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2020年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2020年総まとめ

 

忘れられない年になった2020年も、いよいよ終わりに近づきました・・・

未だ禍中の今日ではありますが、ここは一応、歴史ブログ・・・今年も様々な新発見や発掘があったわけで・・・

とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 兵庫県神戸市西区にある弥生時代から鎌倉時代の集落遺跡=玉津田中遺跡から縄文時代の道具が見つかりました。
発掘されたのは弥生時代に使われていた土器と縄文時代の祭りに使われていたとされる人の顔を描いた土偶と石棒でどちらもおよそ2300年前の弥生時代前期の地層から見つかりました。
同じ年代の地層から弥生時代のものと縄文時代のものが発掘されるのは珍しいということです。
  愛媛県松山市下難波下難波腰折(こしおれ)遺跡から6世紀中ごろ~7世紀前半の古墳4基が見つかりました。
このうちの1基から木炭を敷き詰めた「木炭床」と呼ばれる施設を確認したという事で、全国的にも珍しい貴重な発見との事。
2月 京都市上京区京都府庁内の発掘調査で室町時代後期(戦国時代)に築かれた大規模な堀跡が見つかりました。
この堀跡は建物を守る防御施設(構=かまえ)の一部とみられ、最大3本が併存した可能性もあり、戦国期には社寺も民家も自力で守らねばならぬ緊迫した京の情勢を物語っています。
今回の堀は出土した遺物から応仁の乱(参照>>)後に築かれ、法華宗と延暦寺が衝突した天文法華の乱(参照>>)の終息に伴い埋められたとみられるそうです。
3月 戦国時代の下克上を代表する武将、松永久秀(まつながひさひで)(参照>>)を描いたとみられる江戸時代の肖像画が見つかりました。
大阪府高槻市市立しろあと歴史館によれば、これまで久秀の肖像画は、裏切りを繰り返すなどの悪人イメージで描かれた複数の浮世絵しかなかった中、貴重な資料として注目されるとの事。
  滋賀県草津市南笠町黒土(くろつち)遺跡国内最古級(7世紀末~8世紀初頭)の鉄製品鋳造施設跡が見つかりました。
これまでで最大となる口径1m以上の大型鍋釜が製造されていたことも分かり、近隣に、同時代の鋳造工房跡が出た榊差(さかきざし)遺跡(同市野路町)や製鉄施設の遺構も多い事から、「周辺が国家主導で整備された鉄製品の一大生産拠点だった可能性がある」との事。
  滋賀県長浜市は、地元ゆかりの江戸時代の科学技術者、国友一貫斎(いっかんさい)が描いた飛行機の設計図「阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術(おおとりひじゅつ)について、各部位の詳細を記した冊子が見つかったと発表しました。
「一貫斎が実際に飛行機を製作しようと考えていたことが裏付けられた」とみています。
4月 京都市東山区五条坂にある、明治から昭和にかけての京焼(清水焼)の窯「道仙窯」跡の発掘調査で、窯の構造や改修の変遷が分かりました。
窯の規模は時期によって3段階に分かれ、需給に応じて大きくしたり小さくしたりしていたと考えられ、京都の近代産業の一端が明らかになる成果。
  「花の御所」と呼ばれた室町時代の足利家の邸宅「室町殿(むろまちどの)」跡(京都市上京区)で、庭園に使われたとみられる長径3m近い石や、池の一部が見つかりました。
Dscn6369a600 専門家によると、ほかの庭園跡では例のない石の大きさで、将軍家の絶大な権力を示す貴重な資料との事。
滝をイメージした「滝石組」とみられる配置で発見された石は周辺に水が流れていた形跡がないため、枯れ滝だった可能性があると見られます。
5月 京都市上京区相国寺北側の旧境内地で、戦国時代の16世紀中頃にあった礎石建物跡が見つかりました。
大規模な寺院建築とみられるものの、文献には見当たらず、戦火などで同世紀のうちに廃絶したとみられます。
周辺では、建物に先んじた同年代の堀や溝の痕跡もあり、築造と廃絶を短期間に繰り返した乱世の政情不安を反映した遺構とみられています。
  豊臣秀吉が死去する前年の慶長2年(1597年)に築いた「京都新城(しんじょう)の遺構とされる石垣と堀の跡が、京都御苑(京都市)の一角で初めて見つかりました。
