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2021年2月24日 (水)

足利義昭VS織田信長~石山・今堅田の戦い

 

元亀四年(天正元年・1573年)2月24日、織田信長に反旗をひるがえした足利義昭に応じて挙兵した光浄院暹慶らの石山・今堅田の砦を織田軍が攻撃しました。

・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月に兄である室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)を殺された足利義昭(よしあき・義秋)は、庇護を受けている朝倉(あさくら)越前(えちぜん=福井県東部)の地にて、自らを担いで上洛してくれる戦国大名を 探しておりました(10月14日参照>>)

一方、永禄五年(1562年)に尾張(おわり=愛知県西部)を統一し(11月1日参照>>)、永禄十年(1567年)には斎藤(さいとう)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を手に入れて(8月15日参照>>)岐阜城(ぎふじょう)と改め、そこを本拠とした織田信長(おだのぶなが)は、
「もし上洛するなら、朝廷に対してインパクトの強い手土産が欲しい」
と考えておりました。

そんな両者の利害関係が一致して現実したのが、永禄十一年(1568年)9月の義昭を奉じての信長の上洛・・・(9月7日参照>>)

10月18日には義昭が第15代将軍に就任(10月18日参照>>)、信長も将軍のための御所を建設したり(2月2日参照>>)などしていましたが、両者の蜜月は、そう長くは続かず・・・元亀元年(1570年)1月に『信長朱印条書(五ヶ条の掟書)を信長が義昭に突き付けたあたりから(1月23日参照>>)両者の仲はギクシャク感満載となって来ます。

そんな中、信長は上洛の際から抵抗し続けていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)(1月5日参照>>)南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角承禎(じょうてい=義賢)(6月4日参照>>)に加え、越前朝倉義景(あさくらよしかげ)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)とも敵対し(5月6日参照>>)、さらに、三好に味方する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(9月14日参照>>)、浅井&朝倉に味方する比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)(9月12日参照>>)ともドンパチやり始めます。

信長の周囲が敵だらけの、この状況に、敵対する諸将にせっせと連絡を取って、いわゆる「信長包囲網」を形勢しようとする義昭・・・

元亀三年(1572年)の10月には、信長が義昭に対し、17カ条に及ぶ意見書を提出しますが、義昭が意見を聞くどころか、逆に、これが、両者の間に決定的な亀裂を生む事に・・・(17ヶ条の内容については【信長の意見書に義昭が反旗】を参照>>前後の内容カブッてますがスミマセン)

そんな中、信長が、かつての姉川の戦いにて決定的なダメージを与えられなかった浅井の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)をせん滅すべく、周辺の諸城を押さえて(7月22日参照>>)、そろそそ浅井攻めにかかろうとした、その時、
「本願寺の通じた信玄が西上(せいじょう=上洛?)して来る」
と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)信長包囲網参戦の噂が流れます。

信長が、一旦、岐阜に帰陣して様子を伺うと、案の定、10月に甲斐を出た信玄が西へ西へと進み、
10月13日には一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)>>
10月14日には二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)>>
12月22日には三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)>>にて、信長の同盟者である三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)をコテンパンにし、
翌日の23日には、前日に討ち取った平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役の平手政秀の息子)の首を岐阜に送り届けて(12月23日参照>>)ヤル気満々な態度を示し、
年が明けた元亀四年(天正元年・1573年)の1月には野田城(のだじょう=愛知県新城市)に攻撃を仕掛けます(1月11日参照>>)

同じ1月には、状況を察した信長が、義昭に、息子を人質に差し出しての和睦を持ちかけますが、義昭はその案を一蹴した後、元亀四年(天正元年・1573年)2月、浅井&朝倉、そして武田&本願寺と密約を交わして挙兵したのです。

まずは三井寺(みいでら=滋賀県大津市・園城寺)光浄院暹慶(こうじょういんせんけい=後の山岡景友)を挙兵させると、同調して山中の磯貝新右衛門(いそがいしんえもん=磯谷久次)渡辺宮内少輔(わたなべくないしょうゆ)らも兵を挙げます。

暹慶が、本願寺の顕如(けんにょ=第11代本願寺法主)に呼びかけると、江南(こうなん=琵琶湖南部)に点在する本願寺門徒が一揆と化して集合し、伊賀(いが=三重県伊賀市)甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)の者たちも集まって来て戦備を整え始め、そこに六角勢も登場・・・

石山(いしやま=滋賀県大津市)今堅田(いまかたた=同大津市)(とりで)を築いて、やって来るであろう信長軍の入京を阻止しようとします。

足利将軍家の側近であった細川藤孝(ほそかわふじたか)から、その情報を得た信長は、義昭の側近くにいる僧=朝山日乗(あさやまにちじょう)や、後に京都所司代となる村井貞勝(むらいさだかつ)を通じて、義昭の説得にあたりますが、義昭は断固として応じる様子を見せず・・・

やむなく信長は、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)蜂屋頼隆(はちやよりたか)らを将として2月20日に出陣・・・

勢田(せた=同大津市南部・瀬田)から琵琶湖をを渡り、元亀四年(天正元年・1573年)2月24日まずは石山に攻撃を仕掛けます。

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石山・今堅田の戦いの位置関係要図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

未だ完成半ばだった石山の砦は、織田軍の総攻撃に耐え切れず、2月26日には開城して主将の暹慶も退散してしまいます。

信長は、すぐに石山の砦の破却にかかり、そこに柴田勝家を留め置いて、今度は、今堅田に向かって攻撃を開始するのです。

2月29日朝、明智光秀が囲船(かこいぶね=漕ぎ手や兵士を防御する櫓を船体上部に備えた攻撃用の船)で湖上から西に向かって攻めると、丹羽長秀と蜂屋頼隆が南西側から北東へと進軍して攻め立てます。

正午頃、明智軍が突破口を開くと、織田勢が、なだれのように砦へ突入・・・その勢いに、最前線のわずか数騎を斬り倒しただけで、城兵は、慌てふためいて開城し、散り々々に退散してしまいました。

その後、3月29日に京都に入った信長を逢坂(おうさか=滋賀県大津市)で出迎えたのは、かの細川藤孝と荒木村重(あらきむらしげ)・・・二人がハッキリを織田の傘下を表明した事で上機嫌の信長は知恩院(ちおいん=京都府京都市東山区)に陣取ります。

