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2021年3月24日 (水)

近江守護代・伊庭貞隆の「伊庭の乱」~音羽日野城の戦い

 

文亀三年(1503年)3月24日、細川政元赤沢朝経近江に派遣し、伊庭貞隆と共に六角高頼の拠る日野城を攻める伊庭の乱が勃発しました。

・・・・・・・

近江源氏(おうみげんじ)佐々木(ささき)の流れを汲む六角高頼(ろっかくたかより)は、近江守護(しゅご=今で言う県知事?)として応仁の乱では山名宗全(やまなそうぜん)(3月18日参照>>)西軍に属して活躍しましたが、その後、公家や寺社や将軍奉公衆などの荘園を力づくで横領したりの横暴が目立った事で、

長享元年(1487年)には足利義尚(あしかがよしひさ=第9代将軍)から「近江鈎(まがり)の陣」参照>>)
明応元年(1492年)には足利義稙(よしたね=当時は義材:第10代将軍)から「六角征討」参照>>)

度々の討伐を受け、一旦は近江から姿を消すものの、明応二年(1493年)に管領(かんれい~将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)が起こした明応の政変(政元が義材を廃した政変=4月22日参照>>)のドサクサで幕府公認の守護を追い払うとともに、近江守護への復権を果たしていました。

そんなドタバタ劇の中でも、六角氏の一族で高頼家臣の山内政綱(やまうちまさつな)とともに、主君=六角高頼をよく支え&補佐していたのが、近江神崎郡(かんざきぐん=現在の彦根市周辺)の領主で近江守護代(しゅごだい=副知事)だった伊庭貞隆(いばさだたか)でした。

しかし延徳三年(1491年)に周辺の国衆たちをウマくまとめていた山内政綱が亡くなった事で、六角配下の国衆のまとめ役を含め、六角内のアレやコレやが伊庭貞隆一人に集中する形となり、いつしか貞隆は、当主=高頼に匹敵するほどの権力を持つようになって来るのです。

これに脅威を感じた六角高頼・・・文亀二年(1502年)10月、伊庭貞隆を排除すべく伊庭領への侵攻を開始したのです。

思わぬ主君からの攻撃に、一旦は敗走して湖西(こせい=琵琶湖の西岸)へと身を隠した伊庭貞隆でしたが、ほどなく態勢を立て直し、また、山内就綱(なりつな=政綱の息子)(12月9日参照>>)の助力も得、伊庭の被官(ひかん=家臣)九里員秀(くのりかずひで)とも合流して江南(こうなん=滋賀県南部)へと舞い戻り、高頼に味方する青地頼賢(あおちよりかた)青地城(あおちじょう=滋賀県草津市青地町)を攻め、これを12月20日に落とします。

さらに12月25日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)を落とした勢いで馬淵城(まぶちじょう=滋賀県近江八幡市馬淵町)へと攻め込んで、守っていた馬淵入道道哲(まぶちにゅうどうどうてつ)開城させました。

この状況に本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)から脱出した高頼は、蒲生貞秀(がもうさだひで=智閑)を頼って音羽城(おとわじょう=滋賀県蒲生郡日野町)へと逃げ込みます。

戦いの形勢を読む周辺国衆は、「ここぞ」とばかりに優勢な伊庭方につき、高頼もろとも音羽城を攻めようとしますが、逆に蒲生貞秀は、伊庭に味方する甲賀(こうか=滋賀県甲賀市甲賀町)佐治(さじ)勢を攻撃・・・両者がともに痛手を被るとともに、これは六角家内を二分する大きな抗争へと発展していくのです。

翌文亀三年(1503年)3月4日には、今度は蒲生貞秀が伊庭方に降った馬淵城を攻撃し、困った道哲は、高頼が去った観音寺城に入っている山内就綱に援軍を要請しますが間に合わず・・・道哲は観音寺城へ逃げ込むハメになってしまいます。

しかし、それからほどなく、馬淵城の戦いを終えて本拠である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)に帰陣していた蒲生貞秀を、今度は、甲賀の佐治勢が攻め寄せます。

