もはや恐怖しかない宴会が始まった大河ドラマ『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」の感想
本能寺へ向かう原因が渋滞してる大河ドラマ『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」の感想です。
先週、たくさんの人から背中を押されてた長谷川光秀・・・(第42回「離れゆく心」の感想>>)
その上に、染谷信長の
「帝に譲位していただこう」
と玉三郎天皇さまを軽視するような発言。。。
と、ここで一つ補足を、、、
「天皇さまの譲位=引退」と考えてしまうのは現代人の悪いクセで、
昔は、天皇さまは国の安寧を願っての祭祀が1番の仕事なので、それ以外の事に自由が利かない、一方で、上皇になれば積極的に政治に参加できるので、どちらかと言えば上皇であった方が権威をバンバンに使えるわけで
●【白河上皇の院政】参照>>
●【順徳天皇】参照>>(順徳天皇は直前に譲位して承久の乱に参戦してます)
なので、この、
「帝に譲位していただこう」
という発言は、そこまで極悪だとは思えないんですが・・・
それはそうと・・・
そんな中、ナレーションにて秒で終わった丹波平定に、セリフも無いまま、首を塩漬けにされちゃった波多野三兄弟。。。(【八上城攻防戦】参照>>)
そして、いつの間ににかお亡くなりになっていた(私が見落としてるのかも?)石橋三条西さまのお屋敷にて眞島藤孝と本郷前久と伊呂波大夫が信長の悪口を言いまくる一方で、頼れるのは明智と・・・光秀ageが甚だしい中、津々浦々までバレちゃってる光秀の鞆の浦行き(滝藤公方様に面会の件)。
でも、あーだこーだ言ってる暇はありません。
なんせ、これまたナレーションにて
秒で石山合戦が終了し(【石山合戦・終結】参照>>)、
秒で金子信盛さんが追放され(【佐久間信盛の末路】参照>>)
てしまいますので。。。スピードがF1並み
そんな時、信長が登ってる樹を切っちゃう夢を毎日見る事にお悩み中の長谷川光秀が堺東庵先生と門脇お駒ちゃんに会いに行き、川口帰蝶姫が目の調子が悪い事を聞きます。
と、ここで東庵先生から
「曲直瀬(まなせ)という医者に診てもらってる」発言が・・・
不肖私、これまで東庵先生という架空の人物は曲直瀬道三(まなせどうさん)がモデルで、その代わりに出てると思ってましたが、違うかったんですね~
ちなみに、史実としての光秀さんは、すでに何度か(天王寺合戦後とか)曲直瀬道三に診てもらってますので、この時点では知り合いですけどね(1月4日参照>>)。
そんな中、お会いした帰蝶姫と昔話で盛り上がると思いきや、やっぱり信長の悪口に話題を持っていく光秀さん。。。
信長の暴走に対し
「道三様ならどうなされたでしょう?」
と聞く光秀に
「毒を盛る」
と、部屋の襖全開のまま(聞かれるよ)、高らかに宣言しちゃう帰蝶姫。
「信長様あっての私…」
と躊躇する光秀に
「今の信長様をつくったのは父上(斎藤道三)と光秀じゃ!」
「つくった者が始末するほかない」
…て、いやいや帰蝶姫もメッチャ関与してましたよ。
なんか他人事みたいに背中押しちゃって・・・
そんな中、またまた秒で、今度は武田が滅亡。。。(【武田勝頼、天目山に散る】参照>>)
武田を倒した高揚感も止まぬ間に
「信長様に命じられる前に、こちらで成敗すべきと恥じるばかり」
と嫁と息子の殺害をクールに言っちゃう風間家康が、チョいとショック。。。
●【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】>>