一方で、その3日後の3月2日には、武田信玄の重臣=秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)の攻撃を受けていた織田方の岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)が開城されますが(3月2日参照>>)、それを知ってか知らずか、強気の義昭は居城の二条御所(にじょうごしょ=京都市上京区・義昭御所)に籠り、未だ抵抗を続けます。

しかし、ご存知のように、この頃には、かの武田信玄率いる本隊は、もう西へは進んでおらず、甲斐へUターン中・・・その後、4月12日に信玄は亡くなるわけですが・・・(4月12日参照>>)

おそらく、そんな事は未だ知らぬ両者・・・信長は、ここでまたもや義昭に和睦を提案しますが、義昭はまたもや拒否して、3月30日には村井貞勝の屋敷を包囲して焼き払ったの です。

そのため、4月4日に信長は、義昭の支持者や幕臣が多く居住する上京(かみぎょう)に火をかけて(4月4日参照>>)義昭陣営を威嚇する一方で、朝廷に働きかけます。

すると、翌4月5日に朝廷からの停戦の勅命(ちょくめい=天皇の命令)が出て、さすがの義昭も折れ、講和が成立・・・

信長は、この義昭の一連の行為を「幕臣内の反信長勢力の中心人物であった上野秀政(うえのひでまさ)に義昭がそそのかされてやった事」として義昭を責める事はなく、また上野秀政も信長に謝罪した事からこれを許し、4月7日に兵を退きあげ、その日は守山(もりやま=滋賀県守山市)に宿泊しました。

この一件があり、信長は、いつでも琵琶湖を渡って、一気に京都に入れるようにと大船を建造する事にし、それが完成するのが7月3日・・・(7月3日参照>>)

その大船は、それから、わずか2日後に、その威力を発揮する事になるのです。

そう、7月5日に足利義昭が講和を破って再び挙兵・・・その時、琵琶湖の東岸の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)にいた信長は、大船に乗って、わずか1日で京都に入り三淵藤英(みつぶちふじひで=細川藤孝の異母兄)らが守っていた二条の義昭御所を制した後、義昭自身が籠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)へと向かうのです。

という事で、
槙島城の戦いについては2012年7月18日の【槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重】>>の後半部分でどうぞm(_ _)m

…に、しても、、、
昨年から今年の大河『麒麟がくる』でも、そうであったように、

なんで?信長さんは、いつも鬼のような人に描かれるんでしょうね~
今回は光秀が主役だから仕方ないにしても、別の人が主役でも、なぜか、そうなっちゃう・・・

もちろん、殺戮が無かったとは言いません。

でも、それは、あくまで最終段階だし、最終的に殺戮となるのは戦国武将なら皆やってるし、比叡山にも荒木村重(3月2日参照>>)にも、そこへ行くまでに何度も「開城してよ」「和睦してよ」「そしたら許すから…」と声かけてるし、何なら、義昭さんには対しては1回目は完全にお咎め無しやし・・・

いつか、信長さんが麒麟を連れて来るドラマも見てみたいものです。

宴会で率先して女装したり、相撲大会で喜んだり(2月29日参照>>)、安土城のメインゲートでもぎりのように入城料もらってる姿(1月23日参照>>)なんか、映像的にも、けっこう見ものだと思うんですけどね~
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2021年2月18日 (木)

德川家康の甲州征伐…小山→持船→田中→蒲原

 

天正十年(1582年)2月18日、織田信長の甲州征伐に向かう徳川家康が浜松城を出陣・・・その日のうちに掛川城に入りました。

・・・・・・・・

この家康の出陣は、ご存知、信長の「甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田攻め)の事ですが、今回は駿河口を任された家康の動きを中心に・・・
と言っても、このあたりの事は何度か書かせていただいていますので、少々内容がかぶり気味にはなりますが、時系列的にご紹介させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・

「海道一の弓取り」と称された駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する大大名=今川義元(いまがわよしもと)が、永禄三年(1560年)5月の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市緑区)にて尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に倒れて(5月19日参照>>)後、

その桶狭間キッカケで独立した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)と、これまで北東方面に領地拡大を図っていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、永禄十一年(1568年)9月に第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)信長の仲介により、

勝利のあかつきには遠江を家康が、駿河を信玄が取るという約束を交わし、
信玄が北から…(【今川館の戦い】参照>>)
家康が西から…(【掛川城攻防】参照>>)
義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)を攻める、見事な連携プレーを見せたわけですが、

その時、掛川城を落とすのに手間取った家康は、相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)と同盟を結び、その力を借りて掛川城を陥落に持ち込んだのです。

かつて、北東の越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)に対抗するため(【川中島の戦い】参照>>)、武田&今川&北条の3者にて結んだ甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)(3月3日参照>>)を、今回は破棄した形で今川を攻めた信玄にとって、家康が北条と手を組んだ事は怒り心頭・・・

信玄は、德川とは手切れとし、その同盟者である信長とも敵対する事になります(【大宮城の戦い】参照>>)

やがて信長が、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)(9月12日参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(9月14日参照>>)などと対立するようになった元亀三年(1572年)、信玄は「上洛するつもりだった?」とも言われる西上作戦(せいじょうさくせん)を開始し、
一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)など、
駿河&遠江の各地を次々と落として、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)では家康を自刃寸前まで追い込みます(12月22日参照>>)

が、年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)を最後に、なぜか武田軍はUターン・・・

そう、病気が悪化した信玄が4月12日に亡くなってしまうのです。

信玄亡き武田家は四男の武田勝頼(かつより)が継ぐ事になりますが、信玄の死を知った家康が「これはチャンス!」とばかりに、先の西上作戦で落とされた城の奪回&領地の回復を図るのです。

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家康の甲州征伐の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

信玄の死からわずか5ヶ月後の9月には、早速、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)(9月8日参照>>)を奪いますが、

一方の勝頼も負けておらず、
天正二年(1574年)2月には明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)(2月25日参照>>)
3ヶ月後の5月には高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)(5月12日参照>>)と、信玄時代より多い領地を手に入れ、その翌年=天正三年(1575年)5月、2年前の信玄の死の直後に家康に奪われたままになっている長篠城を取り返しに来ます。

