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2021年2月18日 (木)

德川家康の甲州征伐…小山→持船→田中→蒲原

 

天正十年(1582年)2月18日、織田信長の甲州征伐に向かう徳川家康が浜松城を出陣・・・その日のうちに掛川城に入りました。

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この家康の出陣は、ご存知、信長の「甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田攻め)の事ですが、今回は駿河口を任された家康の動きを中心に・・・
と言っても、このあたりの事は何度か書かせていただいていますので、少々内容がかぶり気味にはなりますが、時系列的にご紹介させていただきたいと思います。

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「海道一の弓取り」と称された駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する大大名=今川義元(いまがわよしもと)が、永禄三年(1560年)5月の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市緑区)にて尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に倒れて(5月19日参照>>)後、

その桶狭間キッカケで独立した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)と、これまで北東方面に領地拡大を図っていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、永禄十一年(1568年)9月に第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)信長の仲介により、

勝利のあかつきには遠江を家康が、駿河を信玄が取るという約束を交わし、
信玄が北から…(【今川館の戦い】参照>>)
家康が西から…(【掛川城攻防】参照>>)
義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)を攻める、見事な連携プレーを見せたわけですが、

その時、掛川城を落とすのに手間取った家康は、相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)と同盟を結び、その力を借りて掛川城を陥落に持ち込んだのです。

かつて、北東の越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)に対抗するため(【川中島の戦い】参照>>)、武田&今川&北条の3者にて結んだ甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)(3月3日参照>>)を、今回は破棄した形で今川を攻めた信玄にとって、家康が北条と手を組んだ事は怒り心頭・・・

信玄は、德川とは手切れとし、その同盟者である信長とも敵対する事になります(【大宮城の戦い】参照>>)

やがて信長が、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)(9月12日参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(9月14日参照>>)などと対立するようになった元亀三年(1572年)、信玄は「上洛するつもりだった?」とも言われる西上作戦(せいじょうさくせん)を開始し、
一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)など、
駿河&遠江の各地を次々と落として、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)では家康を自刃寸前まで追い込みます(12月22日参照>>)

が、年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)を最後に、なぜか武田軍はUターン・・・

そう、病気が悪化した信玄が4月12日に亡くなってしまうのです。

信玄亡き武田家は四男の武田勝頼(かつより)が継ぐ事になりますが、信玄の死を知った家康が「これはチャンス!」とばかりに、先の西上作戦で落とされた城の奪回&領地の回復を図るのです。

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家康の甲州征伐の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

信玄の死からわずか5ヶ月後の9月には、早速、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)(9月8日参照>>)を奪いますが、

一方の勝頼も負けておらず、
天正二年(1574年)2月には明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)(2月25日参照>>)
3ヶ月後の5月には高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)(5月12日参照>>)と、信玄時代より多い領地を手に入れ、その翌年=天正三年(1575年)5月、2年前の信玄の死の直後に家康に奪われたままになっている長篠城を取り返しに来ます。

これが、ご存知・・・有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)です。

今では、「以前から言われるほどの織田&德川連合軍の圧勝」ではなく、「両者ともに必死のパッチで拮抗した戦いであった」という見方をされ始めてはいますが、一方で、この戦いで武田方の古くからの重臣が多く討死した事は事実で、それによって、主君=勝頼と家臣たちとのギクシャクした主従関係が深まった事も確かなようです。
(↑信玄の遺言にも一因あり?4月16日参照>>

そのためか?
長篠設楽ヶ原以降の家康は、怒涛の如く、武田の城を奪って行く事になるのです。

合戦から1ヶ月と経たない
天正三年(1575年)6月24日に光明城(こうみょうじょう=静岡県浜松市天竜区)
8月24日に諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)

11月24日に信長が岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)を奪回(12月24日参照>>)すると、

またもや家康が12月に、あの二俣城を奪回(12月24日参照>>)
このあと、天正五年(1577年)・天正七年(1579年)と何度も持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を落とせずにいましたが、天正九年(1581年)3月には、とうとう高天神城を奪った家康(3月22日参照>>)・・・

そんなこんなの天正十年(1582年)1月27日、勝頼のもとに妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)織田方へ寝返ったとの報告が入ります。
(実際には2年前くらいから水面下で織田に内応してましたが…)

早速、翌日、勝頼は従兄弟(信玄の弟=信繁の子)武田信豊(のぶとよ)と弟の仁科盛信(にしなもりのぶ)を、それぞれ大手(おおて=正面)と搦手(からめて=側面)の総大将に命じて木曽谷(きそだに=木曽川上流の流域・義昌の所領)へ向かわせたのです。

これを知った義昌が、信長に救援を要請・・・こうして天正十年(1582年)2月、織田信長の甲州征伐が開始されるのです(【甲州征伐開始】参照>>)

2月3日、信長は嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将にした主力軍を木曽・岩村口から、北条氏政(ほうじょううじまさ)関東口から、金森長近(かなもちながちか)飛騨(ひだ=岐阜県北部)から・・・そして、徳川家康を駿河口から、それぞれ、武田の領国へと侵攻させます。

