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2021年2月11日 (木)

武田信虎VS北条氏綱~猿橋の戦い

 

大永四年(1524年)2月11日、甲斐武田信虎相模北条氏綱の国境線争い…猿橋の戦いがありました。

・・・・・・・

明応二年(1493年)に堀越公方(ほりごえくぼう=室町幕府から関東支配を命じられるが鎌倉に入れず堀越を拠点としていた)「伊豆討ち入り 」にて倒し(10月11日参照>>)、明応四年(1495年)には、後に居城となる小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取(2月16日参照>>)した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)は、更なる相模(さがみ=神奈川県)進行を狙う一方で、そのけん制として、背後にあたる甲斐(かい=山梨県)との国境線である都留郡(つるぐん=大月市・都留市・富士吉田市などの周辺)あたりへと度々出兵しておりました。

明応四年(1495年)8月には籠坂(かごさか= 山梨県南都留郡山中湖村)に、
文亀元年(1501年)9月には小倉山(おぐらさん=山梨県富士吉田市)周辺に、
さらに文亀三年(1503年)にも梨木沢(なしきさわ=山梨県南巨摩郡富士川町)
などなど、複数の合戦が記録されています。

とは言え、この頃は、未だ北条早雲は、駿河(するが=静岡県西部)今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)部将としての色が濃く、一方の甲斐も、国境線の都留郡を領していたのは小山田弥太郎(おやまだやたろう=信隆?)で、未だ小山田氏は武田(たけだ)に属していないので、

厳密には、小山田VS今川方の早雲との戦いという事になるわけですが・・・

Saruhasinotatakai
↑猿橋の戦い前後の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、やがて永正十六年(1519年)8月の早雲の死後に北条を継いだ息子=北条氏綱(うじつな)は、今川から独立した戦国大名としての道を歩みはじめ、

一時は戦乱状態だった甲斐も(7月22日参照>>)、第17代当主の武田信虎(たけだのぶとら)が内紛を治めて武田宗家を統一し、この時に信虎に帰服した小山田氏は武田家家臣として生き残る事になり、大永元年(1521年)10月には飯田河原(いいだがわら=甲府市飯田町)の戦いに勝利して(10月16日参照>>)信虎が甲斐統一に成功します。

つまり、ここからは相模と甲斐の国境線の戦いは、イコール北条氏綱と武田信虎の戦いとなり、それは、これまでとは次元の違う大きな物となっていくわけです。

そんなこんなの大永四年(1524年)1月、北条氏綱は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)の拠る江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を奪取(1月13日参照>>)した事で、次に、朝興と同盟関係にある信虎の甲斐へと矛先を向けたのです。

これに対し信虎は、2月7日に1万8000の兵を率いて猿橋(さるはし・えんきょう=山梨県大月市猿橋町)に着陣します。

かくして大永四年(1524年)2月11日両者は猿橋にてぶつかったのです。

戦いの詳細は明らかではありませんが、このあと、戦場を小猿橋(こさるはし=神奈川県相模原市緑区北西部・旧津久井郡吉野町)に移動して、そこで複数の合戦があったように記録されていますので、おそらくは信虎が押し勝って、相模への侵入を果たし、北条が少し退き下がった格好になった物と思われます。

その後、信虎は、3月に武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)へと侵入し、7月には、先の江戸城戦で北条に寝返った岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)太田資頼(おおたすけより)を攻めていますが、

一方で氏綱が山内上杉家(やまうちうえすぎけ)上杉憲房(のりふさ)に働きかけて和睦を結んだ事から、武蔵遠征から帰国した信虎は、翌・大永五年(1525年)に入って、北条と和睦を結びました。

というのも、扇谷&山内の両上杉家は、ともに関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)を継承しながらも上杉同士で対立していたのを、信虎が介入して「対北条」という所で利害が一致し、ここのところは協力関係にあったので、「その山内上杉と北条が和睦したのなら…」という事のようですが、これは、単に表立った合戦をしないだけで、政治的な対立は治まる事なく、結局、この和睦は、わずかの間で破綻する事となります。

それは大永五年(1525年)2月(早っ!w@o@)w)・・・

氏綱が越後(えちご=新潟県)長尾為景(ながおためかげ)と連携して上野(こうずけ=群馬県)に侵攻しようとした際に、信虎が道を譲らなかったとか、為景が氏綱に贈った鷹を信虎が奪い取ったとか・・・

とにもかくにも、またもや、旧津久井郡付近で度々の合戦を繰り返していたようですが、
『勝山記』には、「津久井ノ城不落」とある事から、信虎は北条配下の津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市緑区)を落とせぬまま、

戦いは、
享禄三年(1530年)八坪坂(やつぼざか=山梨県上野原市)(4月23日参照>>)
さらに天文四年(1535年)の万沢口(まんざわぐち=山梨県南都留郡南部町)&山中湖(やまなかこ=山梨県南都留郡山中湖村)(8月19日参照>>)という激しく大きな戦いへと向かっていく事になります。

ちなみに、
ご存知のように、今回登場した皆々様は、、、
武田信虎は武田信玄(しんげん=晴信)の父、
今川氏親は今川義元(よしもと)の父、
北条氏綱は北条氏康(うじやす)の父、
長尾為景は上杉謙信(うえすぎけんしん)の父、
小山田弥太郎は武田二十四将の一人の小山田信茂(のぶしげ)の爺ちゃんか叔父さん、
と、まぁ、有名な戦国武将のお父ちゃん世代のお話という事になります。
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