十市氏の内紛~松永久秀と筒井順慶の狭間で…
永禄十二年(1569年)12月9日、筒井順慶配下&興福寺衆500名が十市城に入って来たため、松永久秀派の河合清長以下6名が城を出て今井に移りました。
・・・・・・・
管領(かんれい=室町幕府下での将軍補佐)家の畠山(はたけやま)氏の重臣で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)だった木沢長政(きざわながまさ)が大和(やまと=奈良県)に侵攻して来た天文年間(1532年~1555年)頃に(7月17日参照>>)、その木沢長政に味方する義弟の筒井順昭(つついじゅんしょう=順慶の父)と袂を分かって抵抗した十市遠忠(とおちとおただ=奥さんが順昭の姉)は、木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗れて討死した(3月17日参照>>)事に乗じて勢力を拡大し、一介の土豪(どごう=一部地域の小豪族)に過ぎなかった十市(とおち)氏を与力衆を持つ大名クラスに押し上げた事で十市氏中興の祖と呼ばれます。
この頃に彼が構築した十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)は、同時代の大和において各段に優れた平城だったとされますが、その遠忠亡き後に後を継いだ嫡男の十市遠勝(とおかつ)の時に、未だ若年の弱さを突かれて筒井氏の侵攻を許し、吉野(よしの=奈良県南部)へと落ちるハメに・・・
そんなこんなの永禄二年(1559年)、今度は、三好長慶の重臣の松永久秀(まつながひさひで)が大和の平定に乗り出します。(7月24日参照>>)
この松永久秀の侵攻に対して、十市遠勝は畠山高政(はたけやまたかまさ=管領畠山政長の孫)らとともに抵抗しますが、力及ばず・・・やむなく、娘のおなへ(御料)と重臣の息子を人質として差し出して松永久秀に降伏し、何とか十市氏の旧領を回復します。
しかし永禄十年(1567年)、松永久秀が、主家の三好を引き継ぐ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=長慶亡き後に養子の義継を補佐した3人…三好長逸・三好政康・石成友通)と対立して東大寺で戦う(10月10日参照>>)と、遠勝が、今度は三好に味方した事から、家中の重臣たちが松永派と三好派に大分裂を起こします。
そんなこんなの永禄十一年(1568年)9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛・・・畿内を牛耳っていた三好三人衆が蹴散らされる一方で、すかさず信長に謁見した松永久秀は信長から「大和は切り取り次第(久秀が自身で勝ち取った地は治めて良い)」のお墨付きを獲得するのです(9月7日参照>>)。
三好が信長に蹴散らされたため、十市家内の三好派は、先の東大寺大仏殿の戦いの時に三好と連合を組んでいた筒井順慶派へと移行して、ここからは「松永派VS筒井派」となるのですが、そんな永禄十二年(1569年)の10月、当主の遠勝が病死してしまいます。
とは言え、当然の事ながら、当主が死んだとて家内の分裂は残ったまま・・・
なんせ、先に書いた通り、一旦は人質を差し出して松永久秀に下ったわけですから、それを重んじて松永を推す者と、今や十市氏の本拠である大和の国のほとんどを支配下に治めた筒井順慶を頼った方が良いとする者・・・どちらにも言い分があるわけで。。。
そんな中、ますます久秀との関係を濃密に…と考えた親松永派のおなへ&河合清長(かわいきよなが=十市の重臣)らは、松永久秀配下の竹下(たけした)某を通じて、久秀に十市城を明け渡す誓約を結んだのです。
しかし、これを知った親筒井派の十市遠長(とおなが=遠勝の弟)は、すかさず順慶に連絡・・・
かくして永禄十二年(1569年)12月9日、筒井順慶配下の者が縁のある興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の衆徒を含む約500名で以って十市城に入城して来たため、身の危険を感じた河合清長以下6名の重臣は、遠勝未亡人とおなへを奉じて城を退去し、今井(いまい=橿原市今井町)にある河合清長の屋敷へと逃れました。
このため、十市城の主権は筒井派が握る事になり、当時は本拠の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を松永久秀に奪われたままになっていた順慶にとっては再起を図る絶好の拠点ができた事になります。
もちろん、順慶を警戒する久秀は、先の「城の明け渡し」誓約を盾にして城に籠る筒井派に開城を要求しますが、当然、応じるはずも無く・・・逆に、久秀の執拗な開城要求に徹底抗戦を決意した順慶は、翌元亀元年(1570年)の7月27日、自らが手勢を率いて十市城に入城しています。
結局、このまましばらくは、信長の後ろ盾を得ている松永久秀と、大和の有力国人を手中に収めている筒井順慶の両者が相対するのと同様に、十市家内の対立も続く事になるのですが、ご存知のように、この間の信長は勢いは増していくばかり・・・
徐々に、信長の勢いに押されて、大和の国人たちの中にも、信長になびく=信長を後ろ盾にする松永久秀に傾く者も出てくるわけで・・・
そんな中、元亀元年(1570年)に、あの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市)の退き口(4月)から態勢立て直しの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月)(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)で、越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉(あさくら)と北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井(あざい)にダメージを与えた信長が、敵対する三好三人衆と戦う野田福島の戦い(8月26日参照>>)に、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗の総本山)の顕如(けんにょ)が参戦し(9月14日参照>>)、さらに甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)も対信長戦に参戦し始めた事で、信長はなかなかのピンチ・・・
