足利義昭VS織田信長~石山・今堅田の戦い
元亀四年(天正元年・1573年)2月24日、織田信長に反旗をひるがえした足利義昭に応じて挙兵した光浄院暹慶らの石山・今堅田の砦を織田軍が攻撃しました。
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永禄八年(1565年)5月に兄である室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)を殺された足利義昭(よしあき・義秋)は、庇護を受けている朝倉(あさくら)の越前(えちぜん=福井県東部)の地にて、自らを担いで上洛してくれる戦国大名を 探しておりました(10月14日参照>>)。
一方、永禄五年(1562年)に尾張(おわり=愛知県西部)を統一し(11月1日参照>>)、永禄十年(1567年)には斎藤(さいとう)の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を手に入れて(8月15日参照>>)岐阜城(ぎふじょう)と改め、そこを本拠とした織田信長(おだのぶなが)は、
「もし上洛するなら、朝廷に対してインパクトの強い手土産が欲しい」
と考えておりました。
そんな両者の利害関係が一致して現実したのが、永禄十一年(1568年)9月の義昭を奉じての信長の上洛・・・(9月7日参照>>)
10月18日には義昭が第15代将軍に就任し(10月18日参照>>)、信長も将軍のための御所を建設したり(2月2日参照>>)などしていましたが、両者の蜜月は、そう長くは続かず・・・元亀元年(1570年)1月に『信長朱印条書(五ヶ条の掟書)』を信長が義昭に突き付けたあたりから(1月23日参照>>)、両者の仲はギクシャク感満載となって来ます。
そんな中、信長は上洛の際から抵抗し続けていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)(1月5日参照>>)や南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)の六角承禎(じょうてい=義賢)(6月4日参照>>)に加え、越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)や北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)とも敵対し(5月6日参照>>)、さらに、三好に味方する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に(9月14日参照>>)、浅井&朝倉に味方する比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)(9月12日参照>>)ともドンパチやり始めます。
信長の周囲が敵だらけの、この状況に、敵対する諸将にせっせと連絡を取って、いわゆる「信長包囲網」を形勢しようとする義昭・・・
元亀三年(1572年)の10月には、信長が義昭に対し、17カ条に及ぶ意見書を提出しますが、義昭が意見を聞くどころか、逆に、これが、両者の間に決定的な亀裂を生む事に・・・(17ヶ条の内容については【信長の意見書に義昭が反旗】を参照>>前後の内容カブッてますがスミマセン)
そんな中、信長が、かつての姉川の戦いにて決定的なダメージを与えられなかった浅井の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)をせん滅すべく、周辺の諸城を押さえて(7月22日参照>>)、そろそそ浅井攻めにかかろうとした、その時、
「本願寺の通じた信玄が西上(せいじょう=上洛?)して来る」
と、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん=晴信)の信長包囲網参戦の噂が流れます。
信長が、一旦、岐阜に帰陣して様子を伺うと、案の定、10月に甲斐を出た信玄が西へ西へと進み、
10月13日には一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)>>、
10月14日には二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)>>、
12月22日には三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)>>にて、信長の同盟者である三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)をコテンパンにし、
翌日の23日には、前日に討ち取った平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役の平手政秀の息子)の首を岐阜に送り届けて(12月23日参照>>)ヤル気満々な態度を示し、
年が明けた元亀四年(天正元年・1573年)の1月には野田城(のだじょう=愛知県新城市)に攻撃を仕掛けます(1月11日参照>>)。
同じ1月には、状況を察した信長が、義昭に、息子を人質に差し出しての和睦を持ちかけますが、義昭はその案を一蹴した後、元亀四年(天正元年・1573年)2月、浅井&朝倉、そして武田&本願寺と密約を交わして挙兵したのです。
まずは三井寺(みいでら=滋賀県大津市・園城寺)の光浄院暹慶(こうじょういんせんけい=後の山岡景友)を挙兵させると、同調して山中の磯貝新右衛門(いそがいしんえもん=磯谷久次)や渡辺宮内少輔(わたなべくないしょうゆ)らも兵を挙げます。
暹慶が、本願寺の顕如(けんにょ=第11代本願寺法主)に呼びかけると、江南(こうなん=琵琶湖南部)に点在する本願寺門徒が一揆と化して集合し、伊賀(いが=三重県伊賀市)や甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)の者たちも集まって来て戦備を整え始め、そこに六角勢も登場・・・