これが、ご存知・・・有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)です。

今では、「以前から言われるほどの織田&德川連合軍の圧勝」ではなく、「両者ともに必死のパッチで拮抗した戦いであった」という見方をされ始めてはいますが、一方で、この戦いで武田方の古くからの重臣が多く討死した事は事実で、それによって、主君=勝頼と家臣たちとのギクシャクした主従関係が深まった事も確かなようです。
(↑信玄の遺言にも一因あり?4月16日参照>>

そのためか?
長篠設楽ヶ原以降の家康は、怒涛の如く、武田の城を奪って行く事になるのです。

合戦から1ヶ月と経たない
天正三年(1575年)6月24日に光明城(こうみょうじょう=静岡県浜松市天竜区)
8月24日に諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)

11月24日に信長が岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)を奪回(12月24日参照>>)すると、

またもや家康が12月に、あの二俣城を奪回(12月24日参照>>)
このあと、天正五年(1577年)・天正七年(1579年)と何度も持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を落とせずにいましたが、天正九年(1581年)3月には、とうとう高天神城を奪った家康(3月22日参照>>)・・・

そんなこんなの天正十年(1582年)1月27日、勝頼のもとに妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)織田方へ寝返ったとの報告が入ります。
(実際には2年前くらいから水面下で織田に内応してましたが…)

早速、翌日、勝頼は従兄弟(信玄の弟=信繁の子)武田信豊(のぶとよ)と弟の仁科盛信(にしなもりのぶ)を、それぞれ大手(おおて=正面)と搦手(からめて=側面)の総大将に命じて木曽谷(きそだに=木曽川上流の流域・義昌の所領)へ向かわせたのです。

これを知った義昌が、信長に救援を要請・・・こうして天正十年(1582年)2月、織田信長の甲州征伐が開始されるのです(【甲州征伐開始】参照>>)

2月3日、信長は嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将にした主力軍を木曽・岩村口から、北条氏政(ほうじょううじまさ)関東口から、金森長近(かなもちながちか)飛騨(ひだ=岐阜県北部)から・・・そして、徳川家康を駿河口から、それぞれ、武田の領国へと侵攻させます。

岩村口の先鋒=滝川一益(たきがわかずます)河尻秀隆(かわじりひでたか)らが2月6日に滝沢城(たきざわじょう=長野県下伊那郡平谷村・滝沢要害)を落とし、14日には松尾城(まつおじょう=長野県飯田市)を落とす中、この一報を聞いた小山城(こやまじょう=静岡県榛原郡吉田町)では、2月16日、城兵の一部が手勢もろとも密かに城を脱出・・・

その状況に、城将の大熊長秀(おおくまながひで)「このままでは城を支えきれない」と判断し、甲斐へと兵を退き、小山城は自落しました。

おかげで、これまで天正三年(1575年)と天正六年(1578年)と2度に渡って攻撃しながらも落とせなかった小山城を、難なく手に入れた徳川家康は、

その勢いのまま、大須賀康高(おおすがやすたか)酒井忠次(さかいただつぐ)らに命じて田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)へ向かわせる一方で、自らは天正十年(1582年)2月18日浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市中区)を出陣して掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に入ります。

さらに、その3日後の2月21日に駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を押さえる一方で、当目坂(とうめざか=静岡県焼津市)に差し掛かった德川軍先鋒が、持船城を守る朝比奈信置(あさひなのぶおき)の家臣=奥原日向守(おくはらひゅうがのかみ)の待ち伏せに遭い、激しい戦いとなりますが、德川軍は勝利して、ここを突破・・・

その勢いのまま持船城を囲み、23日には総攻撃を開始し、耐えかねた朝比奈信置は27日に降伏して29日に持船城を家康に開け渡したのでした(4月8日参照>>)

その頃、家康が家臣を向かわせていた田中城・・・

ここも、家康は天正六年(1578年)3月、天正八年(1580年)5月など、複数回に渡って攻め立てていたものの、なかなか落とせずにいた城なわけですが、それには、あの天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原の後に奪回した二俣城の城将であった依田信蕃(よだのぶしげ)が、落城した後に甲斐へは戻らず、ここ田中城に入って城番となっていた事にも一因があったのかも知れません。

なんせ依田信蕃は、かなりの勇将・・・今回の攻防戦でも、德川軍は大手を破って曲輪(くるわ)に入り、180もの首級を挙げて、それらを城下に晒して威嚇していましたが、本丸にまでは届かず、籠城戦となっていたのでした。

そこで家康は、
「今、城を明け渡せば、信濃の本領を安堵する」
と、城内の依田信蕃を説得・・・3月1日になって、ようやく説得を受け入れた依田信蕃が田中城を開城しました(2月20日参照>>)

一方、この家康の動きに前後して、
関東口の北条氏政が2月28日に、北条から武田へ寝返った笠原政晴(かさはらまさはる)戸倉城(とくらじょう=現在の静岡県駿東郡清水町)を落とし、その勢いにビビった三枚橋城(さんまいばしじょう=静岡県沼津市大手町)深沢城(ふかさわじょう=静岡県御殿場市)が自滅・・・織田本隊が3月2日に仁科盛信の守る高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)を落城させています(【高遠城の仁科盛信が自刃】参照>>)

この間、3月1日に寝返った穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)江尻城(えじりじょう=静岡県静岡市清水区)への憂いがなくなった家康は、さらに東の蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を3月4日に落としますが、実はこの蒲原城は、かつて北条の城だったのを永禄十二年(1569年)に武田信玄が奪った物(12月6日参照>>)・・・

今回、北条が東から駿河へ、家康は西から駿河へ、対・武田という利害が一致して進んで来ましたが、できるだけ多くの駿河内の領地を確保したいのは、家康も北条もお互い様なわけで・・・

そんな中、織田軍の猛進撃に、3月3日には居城の新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)に火を放ち、家臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の勧めで、彼の城である岩殿城(いわどのじょう=山梨県大月市賑岡町)へ向かった武田勝頼でしたが、その信茂にも裏切られ、最後にはわずかに50名の主従となって、死地を求めて天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町付近)を彷徨い、3月11日に自刃・・・ここに、武田氏が滅亡して、この大きな戦いも終る事になりました。
【武田勝頼の逃避行~信長の甲州征伐】>>)
【武田滅亡~天目山の戦い】参照>>)
【勝頼ととも死した北条夫人桂林院】参照>>)