新城に関する史料はほとんどなく、どのような建物だったかを示す物証もなかったため、専門家は極めて貴重な発見だとしています。
  江戸時代に作られた国内最大の「木造豊臣秀吉坐像」大阪市旭区大宮神社で見つかりました。
秀吉は1598年の没後、「豊国大明神」として神格化されましたが、徳川幕府下では公に信仰できなかったとされ、その木像は全国でも二十数例しか確認されていません。
今回発見された木像は寄せ木造りで頭部の冠は欠けていますが、像高は81,9cmとこれまでの最大で、「秀吉信仰が大阪でもあったことを文献以外で示す初めての例で、極めて貴重だ」としています。
6月 琵琶湖竹生島にある宝厳寺の「観音堂」など4つの建物は、豊臣秀吉が築いた大坂城から移築された可能性が高いことが、滋賀県の調査でわかりました。
宝厳寺は滋賀県長浜市の竹生島にあり、国宝の「唐門」は、豊臣秀吉が築いた大坂城で本丸と二の丸をつなぐ「極楽橋」と呼ばれた建物の一部を、息子の秀頼が移築したことで知られています。
滋賀県が寺の修繕工事にあわせて、「唐門」の周辺にある4つの建物を調べたところ、構造などからいずれも、大坂城の「極楽橋」から移築された可能性が高いことがわかったということです。
  豊臣秀吉や養子の秀次の言動などを、そばで仕えた武将・駒井重勝が記した「駒井日記」自筆原本の一部が見つかりました。
調査にあたった専門家は「当時の武将の日記の原本が出てくることはほとんどなく、重要文化財クラスの価値がある」と指摘しています。
「駒井日記」は秀吉や秀次の言動などが記されていることから、当時の出来事を知る上で重要な歴史資料ですが、江戸時代の写しが数巻分残されているだけで原本は失われていると考えられていた中、東京大学史料編纂所がその一部とみられる日記をインターネットオークションで購入し、内容などを調べた結果、写しがある部分の自筆の原本そのものと判断されたのです。
  室町幕府の15代将軍足利義昭のため織田信長が築いた旧二条城(二条御所=参照>>(京都市上京区)で、城の最中心部「内郭」を囲ったとみられる堀跡が市の発掘調査で見つかりました。
室町通という幕府が最も重視したメインストリートを横切る異例の形で築かれ、乱世の緊迫を背景にした近世移行期の遺構とみられています。
専門家は「室町期のメインストリートを横断してまで出隅を設けた意図は何か。どのような建物があったのか。近世への移行期の城郭や京都を考える史料になる」としています。
7月 明智光秀本能寺の変(参照>>)織田信長を倒した直後、光秀の重臣・明智秀満(左馬助)船で瀬田川を渡ろうとし、瀬田城主・山岡景隆戦になったと記された文書が、石山寺(大津市)で見つかりました。
明智軍が船戦をしたとされる文書の発見は初めてで、「ほとんど分かっていない光秀、秀満の足跡に関する貴重な資料」との事。
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歌川豊宣の筆による「明智左馬助の湖水渡り」(新撰太閤記)
専門家は、例の秀満の「湖水渡り」の伝説↑(参照>>)「瀬田橋の船戦が脚色されて、伝説になった可能性もあるのでは?」と分析しています。
  織田信長が築いた安土城(近江八幡市)の城跡の北部で、建物を建てたり、兵が戦に使ったりする平たん地(郭=くるわ・曲輪)が4ヶ所、最新のレーザー測量で見つかりました。
北部は発掘調査がこれまで行われておらず、「想像以上に城の遺構が安土山全体に広がっていることが分かり、これまで知られていなかった遺構の発見が期待できる」と考えられます。
  戦国時代から江戸時代にかけて鉄砲(火縄銃)の一大生産地だったで、鉄砲鍛冶と下請け職人が取り交わした納品台帳「通(かよい)」が見つかりました。
堺市に現存する最古の鉄砲生産現場である鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺区)の調査で発見された物で、「鉄砲製造がどのように分業されていたかや、鉄砲鍛冶と下請けとの関係性が分かる貴重な資料。堺のものづくりの原点につながる発見」との事で、これらの記録によって、江戸時代などの鉄砲製造がシステマティックな分業制だったことが裏付けられました。
8月 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)が、1300年以上前の絵画を「発見」しました。