これを受けた伊庭貞隆は、管領の細川政元と連絡を取って内衆(うちしゅ=直属の家来)赤沢朝経(あかざわともつね)を派遣してもらい、文亀三年(1503年)3月24日赤沢朝経&伊庭貞隆連合軍となって、六角高頼の拠る日野城を攻撃したのです。

途中、金剛定寺(こんごうじょうじ=滋賀県蒲生郡日野町)に火が放たれ、堂塔や本尊の十一面観音などのすべてを焼失してしまうという惨事がありながらも、大軍に囲まれた日野城はよく耐え、この戦いは2ヶ月余りを費やする籠城戦となります。

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伊庭の乱の位置関係要図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『重編応仁記』によると、この籠城戦真っ最中の4月28日、蒲生貞秀は「蒲生国人等」と称して、城を囲む伊庭&赤沢軍に対し、弦五百張とともに一通の手紙を送って来たのだとか・・・
ちょっと長くて痛快なので臨場感wwたっぷりの口語訳(私的な意訳含む)で、ご紹介します。

「未だ雌雄決する事ない中、長きに渡る在陣、ほんまご苦労様です。
雷のような猛威で脅かし、鶴の翼のようなワザで以って、命惜しまず義を重んじる姿に、コチラは感服してます。
忠義を尽くして力の限り頑張ってはる皆さんは、もはや神の領域ですわ。
せやよって、かけ替え用の弦を五百張プレゼントさせてもらいます。
使っていただけたらウレシイです。
もう、ウチら城中の者たちは、鷹に睨まれた雉みたいになってしもて、いつぶっ倒れてもおかしくありません。
なんせ、虫ケラのような僕らが、京都から来はった勇将(中央政府から派遣された赤沢の事)を迎えての合戦に挑んでるわけですから、
もはや勝負はついたも同然…あとは、コチラとしては屍(しかばね)を、なんぼほど並べるかだけですわ。
さぁ、一刻も早く、四方の囲いを破って勝利の旗をなびかせ、後世への武勇伝を残してください。
恐々謹言」

てな感じです。

もう、余裕しゃくしゃくですな~
これを受け取った伊庭&赤沢部隊の憤慨ぶりが目に浮かぶような文章・・・

結局、攻めあぐねた伊庭&赤沢勢は、和議を模索するに至り、6月1日の和睦の成立を以って、陣を引き払い、赤沢朝経も京都へと戻る事になります。

とは言え、当然の事ながら、一旦亀裂が入った六角×伊庭の関係が修復される事はなく、両者の対立は続いたまま・・・

その後、永正三年(1506年)になって幕府の仲介によって、ようやく完璧な仲直りとなり、伊庭貞隆は守護代に復帰し、山内就綱も本領へと帰還したという事で、「伊庭の乱」と呼ばれる戦いは終結となったのです。

ま、この後、六角定頼(ろっかくさだより=14代当主・高頼の次男)の頃に、再び、京極氏(きょうごくし=北近江守護)を交えての三つ巴戦なんかもあるのですが、ご存知のように、その京極氏も浅井(あざい)に取って代わられる頃(1月10日参照>>)には、伊庭の一族も六角氏の直臣へと組み込まれていく事になります。

ちなみに、今回、籠城中に手紙を送った蒲生貞秀さんは、あの蒲生氏郷(うじさと)4代前のジッチャン・・・名将と謳われる氏郷のDNAのスゴさを垣間見るようです。
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2021年3月16日 (火)

赤松&山名からの脱却…備前の戦国の始まり~浦上松田合戦

 

明応六年(1497年)3月16日、浦上宗助が松田一族の富山城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

全国の武将が東西に分かれ、約10年の長きに渡ってくすぶり続けた応仁の乱(おうにんのらん)(11月11日参照>>)・・・

その後も、戦いは地方に分散されつつ引き継がれる中(「一乗山の戦い」参照>>)、弟10代室町幕府将軍を継いだ足利義材(あしかがよしき=後の義稙)が、反発する近江(おうみ=滋賀県)南部の六角高頼(ろっかくたかより)領地からは蹴散らすも息の根止める事ができなかった=幕府が一武将の征討に失敗してしまうという幕府将軍の弱さを露呈してしまい(12月13日参照>>)、何やら、戦国下剋上の香りがプンプンして来た明応年間(1492年~1501年)の始まり~