ちなみに、同時進行で北陸富山(とやま)でも一波乱ありましたが、ソチラは織田軍北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)前田利家(まえだとしいえ)らが、ソツなく対応しております(【富山城の戦い】参照>>)

その後は、総大将の織田信忠が恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市塩山小屋敷)を焼き討ち(4月3日参照>>)する中、信長は論功行賞を行い(3月24日参照>>)4月20日に岐阜から安土への帰路についています(4月4日参照>>)

とは言え、このわずか41日後に、あの本能寺の変があるわけで・・・(2015年6月2日参照>>)

案の定、この後、ここらへん一帯は、北条と德川の取り合いになるわけですが、そのお話は【天正壬午の乱~若神子の対陣】でどうぞ>>
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2021年2月11日 (木)

武田信虎VS北条氏綱~猿橋の戦い

 

大永四年(1524年)2月11日、甲斐武田信虎相模北条氏綱の国境線争い…猿橋の戦いがありました。

・・・・・・・

明応二年(1493年)に堀越公方(ほりごえくぼう=室町幕府から関東支配を命じられるが鎌倉に入れず堀越を拠点としていた)「伊豆討ち入り 」にて倒し(10月11日参照>>)、明応四年(1495年)には、後に居城となる小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取(2月16日参照>>)した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)は、更なる相模(さがみ=神奈川県)進行を狙う一方で、そのけん制として、背後にあたる甲斐(かい=山梨県)との国境線である都留郡(つるぐん=大月市・都留市・富士吉田市などの周辺)あたりへと度々出兵しておりました。

明応四年(1495年)8月には籠坂(かごさか= 山梨県南都留郡山中湖村)に、
文亀元年(1501年)9月には小倉山(おぐらさん=山梨県富士吉田市)周辺に、
さらに文亀三年(1503年)にも梨木沢(なしきさわ=山梨県南巨摩郡富士川町)
などなど、複数の合戦が記録されています。

とは言え、この頃は、未だ北条早雲は、駿河(するが=静岡県西部)今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)部将としての色が濃く、一方の甲斐も、国境線の都留郡を領していたのは小山田弥太郎(おやまだやたろう=信隆?)で、未だ小山田氏は武田(たけだ)に属していないので、

厳密には、小山田VS今川方の早雲との戦いという事になるわけですが・・・

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↑猿橋の戦い前後の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、やがて永正十六年(1519年)8月の早雲の死後に北条を継いだ息子=北条氏綱(うじつな)は、今川から独立した戦国大名としての道を歩みはじめ、

一時は戦乱状態だった甲斐も(7月22日参照>>)、第17代当主の武田信虎(たけだのぶとら)が内紛を治めて武田宗家を統一し、この時に信虎に帰服した小山田氏は武田家家臣として生き残る事になり、大永元年(1521年)10月には飯田河原(いいだがわら=甲府市飯田町)の戦いに勝利して(10月16日参照>>)信虎が甲斐統一に成功します。

つまり、ここからは相模と甲斐の国境線の戦いは、イコール北条氏綱と武田信虎の戦いとなり、それは、これまでとは次元の違う大きな物となっていくわけです。

そんなこんなの大永四年(1524年)1月、北条氏綱は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)の拠る江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を奪取(1月13日参照>>)した事で、次に、朝興と同盟関係にある信虎の甲斐へと矛先を向けたのです。

これに対し信虎は、2月7日に1万8000の兵を率いて猿橋(さるはし・えんきょう=山梨県大月市猿橋町)に着陣します。

かくして大永四年(1524年)2月11日両者は猿橋にてぶつかったのです。

戦いの詳細は明らかではありませんが、このあと、戦場を小猿橋(こさるはし=神奈川県相模原市緑区北西部・旧津久井郡吉野町)に移動して、そこで複数の合戦があったように記録されていますので、おそらくは信虎が押し勝って、相模への侵入を果たし、北条が少し退き下がった格好になった物と思われます。

その後、信虎は、3月に武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)へと侵入し、7月には、先の江戸城戦で北条に寝返った岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)太田資高(おおたすけたか)を攻めていますが、

一方で氏綱が山内上杉家(やまうちうえすぎけ)上杉憲房(のりふさ)に働きかけて和睦を結んだ事から、武蔵遠征から帰国した信虎は、翌・大永五年(1525年)に入って、北条と和睦を結びました。

というのも、扇谷&山内の両上杉家は、ともに関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)を継承しながらも上杉同士で対立していたのを、信虎が介入して「対北条」という所で利害が一致し、ここのところは協力関係にあったので、「その山内上杉と北条が和睦したのなら…」という事のようですが、これは、単に表立った合戦をしないだけで、政治的な対立は治まる事なく、結局、この和睦は、わずかの間で破綻する事となります。

それは大永五年(1525年)2月(早っ!w@o@)w)・・・

氏綱が越後(えちご=新潟県)長尾為景(ながおためかげ)と連携して上野(こうずけ=群馬県)に侵攻しようとした際に、信虎が道を譲らなかったとか、為景が氏綱に贈った鷹を信虎が奪い取ったとか・・・

とにもかくにも、またもや、旧津久井郡付近で度々の合戦を繰り返していたようですが、
『勝山記』には、「津久井ノ城不落」とある事から、信虎は北条配下の津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市緑区)を落とせぬまま、

戦いは、
享禄三年(1530年)八坪坂(やつぼざか=山梨県上野原市)(4月23日参照>>)
さらに天文四年(1535年)の万沢口(まんざわぐち=山梨県南都留郡南部町)&山中湖(やまなかこ=山梨県南都留郡山中湖村)(8月19日参照>>)という激しく大きな戦いへと向かっていく事になります。

ちなみに、
ご存知のように、今回登場した皆々様は、、、
武田信虎は武田信玄(しんげん=晴信)の父、
今川氏親は今川義元(よしもと)の父、
北条氏綱は北条氏康(うじやす)の父、
長尾為景は上杉謙信(うえすぎけんしん)の父、
小山田弥太郎は武田二十四将の一人の小山田信茂(のぶしげ)の爺ちゃんか叔父さん、
と、まぁ、有名な戦国武将のお父ちゃん世代のお話という事になります。
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2021年2月 8日 (月)

麒麟が行っちゃったので戦国ロスになる~大河ドラマ『麒麟がくる』最終回「本能寺の変」の感想

 

本能寺の変の動機が渋滞し、アレやらコレやらがとっ散らかったままで、あと1回でどないなるんやろ?と思っていた大河ドラマ『麒麟がくる』が、

いやはや、お見事!