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認したところ、絵は飛鳥時代に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似した描式から日本最古級の絵画とみられます。
  江戸~明治時代に、現在のJR大阪駅北側再開発区域「うめきた」(大阪市北区)にあった「梅田墓(はか)の発掘調査で1500体以上の埋葬人骨が出土しました。
市内でこれほど多くの埋葬跡が一度に見つかるのは初めて
で、全国的にも珍しく、庶民階級の墓とみられ、今後は骨を調べたりして葬送文化や生活環境などを詳しく分析するとの事。
「墓が密集しているのが都市的で、短時間でこれほど大規模に造るのは農村では考えられない」と指摘されています。
  高野山奥之院(和歌山県高野町)「豊臣家墓所」にある石塔11基の一つが、前田利家の四女で豊臣秀吉の養女となった豪姫の五輪塔とみられることが明らかになりました。
豊臣家墓所は奥之院の参道沿いの一角にあり、秀吉の母や弟の秀長の五輪塔など石塔が並んでいますが、今回豪姫の物と判明した五輪塔はこれまで調べられていませんでした。
銘文にある「秀吉公御養立」とは秀吉が養育したという意味で、専門家は「豪姫は自分が秀吉の養女だったと強調している。豊臣家の一員という強い意識を持っていたことが分かる」と解説。
  大津市南志賀南滋賀遺跡で古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)木製のこまが見つかりました。
木製のこまとしては国内最古で、祭祀に使われた可能性があるとの事。
一緒に出土した土器などから古墳時代後期のものと判明し、これまで最古とされていた藤原宮(奈良県橿原市)で見つかった7世紀後半のこまより古いことが分かりました。
こまの付近からは、斎串(いぐし)や桃の種など祭祀に用いられる道具も見つかり、市教委は「こまも祭祀で使われた道具の一つだった可能性があり、祭祀の実態を考える上で貴重な史料だ」としています。
9月 徳川家とゆかりのある酒々井町上本佐倉の浄土宗の寺院「清光寺」にて、昨秋の台風被害で建て替え方針が打ち出されている事で歴史調査をしたところ、江戸幕府との関係性などを示す書状の写しなど多数の古文書が、封じ込めてあったふすまの中から見つかりました。
桶狭間の戦い後、故郷に戻り独立した家康の書状の写しなどもあり、専門家は「中世の史料は相対的に少なく、史料的価値は高い。徳川家、江戸幕府と清光寺の関係解明のきっかけにもなる」と期待…「まさにタイムカプセル」と驚きを隠せない様子だったとの事。
  和歌山市出水に残る堤状の土盛りの発掘調査で、1585年に羽柴(豊臣)秀吉太田城を水攻めした(参照>>)際に築いた堤防である可能性が高い事がわかりました
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総光寺由来太田城水責図=部分(惣光寺蔵)
今回の初めて発掘調査で、土盛りの中からは中世の土器や鉄砲玉が出土。
中世末~江戸時代に築かれた大規模構造物で、専門家は「これまで根拠があいまいだったが、水攻めの堤防である可能性が高まった。太田城の攻防は紀州の中世と近世の転換点。秀吉軍の堤を築いた工法が判明したことは重要だ」と見ています。
  浜松市役所に隣接する旧元城小跡地(同市中区)で進めている浜松城の発掘調査で、本丸北東隅の石垣と本丸東側の堀の一部を確認しました。
本丸を囲む堀跡が見つかるのは初めてで、これまで絵図でしか分からなかった城の中枢部の全容解明に向け、一歩前進…発掘地点では、堀に向けて崩れ落ちたとみられる石垣の一部も見つかりました。
今後は周辺にあった本丸裏門や徳川秀忠が生まれた場所との伝承がある「御誕生場」の遺構の確認も期待できるそうです。
  京都を追われ、鞆の浦に滞在した室町幕府最後の十五代将軍・足利義昭を支援するため、戦国大名・毛利輝元が周防・長門・出雲の寺社に課したとされる労役(鞆夫=ともふ)について記した新史料が見つかりました。
史料は輝元が天正四年(1576年)~天正十年(1582年)ごろ、周防と長門の支配を担当した重臣3人に送った書状で、冒頭に「防長諸郡江鞆夫之事 申付候」とあり、輝元が防長諸郡へ鞆夫を課していたことが記されているそうです。
鞆夫の記述がある史料はこれまで8点しか確認されておらず、詳しい解明が進んでいない中、専門家は「労役に鞆の地名を冠している点が興味深く、郡単位で徴発されたことがわかる点も貴重だ」とコメントしています。