東では北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)伊豆討入り(堀越公方を倒す)を果たし(10月11日参照>>)、西では管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)明応の政変(めいおうのせいへん=自身の意のままになる将軍へ変更)を起こします(4月22日参照>>)

さらに西となる中国地方では、かつての嘉吉の乱(かきつのらん=赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺した事件)(6月24日参照>>)を起こした赤松討伐をキッカケに山陰の大大名にのし上がった山名(やまな)(「山名宗全」を参照>>)と、その嘉吉の乱で一旦沈むも、応仁の乱の五月合戦で盛り返して来た播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松(あかまつ)(5月28日参照>>)が、過去の因縁そのままに対立姿勢にありました(「真弓峠の戦い」参照>>)

そんな中、備前(びぜん=岡山県南東部・兵庫県&香川県の一部)にて赤松の家臣であった金川城(かながわじょう=同岡山市北区御津)松田元藤 (まつだもとふじ=元勝)でが山名側に通じた事で、一貫して赤松側だった三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上則宗(うらがみのりむね)とが対立するようになります。

やがて山名VS赤松の戦いが痛み分けのまま終息に向かう(4月7日参照>>)のに対して、松田&浦上の両者は、その守護(室町幕府公認の今で言う県知事みたいな)権力から脱却して独自の道を歩み始め、それぞれの領地&支配圏の拡大に進んで行くのです。

かくして明応六年(1497年)3月16日、備前西部に勢力を伸ばしたい浦上宗助(うらがみむねすけ=則宗の甥?)が、約1000騎の兵を率いて三石を出陣し、上道郡(じょうとうぐん・かみつみちのこおり=岡山県岡山市中区周辺)へと乱入して村々に放火した後、旭川を渡って金山(きんざん・かなやま=同岡山市北区付近)に陣を張り、富山城(とみやまじょう=岡山県岡山市北区)を攻めたのです。

この時、富山城にいたのは松田惣右衛門(そうえもん)以下、松田一族の人々でした。

そこを、さらに富山城近くの伊福郷(いふくごう=岡山市北区周辺)に放火して城に迫る浦上勢に対し、金川城(かながわじょう=同岡山市北区御津)にて、この事態を知った松田元藤は、手早く500ほどの手勢を集めて笹ヶ瀬 (ささがせ=同岡山市北区)方面へと出陣し、後詰となって富山城内と呼応し、浦上軍を挟み撃ちの態勢にします。

この状況に浦上勢はやむなく撤退して、天然の要害である瀧口山に登り、ここで陣取りながら松田軍からの攻撃を凌ぎます。

その間に富山城を出た松田惣右衛門が湯迫(ゆば=同岡山市中区)に回り込んで浦上勢の退路を断つと、ここまで瀧口山の浦上勢を直接攻めていた松田元藤勢が攻撃を止め、遠巻きに浦上勢を眺めつつ、兵糧が尽きるのを待つ作戦に・・・

Ukitayosiie300a この状況を聞いた三石城では、浦上配下の宇喜多能家(うきたよしいえ)が兵を率いて援軍に駆け付け、退路を封鎖している松田惣右衛門勢を追い崩そうとしましたが、これがなかなかに強敵・・・

そこで能家は、配下の者数十人を百姓姿に変装させ、伏兵として投入・・・
脇田(わきた=同岡山市中区)周辺の民家に放火させました。

これに驚いた松田勢が消火に当たっているところを、宇喜多勢が不意打ちをかまし、慌てる松田勢に、瀧口山から山伝いに脇田へと出た浦上勢が宇喜多勢と一緒になって打ちかかります。