なかなかにスッキリする最終回「本能寺の変」でした。

主人公が明智光秀で悲しくない終わり方をするには、ベストな終わり方やったと思います。

ただ、こういう終わり方をするなら、なんで?
先週のラストは、あんな憎悪丸出しの表情で終わったのか?が気になりますけどね。

とにもかくにも、あの宴会の激怒から、
「いやいや、気にせんといてな(^o^)アレは、風間くんがどう出るか?を見てただけなんよ」
という染谷信長ツンデレ攻撃から始まった最終回・・・

いきなり降って湧いたように登場した長宗我部攻め長谷川光秀が困惑する中、
お前は鞆の浦に行って
「足利義昭を殺せ」
と信長・・・

確かに「意外な最終回になる」とは聞いていましたが、
まさかまさかの公方様暗殺とは・・・なるほど、意外でした。

ドラマでは、京都追放後もかなりの重要人物扱いされている滝藤公方様ですが、実際は、来られた方の毛利もけっこう迷惑がってて、仕方なく預かってる感じです。

前にも言いましたが、将軍は朝廷からの「将軍宣下」によって決められる物なので、朝廷が「お前クビ!」としない限り将軍様ですから、さすがに、逃げ込んで来られた以上毛利も邪険にはできないので預かってますが、もはや、そういった権力的なものは、すでに無かったように思いますので、今更、将軍を暗殺して、その罪(将軍はともかく宣下してる朝廷に歯向かう事になる)を被ろうという人も少ないと思われます。

ドラマでの公方様は、荒木村重の謀反のキッカケになったり、丹波平定の難しさの根源だったりするほどの人であり、一方で長谷川光秀に
「十兵衛一人の京都なら戻ってもイイ」
なんてラブコールしてくれてる人なので、この「暗殺して来い」が謀反の引き金になるというのもアリでしょう。

また、降って湧いた長宗我部の一件は、本能寺の謎解きの中の『四国説』(6月11日参照>>)の根拠となっている事もあって、さすがにスルーできなかった感じでしょうが、実際には信長と長宗我部の間に入っての和睦交渉を担当していたのが光秀で、その努力が叶わず面目が潰れた事によって本能寺の動機と考えられているのですが、ドラマの中では『四国説』には重きを置かれていないようなので、「私の知らないところで…」みたいな、信長の極悪ぶりを表現する題材として、あんな感じになったんでしょうね。

そんな中、染谷信長から、
(平和になったら)二人で茶でも飲んで暮らさないか」
と、熱烈プロポーズされる長谷川光秀・・・

かつての伊藤義龍がそうであったように(第19回の感想>>)
信長もまた、
茶釜隠されようが、
勝手に公方様に会いに行かれようが、
命令に背かれようが、
光秀LOVEが止まらない~

と、そこで、
メッチャ良いタイミングで、
息子と嫁=芦田たまちゃんを連れて京都に滞在してる眞島藤孝に会いに行く長谷川光秀・・・

そこで、密命であろうはずの「将軍暗殺」をちゃっかり知っちゃってる藤孝に、
「信長を諌める覚悟はおありか?」
と問ただすも、答えに詰まる藤孝は、すでに佐々木秀吉と仲良しでしたとさ。。。

そんな藤孝や秀吉どころか、玉三郎天皇様伊呂波大夫まで=って事は、つまりは津々浦々まで信長と光秀の不穏な空気が伝わってる中で、ものすンごい無防備で宿所の本能寺に入っちゃう信長さん

その一方で、光秀は、
「我が敵は本能寺にあり。その名は織田信長と申す」宣言し、いよいよドラマは本能寺の変へ・・・

と、ここで
前夜の囲碁のシーンや、その場に島井宗室がいた事がドラマで描かれたのは珍しいんじゃ?
 ●「本能寺前夜」参照>>
 ●「本能寺と堺」参照>>
こういう所が、やはり大河ですよね~

しかも、その後の本能寺への襲撃の映像も見事でしたね~。

夜が明けきれぬ前の行軍、
染谷信長の見事な泣き笑いからの
「是非もなし」
矢で応戦の次に槍、槍が折れたら刀で奮戦、からの
「わしを焼き尽くせ!」
♪敦盛♪は舞わなかったけど、染谷さんの名演技が冴えまくり、の良い死に際でした。

コロナ禍の中、よくぞ、ここまでの戦闘シーンを撮ってくださいました。。。

信忠さんが「二条御所でご最期」の伝聞だけのほぼスルーで同時攻撃したっぽいニュアンスだったのは、ちょっと悲しかったですが・・・

あと、史実としての本能寺の後、わずかの間で倒れてしまう事からも解る通り、本来、クーデターという物は起こした後が最も重要・・・もちろん、そのために事前準備や根回しなど徹底的にやっておかないといけないし、やった後にも瞬時にこなさなければならに事が山積みです。

それこそが、この本能寺の変の最も謎な部分なんですよね~

その優秀さから、織田政権での出世頭であり、最も信長に気に入られていた光秀・・・もちろん、そんな光秀が謀反を起こす、その動機も謎なんですが、優秀なはずの光秀のその後の処理の仕方も、やっぱり謎なんですよね~

なんだか、信長を殺した後の事をまったく考えて無かったように見える気がする。
【明智光秀が細川藤孝に送った書状】参照>>
ドラマでもあった通り、結局、藤孝も筒井順慶も味方しなかったわけですし・・・。
おそらく、何かしらの記録が欠落してるんだと思います。