10月 奈良市「子どもセンター(仮称)の建設予定地となっている平城京域の柏木公園(同市柏木町)で、奈良時代の大型建物群跡が出土しました。
調査した市教委の担当者は「役人の邸宅ではないか」と推察し、専門家は「護衛に関する役所の可能性もありうる」と指摘しています。
最も立派なのが北側の建物で、南向きの庇が付き、柱の直径は約30cm、柱間の幅が3mと長いことなどから、京域でもかなり格の高い建物と推定されています。
現場は、平城京のメインストリートである朱雀大路に近い「左京七条一坊七坪」の区画で、殿上人の貴族か、それに次ぐクラスの役人の邸宅であった可能性があるとの事。
  戦国武将の上杉謙信武田信玄の軍勢が激突した川中島の戦い(参照>>)の直前に、謙信が家臣に宛てた書状が見つかりました。
東京大史料編纂所村井祐樹准教授によると、合戦前夜に出された書状の発見は、両軍を通じて初めてで「地名や人名を含め、戦いへと向かう当時の情勢が具体的に記されており、極めて貴重な発見だ」と話しています。
  小浜出身の幕末の志士梅田雲浜(参照>>)が安政の大獄(参照>>)の4か月前に書いた直筆の手紙が福井市内で見つかりました。
手紙は1858年の安政の大獄のおよそ4ヶ月前に、越前福井藩の坂部簡助に宛てたものと見られていて、長州藩へ送る木材の材木置き場を借りたいとの依頼や北潟湖を埋め立てて水田にする相談など福井藩とのやり取りが記されており、雲浜と福井藩との繋がりや幅広い人脈を知ることができるとか…
雲浜は安政の大獄の前に手紙などを井戸に捨てたため、残された資料は非常に少なく、直筆の手紙は当時の活動を知る貴重な発見だとの事です。
11月 奈良県橿原市藤原宮跡で長年進められてきた発掘調査で、重要な儀式が行われた大極殿を取り囲む回廊の全容が、ほぼ明らかになりました。
藤原宮跡の東北部にあたる区画で発掘調査の結果、大極殿の東側にあった回廊の様子が、今回の調査で大極殿をカタカナの「ロ」の字形に囲む東西約120m、南北、約165mの回廊の全容がほぼ明らかとなりました。
  JR兵庫駅南東に広がる「兵庫津遺跡」(神戸市兵庫区中之島2)で、江戸時代中期の町屋の遺構が見つかりました。
これまで兵庫城を中心とする大規模な町屋跡が発掘されてきましたが、規模はさらに広がることが確認されました。
同遺跡では、織田信長が西国進出の拠点として築城を指示した兵庫城を中心に、江戸時代の町屋や寺院の遺構が出土していましたが、今回新たに見つかったのは江戸中期の町屋8・9棟で、街路の造りは、江戸~明治期の絵図と一致しており、「町屋の遺構には火災で炭化したり、補修したりした跡があり、当時の生活を生々しく感じられる」との事です。
  瀬戸内海で活躍した村上海賊の主要家系の一つ・来島(くるしま)村上氏の重臣・村上吉郷(よしさと)に、戦国武将・大名の毛利元就が出した書状が確認されました。
書状は古書目録に記されていましたが、花押(かおう)の形状、文書の内容などから元就の書状に間違いないと判断されました。
出された年は不明なれど、内容は、年頭のあいさつを述べるとともに、太刀一腰(1本)と鳥目百疋(ひき)(銭1貫文)を贈ることがつづられている事から「吉郷が来島村上氏の重臣というだけでなく、ひとりの独立した海賊衆として元就から見られていたことが分かる。双方の関係を考えるうえで貴重な手がかりとなる」と評価されます。
12月 明治十八年(1885年)に大阪一帯が大きな被害を受けた淀川の大洪水を記録した石碑が大阪市東成区の蔵から見つかりました。(参照>>)
地元の郷土資料館や専門家による調査によると「濁流は滔々(とうとう)と流れ込み」「財産を集めるいとまもなく」などと氾濫した川からの水が家々を襲った様子が生々しく刻まれており、「石碑を見ることで、過去の水害を頭の片隅に置いて教訓としたい」との事。
  東京都内の男性が古美術商から購入した肖像画を東京大学史料編纂所などが調査したところ、室町幕府の将軍=足利義満の姿を、義満の死後150年ほどたった1550年前後に描かれたとみられる物である事がわかりました。
足利義満を描いた肖像画はこれまでに数点しか確認されておらず、黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴…専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的に気になったのは、6月の竹生島の唐門のニュースですかね。