乱れに乱れた松田勢はやむなく退却・・・西へと兵を退くと、宇喜多勢が殿(しんがり=軍隊の最後尾)となって東へ向かい、無事、三石城へと戻ったのでした。

この戦いを皮切りに始まった「浦上松田合戦」と呼ばれる戦い・・・この両者の覇権争いはしばらく続きます。

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浦上松田合戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一般的に第二次とされる文亀二年(1502年)冬の戦いでは、宇喜多能家が300余騎を率いて備前福岡(ふくおか=岡山県瀬戸内市長船町)から吉井川を越えた事を知った松田元藤が、矢津峠(やづとうげ=同岡山市東区)にて敵勢を封鎖せんと宍甘村(しじかいむら=同岡山市北区大供付近)に陣取っていたところ、

足軽隊を先頭に、宇喜多能家自ら率先して真正面からぶつかって行き、有松右京進(ありまつさきのじょう)なる松田家臣の首を取って、その従者2名をも突き伏せた事から宇喜多勢の士気が頂点に達し、その勢いに負けた松田勢が敗退・・・勝利を確信した能家は将兵とともに勝鬨(かちどき)を挙げ、堂々の帰還を果たしました。

さらに第三次とされる翌文亀三年(1503年)1月の牧石河原(まきいしがわら=同岡山市北区付近)にて展開された旭川(あさひがわ)の戦いでは、浦上を援護すべく上道郡に出陣した宇喜多能家が、合戦のさ中に笠井山(かさいやま=同岡山市中区)に上って山上から麓の浦上勢を取り巻いてせん滅とする松田勢を確認した事から、自身の預かる全軍に旭川を渡らせて一気に松田勢に攻め込み、松田勢を敗走させたのです。

・・・て、浦上の話のはずが、なんか宇喜多能家の方が目立ってますやん!

そう、実は、お名前でもお察しの通り、この宇喜多能家さんは、後に備前岡山を支配する事になる宇喜多直家(なおいえ)のお爺ちゃんです。

これまで、
守護の赤松配下の
守護代の浦上配下で、
商人にも間違われるような一土豪(どごう=地侍)に過ぎなかった宇喜多家を中央にも名の知れる武家に押し上げた中興の祖とも言えるのが、この能家さん。。。

この後、浦上の後を継いだ浦上村宗(むらむね=宗助の息子)を担いで主家の赤松を倒す下剋上をやってのけますが、今度は、その浦上という主家を倒して備前全土を手に入れるのが孫の宇喜多直家というワケです(くわしくは「天神山城の戦い」参照>>)
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2021年3月10日 (水)

江戸湾の制海権を巡って~里見義弘VS北条氏康の三浦沖の戦い

 

弘治二年(1556年)3月10日、里見義弘北条氏康の三浦を攻める三浦沖の戦いがありました。

・・・・・・・

相模(さがみ=神奈川県の大部分)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠とし、更なる領地拡大を目指す北条氏綱(うじつな=北条早雲の息子)が、江戸城&高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いに勝利して武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)に進出したのは 大永四年(1524年)1月の事でした(1月13日参照>>)

この状況に危機感を抱く安房(あわ=千葉県南部)里見義堯(さとみよしたか)は、大永六年(1526年)11月には江戸湾を船で越えて三浦半島に攻め寄せたりするものの、一方で里見家内の内紛も抱えるしんどい状況・・・(11月12日参照>>)

しかも、天文七年(1538年)10月の第1次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦いでは、ともに関東一円の支配を目指すべく里見が担いでいた小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠の足利家)足利義明(あしかがよしあき)を失ってしまいます(10月7日参照>>)

一方、北条家では、天文八年(1539年)11月に氏綱の娘(後の芳春院)古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠の足利家)足利晴氏(はるうじ)のもとへと嫁ぎ、古河公方から関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役・執事)並みの扱いを受ける事になりますが(11月28日参照>>)

これらの状況に、もともと室町幕府公認で代々関東管領職を継いできた扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)山内上杉(やまのうちうえすぎ)は、里見はもちろん、甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)とも手を組み(2月11日参照>>)「北条包囲網」を形勢していたわけですが、

