院
元和三年(1617年)12月4日、貞女の鑑として知られる山内一豊の妻=見性院がこの世を去りました。
・・・・・・・
戦国時代を生き抜き、江戸幕府のもとで土佐(とさ=高知県)藩初代藩主となった山内一豊(やまうちかずとよ)の奥さんである見性院(けんしょういん)は、『内助の功』で知られた女性です。
一昔前は、夫を影から支える献身的な姿が「理想の女性像」とされ、その逸話が教科書等に掲載され、戦国の女性としては一二を争う有名人となっています。
その中でも有名な代表的逸話は・・・
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★逸話…1ッめ『常山紀談』より
一豊が織田信長(おだのぶなが)に仕えていた頃、安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)下にて馬の市がたち、そこで東国一の駿馬と称される見事な馬を見つけたものの、未だ下っ端の一豊にとってはかなりの高額で、しかたなく諦めて帰って来たところ、
奥さんが、鏡の中に隠していた持参金を差し出して
「そんなに良い馬なら、これで買うてきなはれ」
と・・・
「ヤッター!!」
と、一豊は、一瞬、喜んだものの、一方で
「今まで、メッチャ貧乏して来て喰う物にも困っっとたのに、お前は、こんな大金隠し持ってたんか!」
と、ちょっとご機嫌ナナメ
(NHKのドラマ「一億円のさよなら」みたい…上川さん大河で一豊やってたしww)
すると奥さんは、
「これは、私が嫁に来る時に、父が、『常の事には使わんと、夫の一大事にこそ、お出しなさい』と持たせてくれた物です。
日頃の貧しさは、なんぼでも我慢できます。
今度、馬揃えがあると聞きました。
それだけの良い馬なら、それに乗って見参しなはれ。
天下の見ものとなりましょう」
と・・・
果たして、奥さんの言った通り・・・馬揃えにて、一豊の乗った馬が信長の目にとまり、
「山内は長く浪人していたと聞いたが、見事な馬を準備して馬揃えに挑んだ姿勢は武士の誉れ…そんな家臣を持った俺も鼻高々やで!」
と喜び、以後の一豊の出世の足掛かりになったとか・・・
★逸話…2ッめ『旧記』より
一豊が近江(おうみ=滋賀県)の長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)にいた頃、奥さんが、古い着物の使える部分だけを、細かいはぎれにして集めて縫い合わせ、一つの小袖(着物)に仕上げたのを見て、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大いに感激し、「皆の嫁さんに作り方を教えてあげるように」と勧めた・・・と、
そう、要するに、廃品となるはずの着物をパッチワークでオシャレな別の着物にしたわけですが、その手際も見事で、人々を驚かせたとか・・・
★逸話…3ッめ『藩翰諸』より
秀吉亡き後の関ヶ原の戦いの時、上洛要請を拒む会津(あいづ=福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討伐(4月1日参照>>)すべく、東北へと出陣した豊臣五大老の一人=徳川家康(とくがわいえやす)に従って、ともに出陣していた山内一豊。
一方、奥さんは、その留守を大坂屋敷にて守っていたわけですが、その時、家康に敵対して景勝と連携を取る石田三成(いしだみつなり)(7月19日参照>>)は、家康とともに出陣している武将の妻子を大坂城に集めて、言わば人質のように抱え込んだのです。
(この時、大坂城への入城を拒んだ細川忠興の妻=ガラシャ(玉)は自害しています)>>
これを知った家康は、会津に向かう途中の小山評定(おやまひょうじょう)にて、この事実を、ともに行軍する皆に知らせて、どちら(家康か?三成か?)に味方するか?を問うわけですが、当然、大坂にいる妻子の様子がわからぬ武将たちには動揺が走ります(7月25日参照>>)。
しかし、この時すでに、妻からの詳細な知らせを密かに受け取っていた一豊は慌てず、
「このまま、家康様のお味方ををします!」
と1番に声を挙げて、その評定の場の雰囲気を、一気に家康派に傾かせて家康を大いに喜ばせ、その後の土佐藩主就任の糸口となったのだとか・・・
皆が右往左往する中で、彼女だけが冷静に、夫に現状を報告したおかげ・・・てな事です。(実際には他にもいる…黒田の嫁とか真田の嫁とか)
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てな感じで・・・有名ではありますが、どれも後世に書かれた物・・・『常山紀談』と『藩翰諸』は江戸時代で、『旧記』に至っては明治に編さんされた書物です。
もちろん、著者の創作ではなく、ちゃんとした出典のある逸話ではあるものの、あくまで逸話・・・史実かどうかはわかりません。