ずいぶん前に竹生島に行った時に、すでに、
「この唐門は大坂城の極楽橋を移築した物」
って話を聞いた気がしてたのですが…

おそらくは、伝承的だった話が調査によって「その可能性が高くなった」という事なんでしょうね。

うめキタの梅田墓もそうですね。
梅田墓は、つい最近まで、いくつかのお墓が端っこの方に残されているままになってましたが、それを撤去すると同時に、地中に埋まってしまっている区域を発掘して、様々な事が新しく解明されたという事ですね。

明智秀満の湖水渡りが後世の創作だったのは、ちと残念ではありますが、
ま、落ち着いて考えたら、
「そら、そやろww」
という気もします。

そんな中でも、今年、特に驚いたのは、
「建て替えしようとしたお寺の襖の下から…」とか、
「ネットオークションで見つけて…」とか、
「普通に古物商から購入した」とか、
びっくりする偶然からびっくりするような史料が発見された事…

あるんですね~こういう事。。。

もちろん、それ以外の発見も「絶対!」なんて事はなく、研究者の方々のスルドイ推察や探究の末に導いた「ここぞ!」という場所を掘り進んでこその発見なわけで…

日々、こうして新たなる発見がされていくのだなぁ~とつくづく感じました。

私たちは、普段、
歴史の教科書を読んだり、書籍を読んだり、小説や時代劇で見たり…

そういう流れがあるために、ついつい
「ここで、こうなって」
「この人が登場して来て」
「ほんで、こうなって…」
歴史を一つの物語のように考えていきます。

もちろん、歴史を物語のように読み進んで行く事は大事です。

なぜなら、それによって、歴史の流れがス~ッと頭の中に入って来るから…
むしろ、私はそっち(物語)です。

「何年に何があって」
「アレが何年で…」
てな覚え方は、テストのための丸暗記であって、ちっとも面白くありません。

やはり、歴史を楽しむなら、とめどなく流れる大河のように、長い長い物語として思いめぐらす方が、ずっと楽しいです。

しかし、おおもとの「発見」という物は、まさに一つの「点」

私は、これら
新しく発見された「点」と、
以前に発見された「点」、
さらに昔からある「点」、
それぞれを一つ一つ、「もしかしたら、こうかも知れない?」と、考えられる(可能性のある)線でつないでいって、歴史という壮大な物語が紡がれていくと思うのです。

この先、また新しい発見があれば、その都度、新しい線をつなぎなおし…

もちろん、つなぎ合わせる線は複数あり、
ここは赤い線でつなぐ?
こことここをつなぐのはメッチャ太い線が良い
いや、反対に青くて細い線が良い?

なんて事を考えながら…
歴史は、そこが楽しいんですよね~(←個人の感想ですww)

「これが絶対正しい!」ではなく「…かも知れない」を許容できなきゃ、歴史は楽しめません(笑)

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、
コロナ禍の中、1番に思う事は「悪疫退散!」

いつもブログを見に来てくだる皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

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