江戸湾の制海権を巡って~里見義弘VS北条氏康の三浦沖の戦い
弘治二年(1556年)3月10日、里見義弘が北条氏康の三浦を攻める三浦沖の戦いがありました。
・・・・・・・
相模(さがみ=神奈川県の大部分)の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠とし、更なる領地拡大を目指す北条氏綱(うじつな=北条早雲の息子)が、江戸城&高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いに勝利して武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)に進出したのは 大永四年(1524年)1月の事でした(1月13日参照>>)。
この状況に危機感を抱く安房(あわ=千葉県南部)の里見義堯(さとみよしたか)は、大永六年(1526年)11月には江戸湾を船で越えて三浦半島に攻め寄せたりするものの、一方で里見家内の内紛も抱えるしんどい状況・・・(11月12日参照>>)。
しかも、天文七年(1538年)10月の第1次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦いでは、ともに関東一円の支配を目指すべく里見が担いでいた小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠の足利家)の足利義明(あしかがよしあき)を失ってしまいます(10月7日参照>>)。
一方、北条家では、天文八年(1539年)11月に氏綱の娘(後の芳春院)が古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠の足利家)の足利晴氏(はるうじ)のもとへと嫁ぎ、古河公方から関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役・執事)並みの扱いを受ける事になりますが(11月28日参照>>)、
これらの状況に、もともと室町幕府公認で代々関東管領職を継いできた扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家&山内上杉(やまのうちうえすぎ)家は、里見はもちろん、甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)とも手を組み(2月11日参照>>)、「北条包囲網」を形勢していたわけですが、
天文十五年(1546年)4月、氏綱の後を継いだ息子=北条氏康(うじやす)は武蔵河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)の夜戦にて大勝利(河越夜戦)し、晴氏(氏綱の死後に敵対)もろとも上杉家を壊滅状態に追い込んだのです(4月20日参照>>)。
その勢いで、氏康は、里見が領する安房への進出も度々行っていたようで…
『妙本寺文書』には、天文二十二年(1553年)4月付けで、北条から安房妙本寺(みょうほんじ=千葉県安房郡鋸南町)に対して、北条が禁制(きんせい=その地の権力者がある一定の行為を禁止する事)を与えた記録が残っています。
禁制とは、その地を支配した者が発する物・・・
この前年の天文二十一年(1552年)11月に、里見は真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)からの攻撃を受けており、何とか撃退はするものの、当然、無傷ではおられず、そこを北条に突かれた…という感じでしょうか(11月4日参照>>)。
そう…
里見が渡海して鎌倉を攻撃する一方で北条も安房を狙う・・・つまり、両者ともに江戸湾の制海権を握りたいわけです。
かくして弘治二年(1556年)3月10日、北条からの襲撃を危惧する里見義弘(よしひろ=義堯の息子)は、先手必勝とばかりに、配下の万喜頼定(まんぎよりさだ=上総土岐氏?)に正木時茂(まさきときしげ)ら5000余の兵とともに、数十艘の軍船で以って三浦半島沖に向かったのでした。
これに対抗する北条側は、氏康はじめ息子の北条氏政(うじまさ)らが城ヶ島(じょうがしま=神奈川県三浦半島の南端)に布陣し、近づいてくる里見方の軍船に火矢を射かけます。
その後、両者入り乱れての戦いとなり、里見方からは東条景経(とうじょうかげつね)や木曽輝房(きそてるふさ)なる者が北条の舟に乗り込み、北条方の馬淵新八(まぶちしんぱち)や中村源六(なかむらげんろく)らと海中にて一騎打ちとなり、あるいは里見方の竜崎掃部(りゅうざきかもん)が兜を矢で射抜かれながらも敵を切り崩し・・・
その間に敵地に上陸した万喜頼定&正木時茂らが北条方を攻撃し、名のある武将を次々と討ち取り、三浦新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市三崎町)を占拠し、そこに城兵を置いた。。。。
と『里見代々記』にはありますが、どうやら、これは里見側のチョイと盛った言い分で、
実際には「里見が三浦半島を制した」という事実は無い模様で、この時も、ある程度の合戦の後に里見は兵を退き、北条が守り切っているので、結果的には引き分け?あるいは船団を組んで渡海して来たぶん里見のチョイ負け?という状況だったようです。
ただ、三浦半島に点在する舟主の中には、これを機会に里見からの印判(いんばん=印章)を与えられて使用する者もいたようで、このあたりの舟主たちも、戦国の世らしく、その時々に応じて両者のいずれかの属してウマくやっていたようです。
このあと、先の河越夜戦の後に関東を追われた山内上杉憲政(のりまさ)が越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)を頼った事から、謙信が憲政を奉じて関東に出陣し、北条相手に戦う事になるのですが(6月26日参照>>)、
当然、里見義弘も謙信に接近し、ともに北条を倒さんとの盟約を結びます。
『高橋文書』『相州兵乱記』などによると、
永禄四年(1561年)の10月8日には、やはり渡海してやって来た80隻に及ぶ里見水軍によるゲリラ戦が、同じ三浦半島沖で展開されたものの、北条方の海賊衆がこれを迎え撃ち、撃退したと記録されています。
とは言え、天正五年(1577年)に里見&北条の間で結ばれた房相一和(ぼうそういちわ=相房御和睦)によって両者の関係が改善されますので、制海権を巡る動きも穏やかになった物と思われます。
その後、このあたりの制海権争いが崩れるのは約30年後・・・
ご存知、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原城包囲(4月3日参照>>)という事になります。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 宇喜多直家による三村家親の暗殺~弔い合戦が始まる(2025.02.05)
- 宇都宮から結城を守る~水谷正村の久下田城の戦い(2025.01.23)
- 流れ公方の始まり…放浪の将軍となった足利義稙と大内義興(2024.12.25)
- 斎藤道三の美濃取り最終段階~相羽城&揖斐城の戦い(2024.12.11)
コメント
初めてのコメント失礼いたします。
いつもサイトを拝見しております!
私も日本史好きを自負しておりましたが、茶々さんの博識ぶりに圧倒されてばかりです笑
これからの更新も楽しみにお待ちしておりますます!
投稿: 陳泰 | 2021年3月13日 (土) 00時05分
陳泰さん、こんばんは~
励みになるコメント、ありがとうございます。
まだまだ知らない事がたくさんあって、日々、精進しております。
これからもよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2021年3月13日 (土) 04時37分