Houzyouuziyasu500a 天文十五年(1546年)4月、氏綱の後を継いだ息子=北条氏康(うじやす)武蔵河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)夜戦にて大勝利(河越夜戦)し、晴氏(氏綱の死後に敵対)もろとも上杉家を壊滅状態に追い込んだのです(4月20日参照>>)

 
その勢いで、氏康は、里見が領する安房への進出も度々行っていたようで…

『妙本寺文書』には、天文二十二年(1553年)4月付けで、北条から安房妙本寺(みょうほんじ=千葉県安房郡鋸南町)に対して、北条が禁制(きんせい=その地の権力者がある一定の行為を禁止する事)を与えた記録が残っています。

禁制とは、その地を支配した者が発する物・・・

この前年の天文二十一年(1552年)11月に、里見は真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)からの攻撃を受けており、何とか撃退はするものの、当然、無傷ではおられず、そこを北条に突かれた…という感じでしょうか(11月4日参照>>)

そう…
里見が渡海して鎌倉を攻撃する一方で北条も安房を狙う・・・つまり、両者ともに江戸湾の制海権を握りたいわけです。

かくして弘治二年(1556年)3月10日、北条からの襲撃を危惧する里見義弘(よしひろ=義堯の息子)は、先手必勝とばかりに、配下の万喜頼定(まんぎよりさだ=上総土岐氏?)正木時茂(まさきときしげ)ら5000余の兵とともに、数十艘の軍船で以って三浦半島沖に向かったのでした。

これに対抗する北条側は、氏康はじめ息子の北条氏政(うじまさ)らが城ヶ島(じょうがしま=神奈川県三浦半島の南端)に布陣し、近づいてくる里見方の軍船に火矢を射かけます。

その後、両者入り乱れての戦いとなり、里見方からは東条景経(とうじょうかげつね)木曽輝房(きそてるふさ)なる者が北条の舟に乗り込み、北条方の馬淵新八(まぶちしんぱち)中村源六(なかむらげんろく)らと海中にて一騎打ちとなり、あるいは里見方の竜崎掃部(りゅうざきかもん)が兜を矢で射抜かれながらも敵を切り崩し・・・

その間に敵地に上陸した万喜頼定&正木時茂らが北条方を攻撃し、名のある武将を次々と討ち取り、三浦新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市三崎町)占拠し、そこに城兵を置いた。。。。

『里見代々記』にはありますが、どうやら、これは里見側のチョイと盛った言い分で、

実際には「里見が三浦半島を制した」という事実は無い模様で、この時も、ある程度の合戦の後に里見は兵を退き、北条が守り切っているので、結果的には引き分け?あるいは船団を組んで渡海して来たぶん里見のチョイ負け?という状況だったようです。

ただ、三浦半島に点在する舟主の中には、これを機会に里見からの印判(いんばん=印章)を与えられて使用する者もいたようで、このあたりの舟主たちも、戦国の世らしく、その時々に応じて両者のいずれかの属してウマくやっていたようです。

このあと、先の河越夜戦の後に関東を追われた山内上杉憲政(のりまさ)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)を頼った事から、謙信が憲政を奉じて関東に出陣し、北条相手に戦う事になるのですが(6月26日参照>>)

当然、里見義弘も謙信に接近し、ともに北条を倒さんとの盟約を結びます。

『高橋文書』『相州兵乱記』などによると、
永禄四年(1561年)の10月8日には、やはり渡海してやって来た80隻に及ぶ里見水軍によるゲリラ戦が、同じ三浦半島沖で展開されたものの、北条方の海賊衆がこれを迎え撃ち、撃退したと記録されています。

とは言え、天正五年(1577年)に里見&北条の間で結ばれた房相一和(ぼうそういちわ=相房御和睦)によって両者の関係が改善されますので、制海権を巡る動きも穏やかになった物と思われます。

その後、このあたりの制海権争いが崩れるのは約30年後・・・
ご存知、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原城包囲(4月3日参照>>)という事になります。
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2021年3月 3日 (水)