石山(いしやま=滋賀県大津市)と今堅田(いまかたた=同大津市)に砦(とりで)を築いて、やって来るであろう信長軍の入京を阻止しようとします。
足利将軍家の側近であった細川藤孝(ほそかわふじたか)から、その情報を得た信長は、義昭の側近くにいる僧=朝山日乗(あさやまにちじょう)や、後に京都所司代となる村井貞勝(むらいさだかつ)を通じて、義昭の説得にあたりますが、義昭は断固として応じる様子を見せず・・・
やむなく信長は、柴田勝家(しばたかついえ)・明智光秀(あけちみつひで)・丹羽長秀(にわながひで)・蜂屋頼隆(はちやよりたか)らを将として2月20日に出陣・・・
勢田(せた=同大津市南部・瀬田)から琵琶湖をを渡り、元亀四年(天正元年・1573年)2月24日、まずは石山に攻撃を仕掛けます。
石山・今堅田の戦いの位置関係要図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
未だ完成半ばだった石山の砦は、織田軍の総攻撃に耐え切れず、2月26日には開城して主将の暹慶も退散してしまいます。
信長は、すぐに石山の砦の破却にかかり、そこに柴田勝家を留め置いて、今度は、今堅田に向かって攻撃を開始するのです。
2月29日朝、明智光秀が囲船(かこいぶね=漕ぎ手や兵士を防御する櫓を船体上部に備えた攻撃用の船)で湖上から西に向かって攻めると、丹羽長秀と蜂屋頼隆が南西側から北東へと進軍して攻め立てます。
正午頃、明智軍が突破口を開くと、織田勢が、なだれのように砦へ突入・・・その勢いに、最前線のわずか数騎を斬り倒しただけで、城兵は、慌てふためいて開城し、散り々々に退散してしまいました。
その後、3月29日に京都に入った信長を逢坂(おうさか=滋賀県大津市)で出迎えたのは、かの細川藤孝と荒木村重(あらきむらしげ)・・・二人がハッキリを織田の傘下を表明した事で上機嫌の信長は知恩院(ちおいん=京都府京都市東山区)に陣取ります。
一方で、その3日後の3月2日には、武田信玄の重臣=秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)の攻撃を受けていた織田方の岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)が開城されますが(3月2日参照>>)、それを知ってか知らずか、強気の義昭は居城の二条御所(にじょうごしょ=京都市上京区・義昭御所)に籠り、未だ抵抗を続けます。
しかし、ご存知のように、この頃には、かの武田信玄率いる本隊は、もう西へは進んでおらず、甲斐へUターン中・・・その後、4月12日に信玄は亡くなるわけですが・・・(4月12日参照>>)
おそらく、そんな事は未だ知らぬ両者・・・信長は、ここでまたもや義昭に和睦を提案しますが、義昭はまたもや拒否して、3月30日には村井貞勝の屋敷を包囲して焼き払ったの です。
そのため、4月4日に信長は、義昭の支持者や幕臣が多く居住する上京(かみぎょう)に火をかけて(4月4日参照>>)義昭陣営を威嚇する一方で、朝廷に働きかけます。
すると、翌4月5日に朝廷からの停戦の勅命(ちょくめい=天皇の命令)が出て、さすがの義昭も折れ、講和が成立・・・
信長は、この義昭の一連の行為を「幕臣内の反信長勢力の中心人物であった上野秀政(うえのひでまさ)に義昭がそそのかされてやった事」として義昭を責める事はなく、また上野秀政も信長に謝罪した事からこれを許し、4月7日に兵を退きあげ、その日は守山(もりやま=滋賀県守山市)に宿泊しました。
この一件があり、信長は、いつでも琵琶湖を渡って、一気に京都に入れるようにと大船を建造する事にし、それが完成するのが7月3日・・・(7月3日参照>>)
その大船は、それから、わずか2日後に、その威力を発揮する事になるのです。
そう、7月5日に足利義昭が講和を破って再び挙兵・・・その時、琵琶湖の東岸の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)にいた信長は、大船に乗って、わずか1日で京都に入り、三淵藤英(みつぶちふじひで=細川藤孝の異母兄)らが守っていた二条の義昭御所を制した後、義昭自身が籠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)へと向かうのです。
という事で、
槙島城の戦いについては2012年7月18日の【槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重】>>の後半部分でどうぞm(_ _)m
…に、しても、、、
昨年から今年の大河『麒麟がくる』でも、そうであったように、
なんで?信長さんは、いつも鬼のような人に描かれるんでしょうね~
今回は光秀が主役だから仕方ないにしても、別の人が主役でも、なぜか、そうなっちゃう・・・
もちろん、殺戮が無かったとは言いません。
でも、それは、あくまで最終段階だし、最終的に殺戮となるのは戦国武将なら皆やってるし、比叡山にも荒木村重(3月2日参照>>)にも、そこへ行くまでに何度も「開城してよ」「和睦してよ」「そしたら許すから…」と声かけてるし、何なら、義昭さんには対しては1回目は完全にお咎め無しやし・・・
いつか、信長さんが麒麟を連れて来るドラマも見てみたいものです。
宴会で率先して女装したり、相撲大会で喜んだり(2月29日参照>>)、安土城のメインゲートでもぎりのように入城料もらってる姿(1月23日参照>>)なんか、映像的にも、けっこう見ものだと思うんですけどね~
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