里見義堯と久留里城~北条との戦いの日々
永禄三年(1560年)1月20日、北条氏康に攻められた里見義堯が上杉謙信に救援を依頼しました。
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久留里城(くるりじょう=千葉県君津市久留里 )は、室町時代中期に上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)氏の祖=武田信長(たけだのぶなが)が構築した城でしたが、その後に、子孫の真里谷(まりやつ)氏に受け継がれるものの、戦国の動乱の中で安房(あわ=千葉県南部)を本拠とする里見(さとみ)氏の城となっていました。
やがて、あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)が伊豆討ち入り(10月11日参照>>)で堀越公方(ほりごえくぼう=静岡県伊豆の国市堀越を本拠とした)の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)倒した後に小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して本拠とし(2月16日参照>>)て以来、徐々に関東へと勢力を伸ばして来る北条(ほうじょう)氏と、関東の覇権を巡って度々の衝突を繰り返していた里見・・・
●大永四年(1524年)1月:江戸城高輪の戦い>>
●大永六年(1526年)11月:鶴岡八幡宮の戦い>>
そんな中、古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした)の足利高基(あしかがたかもと)&晴氏(はるうじ)父子を看板に関東支配を目論む北条氏綱(うじつな=早雲の息子)に対し、小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城を本拠とした)の足利義明(よしあき=高基の弟)を担いで対抗する里見義堯(さとみよしたか)は、
天文七年(1538年)10月の国府台(こうのだい・千葉県市川市)の戦いに敗れて足利義明を失った(10月7日参照>>)事を受けて、これまでの稲村城(いなむらじょう=千葉県館山市)から久留里城へと本拠を移し、着々とその整備に勤しみ(現在残る曲輪の跡などはこの時の物と見られています)、もはや、公方という看板無しでの関東支配に乗り出します。
これに脅威を感じた北条氏康(うじやす=氏綱の息子)は、娘婿の北条綱成(つなしげ・つななり)に命じて有吉城(ありよしじょう=千葉市緑区おゆみ野)を構築して里見の侵攻に備えます。
一方、この状況に、里見をせん滅せんと撃って出た椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)の真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)らは、天文二十一年(1552年)11月、逆に、里見からの激しい攻撃を受けて敗北・・・真里谷武田家は滅亡します(11月4日参照>>)。
こうして、真里谷氏が滅亡してから後も北条氏康は、天文二十三年(1554年)の11月を皮切りに、約3年間に渡って度々渡海し、
「敵を討ち取った者には太刀を与えよう」
「敵地の様子や秘密事項を入手した者には望みの知行地や引き出物を与える」
などと触れを出し、現地の土民たちをも動員して里見への攻撃を繰り返しますが、結局、久留里城を落とせないままでした。
↑久留里城周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんなこんなの永禄三年(1560年)に入って、北条が久留里城近くに新たに城を構築し、そこに続々と兵を投入して、まさに一触即発の状況となった永禄三年(1560年)1月20日、里見義堯は家臣の正木憲時(まさきのりとき)から上杉家臣の北条高広(きたじょうたかひろ)を通じて越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)に救援を依頼するのです。
これを受けて直ちに出陣した謙信・・・越後の大物の、この速やかな来援のおかげで、北条はここで戦わず、一部の兵を置いて引き揚げていったのでした。
しかし、4年後の永禄七年(1564年)1月の第2次国府台の戦いにて里見義堯&里見義弘(よしひろ=義堯の息子)父子は北条に敗れてしまい(1月8日参照>>)、その勢いのまま侵攻する北条氏康に椎津城や小糸城(こいとじょう=千葉県君津市・秋元城とも)をも落とされ、上総深くまで入り込まれてしまいます。
さらに、その年の10月初めには、かの国府台から逃げ帰った義堯の拠る久留里城を北条軍が囲んだのです。
残念ながら、戦いの詳細や、いつ久留里城が落ちたのか?という記録が無いため、落城の日付を知る事はできませんが、永禄七年(1564年)10月7日の日付にて北条氏康が、小田小太郎(おだこたろう=小田氏治?11月3日参照>>)を久留里城の城将に据え、
「もし、ここを守って忠誠を尽くしてくれたなら本国の常陸(ひたち=茨城県)に戻れるようにする」
との約束を交わしたという記録が残っていますので、おそらく、その頃には、すでに久留里城は開城されていたものと思われます。
ただし、ここで里見が滅ぶ事はなく、再び久留里城を奪回しています。
これまた詳細な記録が無いので曖昧ではありますが、永禄十年(1567年)9月の三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)砦の戦い(9月10日参照>>)の時には、再び里見義堯が久留里城を守っていますので、永禄九年(1566年)か翌十年頃には奪回していたものと思われます。
この後、里見の全盛期を築いた里見義堯は、天正二年(1574年)、68歳にて死去しますが、その死を迎えた場所も久留里城でした。
その死から3年後の天正五年(1577年)、義堯息子の里見義弘と氏康の息子=北条氏政(うじまさ)の間で和睦が成立し(房相一和)、北条と里見の長きに渡る戦いは終了する事になります。
(*ただし、この講和は小田原征伐で北条が滅亡するまで続いたという説と、わずか2年後に破綻していたという説があります)
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コメント
何時も楽しませて頂いております。
私も歴史が好きで、大阪、奈良、飛鳥を中心に
断片的ですが見て歩くのが大好きです。
、、、ところで、住まいは大阪ですか?