●【なぜ信康を殺さねばならなかったか?】>>
だって、このドラマでは、築山殿と信康は、本当に武田に通じてたって事になっちゃうんですもんね。
しかも、その後の風間家康との会話にて、丹波における光秀の領国経営の美しさが語られるなんて・・・できれば、そこをセリフのみではなく、ドラマとして見てみたかったので、そこもチョイとショック。。。
そんな中、家康と光秀の仲良さげな雰囲気に、嫉妬心を隠せない信長さん。
おいおい、先週今週と、散々、みんなで信長さんの悪口言いまくって本能寺の変への道を複数示してくれた中で、信長の嫉妬という痴情も絡んで来るんかいな。
もはや、本能寺の変の原因が渋滞しまくり~
な、中、いよいよ始まる恐怖の宴会。
今回の家康を安土に迎えての宴会・・・よくドラマで描かれるのは、「出した魚が腐ってて(実は琵琶湖名物鮒ずし?)信長が激怒して光秀をメッタ打ち」というシーンですが、今回は「膳の順番が違う」という事でお怒りに・・・
史実としては、この宴会での信長さまは上機嫌でお怒りになる事は無く、翌日に能で以って家康らをもてなそうとした時に、演者二人のうちの一人が、ものすんごい舞がヘタくそだったのでお怒りになったようです。
それでも、一人目の上手な人がもう一度サービスで舞を舞ってくれたのでご機嫌が戻って、二人ともに褒美を与えて問題なく終えています。
(ヘタくそに褒美をやるのは腹立つな~と思ったけど、ケチやと思われるのも嫌なので二人ともに黄金を渡したらしいww)
しかし、ドラマでは、お馴染みの信長激怒からの光秀足蹴。。。
「上様に粗相をするとは!」
と、光秀に駆け寄った森蘭丸を跳ね除け、夢に見た天にも登る樹に斧をふるかのごとく空手チョップのポーズをしながら、染谷信長をにらみつける長谷川光秀さん。
アカン!アカン!
そんな怒り丸出しの表情したら10日後に謀反起こす事がバレてしまうやないですか!!
と、思わず声が出た次第です。
もはや、アレもコレも、
原因とされている事、全部ひっくるめての本能寺の変・・・て事になりそうな。。。
(なぜか「四国説」は、ここまでスルー)
私、個人的な興味としては、息子=織田信忠をスルーするのか?否か?
「信忠も京都にいるからこそ、今日、信長を討つ」
なら、数時間の時間のズレをどのように扱ってくださるのか?
最終回が最高潮となる来週が楽しみです。
★本能寺の変の原因:参照↓
●【本能寺の変~『信長公記』より】>>
●【数時間のタイム・ラグ】>>
●【秀吉・黒幕説】>>
●【家康・黒幕説】>>
●【家康、暗殺計画説】>>
●【堺の商人・黒幕説】>>
●【四国説】>>
★ついでにコチラも参照↓
●本能寺・前夜>>
●その時、安土城では…>>
●信長の首は静岡に?>>
.
「大河ドラマ・時代劇」カテゴリの記事
- 大河ドラマ「光る君へ」の最終回の感想(2024.12.17)
- 大河ドラマ「光る君へ」第1回~5回の感想(2024.02.05)
- 年始のごあいさつ~今年は『光る君へ』ですね!(2024.01.01)
- 大河ドラマ「どうする家康」最終回を見ての感想まとめ(2023.12.18)
- 大河ドラマ「どうする家康」の3~6回の感想(2023.02.13)
コメント
風間家康が丹波の領国経営のことを聞いてるを見てて、おっ!天海坊説も有りか⁉️と思ったのは、穿ちすぎ😅
投稿: mik | 2021年2月 1日 (月) 15時59分
茶々さん
こんにちは
"本能寺の変の原因が渋滞"
まさにその通りですねw
納得出来る原因が...無い?
