武田勝頼の逃避行~信長の甲州征伐
天正十年(1582年)3月3日、武田勝頼が新府城に火を放ち、岩殿城へと向かいました。
・・・・・・・
甲斐(かい=山梨県)の御大=武田信玄(たけだしんげん=晴信)亡き後、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)は、大きすぎる父の影を払拭するがの如く戦いにまい進し、天正二年(1574年)2月には明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を落とし(2月5日参照>>)、その3ヶ月後の5月には父=信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を奪い(5月12日参照>>)、信玄時代より広い領地を獲得します。
それというのも、もともとは四男で諏訪(すわ)家を継ぐはずだった勝頼が武田の当主となった事や、それを踏まえた信玄の遺言のせいで、勝頼と父の代からの家臣たちとの間に亀裂が生じ始めていたため・・・
それを修復するためにも、勝頼は古い家臣に歩み寄りつつ、父よりも戦上手な姿を見せねばならず、そこに重きを置いていたように見えます(4月16日参照>>)。
しかし、一方で、信玄の死を知った三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)に長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪われ(9月8日参照>>)、それを取り返しに行った天正三年(1575年)の有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦いで、手痛い敗北を喰らってしまった(5月21日参照>>)あたりから、勝頼と家臣団との間の亀裂は、さらに大きくなっていくのです。
その勢いに乗る家康は、天正三年(1575年)6月に光明城(こうみょうじょう=同天竜区山東字光明山・光明寺跡)、8月に諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)(12月24日参照>>)、さらに天正五年(1577年)に天正七年(1579年)と何度も持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を攻撃する(9月19日参照>>)など、徐々に、その境界線を武田側へと詰め寄っていきます。
(天正九年(1581年)には高天神城をも落としています…3月22日参照>>)
他方、かの長篠設楽ヶ原で家康の同盟者として戦った織田信長(おだのぶなが)は、すでに元亀四年(天正元年=1573年)7月に将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放し(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を(8月20日参照>>)、8月29日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あさいながまさ)を(8月28日参照>>)葬り去った後、天正八年(1580年)8月には10年に渡る石山本願寺との戦いに終止符を打って(8月2日参照>>)畿内を掌握した事で、憂いなく遠方への平定に向かえる状態となったわけで・・・
すでに、この頃には、織田配下の明智光秀(あけちみつひで)が丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)を平定し(8月9日参照>>)、但馬(たじま=兵庫県北部)を押さえた羽柴秀吉(はじばひでよし=豊臣秀吉)は次の播磨(はりま=兵庫県南西部)の平定も視野に入れ(4月1日参照>>)、北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)も加賀(かが=石川県南西部)平定目前でした(3月9日参照>>)。
この状況に対抗すべく、武田勝頼は天正九年(1581年)から新たな城の構築を開始し、その年の暮れ頃に武田の本拠地であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)から新しい城へと引っ越します。
この新らしい城が、武田勝頼の失策?とも言われる新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)ですが、
よくよく考えてみれば、上記の通り、信玄時代よりも武田の領地は広がったわけですし、その勢力範囲で見る限り、甲府(こうふ)より韮崎(にらさき)の方が中心に近いし、何より、勝頼は、未だ半士半農だった家臣団を、この城下に集めて統率を取りつつ、再編成するつもりであったとされ、どうやら、この先を見据えた新しい領地経営を目指していたようで、
そうなると、それほどの失策とも言えないわけですが、
ただ・・・少々時期が遅かった?