おそらく織田からの松永への援軍は望めないだろう状況下に久秀は信長に反旗をひるがえし、石山本願寺と結んだ元亀二年(1571年)8月に、筒井順慶の辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を攻撃しますが、ここでは手痛い敗北を喰らってしまいます(8月4日…内容カブッてますがお許しを>>)。
戦いに勝った順慶は、この時に勝ち取った首級のうち240を信長のもとに献上して、自らの存在を信長にアピールし、その勢いのまま、筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取ります(11月26日参照>>)。
一方、久秀は、天正元年(1573年)12月に織田勢に攻められた多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町 )を開城し(12月26日参照>>)、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)へと退去して信長に降伏します。
てな事で、十市城は相変わらず筒井派の面々が占拠するものの、上記の通り、松永久秀も筒井順慶も織田の傘下に納まった事で、十市氏の家中の分裂は続くものの、表面的には穏やかな時間が過ぎ、事実上、大和の地は織田信長の間接支配の地となった事で、天正三年(1575年)の3月には、信長は東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来ています(3月28日参照>>)。
そんな信長の蘭奢待見物から4ヶ月後の7月には、十市氏の松永派の中心人物とも言える娘=おなへが、久秀の嫡男=松永久通(ひさみち)と結婚・・・これをキカッケに、翌・天正四年(1576年)3月5日、松永久通が実力行使に出ます。
そう、筒井派に占領されっぱなしの十市城を攻めたのです。
両者の激しい戦いが数日間に渡って繰り広げられ、どちらにも多くの死傷者が出ましたが、ついに3月25日、十市城勢は、その討死者の多さに合戦の継続が難しくなったとみえ、やむなく開城したのでした。
こうして勝利した松永久通でしたが、そこに、早くも織田信長が介入・・・開城の翌日に検分にやって来た塙直政(ばんなおまさ=原田直政:信長から大和守護を任されている家臣)によって十市城は接収され、久通は占領していた森屋城(もりやじょう=奈良県磯城郡田原本町)を開け渡すよう命じられ、その森屋城に、今回、十市城に籠って戦っていた十市遠長らの面々が入る事になり、十市の内紛は、一応の解決となります。
んん??
命懸けの激戦だったワリには、何だか、無かった事にされてるような不思議な結末??
そうです。
よくよく考えれば、この時点では、すでに松永も筒井も織田の傘下・・・
久通の十市城攻めは、信長の預かり知らぬ所で勝手にやっちゃった、まさに内紛なわけで、本来なら怒られちゃう事なんですが、
この頃の信長は石山本願寺との合戦に忙しく、その合戦には久通父の松永久秀も出陣して頑張ってた事で、どうやら信長としては、大ごとにせず、なるべく穏便に終了させたかったようです。
こうして、一旦は収まった十市氏の内紛ですが、ご存知のように、この翌年の天正五年(1577年)10月に、またまた信長に反旗をひるがえした松永久秀が信貴山城にて自刃(10月3日参照>>)してしまった事で、息子の久通も自刃して、またもや十市の娘=おなへが動き出します。
夫を亡くし、いきなり実家に戻って来たおなへが、十市氏嫡流を主張し、布施氏(ふせし=奈良県葛城市周辺の国衆)から婿養子を取って、夫となった彼を十市藤政(ふじまさ)と名乗らせて十市氏の家督を継いだのです。
納得がいかない遠長らと、またもやのお家騒動となりますが、松永亡き今、元松永派も筒井の傘下なら、遠長ら筒井派も、当然、筒井の傘下・・・まして、その上には信長がいるわけで・・・
両者に個人的な確執はあるものの、表立って合戦に至るなんて事はできないわけで・・・
結局、こうして十市氏の内紛は幕を閉じる事になります。
当事者から見れば、まだまだ、言いたい事もあるだろうし、秘めた思いもあるだろうし、収まりがつかない事もあるかも知れませんが、
今年ハヤリの
「大きな国を作る」
「平和をもたらす」
という事は、こういう事なのかも知れません。
ちょうどこの頃は、信長は、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を築城した頃(2月23日参照>>)・・・もはや、天下も見えて来た感じ??
おそらく、これが未だ戦国真っただ中の頃なら、両者の戦いに関与する者がいても、仲介する者はおらず、どちらかが倒れるまで長々と戦いを繰り返していたのかも知れませんが、やはり「時代が変った」という事なのでしょうね。
今回の場合は、まさに時代を変えたのは信長さん・・・
とは言え、その信長さんも、この5年後に本能寺に倒れ(6月2日参照>>)、今しばらく戦国は続く事になりますが。。。
.
« 俳優さんたちの演技がスゴかった大河ドラマ『麒麟がくる』第35回「義昭、まよいの中で」の感想 | トップページ | 長谷川光秀の泣きシーン(おえつ)~大河ドラマ『麒麟がくる』第36回「訣別(けつべつ)」の感想 »
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 足利義昭からの副将軍or管領就任要請を断った織田信長の心中やいかに(2024.10.23)
- 大和平定~織田信長と松永久秀と筒井順慶と…(2024.10.10)
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
コメント