武田勝頼の逃避行~信長の甲州征伐

 

天正十年(1582年)3月3日、武田勝頼新府城に火を放ち、岩殿城へと向かいました。

・・・・・・・

甲斐(かい=山梨県)の御大=武田信玄(たけだしんげん=晴信)亡き後、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)は、大きすぎる父の影を払拭するがの如く戦いにまい進し、天正二年(1574年)2月には明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を落とし(2月5日参照>>)、その3ヶ月後の5月には父=信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を奪い(5月12日参照>>)信玄時代より広い領地を獲得します。

それというのも、もともとは四男で諏訪(すわ)家を継ぐはずだった勝頼が武田の当主となった事や、それを踏まえた信玄の遺言のせいで、勝頼と父の代からの家臣たちとの間に亀裂が生じ始めていたため・・・

それを修復するためにも、勝頼は古い家臣に歩み寄りつつ、父よりも戦上手な姿を見せねばならず、そこに重きを置いていたように見えます(4月16日参照>>)

しかし、一方で、信玄の死を知った三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪われ(9月8日参照>>)、それを取り返しに行った天正三年(1575年)の有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦いで、手痛い敗北を喰らってしまった(5月21日参照>>)あたりから、勝頼と家臣団との間の亀裂は、さらに大きくなっていくのです。

その勢いに乗る家康は、天正三年(1575年)6月に光明城(こうみょうじょう=同天竜区山東字光明山・光明寺跡)、8月に諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)(12月24日参照>>)、さらに天正五年(1577年)に天正七年(1579年)と何度も持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を攻撃する(9月19日参照>>)など、徐々に、その境界線を武田側へと詰め寄っていきます。
(天正九年(1581年)には高天神城をも落としています…3月22日参照>>

他方、かの長篠設楽ヶ原で家康の同盟者として戦った織田信長(おだのぶなが)は、すでに元亀四年(天正元年=1573年)7月に将軍=足利義昭(あしかがよしあき)京都から追放(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)、8月29日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あさいながまさ)(8月28日参照>>)葬り去った後、天正八年(1580年)8月には10年に渡る石山本願寺との戦いに終止符を打って(8月2日参照>>)畿内を掌握した事で、憂いなく遠方への平定に向かえる状態となったわけで・・・

すでに、この頃には、織田配下の明智光秀(あけちみつひで)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)を平定し(8月9日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)を押さえた羽柴秀吉(はじばひでよし=豊臣秀吉)は次の播磨(はりま=兵庫県南西部)の平定も視野に入れ(4月1日参照>>)、北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)加賀(かが=石川県南西部)平定目前でした(3月9日参照>>)

この状況に対抗すべく、武田勝頼は天正九年(1581年)から新たな城の構築を開始し、その年の暮れ頃に武田の本拠地であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)から新しい城へと引っ越します。

Sinpuzyoua 「甲州新府古城之図」
(山梨県立博物館蔵)

この新らしい城が、武田勝頼の失策?とも言われる新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)ですが、

よくよく考えてみれば、上記の通り、信玄時代よりも武田の領地は広がったわけですし、その勢力範囲で見る限り、甲府(こうふ)より韮崎(にらさき)の方が中心に近いし、何より、勝頼は、未だ半士半農だった家臣団を、この城下に集めて統率を取りつつ、再編成するつもりであったとされ、どうやら、この先を見据えた新しい領地経営を目指していたようで、

そうなると、それほどの失策とも言えないわけですが、

ただ・・・少々時期が遅かった?

