近江守護代・伊庭貞隆の「伊庭の乱」~音羽日野城の戦い
文亀三年(1503年)3月24日、細川政元が赤沢朝経を近江に派遣し、伊庭貞隆と共に六角高頼の拠る日野城を攻める伊庭の乱が勃発しました。
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近江源氏(おうみげんじ)佐々木(ささき)氏の流れを汲む六角高頼(ろっかくたかより)は、近江守護(しゅご=今で言う県知事?)として応仁の乱では山名宗全(やまなそうぜん)(3月18日参照>>)の西軍に属して活躍しましたが、その後、公家や寺社や将軍奉公衆などの荘園を力づくで横領したりの横暴が目立った事で、
長享元年(1487年)には足利義尚(あしかがよしひさ=第9代将軍)から(「近江鈎(まがり)の陣」参照>>)、
明応元年(1492年)には足利義稙(よしたね=当時は義材:第10代将軍)から(「六角征討」参照>>)、
と度々の討伐を受け、一旦は近江から姿を消すものの、明応二年(1493年)に管領(かんれい~将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)が起こした明応の政変(政元が義材を廃した政変=4月22日参照>>)のドサクサで幕府公認の守護を追い払うとともに、近江守護への復権を果たしていました。
そんなドタバタ劇の中でも、六角氏の一族で高頼家臣の山内政綱(やまうちまさつな)とともに、主君=六角高頼をよく支え&補佐していたのが、近江神崎郡(かんざきぐん=現在の彦根市周辺)の領主で近江守護代(しゅごだい=副知事)だった伊庭貞隆(いばさだたか)でした。
しかし延徳三年(1491年)に周辺の国衆たちをウマくまとめていた山内政綱が亡くなった事で、六角配下の国衆のまとめ役を含め、六角内のアレやコレやが伊庭貞隆一人に集中する形となり、いつしか貞隆は、当主=高頼に匹敵するほどの権力を持つようになって来るのです。
これに脅威を感じた六角高頼・・・文亀二年(1502年)10月、伊庭貞隆を排除すべく伊庭領への侵攻を開始したのです。
思わぬ主君からの攻撃に、一旦は敗走して湖西(こせい=琵琶湖の西岸)へと身を隠した伊庭貞隆でしたが、ほどなく態勢を立て直し、また、山内就綱(なりつな=政綱の息子)(12月9日参照>>)の助力も得、伊庭の被官(ひかん=家臣)・九里員秀(くのりかずひで)とも合流して江南(こうなん=滋賀県南部)へと舞い戻り、高頼に味方する青地頼賢(あおちよりかた)の青地城(あおちじょう=滋賀県草津市青地町)を攻め、これを12月20日に落とします。
さらに12月25日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)を落とした勢いで馬淵城(まぶちじょう=滋賀県近江八幡市馬淵町)へと攻め込んで、守っていた馬淵入道道哲(まぶちにゅうどうどうてつ)に開城させました。
この状況に本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)から脱出した高頼は、蒲生貞秀(がもうさだひで=智閑)を頼って音羽城(おとわじょう=滋賀県蒲生郡日野町)へと逃げ込みます。
戦いの形勢を読む周辺国衆は、「ここぞ」とばかりに優勢な伊庭方につき、高頼もろとも音羽城を攻めようとしますが、逆に蒲生貞秀は、伊庭に味方する甲賀(こうか=滋賀県甲賀市甲賀町)の佐治(さじ)勢を攻撃・・・両者がともに痛手を被るとともに、これは六角家内を二分する大きな抗争へと発展していくのです。
翌文亀三年(1503年)3月4日には、今度は蒲生貞秀が伊庭方に降った馬淵城を攻撃し、困った道哲は、高頼が去った観音寺城に入っている山内就綱に援軍を要請しますが間に合わず・・・道哲は観音寺城へ逃げ込むハメになってしまいます。
しかし、それからほどなく、馬淵城の戦いを終えて本拠である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)に帰陣していた蒲生貞秀を、今度は、甲賀の佐治勢が攻め寄せます。
これを受けた伊庭貞隆は、管領の細川政元と連絡を取って内衆(うちしゅ=直属の家来)の赤沢朝経(あかざわともつね)を派遣してもらい、文亀三年(1503年)3月24日、赤沢朝経&伊庭貞隆連合軍となって、六角高頼の拠る日野城を攻撃したのです。
途中、金剛定寺(こんごうじょうじ=滋賀県蒲生郡日野町)に火が放たれ、堂塔や本尊の十一面観音などのすべてを焼失してしまうという惨事がありながらも、大軍に囲まれた日野城はよく耐え、この戦いは2ヶ月余りを費やする籠城戦となります。
伊庭の乱の位置関係要図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
『重編応仁記』によると、この籠城戦真っ最中の4月28日、蒲生貞秀は「蒲生国人等」と称して、城を囲む伊庭&赤沢軍に対し、弦五百張とともに一通の手紙を送って来たのだとか・・・
ちょっと長くて痛快なので臨場感wwたっぷりの口語訳(私的な意訳含む)で、ご紹介します。
「未だ雌雄決する事ない中、長きに渡る在陣、ほんまご苦労様です。
雷のような猛威で脅かし、鶴の翼のようなワザで以って、命惜しまず義を重んじる姿に、コチラは感服してます。
忠義を尽くして力の限り頑張ってはる皆さんは、もはや神の領域ですわ。
せやよって、かけ替え用の弦を五百張プレゼントさせてもらいます。
使っていただけたらウレシイです。
もう、ウチら城中の者たちは、鷹に睨まれた雉みたいになってしもて、いつぶっ倒れてもおかしくありません。
なんせ、虫ケラのような僕らが、京都から来はった勇将(中央政府から派遣された赤沢の事)を迎えての合戦に挑んでるわけですから、
もはや勝負はついたも同然…あとは、コチラとしては屍(しかばね)を、なんぼほど並べるかだけですわ。
さぁ、一刻も早く、四方の囲いを破って勝利の旗をなびかせ、後世への武勇伝を残してください。
恐々謹言」
てな感じです。
もう、余裕しゃくしゃくですな~
これを受け取った伊庭&赤沢部隊の憤慨ぶりが目に浮かぶような文章・・・
結局、攻めあぐねた伊庭&赤沢勢は、和議を模索するに至り、6月1日の和睦の成立を以って、陣を引き払い、赤沢朝経も京都へと戻る事になります。
とは言え、当然の事ながら、一旦亀裂が入った六角×伊庭の関係が修復される事はなく、両者の対立は続いたまま・・・
その後、永正三年(1506年)になって幕府の仲介によって、ようやく完璧な仲直りとなり、伊庭貞隆は守護代に復帰し、山内就綱も本領へと帰還したという事で、「伊庭の乱」と呼ばれる戦いは終結となったのです。
ま、この後、六角定頼(ろっかくさだより=14代当主・高頼の次男)の頃に、再び、京極氏(きょうごくし=北近江守護)を交えての三つ巴戦なんかもあるのですが、ご存知のように、その京極氏も浅井(あざい)に取って代わられる頃(1月10日参照>>)には、伊庭の一族も六角氏の直臣へと組み込まれていく事になります。
ちなみに、今回、籠城中に手紙を送った蒲生貞秀さんは、あの蒲生氏郷(うじさと)の4代前のジッチャン・・・名将と謳われる氏郷のDNAのスゴさを垣間見るようです。
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