岩村口の先鋒=滝川一益(たきがわかずます)河尻秀隆(かわじりひでたか)らが2月6日に滝沢城(たきざわじょう=長野県下伊那郡平谷村・滝沢要害)を落とし、14日には松尾城(まつおじょう=長野県飯田市)を落とす中、この一報を聞いた小山城(こやまじょう=静岡県榛原郡吉田町)では、2月16日、城兵の一部が手勢もろとも密かに城を脱出・・・

その状況に、城将の大熊長秀(おおくまながひで)「このままでは城を支えきれない」と判断し、甲斐へと兵を退き、小山城は自落しました。

おかげで、これまで天正三年(1575年)と天正六年(1578年)と2度に渡って攻撃しながらも落とせなかった小山城を、難なく手に入れた徳川家康は、

その勢いのまま、大須賀康高(おおすがやすたか)酒井忠次(さかいただつぐ)らに命じて田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)へ向かわせる一方で、自らは天正十年(1582年)2月18日浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市中区)を出陣して掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に入ります。

さらに、その3日後の2月21日に駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を押さえる一方で、当目坂(とうめざか=静岡県焼津市)に差し掛かった德川軍先鋒が、持船城を守る朝比奈信置(あさひなのぶおき)の家臣=奥原日向守(おくはらひゅうがのかみ)の待ち伏せに遭い、激しい戦いとなりますが、德川軍は勝利して、ここを突破・・・

その勢いのまま持船城を囲み、23日には総攻撃を開始し、耐えかねた朝比奈信置は27日に降伏して29日に持船城を家康に開け渡したのでした(4月8日参照>>)

その頃、家康が家臣を向かわせていた田中城・・・

ここも、家康は天正六年(1578年)3月、天正八年(1580年)5月など、複数回に渡って攻め立てていたものの、なかなか落とせずにいた城なわけですが、それには、あの天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原の後に奪回した二俣城の城将であった依田信蕃(よだのぶしげ)が、落城した後に甲斐へは戻らず、ここ田中城に入って城番となっていた事にも一因があったのかも知れません。

なんせ依田信蕃は、かなりの勇将・・・今回の攻防戦でも、德川軍は大手を破って曲輪(くるわ)に入り、180もの首級を挙げて、それらを城下に晒して威嚇していましたが、本丸にまでは届かず、籠城戦となっていたのでした。

そこで家康は、
「今、城を明け渡せば、信濃の本領を安堵する」
と、城内の依田信蕃を説得・・・3月1日になって、ようやく説得を受け入れた依田信蕃が田中城を開城しました(2月20日参照>>)

一方、この家康の動きに前後して、
関東口の北条氏政が2月28日に、北条から武田へ寝返った笠原政晴(かさはらまさはる)戸倉城(とくらじょう=現在の静岡県駿東郡清水町)を落とし、その勢いにビビった三枚橋城(さんまいばしじょう=静岡県沼津市大手町)深沢城(ふかさわじょう=静岡県御殿場市)が自滅・・・織田本隊が3月2日に仁科盛信の守る高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)を落城させています(【高遠城の仁科盛信が自刃】参照>>)

この間、3月1日に寝返った穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)江尻城(えじりじょう=静岡県静岡市清水区)への憂いがなくなった家康は、さらに東の蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を3月4日に落としますが、実はこの蒲原城は、かつて北条の城だったのを永禄十二年(1569年)に武田信玄が奪った物(12月6日参照>>)・・・

今回、北条が東から駿河へ、家康は西から駿河へ、対・武田という利害が一致して進んで来ましたが、できるだけ多くの駿河内の領地を確保したいのは、家康も北条もお互い様なわけで・・・

そんな中、織田軍の猛進撃に、3月3日には居城の新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)に火を放ち、家臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の勧めで、彼の城である岩殿城(いわどのじょう=山梨県大月市賑岡町)へ向かった武田勝頼でしたが、その信茂にも裏切られ、最後にはわずかに50名の主従となって、死地を求めて天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町付近)を彷徨い、3月11日に自刃・・・ここに、武田氏が滅亡して、この大きな戦いも終る事になりました。
【武田勝頼の逃避行~信長の甲州征伐】>>)
【武田滅亡~天目山の戦い】参照>>)
【勝頼ととも死した北条夫人桂林院】参照>>)

ちなみに、同時進行で北陸富山(とやま)でも一波乱ありましたが、ソチラは織田軍北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)前田利家(まえだとしいえ)らが、ソツなく対応しております(【富山城の戦い】参照>>)

その後は、総大将の織田信忠が恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市塩山小屋敷)を焼き討ち(4月3日参照>>)する中、信長は論功行賞を行い(3月24日参照>>)4月20日に岐阜から安土への帰路についています(4月4日参照>>)

とは言え、このわずか41日後に、あの本能寺の変があるわけで・・・(2015年6月2日参照>>)

案の定、この後、ここらへん一帯は、北条と德川の取り合いになるわけですが、そのお話は【天正壬午の乱~若神子の対陣】でどうぞ>>
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