まぁ、おかげで、あーだこーだと色々と推理の花を咲かせる事ができるんですけどね。

ところで、ドラマは・・・
結局、山崎の天王山も描かれない中、生存説ときました~~~

でも、冒頭に書いた通り、光秀主役なら、それもアリでしょう。
てか、その終わり方が1番平和ですwww

黒幕なんていない、
本能寺の変は光秀が単独で決断した事、

それは、信長のラブコールへの返事・・・

「信長様は変わられた」
と言った光秀に
「変えたのはそなたじゃ」
と言った信長に対する無理心中だったのかも知れませんね。

でも、そんな最後じゃ悲し過ぎるので、
生存説からの家康との協力で平和な世を作った?・・・って、事なのでしょう。

不肖私、今の今まで、あの天海和尚の兜の前立てが『麒麟』デザインである事をすっかり忘れておりました。

もはや、1年とちょっと前、いや、最初の一報からは2~3年前、
このドラマが『麒麟がくる』という題名に決まった時から、落としどころは光秀=天海だったのですね。
(最終回になって気づくとは不覚(ToT)なり)

もちろん、大河ドラマなので、
あくまで噂に過ぎない光秀=天海説(参照>>)を推すのではなく
「そこの所はご想像にお任せします」
では、ありますが、やはり、夢を持たせる終わり方なら、そう来なくっちゃ!ですね。

私は、前々から(その真偽はともかく)
光秀生存からの

天海になって家康助ける

光秀の娘を密かに預かって斎藤利三の嫁(光秀の妹?)が育てる
 (史実にカウントされてない子がいたはず…)

その娘は春日局

春日局が家康とデキてる

その息子が家光

なんて妄想満載のドラマもオモシロイんじゃないか?って思ってたりします。

まぁ、大河ですから、そこまでは無いにしても、含みを持たせて見ている側に「その後は想像してね」という、今回のような終わり方もアリなのではないか?と思います。

とにもかくにも、色々とやりっぱなしの感はありますが、そこはコロナのせいで思い通りの撮影ができなかったので致し方ない部分もあり、そんな中で、見事な最終回に持っていかれた製作者&スタッフの皆さま、おそらくは直前に変更されたであろうセリフであっても、それを見事に自分の物にして演じられた俳優の皆さまに、お疲れ様と感謝の意を表明します。

私共は、これにて、ほぼ1年に渡って書かせていただきました
大河ドラマ『麒麟がくる』の感想を終えさせていただきたいと思います。

とか言いながら、また何か気づいた事があったら書いちゃうかも知れませんが・・・

★関連ページ
●愛宕山の連歌会>>
●本能寺・前夜>>
本能寺の変~『信長公記』より>>
●その時、安土城では…>>

★色んな説ご紹介
●堺の商人・黒幕説>>
●豊臣秀吉・黒幕説>>
●徳川家康・黒幕説>>
●家康暗殺計画(431年目の真実)>>
●突発的な単独犯(タイムラグ)>>
●四国説>>

★本能寺の変の後関連
信長の首は静岡に?>>
●徳川家康の伊賀越え>>
●秀吉の中国大返し>>
●洞ヶ峠>>
●天王山!山崎の戦い>>
●安土城が炎上>>
●明智秀満の湖水渡り>>
●天海=明智光秀説>>

★その他の出来事は
●戦国:信長安土の年表>>
●戦国:秀吉桃山の年表>>
 からどうぞm(_ _)m
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2021年2月 4日 (木)

今川から妻子を取り戻せ!~徳川家康と鵜殿長照の上ノ郷城の戦い

 

永禄五年(1562年)2月4日、先の桶狭間キッカケで独立した徳川家康が、今川領に残した妻子を取り戻すべく、今川配下の鵜殿長照の上ノ郷城を襲撃しました。

・・・・・・・・

上ノ郷城(かみのごうじょう=愛知県蒲郡市 )を居城とする鵜殿長照(うどのながてる)は、祖父の代から今川(いまがわ)に仕えており、先代=鵜殿長持(ながもち)今川義元(いまがわよしもと)の妹の間に生まれた武将です。

当時の今川義元は、本領の駿河(するが=静岡県東部)に加え、遠江(とおとうみ=静岡県西部)も領したうえ、尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)の侵攻によって風前の灯となってる松平広忠まつだいらひろただ)の要請を受けて(3月6日参照>>)、その息子の竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を手元において三河(みかわ=愛知県東部)をも間接支配する大大名でありました。

その義元の妹を母に持つ鵜殿長照ですので、家臣というよりは、もはや今川の親族のような扱いで重用されていたわけです。

一方、天文二十年(1551年)3月に大黒柱の織田信秀を亡くしていた織田家では、息子の織田信長(のぶなが)が後を継ぐも、未だ尾張一国を統一できていなわ、弟・織田信行(のぶゆき=信勝)との内紛はくすぶるわで、織田を見限り今川方に寝返る者も出る始末【三の山・赤塚の合戦】参照>>)・・・

そこで天文二十三年(1554年)1月の村木砦の戦い(1月24日参照>>)でチョイと盛り返した信長は、先の赤塚で今川に寝返った山口教継(やまぐちのりつぐ)鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)や、織田VS今川の最前線の要地に建つ今川配下の大高城(おおだかじょう=名古屋市緑区)周辺に複数の砦(とりで)を構築し、これ以上の義元の侵攻に備えます。

そんなこんなの永禄三年(1560年)5月、いよいよ「天下に一番近い男」「海道一の弓取り」と称される義元が、大軍を率いての尾張侵攻を開始するのです。

この時、大高城の城代を務めていた鵜殿長照・・・織田方の砦に囲まれつつも、絶対に守らねばならぬ要地ゆえ身動きが取れず、いつしか城内の兵糧が枯渇し、もはや周辺の野山の草木を取って飢えをしのぎつつ、城兵を鼓舞して何とか耐えていましたが、そんな敵ウヨウヨ状態の大高城に兵糧を運び込んでくれたのが、父亡き後も、ずっと今川にて人質生活を送っていた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)でした。
(ここで大高城の守備担当が長照から家康に代り、家康はそのまま大高城に留まる事になったとされます)

その兵糧運び込みがあったのが永禄三年(1560年)5月19日の未明・・・そう、この半日後に、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町&名古屋市緑区有松町)の戦いがあり、ご存知のように今川義元は討死(2015年5月19日参照>>)となったわけで・・・

Tokugawaieyasu600 で、以前書かせていただいたように、義元死すの知らせを聞いた家康は、今川領へとは戻らずに亡き父の持ち城であった岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)へと入り、今川からの独立行動に出ます(【桶狭間の戦いでの家康は…】参照>>)
(岡崎への帰還は今川の許しがあった…との説もあります)

