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2021年1月 4日 (月)

熙子さんの回だった大河ドラマ『麒麟がくる』第39回「本願寺を叩け」の感想

大河ドラマ『麒麟がくる』第39回「本願寺を叩け」の感想です。

速い速い急ぐ急ぐww
でも、残り時間が少ないので仕方ないですね。

あの方の降板に始まり、コロナで撮影できないわ。。。
やっと再開できても、ロケはできんし、
1度にスタジオに入れる人数にも限りはあるし、
俳優さんのスケジュールも立て直しせざるを得ず、
当然、脚本からの見直し…

でも、すぐ後ろに渋沢さんが控えてるし、
最終回には本能寺に突入せなアカンし、

本当に大変な現場となっている物とお察しします。

そのために、
おそらくは、同時期に起こった出来事を前後させて物語の辻褄を合わせつつ、スピード重視で、お話を進められているものと思われます。

そこはドラマですし、
しかも、それらの出来事を出演者のセリフ等で視聴者に伝えねばならない場合もあるわけですから、多少の前後はアリだと思いますが、

一応、ここは歴史好きブログなので、参考までに、実際の歴史(とされている)の流れを復習しておきましょう。

まずは、
岐阜城を訪れた石橋三条西さんから、
岐阜に戻った理由を聞かれた染谷信長の発言。

「武田が美濃に攻め入りまして…」
は、おそらく天正二年(1574年)2月の明智城陥落>>の事かと思われます。

実際には、あの蘭奢待の削り取り事件>>より1ヶ月ほど前の事で、今回の主人公である光秀のもといた城(というドラマの設定)(光安自刃で明智城落城>>)だったので、ちょっとは出て来るかな?と思ってたんですが、城の名前も出て来ませんでしたね。。。ちと残念。

次に
「息子=信忠に家督を譲るので京の事は息子に…」
と言ってましたが、これは天正三年(1575年)11月の事>>

また、ナレーションにて
「安土に城を築きはじめた」
と言ってましたが、これは天正四年(1576年)2月の事>>

そしてタイトル明けに
石山本願寺との天王寺砦の激戦が描かれてましたが、これは天正四年(1576年)5月の事>>

もちろん、信長と本願寺との戦いは約10年に渡って繰り広げられますし、そのために構築した天王寺砦ですから、その周辺で戦いがあった事は1度や2度では無いでしょうが、ドラマでは、その日の戦いで原田直政(塙直政)が討死した事になっていたので、やはり、これは 天正四年5月3日の戦いを描いていたのだと思われます。

ただ、天王寺砦にやって来た信長さんが、いつの間にか、鬼のような、しかも、手の付けられないアホ殿様になってましたね。。。
(↑コレはちょっとショックだ)

おそらくは、一刻も早く本能寺の道筋を整えてしまわないといけない・・・つまりは、来週に裏切る予定の吉田久秀さんや、長谷川光秀さんが、とにかく信長を殺したいほど憎むようにしないといけないためなんでしょうけど、あのままだと、ホント、どうしようもない殿様です。
(いつも冷めた目で見ている長谷川光秀は、どこが良くて染谷信長の家臣になったんだろ?)

実際の歴史上でも、この天王寺砦の戦いで最前線に出て奮戦した信長が負傷してますが、

『信長公記』『兼見卿記』等によれば
「直政らを討ち取った勢いに乗った本願寺勢が天王寺砦を包囲して、籠城する光秀らが、もはや、なす術なしになっている状況を聞いた信長が、急遽、わずかの馬廻衆だけを連れて京都から出馬し、若江城などを経由して兵を集めつつ天王寺へ向かい、軍議で作戦を練った後、合計3000となっていた兵を3段に分けて、佐久間信盛・松永久秀ら+若江衆を先陣に、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らを第2段に、最初に率いた馬廻衆を備えの3段目とした後、信長は先手の足軽に交じって陣頭指揮をとりつつ駆け巡り、肩に傷、足に鉄砲を受けながらも主従一丸となって戦い、最終的に、砦を囲んでいた敵勢を本願寺城門の所まで押し戻して追い崩し、天王寺砦を救った」
事になってます。
(敵1万3000を、味方3000で…ですよ~ホレてまうやろ!)