なんせ、暮れの引っ越しから間もなくの年明け=天正十年(1582年)1月27日に妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)が織田方へ寝返ったのです。
(実際には2年前くらいから水面下で織田に内応してましたが…)
早速、勝頼は従兄弟(信玄の弟=信繁の子)の武田信豊(のぶとよ)と異母弟の仁科盛信(にしなもりのぶ=信玄の五男)を木曽谷(きそだに=木曽川上流の流域・義昌の所領)へ向かわせるのですが、これを知った義昌が、信長に救援を要請し、天正十年(1582年)2月9日、織田信長の甲州征伐が開始される事になります(【甲州征伐開始】参照>>)。
信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将として木曽口から、徳川家康が駿河口から、金森長近(かなもりながちか)が飛騨(ひだ)口から、北条氏政(ほうじょううじまさ)が関東口から、それぞれ武田の領国へと怒涛の進撃を開始します。
武田の重臣だった穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)が織田方に寝返った(3月1日参照>>)3月1日には、勇将=依田信蕃(よだのぶしげ)が守る田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)が開城し(2月20日参照>>)、翌2日には仁科盛信の壮絶な死とともに、守っていた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)が陥落します(3月2日参照>>)。
本来は、高遠城が抵抗している間に今後の策を練ろうと考えていた勝頼でしたが、こうなってしまっては、未だ完全なる姿とは言えない新府城で応戦する事は不可能と考えます。
この時、
配下の真田昌幸(さなだまさゆき)が自らの城=岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡)での籠城を進言したものの、小山田信茂(おやまだのぶしげ)も自身の岩殿城(いわどのじょう=山梨県大月市賑岡町)での籠城を進め、家老の長坂光堅(ながさかみつかた)以下、複数の重臣が小山田の岩殿城へ行く事を勧めたので、勝頼は、そうする事に決めた、
とされていますが、
一方で、この頃の真田昌幸は、すでに密かに北条と連絡を取っており、これを機会に独立する計画であったという文書も残っている事から、はなから勝頼には岩殿城に行くしか選択肢が無かった可能性もあるとか・・・
とにもかくにも、岩殿城にて籠城して信長に対抗する事を決意した勝頼は、天正十年(1582年)3月3日卯の刻(午前6時頃)、真新しい新府城に火をかけて岩殿城へと向かったのでした。
途中、武田信豊が、東信濃(ひがししなの=長野県東部)や西上野(にしこうずけ=群馬県西部)などの勢力を取り込んで再起を図るべく、20騎ほどの配下を連れて小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)の下曾根信恒(しもそねのぶつね)を頼って別行動をとったため(結局、下曾根が裏切って信豊は3月16日に自刃します)、
勝頼に付き従うのは継室(けいしつ=後妻として迎えた正室)の北条夫人(ほうじょうふじん=桂林院・小田原御前)と嫡子の武田信勝(のぶかつ=生母は前妻の龍勝院)をはじめとする、わずか200名ほどだったと言います。
そして逸見路(へみじ=甲府から諏訪への街道・諏訪口)→穂坂路(ほさかみち=甲府から茅ヶ岳南麓を通過し信濃佐久郡へ向かう街道・川上路)→秩父路(ちちぶじ=甲府から埼玉県熊谷を結ぶ街道)へと向かう一行は、馬に乗る者はわずかに20名ほどで、そのほとんどが徒歩であったとか・・・
途中、古府中(こふちゅう=山梨県甲府市街地北部)の一条信龍(いちじょうのぶたつ=勝頼の叔父)の屋敷にて少しの休息をとらせてもらいます。
ちなみに、この信龍さんは、勝頼の父=信玄の異母弟で、かの長篠設楽ヶ原で、渋る勝頼に退き際を提言したと言われる勇将で、この約1週間後の3月10日に、駿河口より攻め込んで来た家康と戦って壮絶な討死を遂げています。
ひとときの休息を終えた勝頼一行は、それから春日居(かすがい=笛吹市・旧東山梨郡春日居町)の渡しにて世話をしてくれた春日居村の渡辺喜兵衛(わたなべきへい)という者に、泣き疲れていた2歳の男子(勝親)の世話を頼んだと言います(勝親は家臣に救出されたとも)。
そして、その日の夜に勝沼(かつぬま=甲府市勝沼町)にある大善寺(だいぜんじ)に到着し、ここで理慶尼(りけいに)出迎えられます。
この理慶尼さんは、信玄の叔父である勝沼信友(かつぬまのぶとも)の娘だとされ(今井信良の娘説あり)、勝沼(もしくは今井)の滅亡後に大善寺を頼って出家し、尼となって、ここで尼室を構えて暮らしていたらしいのですが、
