宇都宮国綱が守り切った宇都宮城~長きに渡る北条との戦い
天正十三年(1585年)12月15日、日光山衆徒と北条氏直の配下が宇都宮国綱の宇都宮領へと侵攻しました。
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藤原北家の流れを汲み、平安時代から宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)一帯を領地として来た宇都宮氏でありましたが、天文十八年(1549年)に、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮20代当主の宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)が討死して、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)が家督を継いだ事で家臣同志が覇権を巡って争い、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)に、本拠の宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られ、一時は守りの堅固な山城=多気城(たげじょう=栃木県宇都宮市)に移った事もありました。
しかも、その広綱も若くして病死した天正四年(1576年)に、息子の宇都宮国綱(くにつな)が、わずか9歳で当主となった事で、家中の乱れは治まる気配もありませんし、そこに付け込んで、関東支配を目論む北条(ほうじょう)氏の動きも活発に・・・
そこで国綱は常陸(ひたち=茨城県の大部分)の佐竹(さたけ)や、下総(しもうさ=千葉県北部と茨城・埼玉・東京の一部)の結城(ゆうき)、甲斐(かい=山梨県)の武田(たけだ)などと手を結んで北条に対抗しますが、天正六年(1578年)には、その武田勝頼(たけだかつより)からの侵攻を受ける始末・・・
そして、もちろん、周囲の戦国の世の情勢も目まぐるしく変わります。
天正十年(1582年)3月には勝頼自刃で武田が滅び(3月11日参照>>)、6月には、その武田を滅ぼした織田信長(おだのぶなが)が本能寺(ほんのうじ=京都府京都市)に倒れ(6月2日参照>>)、翌・天正十一年(1583年)には織田家内の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を、同じく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が破り(4月23日参照>>)、その秀吉の勢いに織田家後継者を自負する織田信雄(のぶお・のぶかつ)が徳川家康(とくがわいえやす)を巻き込んで天正十二年(1584年)に起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いが終結を見(11月16日参照>>)、信雄を味方に引き込んだ秀吉が紀州(きしゅう=和歌山県北西部)征伐(3月28日参照>>)から四国平定(7月26日参照>>)(←この間に秀吉は関白就任)、そして北陸へ(8月29日参照>>)と向き始めた天正十三年(1585年)12月15日、
北条方に扇動された日光山(にっこうさん=栃木県日光市にある輪王寺)の僧兵らとともに北条勢が出陣し、宇都宮と宇都宮大明神(うつのみやだいみょうじん=宇都宮二荒山神社)をことごとく破却したのです。
さらに5日後の12月20日には、北条氏直(ほうじょううじなお=第5代当主)自らが軍勢を率いて宇都宮に乱入し、大明神の御殿や楼門・回廊、さらに東勝寺(とうしょうじ=栃木県宇都宮市)など周辺の社寺を焼き討ちします。
さらにのさらに12月25日にも合戦がありましたが、この時に駆け付けた、同盟者=佐竹義重(さたけよししげ)の援軍の活躍で、何とか、これ以上の侵攻を防ぐ事ができました。
ところが案の定・・・翌・天正十四年(1586年)に、またもや宇都宮に侵攻して来た北条氏政(うじまさ=氏直の父)が、当時は宇都宮傘下に属していた皆川広照(みながわひろてる)の皆川城(みながわじょう=栃木県栃木市皆川城内町)を攻略すると、その勢いのまま、攻略したばかりの皆川氏と、未だにお家騒動上等の壬生氏を先鋒に据えて、宇都宮城へと迫ったのです。
しかし、この時、宇都宮城を守っていた宇都宮家臣の玉生高宗(たまにゅう・たもうたかむね)が、雨あられと降り注ぐ火矢攻撃を見事に防ぎ切り、後に「武功の仁」と賞賛されたのだとか・・・
そんな中、天正十七年(1589年)には、これまで宇都宮方であった真岡城(もおかじょう=栃木県真岡市)主の芳賀高継(はがたかつぐ)が北条側に寝返ったとの噂が立った5月に、下野(しもつけ=栃木県)の那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張る那須(なす)氏と、その家臣の大関(おおぜき)氏(12月8日参照>>)が多気城を攻め、8月には日光山衆徒が宇都宮方の塩谷(しおや・しおたに)氏の倉ヶ崎城(くらがさきじょう=栃木県さくら市・喜連川城とも) を落城させました。
さらに9月には北条氏邦(うじくに=氏政の弟)率いる8000騎が宇都宮へ侵攻し、城下を焼き討ちしながら多気城へと迫りましたが、結局落とせぬまま、翌10月には囲みを解いて引き揚げていきました。
そう・・・
周辺武将がほぼほぼ北条へとなびき、その北条に何度にも渡って侵攻され、もはや風前の灯のギリギリ状態となっていた宇都宮城でありましたが、結局、最後まで、北条が、この宇都宮城を落とす事は無かったのです。
そして、
この翌年の天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(6月14日参照>>)。
この時、同盟者の佐竹義宣(よしのぶ=義重の息子)とともに、いち早く小田原に参陣し、秀吉に謁見して恭順姿勢を見せた宇都宮国綱は、見事、そのまま、豊臣政権の大名として生き残る事に成功し、ご存知のように、北条は秀吉の前に散る事になります(7月5日参照>>)。
ただし、国綱自身はこの7年後に改易を言い渡され(10月13日参照>>)、大名としての宇都宮氏は無くなりますが、家名と血筋は脈々と受け継がれ、水戸藩の一員として明治維新を迎えています。
まぁ、なんだかんだで、戦国は生き残ったモン勝ちかも…ですね。
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