なんせ、暮れの引っ越しから間もなくの年明け=天正十年(1582年)1月27日に妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)織田方へ寝返ったのです。
(実際には2年前くらいから水面下で織田に内応してましたが…)

早速、勝頼は従兄弟(信玄の弟=信繁の子)武田信豊(のぶとよ)と異母弟の仁科盛信(にしなもりのぶ=信玄の五男)木曽谷(きそだに=木曽川上流の流域・義昌の所領)へ向かわせるのですが、これを知った義昌が、信長に救援を要請し、天正十年(1582年)2月9日、織田信長の甲州征伐が開始される事になります(【甲州征伐開始】参照>>)

信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将として木曽口から、徳川家康が駿河口から、金森長近(かなもりながちか)飛騨(ひだ)から、北条氏政(ほうじょううじまさ)関東口から、それぞれ武田の領国へと怒涛の進撃を開始します。

武田の重臣だった穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)が織田方に寝返った(3月1日参照>>)3月1日には、勇将=依田信蕃(よだのぶしげ)が守る田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)が開城し(2月20日参照>>)、翌2日には仁科盛信の壮絶な死とともに、守っていた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)が陥落します(3月2日参照>>)

本来は、高遠城が抵抗している間に今後の策を練ろうと考えていた勝頼でしたが、こうなってしまっては、未だ完全なる姿とは言えない新府城で応戦する事は不可能と考えます。

この時、
配下の真田昌幸(さなだまさゆき)が自らの城=岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡)での籠城を進言したものの、小山田信茂(おやまだのぶしげ)も自身の岩殿城(いわどのじょう=山梨県大月市賑岡町)での籠城を進め、家老の長坂光堅(ながさかみつかた)以下、複数の重臣が小山田の岩殿城へ行く事を勧めたので、勝頼は、そうする事に決めた

とされていますが、
一方で、この頃の真田昌幸は、すでに密かに北条と連絡を取っており、これを機会に独立する計画であったという文書も残っている事から、はなから勝頼には岩殿城に行くしか選択肢が無かった可能性もあるとか・・・

とにもかくにも、岩殿城にて籠城して信長に対抗する事を決意した勝頼は、天正十年(1582年)3月3日卯の刻(午前6時頃)、真新しい新府城に火をかけて岩殿城へと向かったのでした。

途中、武田信豊が、東信濃(ひがししなの=長野県東部)西上野(にしこうずけ=群馬県西部)などの勢力を取り込んで再起を図るべく、20騎ほどの配下を連れて小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)下曾根信恒(しもそねのぶつね)を頼って別行動をとったため(結局、下曾根が裏切って信豊は3月16日に自刃します)

勝頼に付き従うのは継室(けいしつ=後妻として迎えた正室)北条夫人(ほうじょうふじん=桂林院・小田原御前)と嫡子の武田信勝(のぶかつ=生母は前妻の龍勝院)をはじめとする、わずか200名ほどだったと言います。

そして逸見路(へみじ=甲府から諏訪への街道・諏訪口)穂坂路(ほさかみち=甲府から茅ヶ岳南麓を通過し信濃佐久郡へ向かう街道・川上路)秩父路(ちちぶじ=甲府から埼玉県熊谷を結ぶ街道)へと向かう一行は、馬に乗る者はわずかに20名ほどで、そのほとんどが徒歩であったとか・・・

途中、古府中(こふちゅう=山梨県甲府市街地北部)一条信龍(いちじょうのぶたつ=勝頼の叔父)の屋敷にて少しの休息をとらせてもらいます。

ちなみに、この信龍さんは、勝頼の父=信玄の異母弟で、かの長篠設楽ヶ原で、渋る勝頼に退き際を提言したと言われる勇将で、この約1週間後の3月10日に、駿河口より攻め込んで来た家康と戦って壮絶な討死を遂げています。

ひとときの休息を終えた勝頼一行は、それから春日居(かすがい=笛吹市・旧東山梨郡春日居町)の渡しにて世話をしてくれた春日居村の渡辺喜兵衛(わたなべきへい)という者に、泣き疲れていた2歳の男子(勝親)の世話を頼んだと言います(勝親は家臣に救出されたとも)

そして、その日の夜に勝沼(かつぬま=甲府市勝沼町)にある大善寺(だいぜんじ)に到着し、ここで理慶尼(りけいに)出迎えられます。

この理慶尼さんは、信玄の叔父である勝沼信友(かつぬまのぶとも)の娘だとされ(今井信良の娘説あり)勝沼(もしくは今井)の滅亡後に大善寺を頼って出家し、尼となって、ここで尼室を構えて暮らしていたらしいのですが、