一方、鵜殿長照は、義元の死を知った途端に一目散に自身の本領へと逃げ帰っています(家康の岡崎行きより速かったらしい)

とは言え、
この後、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)が頑張るものの、亡き父の存在があまりに大き過ぎた事で領内は混乱して、次々と今川を去る者が出て、果ては鵜殿の分家までが離反するものの鵜殿長照は今川を裏切る事無く、最後まで留まっていたとか・・

一方、岡崎に戻って独立後、西三河の平定を目指す家康は(7月6日参照>>)、永禄五年(1562年)1月に、今や尾張をほぼ統一して隣国の美濃(みの=岐阜県南部)にも手を出して(5月14日参照>>)なかなかの上り調子だった織田信長との同盟を結びます清須同盟>>)

上記の通り、義元を倒した相手である信長と同盟を結んだのですから、これは、家康にとって、完全なる「今川との決別宣言」となるわけです。

ただ一つ・・・家康にはやり残していた事がありました。

あの桶狭間のドサクサで、そのまま岡崎城に入ったので、奥さんと子供を今川領の駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に置いて来たままだったのです。

家康の正室=築山殿(つきやまどの=当時は瀬名姫?)は、今川義元の姪(もしくは伯母)の子供であったと言われ、家康と築山殿の婚姻は、家康を今川の一族に迎える意味もあったとされていますので、奥さんの築山殿としては今川は実家なわけですが、家康が敵に回った今となっては、例え身内であろうと、その身が安全である保障はありません。

そして、その築山殿とともにいるのが、未だ4歳の長男=竹千代(後の信康)と3歳の長女=亀姫(かめひめ)・・・コワイ嫁はんはとくもかく何としてでも、この三人を取り返したい家康さん。。。

そう言えば、かつて、自分も・・・
人質として今川に送られるはずだったのが、途中で織田に奪われ(8月2日参照>>)、しばらくの間、尾張で過ごしたものの、その後、義元家臣の太原雪斎(たいげんせっさい)の軍略によって救い出された事があったっけ。。。

そう・・・あの安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)の戦い織田信広(のぶひろ=信秀の長男・信長の兄)を生け捕りにした雪斎が、父の信秀と交渉して、自分(家康)人質交換して取り戻した、あの方法です(11月6日参照>>)

そうと決めた家康は、ターゲットを探します。。。それが鵜殿の上ノ郷城でした。
(現当主=氏真の従兄弟やからね~でも築山殿も従兄弟かも知れない)

もちろん、目指す相手は、すでにオッサンの鵜殿長照ではなく、未だ10代前半の少年である息子=鵜殿氏長( うじなが)氏次(うじつぐ)兄弟。
(10代2人と幼子2人+母ならちょうどえぇ…かも)

かくして、
かの清須同盟から、わずか半月の永禄五年(1562年)2月4日、家康から、生け捕り作戦の総大将を命じられた松井忠次(まついただつぐ=後の松平康親)久松俊勝(ひさまつとしかつ)が、甲賀の忍び=伴太郎左衛門資家(ばんたろうざえもんすけいえ)ら80名とともに上ノ郷城内に忍び込み、氏長&氏次兄弟の生け捕りに成功するのです。

『寛政重修諸家譜』等では、
上記のような「上ノ郷城内に忍び込み」と書かれていたり、
「生け捕られたのは鵜殿長持の息子の長照&長忠兄弟」と書かれていたりしますが、
他の複数の文書から長持の死没が 弘治三年(1557年)である事が定説となっていますし、逆に『正行院の過去帳』では、長照が、この永禄五年(1562年)2月4日に亡くなっていますので、おそらく、生け捕りにされた兄弟というのは長照の息子=氏長&氏次兄弟であったと思われます。

そう、実は、落城した上ノ郷城から、何とか脱出した長照が現在の愛知県蒲郡市清田町にある安楽寺(あんらくじ)の横の坂で、先の伴太郎左衛門資家に討ち取られたために、今でも、この坂は「鵜殿坂」と呼ばれているそうで・・・

なので、上記の『寛政重修諸家譜』の内容のように「忍び込んだ」というよりは、やはり城攻めとなったものと思われ、結局は、德川勢の攻撃によって上ノ郷城が落ちた・・・という事のようです。

とにもかくにも、
その後、家康家臣の石川数正(いしかわかずまさ)が、氏長&氏次兄弟を連れて駿府に今川氏真を訪ね、人質交換の交渉を見事に成功させ、築山殿と信康・亀姫の3人を岡崎城に迎え入れる事ができたのです。
*厳密には築山殿は岡崎城に入れてもらえなかったみたいですが…
  ●築山殿について>>
  ●信康について>>
  ●亀姫について>>
  ●石川数正について>>

こうして、妻子を取り戻して今川への憂いを取り除いた家康は、

翌・永禄六年(1563年)~永禄七年(1564年)にかけて起こった三河一向一揆(みかわいっこういっき)を見事にまとめ(1月11日参照>>)、さらに2年後の永禄九年(1566年)には、朝廷に申し出て、姓を松平から德川に変更(12月9日参照>>)

永禄十一年(1568年)、いよいと今川領への侵攻を開始します。

★これからの家康↓
【井伊谷の戦いと遠江侵攻】>>
【引馬城入城~飯尾連龍とお田鶴の方】>>
【今川氏滅亡~掛川城の攻防戦】>>

大河ドラマ『麒麟がくる』では、桶狭間直前に、その悪役っぷりがけっこう目立ってた鵜殿長照さん(大高城に来た風間家康くんに休憩禁止のパワハラしてた人です=第21回の感想を参照>>だったので、この妻子との人質交換で再び出て来るものと思ってましたが、時間が無いためか、完全スルーでちょっと寂しかったですね。
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2021年2月 1日 (月)

もはや恐怖しかない宴会が始まった大河ドラマ『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」の感想

 

本能寺へ向かう原因が渋滞してる大河ドラマ『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」の感想です。

先週、たくさんの人から背中を押されてた長谷川光秀・・・(第42回「離れゆく心」の感想>>)