なので、ここまで有名なエピソードを持ちながらも、見性院さんの本名も、「千代」か「まつ」が有力なれど、それは誰かと混同されていて、それ以外の名前の可能性もあり、その生年も、亡くなった時の記録=「元和三年(1617年)12月4日に61歳で亡くなった」から逆算するしかなく、その出自も、近江(滋賀県米原市)や美濃(みの=岐阜県南部)の郡上八幡(ぐじょうはちまん)など、諸説あります。
つまり、これだけ豊富かつ有名なエピソートを持ちながらも、史実としての彼女は謎だらけ・・・
もちろん、これは彼女に限った事ではありません。
戦国の女性というのは、夫を亡くして若い後継者の後見人のような立場(淀殿とか)になるなど、よほど政治的に重要な立場にならない限り、歴史上の表舞台にな登場しないのです。
それは、逆に考えれば、一豊の妻=見性院さんは、その生涯のほとんどを夫とともに生活し、夫が新しい領地に移れば、自分も同じ場所に行き、(戦国なので平穏無事とはいかないまでも)夫婦仲良く過ごしていた事になります。
そんな中で、夫=一豊は、合戦での武功があまり聞かれない中で浪人から順調に出世し、最後には土佐藩の藩祖となる事から、「そこには、影で夫を支えた賢い奥さんがいたんじゃないか?」てな事から、これらのエピソードが生まれるべくして生まれたのだと思います。
(実際には後方支援などの地味な活躍が多数あったと思いますが…)
ただ、戦前は「貞女の鑑」「夫を支える妻」として、「男尊女卑」のお手本みたいにもてはやされた彼女の逸話ですが、今、改めて読んで見ると、ちょっと違う気がします。
と、いうのも、実は、戦国時代は日本の歴史上、最も女性の権利が高かった時代と言われており、この後の明治~戦前などのように、嫁いだ女性が夫にかしずき、言われるがまま家政婦のように働く存在では無かったのですね。
たとえば、最初の馬買う逸話で登場する「奥さんの持参金」・・・
今だと、金持ちのお嬢様が多額の持参金持って結婚すれば、そのお金は夫婦の物(どっちがどんだけ稼いでいようが二人の物)・・・って感覚になりますが、この時代の持参金=いわゆる化粧料は、その名の如く「奥さんの私物」なのです。
なので、万が一離婚となると、夫は妻に、その持参金全額を持たせて実家に戻さねばならないという事もしばしば。。。
当然、この時の奥さんも、反論して、怪訝がる夫に自分の意見をハッキリ言ってます。
小袖のパッチワークの時も、「貧乏だから…」とコソコソやるのではなく、堂々と「これドヤ!」くらいの勢いで皆に披露するし、関ヶ原の時も、敵情視察的な行動ですばやく夫に内情を知らせています。
つまり、彼女は、夫にかしずき、言われるがままの嫁ではなく、むしろ、自身の意見をしっかり持った独り立ちした女性だったのだと思います。
それが垣間見えるのが、夫=一豊が亡くなった後・・・そう、ここからは逸話ではなく、史実と言われる史料(主に手紙ですが…)に、彼女がチョイチョイ登場して来るのです。
慶長十年(1605年)9月20日、彼女が49歳の時に夫=一豊が亡くなり、彼女は、その約半年後の3月7日に土佐を出て、まずは京都は伏見(ふしみ=京都市伏見区)の山内家の屋敷に入った後、6月13日に新しく建てた京都桑原町の屋敷に移り住んだとの事なのですが、
実はコレ・・・土佐を出て京都に行くことも、さらにそこから引越する事も、回りは全員反対していたのに、ガンと聞く耳持たずの強行突破なんです。
家臣の手紙に・・・
上洛に関しては、
「康豊様が、強くお止めになりましたが、上洛されます」
とあり、
その後の伏見から桑原への引越に関しても、
「侍女までもが何度も御止まりになるよう申し上げましたが、見性院様がお決めになったので、もう何も申し上げられません」
と、もはや諦めムードですよね。
上記の「康豊様」というのは、一豊の弟=山内康豊(やすとよ)の事で、夫亡き今となっては、彼女にとって1番身近で1番頼れる人物だったわけですが、そんな人の言う事もハネのけるくらいのガンコさ・・・
いや、ガンコとかワガママというのではなく、ひょっとしたら、彼女の心の内には、何かしらの譲れない思いがあったのかも知れません。
ご存知の方も多かろうと思いますが、彼女は、天正十三年(1585年)に居城のある長浜一帯を襲った地震によって一豊との間に授かった愛娘=与祢(よね=享年6)を亡くして涙に暮れていた時、たまたま長浜城外で捨てられていた男の子(実は家臣の北村十右衛門の子?)を拾い、我が子のように育てますが、その子が10歳になった頃に、一豊の命により出家させています。
これには文禄四年(1595年)に起こった、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)の切腹事件(7月15日参照>>)が絡んでいるとか・・・この事件に少なからず関わっていた一豊が、
