北条氏綱、武蔵江戸に進出~江戸城高輪原の戦い
大永四年(1524年)1月13日、江戸城内の太田資高の内応を受けた北条氏綱が、扇谷上杉朝興を高輪原で破り、武蔵に進出しました。
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関東に本拠を持ちながら、京都・室町にて幕府を開くことになった足利尊氏(あしかがたかうじ)は、嫡流の義詮(よしあきら=三男)の家系に京都で政務をこなす将軍職を、弟=基氏(もとうじ=四男)の家系に関東を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)を世襲していき、公方を補佐する執事(しつじ=後に関東管領)には上杉(うえすぎ=最初の頃は斯波・畠山)氏が継いでいくシステムとしますが(9月19日参照>>)、
やがて、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)の頃になって将軍と鎌倉公方が対立し、永享十一年(1439年) の永享の乱(2018年2月10日参照>>)へと発展・・・さらにそれは結城合戦(4月16日参照>>)を経て、一旦、鎌倉公方は断絶状態に追い込まれるものの(2007年2月10日参照>>)、その後、その持氏の遺児=成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任し、またぞろ亡き父が目指していたような独立色の強い関東支配を目標に将軍家と対立したため、鎌倉を追われて古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を名乗って大暴れしはじめます(9月30日参照>>)。
それに対抗して、幕府は将軍=義教の息子である足利政知(まさとも)を、公式の鎌倉公方として関東に派遣しますが、関東が動乱のために鎌倉に入れず、やむなく政知は、手前の伊豆堀越(ほりごえ)に堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれました。
そんな堀越公方の2代目(←諸説あり)=足利茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して関東支配に乗り出したのが、ご存じ北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)でした。
その後、早雲が小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を手中に納める一方で、
管領の上杉家は、その上杉同士=扇谷上杉&山内上杉でモメるわ(9月27日参照>>)、
成氏の後を継いだ古河公方2代目の足利政氏(まさうじ)と息子&息子同志もモメて(6月23日参照>>)、古河公方を継いだ兄の高基(たかもと)に対抗して、弟の義明(よしあき)が小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠)を名乗って独立し、ますます関東の覇権争いが泥沼化していきました。
そんな中、永正十六年(1519年)に早雲が亡くなってからしばらくは、早雲の後を継いだ息子の北条氏綱(うじつな)が父とともに切り取った伊豆(いず=伊豆半島)&相模(さがみ=神奈川県の大部分)の領国経営に力を入れて北条家の地盤固めを優先しつつ、武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)への進出を模索していた北条家に、
大永元年(1521年)2月、かねてより北条寄りだった古河公方の高基から、息子の晴氏(はるうじ)と氏綱の娘(芳春院)との結婚話を打診して来ます。
『北条記』には、この時、同時に、高基から「公方の御後見」の要請があったとされ、これは「(どこまで公認&正式だったか?は時期的な事も含めて不明)事実上の関東管領を北条氏綱に担ってもらいたい」という事のようで、つまりは、上り調子の北条の力を得て弟の義明を抑え込み、関東公方の座を盤石な物にしようと考えたのでしょう。
さらに、この翌年の大永二年(1522年)の9月に氏綱の使者が古河御所に派遣されますが、その使者が帰り道に浅草寺(せんそうじ=東京都台東区浅草)を訪問している事も興味深い。。。どうやら、氏綱は、この機会に江戸を取る気満々な雰囲気。
そんな中、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の上杉朝興(うえすぎともおき)に仕えていた太田資高(おおたすけたか)が、北条側へと寝返り、氏綱の娘(浄心院)との結婚の約束を・・・もちろん、これは氏綱の誘いによる政略結婚ですが。。。
実は、この太田資高さん・・・代々上杉家に仕え、あの江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築した太田道灌(どうかん=資長)の孫です。
ご存知のように、道灌は扇谷上杉家の重臣で忠実な家臣でしたが、関東動乱での強さがハンパなく(8月16日参照>>)、その、あまりの強さを恐れた主君=扇谷上杉定正(さだまさ=朝興の祖父)が道灌を冷遇したうえに暗殺した(7月26日参照>>)という過去があり、しかも、亡きジッチャンが建てた江戸城に、今現在進行形で仇の孫(定正の息子の養子)である上杉朝興は入っているわけで・・・
おそらくは、そんなジッチャンの遺恨もあっての、今回の資高の寝返り・・・
こうして資高の内応を得た氏綱は、大永四年(1524年)正月、伊豆&相模の軍勢を率いて江戸城攻略に出立します。
1月1日に品川の妙国寺(みょうこくじ=東京都品川区・天妙国寺)に、翌12日に本光寺(ほんこうじ=東京都品川区)に入った氏綱に対して、江戸城の上杉朝興は、同じく品川に出陣して迎え撃つ作戦・・・
かくして大永四年(1524年)1月13日、上杉方の先陣=曽我神四郎(そがじんしろう)と、北条方の先陣=多米六郎(ため・たごめろくろう)が高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)にてぶつかりました。
そこで、北条方の多米に続く2番手の大道寺八郎兵衛(だいどうじはちろべえ)が、即座にに2手に別れて東西から上杉勢を挟み撃ちにして攻め立てたため、上杉方は総崩れとなり、江戸城に向かって、一斉に撤退し始めました。
一方、江戸城を撃って出た朝興は、氏綱を迎え撃つべく、同じく品川に陣取っていましたが、それを察知した氏綱は渋谷方面へと迂回して江戸城へと押し寄せ、かねての手配通り、内通した太田資高の導きによって、なんなく江戸城に入ったのだとか。
細かな記録は曖昧なものの、太田資高の内応を機に上杉朝興を高輪の原で破り、江戸城に進出した事は確かなようで・・・
この後、江戸城に戻れなくなった朝興は、配下となっている板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)へと逃走しますが、そこでの合戦で城主の板橋某兄弟が討死し、やむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと、さらに逃走していったのでした。
この時、かつて太田道灌が江戸城内に創建した芳林院(ほうりんいん)の住職は、氏綱に寺宝を献上して、その庇護下に入る事を表明しています。
こうして武蔵に進出した氏綱・・・
このすぐあとには上杉と同盟を結ぶ甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)との戦いもありながらも(【猿橋の戦い】参照>>)、天文六年(1537年)7月には河越城を落とし(7月15日参照>>)、
さらに天文七年(1538年)10月には、第一次国府台合戦にて足利義明を討ち取って(10月7日参照>>)小弓公方を滅亡させ、
天文八年(1539年)11月には、かの足利晴氏と娘の結婚も実現させて(11月28日参照>>)、
公方の名を後ろ盾に関東支配の夢へと突き進む事になるのですが、
上記の足利家の系図を見ていただければ一目瞭然な通り、やがては、関東公方=足利家も名ばかりとなり、氏綱の息子=の氏康(うじやす)の時代には、河越夜戦にて、古河公方の晴氏もろとも扇谷&山内=両上杉を蹴散らして、名実ともに関東の覇者になる・・・という展開になってしまうわけですが、戦国三大奇襲の一つと言われるそのお話は4月20日のページでどうぞ>>
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コメント
いつも楽しく拝見しています。
6段落目の中の、「~上杉同志」は、上杉同士もしくは上杉同氏の間違いでしょうか。
さすがに扇谷上杉と山内上杉は志が同じということは無いですもんね。
投稿: さく | 2021年1月29日 (金) 17時24分
さくさん、こんばんは~
ありゃま、本当ですね。。。
漢字変換して、そのままスルーしてました。
志が同じならモメませんもんね。
訂正させていただきます。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2021年1月30日 (土) 04時07分