それはそうと、
森蘭丸君の有能さが際立っていましたね〜
あの緊迫した空気の中、止めに入る(私にはそう見えました)
なかなかできませんよ〜
100%巻き込まれますし、さいあく「邪魔をするな!」と自分に矛先が向く可能性もあります。
にもかかわらず "すぐさま" 駆け寄りました。
「上様に粗相をするとは!」という発言も、まずは上様の怒りを沈めることが最優先と瞬時に判断したのでしょう!
『明智様〜お怒りはごもっともですが、ひとまず矛をお納めいただけませんでしょうか』という彼の悲痛な心の叫びが私には聞こえました。
と、いう感じで良いところ(ほとんど妄想になってますが...)を探しながら見るようにしていますw
投稿: 三枝 | 2021年2月 1日 (月) 17時03分
mikさん、こんばんは~
「光秀=天海説」
なんか、出演者の皆さんが
「こんなラスト見た事ない」
とか
「予想できないラスト」
みたいな発言されている記事が多くあがっていますので、ひょっとしたら天海説かも知れませんね。
確かに…本能寺の変の後に天海になるというラストのドラマは、まだ無かったような??
投稿: 茶々 | 2021年2月 2日 (火) 02時40分
三枝さん、こんばんは~
本能寺で就寝中、周囲のザワザワ感に目を覚ました信長さんとの、アノ会話の時以外にも見せ場あったのは、新しい試みですね。
想定外の事が多すぎて、やむなくグダグダの超スピードになってしまってる脚本を、俳優さんたちの演技が見事に救ってますね~今回の大河は…
投稿: 茶々 | 2021年2月 2日 (火) 02時48分
最後の場面での手のポーズは何だろうと思っていました。
食材に立腹して宴席で激怒する、というのは後世の創作?初めて知りました。
投稿: えびすこ | 2021年2月 7日 (日) 11時36分
はじめてお便りします。
以前、最強軍師のアンケートで私が回答した甲斐宗運のことについて、記事を掲載頂き感謝しております。
今回、注目したいのは(美男?)長谷川竹(秀一)のことです。
近年の研究では、信長は御座所システムというものを活用し、天正10年の甲州征伐のように目途がついたところで自ら出陣しています。この時の露払い役は徳川家康ですが、家康は信長にかなり配慮して、事前に信長軍の進軍経路の整備を行っています。その整備について家康は信長お気に入りの側衆の長谷川秀一を借り受けて指示してもらい、信長自慢の長柄の槍隊や鉄砲隊の通行の支障にならないよう、家康は村々に命じて街路樹の伐採や辻々には炊き出しを用意し信長を喜ばせています。
当然、秀一と親しい秀吉のこと、情報豊富な上、街道整備や兵站にぬかりはなく、家康以上の歓待を用意していたはずです。結果的に、そのことが功を奏したものと考えられます。
なお、この後、秀一は大出世し、天正16年に豊臣姓を賜っています。
これは、中国大返しのヒントのなるのではと思いました。
投稿: チート爺 | 2021年2月 7日 (日) 12時39分
チート爺さん、こんばんは~
最近の研究では、「秀吉の大返しは、物資を船で運んで身軽になったうえ、行軍のために整備された街道を通って戻って来たので、予想以上に早かった」みたいな考え方がされていますね。
思えば、戦場から地元へ、何度も行き来するのですから、道の整備は不可欠と考えるのが妥当でしょうね。
投稿: 茶々 | 2021年2月 8日 (月) 02時25分
えびすこさん、こんばんは~
おそらく同時期の史料では「宴会での信長激怒」の話は出て来ていないと思います。
饗応役の交代も、「失敗したから交代」ではなく、もともと宴会は3日間開かれる予定なので、はなから日付ごとに担当は違っていたと思います。
そもそも、光秀が担当した翌日にも宴会があるのに、1日めに激怒して「お前クビ!交代や!」って言っても、次に任された人が、たった1日で翌日の宴会の準備など、できるわけがありませんしね。
投稿: 茶々 | 2021年2月 8日 (月) 02時29分