赤松&山名からの脱却…備前の戦国の始まり~浦上松田合戦
明応六年(1497年)3月16日、浦上宗助が松田一族の富山城を攻撃しました。
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全国の武将が東西に分かれ、約10年の長きに渡ってくすぶり続けた応仁の乱(おうにんのらん)(11月11日参照>>)・・・
その後も、戦いは地方に分散されつつ引き継がれる中(「一乗山の戦い」参照>>)、弟10代室町幕府将軍を継いだ足利義材(あしかがよしき=後の義稙)が、反発する近江(おうみ=滋賀県)南部の六角高頼(ろっかくたかより)を領地からは蹴散らすも息の根止める事ができなかった=幕府が一武将の征討に失敗してしまうという幕府将軍の弱さを露呈してしまい(12月13日参照>>)、何やら、戦国下剋上の香りがプンプンして来た明応年間(1492年~1501年)の始まり~
東では北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)が伊豆討入り(堀越公方を倒す)を果たし(10月11日参照>>)、西では管領(かんれい=将軍の補佐)の細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)が明応の政変(めいおうのせいへん=自身の意のままになる将軍へ変更)を起こします(4月22日参照>>)。
さらに西となる中国地方では、かつての嘉吉の乱(かきつのらん=赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺した事件)(6月24日参照>>)を起こした赤松討伐をキッカケに山陰の大大名にのし上がった山名(やまな)氏(「山名宗全」を参照>>)と、その嘉吉の乱で一旦沈むも、応仁の乱の五月合戦で盛り返して来た播磨(はりま=兵庫県南西部)の赤松(あかまつ)氏(5月28日参照>>)が、過去の因縁そのままに対立姿勢にありました(「真弓峠の戦い」参照>>)。
そんな中、備前(びぜん=岡山県南東部・兵庫県&香川県の一部)にて赤松の家臣であった金川城(かながわじょう=同岡山市北区御津)の松田元藤 (まつだもとふじ=元勝)でが山名側に通じた事で、一貫して赤松側だった三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)の浦上則宗(うらがみのりむね)とが対立するようになります。
やがて山名VS赤松の戦いが痛み分けのまま終息に向かう(4月7日参照>>)のに対して、松田&浦上の両者は、その守護(室町幕府公認の今で言う県知事みたいな)権力から脱却して独自の道を歩み始め、それぞれの領地&支配圏の拡大に進んで行くのです。
かくして明応六年(1497年)3月16日、備前西部に勢力を伸ばしたい浦上宗助(うらがみむねすけ=則宗の甥?)が、約1000騎の兵を率いて三石を出陣し、上道郡(じょうとうぐん・かみつみちのこおり=岡山県岡山市中区周辺)へと乱入して村々に放火した後、旭川を渡って金山(きんざん・かなやま=同岡山市北区付近)に陣を張り、富山城(とみやまじょう=岡山県岡山市北区)を攻めたのです。
この時、富山城にいたのは松田惣右衛門(そうえもん)以下、松田一族の人々でした。
そこを、さらに富山城近くの伊福郷(いふくごう=岡山市北区周辺)に放火して城に迫る浦上勢に対し、金川城(かながわじょう=同岡山市北区御津)にて、この事態を知った松田元藤は、手早く500ほどの手勢を集めて笹ヶ瀬 (ささがせ=同岡山市北区)方面へと出陣し、後詰となって富山城内と呼応し、浦上軍を挟み撃ちの態勢にします。
この状況に浦上勢はやむなく撤退して、天然の要害である瀧口山に登り、ここで陣取りながら松田軍からの攻撃を凌ぎます。
その間に富山城を出た松田惣右衛門が湯迫(ゆば=同岡山市中区)に回り込んで浦上勢の退路を断つと、ここまで瀧口山の浦上勢を直接攻めていた松田元藤勢が攻撃を止め、遠巻きに浦上勢を眺めつつ、兵糧が尽きるのを待つ作戦に・・・
この状況を聞いた三石城では、浦上配下の宇喜多能家(うきたよしいえ)が兵を率いて援軍に駆け付け、退路を封鎖している松田惣右衛門勢を追い崩そうとしましたが、これがなかなかに強敵・・・
そこで能家は、配下の者数十人を百姓姿に変装させ、伏兵として投入・・・
脇田(わきた=同岡山市中区)周辺の民家に放火させました。
これに驚いた松田勢が消火に当たっているところを、宇喜多勢が不意打ちをかまし、慌てる松田勢に、瀧口山から山伝いに脇田へと出た浦上勢が宇喜多勢と一緒になって打ちかかります。
乱れに乱れた松田勢はやむなく退却・・・西へと兵を退くと、宇喜多勢が殿(しんがり=軍隊の最後尾)となって東へ向かい、無事、三石城へと戻ったのでした。
この戦いを皮切りに始まった「浦上松田合戦」と呼ばれる戦い・・・この両者の覇権争いはしばらく続きます。
浦上松田合戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
一般的に第二次とされる文亀二年(1502年)冬の戦いでは、宇喜多能家が300余騎を率いて備前福岡(ふくおか=岡山県瀬戸内市長船町)から吉井川を越えた事を知った松田元藤が、矢津峠(やづとうげ=同岡山市東区)にて敵勢を封鎖せんと宍甘村(しじかいむら=同岡山市北区大供付近)に陣取っていたところ、
足軽隊を先頭に、宇喜多能家自ら率先して真正面からぶつかって行き、有松右京進(ありまつさきのじょう)なる松田家臣の首を取って、その従者2名をも突き伏せた事から宇喜多勢の士気が頂点に達し、その勢いに負けた松田勢が敗退・・・勝利を確信した能家は将兵とともに勝鬨(かちどき)を挙げ、堂々の帰還を果たしました。
さらに第三次とされる翌文亀三年(1503年)1月の牧石河原(まきいしがわら=同岡山市北区付近)にて展開された旭川(あさひがわ)の戦いでは、浦上を援護すべく上道郡に出陣した宇喜多能家が、合戦のさ中に笠井山(かさいやま=同岡山市中区)に上って山上から麓の浦上勢を取り巻いてせん滅とする松田勢を確認した事から、自身の預かる全軍に旭川を渡らせて一気に松田勢に攻め込み、松田勢を敗走させたのです。
・・・て、浦上の話のはずが、なんか宇喜多能家の方が目立ってますやん!
そう、実は、お名前でもお察しの通り、この宇喜多能家さんは、後に備前岡山を支配する事になる宇喜多直家(なおいえ)のお爺ちゃんです。
これまで、
守護の赤松配下の
守護代の浦上配下で、
商人にも間違われるような一土豪(どごう=地侍)に過ぎなかった宇喜多家を中央にも名の知れる武家に押し上げた中興の祖とも言えるのが、この能家さん。。。
この後、浦上の後を継いだ浦上村宗(むらむね=宗助の息子)を担いで主家の赤松を倒す下剋上をやってのけますが、今度は、その浦上という主家を倒して備前全土を手に入れるのが孫の宇喜多直家というワケです(くわしくは「天神山城の戦い」参照>>)。
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