こんなのご存知ですか?
猫間川
http://ringodo.web.fc2.com/nekomagawa.htm
どなたかが調べられてる物を拝見しています。
それが、私の家の前を流れてたらしいです(笑)
これも歴史?ですが、少し前の地域の歴史で、、、
そうそう、平蜘蛛、、、
信貴山には何度も足を運んでいます。
カケラ、落ちて無いかな?(笑)
投稿: カズ | 2021年1月25日 (月) 00時35分
カズさん、こんばんは~
生まれ育った実家が森之宮駅の近くなので、その周辺の猫間川なら知ってますよ。
もちろん、物心ついた時には、すでに埋め立てられてましたが…
ご存知のように大阪城には明治以来、東洋一の工廠と練兵場があったので、第2次大戦の時に猛攻撃を受けて壊滅状態となりました。
その後は、不発弾が多く埋まっていた事や、戦争で家を失った人たちの不法占拠もあった事で、1980年代にビジネスパークとなるまで、長らく手つかずのままの更地だったので、埋められた猫間川も「ここがそうなんだな」とわかる感じで残ってましたよ。
当時は、大阪城の外堀も北東部分は埋められていて(再び堀に戻ったのは1997年)、青屋門がボロボロのままポツンと建ってて「今にも壊れそうやのに修復せんでえぇん?」と思てました。
(大手門や桜門のあたりを除く)大阪城の東側や南側が、今の様に綺麗になったのは、大阪のオバチャンから見たら、けっこう最近の事ですww
築城400年記念のイベントがあった時(1983年)かな?
その時に、極楽橋のあたりも、かなり整備されたように記憶してます。
投稿: 茶々 | 2021年1月25日 (月) 03時54分
返信、有難う御座います。
流石、良くご存知で、、、
あっちゃ〜 森之宮育ちですか!
じゃあ私の今の住まいの、隣り組でおます(笑)
いや〜 箸墓古墳も面白いけど、ご近所の歴史散策も捨てたもんじゃ無いですよね。
玉造二軒茶屋から308号線で暗峠、平群を通り飛鳥を目指すのが私の普段のルートです。
但し、スーパーカブのバイクでですが。
、、、また、時折投稿させていただきます。
P.S.
光秀は家康、秀吉と通じてて、
「信長はワシが殺るから、後の世は頼んまっせ〜」って言うてはったらしいですよ(笑)
、、、NHKは秀吉をもう少し良い様に表現して欲しい(笑)
投稿: カズ | 2021年1月26日 (火) 01時23分
カズさん、こんばんは~
暗峠のアノ坂、バイクで行きはるんですか?
私は玉造神社から伊勢神宮まで、旧街道を歩いてお伊勢参りした事があるんですが、終わってみれば、あの暗峠が1番しんどかったです。
投稿: 茶々 | 2021年1月26日 (火) 02時30分
えっ!
玉造から、、い、い、伊勢まで徒歩で?
「凄っ!」
ちなみに、最初の宿は奈良辺り?
、、、桜井、宇陀から伊勢街道。
び、び、病気や〜(笑)
投稿: カズ | 2021年1月26日 (火) 19時25分
カズさん、こんばんは~
そうです、そうです、
暗峠越えで奈良まで行って、猿沢池から南に行って桜井、宇陀から伊勢街道です。
宿に泊まるんじゃなくて、リレー方式です。
1日目は花園ラグビー場まで行って、次は別の日に、花園から峠越えて生駒まで行って…てな感じです。
玉造神社に「伊勢参りの出発地」と「コース地図」の看板が立ってますが、ほぼ、その通りのコースです。
私の持ってる「街道歩き」の本では、「1日めで奈良に着く」みたいな予定が書かれてましたが、ハイキング上級者でないと、奈良まではチョット無理な気がします。
投稿: 茶々 | 2021年1月27日 (水) 04時01分