その上に、染谷信長
「帝に譲位していただこう」
玉三郎天皇さまを軽視するような発言。。。

と、ここで一つ補足を、、、
「天皇さまの譲位=引退」と考えてしまうのは現代人の悪いクセで、
昔は、天皇さまは国の安寧を願っての祭祀が1番の仕事なので、それ以外の事に自由が利かない、一方で、上皇になれば積極的に政治に参加できるので、どちらかと言えば上皇であった方が権威をバンバンに使えるわけで
 【白河上皇の院政】参照>>
 【順徳天皇】参照>>(順徳天皇は直前に譲位して承久の乱に参戦してます)
なので、この、
「帝に譲位していただこう」
という発言は、そこまで極悪だとは思えないんですが・・・

それはそうと・・・
そんな中、ナレーションにて秒で終わった丹波平定に、セリフも無いまま、首を塩漬けにされちゃった波多野三兄弟。。。(【八上城攻防戦】参照>>)

そして、いつの間ににかお亡くなりになっていた(私が見落としてるのかも?)石橋三条西さまのお屋敷にて眞島藤孝本郷前久伊呂波大夫信長の悪口を言いまくる一方で、頼れるのは明智と・・・光秀ageが甚だしい中、津々浦々までバレちゃってる光秀の鞆の浦行き(滝藤公方様に面会の件)

でも、あーだこーだ言ってる暇はありません。

なんせ、これまたナレーションにて
秒で石山合戦が終了(【石山合戦・終結】参照>>)
秒で金子信盛さんが追放され(【佐久間信盛の末路】参照>>)
てしまいますので。。。スピードがF1並み

そんな時、信長が登ってる樹を切っちゃう夢を毎日見る事にお悩み中の長谷川光秀が堺東庵先生と門脇お駒ちゃんに会いに行き、川口帰蝶姫が目の調子が悪い事を聞きます。

と、ここで東庵先生から
「曲直瀬(まなせ)という医者に診てもらってる」発言が・・・

不肖私、これまで東庵先生という架空の人物は曲直瀬道三(まなせどうさん)がモデルで、その代わりに出てると思ってましたが、違うかったんですね~

ちなみに、史実としての光秀さんは、すでに何度か(天王寺合戦後とか)曲直瀬道三に診てもらってますので、この時点では知り合いですけどね(1月4日参照>>)

そんな中、お会いした帰蝶姫と昔話で盛り上がると思いきや、やっぱり信長の悪口に話題を持っていく光秀さん。。。

信長の暴走に対し
「道三様ならどうなされたでしょう?」
と聞く光秀に
「毒を盛る」
と、部屋の襖全開のまま(聞かれるよ)、高らかに宣言しちゃう帰蝶姫。

「信長様あっての私…」
と躊躇する光秀に
「今の信長様をつくったのは父上(斎藤道三)と光秀じゃ!」
「つくった者が始末するほかない」

…て、いやいや帰蝶姫もメッチャ関与してましたよ。
なんか他人事みたいに背中押しちゃって・・・

そんな中、またまた秒で、今度は武田が滅亡。。。【武田勝頼、天目山に散る】参照>>)

武田を倒した高揚感も止まぬ間に
「信長様に命じられる前に、こちらで成敗すべきと恥じるばかり」
と嫁と息子の殺害をクールに言っちゃう風間家康が、チョいとショック。。。
 【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】>>
 【なぜ信康を殺さねばならなかったか?】>>
だって、このドラマでは、築山殿と信康は、本当に武田に通じてたって事になっちゃうんですもんね。

しかも、その後の風間家康との会話にて、丹波における光秀の領国経営の美しさが語られるなんて・・・できれば、そこをセリフのみではなく、ドラマとして見てみたかったので、そこもチョイとショック。。。

そんな中、家康と光秀の仲良さげな雰囲気に、嫉妬心を隠せない信長さん。

おいおい、先週今週と、散々、みんなで信長さんの悪口言いまくって本能寺の変への道を複数示してくれた中で、信長の嫉妬という痴情も絡んで来るんかいな。

もはや、本能寺の変の原因が渋滞しまくり~
な、中、いよいよ始まる恐怖の宴会

今回の家康を安土に迎えての宴会・・・よくドラマで描かれるのは、「出した魚が腐ってて(実は琵琶湖名物鮒ずし?)信長が激怒して光秀をメッタ打ち」というシーンですが、今回は「膳の順番が違う」という事でお怒りに・・・

史実としては、この宴会での信長さまは上機嫌でお怒りになる事は無く、翌日に能で以って家康らをもてなそうとした時に、演者二人のうちの一人が、ものすんごい舞がヘタくそだったのでお怒りになったようです。

それでも、一人目の上手な人がもう一度サービスで舞を舞ってくれたのでご機嫌が戻って、二人ともに褒美を与えて問題なく終えています。
(ヘタくそに褒美をやるのは腹立つな~と思ったけど、ケチやと思われるのも嫌なので二人ともに黄金を渡したらしいww)

しかし、ドラマでは、お馴染みの信長激怒からの光秀足蹴。。。
「上様に粗相をするとは!」
と、光秀に駆け寄った森蘭丸を跳ね除け、夢に見た天にも登る樹に斧をふるかのごとく空手チョップのポーズをしながら、染谷信長をにらみつける長谷川光秀さん。

アカン!アカン!
そんな怒り丸出しの表情したら10日後に謀反起こす事がバレてしまうやないですか!!
と、思わず声が出た次第です。

もはや、アレもコレも、
原因とされている事、全部ひっくるめての本能寺の変・・・て事になりそうな。。。
(なぜか「四国説」は、ここまでスルー)

私、個人的な興味としては、息子=織田信忠をスルーするのか?否か?
「信忠も京都にいるからこそ、今日、信長を討つ」
なら、数時間の時間のズレをどのように扱ってくださるのか?

最終回が最高潮となる来週が楽しみです。

★本能寺の変の原因:参照↓
 【本能寺の変~『信長公記』より】>>
 【数時間のタイム・ラグ】>>
 【秀吉・黒幕説】>>
 ●【家康・黒幕説】>>
 【家康、暗殺計画説】>>
 ●【堺の商人・黒幕説】>>
 ●【四国説】>>

★ついでにコチラも参照↓
 ●本能寺・前夜>>
 ●その時、安土城では…>>
 ●信長の首は静岡に?>>
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