実は勝頼は、その勝沼(もしくは今井)を滅亡に追い込んだ武田家の息子・・・しかし、かつては勝頼の乳母を務めた事もあった理慶尼は、彼らを快くもてなし、その日の夜は、勝頼&夫人&信勝とともに4人で一つ部屋で就寝したのだとか・・・
この方の書いた『理慶尼記』では、大善寺で1泊した後、翌日=3月4日はに笹子峠(ささごとうげ=山梨県大月市と甲州市の境にある峠)への登り口の駒飼(こまがい)に到着したとの事。
一方『甲陽軍鑑』では、この後、鶴瀬(つるせ=旧東山梨郡大和村・甲州街道の駒飼と勝沼の間にあった宿)に7日間逗留した勝頼一行は、自分たちを迎える準備をするために一足先に岩殿城に戻った小山田信茂からの連絡を待っていたとされます。
しかし、いくら待っても信茂からの迎えは来ず・・・それもそのはず、この間、小山田配下の者たちは、せっせと鶴瀬周辺から郡内に向けて城柵を何層にも渡って構築していたのです。
やがて3月9日の夜、信茂の家臣二人が、人質としてここまで勝頼と行動をともにしていた小山田縁者を密かに奪い、城柵の向こうから勝頼一行に向かって鉄砲を撃ちかけたのです。
この攻撃により、ここまで従っていた者も散り々々に逃げてしまったため、残ったのは、わずかに50人ほど・・・勝頼も、ここで小山田信茂にも裏切られた事を知るのです。
頼みの綱であった信茂にも裏切られた勝頼は、もはや死を覚悟して、7代前のご先祖様である武田信満(のぶみつ)が、かつて上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)に巻き込まれて自刃した栖雲寺(せいうんじ=同大和町・棲雲寺)を死に場所と定め、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)目指して日川渓谷 (ひかわけいこく)をさかのぼり、3月11日には田野(たの=同大和町)という所に到着します。
ところが、その場所で勝頼一行の行く手を阻む者が・・・
それは辻弥兵衛(つじやへえ)なる者を大将とする土豪(どごう=地侍)の衆で、ここで彼らが勝頼一行に矢や鉄砲を射かける一方で、別動隊が織田軍の先鋒である滝川一益(たきがわかずます)や河尻秀隆(かわじりひでたか)らの道案内をして麓から駆け上がって来ていたのです。
そう・・・勝頼たちは、上と下から挟まれる形となったのです。
「もはや、これまで…」
と悟った勝頼は、夫人を呼び寄せ、実家の北条に戻るよう諭しますが、夫人は
「あの世まで契りを込めたい」
と、ともに死ぬ事を希望し、譲りません。
そうこうしているうちに滝川&河尻隊の軍勢が攻め寄せて来たところを重臣の土屋昌恒(つちやまさつね)が応戦して立ちふさがり、主君の一大事に駆け付けた小宮山友晴(こみやまともはる)らも奮戦・・・勝頼&信勝らも、自ら太刀を取って戦います。
そんな混乱の中で、信勝が敵中に突進して果て、北条夫人も
「勝頼殿はどこにおられますか?私は先に…」
の声とともに自害すると、
勝頼は夫人のもとに駆け寄って、自分の膝の上で夫人の髪を撫でながら、彼女の胸に刺さる脇差を抜き、それを自らの腹に当てて自害したのだとか・・・
勝頼=37歳、夫人=19歳、信勝=16歳・・・ここに、源義光(みなもとのよしみつ)に始まる甲斐武田氏は滅亡したのです。
★参照関連ページ
【武田勝頼、天目山に散る】>>
【北条夫人・桂林院の最期】>>
【勝頼の最期(異説)「常山紀談」編】>>
【小島職鎮の富山城の戦い】>>
【武田滅亡後の論功行賞と訓令発布】>>
【織田信忠が恵林寺焼き討ち】>>
【朝比奈信置の自刃】>>
【信長の駿河見分と安土帰陣】>>
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コメント
茶々さん、こんにちわ。
武田勝頼を主人公で大河ドラマをやってほしいですね。来年、再来年も楽しみですが、1度くらいは……。
投稿: いんちき | 2021年3月 3日 (水) 11時11分
いんちきさん、こんばんは~
私も見てみたいです。
もちろん、家康さんも良いですけど…
投稿: 茶々 | 2021年3月 4日 (木) 04時45分
こんにちは。いつも楽しい話ありがとうございます。
武田勝頼の最期にはその現場に居合わせた津田某という徳川方の武士の日記が残ってますね。それによると勝頼もう最後は食うや食わずの逃避行の結果疲労困憊も極まり、敵が迫りくる中薙刀を杖にやっと立っている状態で敵に切りかかられても全く抵抗できず一刀のもとに切り倒された、と書かれているようですね。だとすると名門武田家の最期としてはあまりにも切なくなりますね。厳しい時代だったんですね。
投稿: へいたろう | 2021年3月14日 (日) 21時44分
へいたろうさん、こんばんは~
自刃説&斬られた説…文書によって複数ありますね。
『常山紀談』だけでも両方の説が書いてありますが、おっしゃる通り、逃避行の最後は疲労困憊だったでしょうから、カッコ良く散る事も不可能だったかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2021年3月15日 (月) 03時27分