信長さんの名誉のためにも、
何の作戦もなく、家臣が止めるのも聞かず、
アホみたいに、敵に向かっていってケガしたのでは無い事だけは、お伝えしときます。

で、ドラマでは、この天王寺砦にて長谷川光秀が倒れる…
からの…夫の急に寝間着姿のまま東庵先生を呼びに街中を走る奥さん。。。
て、コレ↑、今やとパジャマかネグリジェのまま?って事?
例え、頭にカーラー巻いたまま(←大阪のオバチャンスタイル)であったとしても、せめて、カーディガンは羽織ってほしい。。。

と、そんなこんなしているうちに、ムリが祟った奥さんに死亡フラグが立つ。。。

唐突に思い出話をし始める妻=熙子。。。
髪を売ったエピソード(10月10日参照>>)をここに入れて来た~~

その後、快復した光秀に信長が、本願寺との状況と叩き方を説明・・・

話しの内容では、
まんまと石山本願寺に兵糧を運び込まれてしまった天正四年(1576年)7月第一次木津川口海戦>>は、すでに終わった事なのか?まだこれからなのか?はよくわからなかったですが、

この第一次の合戦で毛利につく村上水軍に翻弄された事で、信長は九鬼嘉隆に命じて華麗なる鉄甲船>>を造らせ、おそらくこの後、ドラマで描かれるであろう2度目の木津川口海戦>>では勝利しています。
(【鉄甲船の初海戦】も参照>>)

ちなみに、そのあと、
「大和は筒井順慶に任す」
と染谷信長が言ってましたが、そこは、実際には微妙なところです。

順慶は天正二年(1574年)には人質を出して信長に臣従してますが、この頃には、まだ松永久秀に開け渡されたはずの十市城を乗っ取ったままで十市の内紛>>が続いてますので、信長の鶴の一声で決定するには、まだ難しいかと・・・

そこにお菓子を持って来た芦田たまちゃんに
「良い嫁ぎ先を探してやろう」
という信長を前に、いかにも嫌そうな顔してた光秀ですが、

主君に娘の結婚を世話してもらうので、名誉な事なんじゃ?
なんで、そこまで信長を嫌うかなぁ~
てか、そんなに嫌いなら、滝藤公方様にしたように、家臣やめたら良いのに・・・

と思いつつも、そのスキに、風間家康さんの奥さん=築山殿が安定の悪女として>>登場・・・

ちなみに、その時、忍びの岡村菊丸さんが
「信長様は、三河(德川)の事などお忘れではないかと…」
と言ってましたが、あの長篠設楽ヶ原の戦い>>天正三年(1575年)5月です。

一方、その頃、光秀と入れ替わるように病の床についた奥様=熙子さんが、夫とゆっくり思い出を語り合って後、静かにあの世に旅立たれます。

ナレーションで、その死は「天正四年(1576年)秋」との事・・・

て事は、
ドラマ内では、今は天正四年(1576年)秋って事なんですね?

ようやく落ち着きました。

いきなり本願寺が出てきて、いきなり天王寺合戦になったので、少々混乱しましたが、多少の前後はあるものの、おおむね歴史通りに事は流れているようで・・・安心しました。

ただ、最近の大河ドラマでは、やはり描きにくいのか?ほとんど登場しない側室という立場の女性・・・

そんな中、光秀は数少ない側室を持たなかった武将なので、光秀が主役ならば、その奥様とのふれあいが存分に描かれるものと思っていただけに、今回で、その奥様が逝ってしまわれたのは残念でしたね。

死に際の思い出話には泣けましたが、もう少し、以前から奥様の事を描いていただきたかった気もします。

まぁ、それもこれも、思い通りに撮影できないゆえの結果なのでしょうけど。。。

とは言え、知らないうちに荒木さんちに嫁に行ってた光秀長女のさんが、間宮左馬助(明智秀満)と仲良さげに踊りを踊ってたシーンには、またもや歴ヲタ心をくすぐられましたが・・・

来週は、いよいよ吉田久秀の名シーン信貴山城の戦い>>・・・
こうなったら、史実どうこう関係なく、盛大に爆死していただきたい。

来週も楽しみにしております。
 .

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コメント

いつも楽しみに読んでます!
ところで今回一瞬だけ映った原田直政さん、あまり詳しくはないのですが珍しくテレビドラマに出てきたと思います。自分が若手社員としたら、面倒見の良かった先輩社員が急に退職してしまうような人と勝手に位置づけていたので気になっていました。
「鬼滅の刃」に例えると織田家臣の中で柱の1人のような存在に当たり、本願寺との激戦途中で果てるため炎柱の煉獄杏寿郞さんのように描けば人気が高まったのにと思ったりします。

投稿: 通りすがり | 2021年1月 4日 (月) 08時42分

通りすがりさん、こんばんは~

今回の原田さんは、
なんか、信長を悪役にするために唐突の出て来たような扱いでしたね。

以前から、もう少しスポット当たっていたら、見ている側のとらえ方も違ったのでは?と思います。

投稿: 茶々 | 2021年1月 5日 (火) 03時24分

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