「山内家の血筋でない彼に家督を継がせると後々問題になるのではないか?」
と考えた事に端を発するようで、事実、その後、弟の康豊の息子=山内忠義(ただよし)を養子に迎えて、山内家の後継者としています。
…で、見性院さんが土佐を出て京都に来た頃には、かの捨て子だった坊やが、湘南宗化(しょうなんそうけ)と号して妙心寺(みょうしんじ=京都市右京区花園)の塔頭(たっちゅう=大寺院の付属する寺)の大通院(だいつういん)の2代目住職をやっていたのです。
しかも、その頃の湘南宗化は、朝廷から紫衣(しい・しえ=高僧が身に着ける色の衣)を許されるほどの高僧になっていたわけで・・・もちろん、京都に着いた彼女は、すぐさま湘南宗化に会いに行きますが、おそらくは、ただ会うだけではなく、(拾い子とは言え)愛情注いで育てた息子の近くに、彼女はいたかったのでしょう。
ただ、さすがは貞女の鑑・・・理由はそんな個人的な物だけではありません。
一豊死去の半年ほど前の慶長十年(1605年)4月に、後継者=忠義と徳川家康の養女=阿姫(くまひめ=家康の姪・松平定勝の娘)との結婚が成立して徳川家との太いつながりができた事、また、その忠義の後見人に実父の康豊が就任した事・・・
つまり、ここで、山内家の系統(けいとう)が弟=康豊の血筋に移り、しかも、上記の通り、その家系は徳川家と深い関係を構築したわけで。。。
そう、土佐の事&山内家の行く末を彼女が心配する必要がなくなったのです。
いや、残る心配はただ一つ、いかにして、現在の良い状況を維持するか?です。
それには、刻一刻と移り変わるであろう日々の情報を得て、この先の動向を見極めねばなりません。
ひょっとしたら、彼女は京都にて、様々な世間の情報を得ようとしていたのではないでしょうか?
生前の一豊には二人の妹がいましたが、すぐ下の妹が、当時は京都所司代(きょうとしょしだい=京都の治安維持)だった前田玄以(まえだげんい)の家臣の松田政行(まつだまさゆき)と再婚しており、もう一人の妹が産んだ男子は、その松田政行の養子になっていて、その妹たちも京都にいたのです。
湘南宗化と言い、二人の妹と言い、その旦那と言い・・・身近な人が、距離的にも身近な場所にいて、しかも、こんなに情報を得やすい関係性は無いわけで・・・
おそらく彼女は、単なるワガママで京都に引っ越したわけではない・・・それが垣間見えるのが、晩年の彼女が出したいくつかの手紙です。
後継者となった養子=忠義に宛てたある手紙では
「常に徳川家への忠誠を示す事を忘れたらアカン」
とカツを入れたり、
「高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)さんに、ちゃんと土佐の名物を贈っときや」
と、德川にも、豊臣家にも、気を使うよう指示しています。
また、義弟の康豊への手紙には、
「なんや、伏見の屋敷には、土佐からしょっちゅう飛脚が来てるみたいやけど、私のとこには去年の7月から、ぜんぜん手紙が来てへんねんけど、どないなってんの?」
と、自分の所に情報が入って来ない事に少々ご立腹のご様子・・・
もちろん、隠居の身となった寂しさもあったであろうと思いますが、やはり、情報の集まる京都にて、あちこちに様々なアンテナを張り巡らせていたようにも感じます。
とは言え、
一方で、普段は自身の屋敷にて『古今和歌集』『徒然草』などの古典を読みながら、静かな日々を過ごしていたという彼女・・・元和三年(1617年)12月4日、最愛の息子である湘南宗化に看取られながら、彼女は61歳の生涯を閉じました。
戦国という波乱万丈な世を生きながらも、常に夫とともに生活し、実子を失いながらも、その生まれ代りのような息子に看取られ・・・「山内一豊の妻」なる彼女は、戦国の渦の中でも自らの意思を貫き、強くたくましく生きた女性だったに違いありません。
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コメント
功名が辻。懐かしいですね。
大判十枚を「へそくり」にしていた逸話は放送前に聞きました。番組では平たい大判ではなく金の延べ板のように見えました。
最終回近くに出ていた湘南宗化役だったのが、三浦春馬くんで功名が辻の2年後に「ごくせん」で仲間さんと再共演しています。
ただ、その三浦春馬くんが、もうこの世にいないというのは残念です。
投稿: えびすこ | 2020年12月 6日 (日) 13時20分
えびすこさん、こんばんは~
功名が辻での名前は千代さんでしたね。
大河の中で大判では無かったのは、大判は秀吉の天下になってから世に登場するからでは無いでしょうか?
未だ発見されたないだけかも知れませんが、一応、大判の初出は天正年間だと思います。
個人的には、大河に代表されるNHKの歴史ドラマのそういうところが好きです。
投稿: 茶々 | 2020年12月 7日 (月) 03時37分