実は勝頼は、その勝沼(もしくは今井)を滅亡に追い込んだ武田家の息子・・・しかし、かつては勝頼の乳母を務めた事もあった理慶尼は、彼らを快くもてなし、その日の夜は、勝頼&夫人&信勝とともに4人で一つ部屋で就寝したのだとか・・・

この方の書いた『理慶尼記』では、大善寺で1泊した後、翌日=3月4日はに笹子峠(ささごとうげ=山梨県大月市と甲州市の境にある峠)への登り口の駒飼(こまがい)に到着したとの事。

一方『甲陽軍鑑』では、この後、鶴瀬(つるせ=旧東山梨郡大和村・甲州街道の駒飼と勝沼の間にあった宿)7日間逗留した勝頼一行は、自分たちを迎える準備をするために一足先に岩殿城に戻った小山田信茂からの連絡を待っていたとされます。

しかし、いくら待っても信茂からの迎えは来ず・・・それもそのはず、この間、小山田配下の者たちは、せっせと鶴瀬周辺から郡内に向けて城柵を何層にも渡って構築していたのです。

やがて3月9日の夜、信茂の家臣二人が、人質としてここまで勝頼と行動をともにしていた小山田縁者を密かに奪い、城柵の向こうから勝頼一行に向かって鉄砲を撃ちかけたのです。

この攻撃により、ここまで従っていた者も散り々々に逃げてしまったため、残ったのは、わずかに50人ほど・・・勝頼も、ここで小山田信茂にも裏切られた事を知るのです。

頼みの綱であった信茂にも裏切られた勝頼は、もはや死を覚悟して、7代前のご先祖様である武田信満(のぶみつ)が、かつて上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)に巻き込まれて自刃した栖雲寺(せいうんじ=同大和町・棲雲寺)を死に場所と定め、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)目指して日川渓谷 (ひかわけいこく)をさかのぼり、3月11日には田野(たの=同大和町)という所に到着します。

ところが、その場所で勝頼一行の行く手を阻む者が・・・

それは辻弥兵衛(つじやへえ)なる者を大将とする土豪(どごう=地侍)の衆で、ここで彼らが勝頼一行に矢や鉄砲を射かける一方で、別動隊が織田軍の先鋒である滝川一益(たきがわかずます)河尻秀隆(かわじりひでたか)らの道案内をして麓から駆け上がって来ていたのです。

そう・・・勝頼たちは、上と下から挟まれる形となったのです。

「もはや、これまで…」
と悟った勝頼は、夫人を呼び寄せ、実家の北条に戻るよう諭しますが、夫人は
「あの世まで契りを込めたい」
と、ともに死ぬ事を希望し、譲りません。

そうこうしているうちに滝川&河尻隊の軍勢が攻め寄せて来たところを重臣の土屋昌恒(つちやまさつね)が応戦して立ちふさがり、主君の一大事に駆け付けた小宮山友晴(こみやまともはる)らも奮戦・・・勝頼&信勝らも、自ら太刀を取って戦います。

そんな混乱の中で、信勝が敵中に突進して果て、北条夫人も
「勝頼殿はどこにおられますか?私は先に…」
の声とともに自害すると、

勝頼は夫人のもとに駆け寄って、自分の膝の上で夫人の髪を撫でながら、彼女の胸に刺さる脇差を抜き、それを自らの腹に当てて自害したのだとか・・・

勝頼=37歳、夫人=19歳、信勝=16歳・・・ここに、源義光(みなもとのよしみつ)に始まる甲斐武田氏は滅亡したのです。

★参照関連ページ
【武田勝頼、天目山に散る】>>
【北条夫人・桂林院の最期】>>
【勝頼の最期(異説)「常山紀談」編】>>
【小島職鎮の富山城の戦い】>>
【武田滅亡後の論功行賞と訓令発布】>>
【織田信忠が恵林寺焼き討ち】>>
【朝比奈信置の自刃】>>
【信長の駿河見分と安土帰陣】>>
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