秀吉の小田原征伐~水軍による下田城の戦い
天正十八年(1590年)4月1日、豊臣秀吉の小田原征伐にて、豊臣水軍を受け持った長宗我部元親らが、軍艦大黒丸で北条方の清水康英の籠もる下田城を攻撃しました。
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ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の時のお話です。
天正十年(1582年)の本能寺(ほんのうじ)にて織田信長(おだのぶなが)が倒れた(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)で主導権の握り(6月27日参照>>)、さらに信長の葬儀を仕切って(10月15日参照>>)、信長の三男である織田信孝(のぶたか)と織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒し(4月21日参照>>)、信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)と徳川家康(とくがわいえやす)を抑え込んだ(11月16日参照>>)豊臣秀吉は、
天正十三年(1585年)には紀州征伐(3月24日参照>>)と四国平定を成し遂げ(7月26日参照>>)、翌天正十四年(1586)には京都に政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の普請を開始(2月23日参照>>)する一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)、さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催(10月1日参照>>)・・・
と、まさに天下人へまっしぐら~だったわけですが、一方で、未だ関東から東はほぼ手つかず状態・・・
そんな中、天正十七年(1589年)10月、北条(ほうじょう)配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉が真田昌幸(さなだまさゆき)の物と認めていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を力づくで奪うという事件が発生します(10月23日参照>>)。
これは、秀吉が発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)』 に違反する行為・・・かねてより、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠に、約100年渡って関東を支配し続けていた北条氏を「何とかせねば!」と思っていた秀吉は、「コレ幸い」と、この関東惣無事令違反を大義名分として小田原征伐の開始を決定し、北条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告状を送ったのです(11月24日参照>>)。
12月10日の小田原攻め軍議の決定(12月10日参照>>)にて、陸上は、北陸方面から進む上杉景勝(うえすぎかげかつ)や前田利家(まえだとしいえ)らと東海道を進む本隊+途中合流の家康と、大きく分けて2方向から小田原に向かいます。
天正十八年(1590年)3月29日の足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)→山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)→韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて小田原征伐の幕が上がり(3月29日参照>>)、瞬く間に箱根(はこね)を越えた秀吉は、4月3日には小田原城の包囲を完了(4月3日参照>>)するのですが、
この時、陸上を行く部隊とは別に、海上から小田原に向かったのが豊臣水軍=船手勢です。
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:下田版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そのメンバーは長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)=2500、九鬼嘉隆(くきよしたか)=1500、脇坂安治(わきさかやすはる)=1300に加藤嘉明(かとうよしあきら)らも加わって、総勢1万以上と言われる大水軍でした。
そして、陸上部隊の小田原城包囲の2日前の天正十八年(1590年)4月1日・・・長宗我部元親ら水軍部隊が、北条方の清水康英(しみずやすひで)の籠もる下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を攻撃するのです。
守る清水康英は、 先々代=北条氏康(うじやす=氏政の父)の乳兄弟(母が氏康の乳母)で傅役(もりやく)でもあり、北条五家老の一人にも数えられる重臣ですが、この時点で持つ城兵は、わずかに600ほど・・・
それは、この小田原攻めでの北条側の軍議の際に、「豊臣軍は下田沖を通り=つまりは下田城をスルーして小田原城沖に直接入って来る可能性か高い」という意見があったため、それならば「下田城に多くの兵を配置するのはもったいない」と言われますが、
しかし一方で、現在残る文書(「清水文書」)によれば、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、「豊臣水軍の攻撃を想定して構築した下田城であり、水の備えとして戦上手の清水康英を配している…なのでこの度は康英にすべてを任す…口出し無用」と言ったのだとか・・・
むしろ清水康英なら少数精鋭で守りきれる!と言わんばかり・・・主君からの篤い信頼がうかがえます。
かくして数千艘の船で以って海上から城を囲みつつ、豆州浦(ずしゅううら)から上陸した豊臣勢が下田城目掛けて攻撃を開始し、軍船から降ろした大砲を、下田城を見下ろす高台に設置して、威嚇射撃を行います。
しかし、抵抗する下田城は、なかなか落城せず・・・
そうこうしているうちに、上記の通り、豊臣本隊が4月3日に小田原城の包囲を完了した事から、豊臣水軍は長宗我部元親の長宗我部水軍だけを下田城攻めに残し、あとは小田原城の海上からの包囲に向かいます。
最大の危機を脱した下田城ですが、それでも相手は2500・・・しかも、あの高台の大砲は相変わらずの元気ハツラツで威嚇して来ます。
わずかの兵で踏ん張るものの、「もはやこれまで!」となった4月24日、豊臣の使者として脇坂安治と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が放った「降伏勧告」の書かれた矢文を受け取った清水康英は、両者と起請文(きしょうもん=約束状)を交わし、下田城を明け渡したのでした。
攻撃から1ヶ月、最初の包囲からは約50日ほど耐えた下田城でしたが、やはり、ここまでの多勢に無勢では致し方なかった・・・という所でしょうか。。。
このあと、清水康英は、菩提寺である三養院(さんよういん=静岡県賀茂郡河津町)に入って隠居・・・おそらくは、この3ヶ月後に小田原城が開城されるのを憂いつつ過ごしたものと思われますが、その翌年の天正十九年(1591年)6月に60歳で死去しました。
それから、わずか5ヶ月・・・切腹を免れて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入っていた北条最後の当主である氏直が30歳の若さで亡くなってしまい、北条宗家も絶える事になってしまいました(11月4日参照>>)。
氏直は、小田原落城の際のその潔い姿に感銘した秀吉によって、再び大名に復帰できる予定になっていただけに、先に逝った清水康英にとっても、氏直の死は、さぞかし無念であった事でしょう。
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