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2021年4月28日 (水)

武田信玄VS徳川家康~第1次野田城の戦い

 

元亀二年(1571年)4月28日、遠江東三河に侵攻して来た武田信玄が、徳川家康方の菅沼定盈が守る野田城を攻撃しました。

・・・・・・・

菅沼定盈(すがぬまさだみつ)は、駿河(するが=静岡県東部)を領し遠江(とおとうみ=静岡県西部)を間接支配する大大名=今川義元(いまがわよしもと)に仕えていた武将です。

とは言え、そもそもは野田城(のだじょう=愛知県新城市)を本拠とする三河(みかわ=愛知県東部)の武将で、今川義元の支配圏が三河周辺まで拡大された事によって、その傘下に入っていた状況でしたから、永禄三年(1560年)のあの桶狭間(おけはざま)の戦い(2015年5月19日参照>>)で義元が討たれ、それキッカケで今川家の人質だった徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平信康)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)にて独立する(2008年5月19日参照>>)と、その家康に従う道を選びます。

しかし、当然の事ながら、義元亡きあとの今川を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、それを許さず・・・永禄四年(1561年)に今川からの攻撃をを受けて、城は陥落し、一時は親戚筋を頼って逃れたものの、翌永禄五年(1562年)に夜襲をかけて奪回していました

この間に、家康は、かの桶狭間で義元を討った尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び(1月15日参照>>)、完全に今川とは手を切ります。

やがて、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)を手に入れて(8月15日参照>>)、上り調子の信長は、永禄十一年(1568年)9月に、足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)奉じての上洛を果たします(9月7日参照>>)

Tokugawaieyasu600 ちょうどその頃、大黒柱を失ってから力が衰え、今川の支配が緩くなって来ていた遠江に、家康が侵攻を開始しますが、この時、遠江への道案内をかって出たばかりか、未だ今川と德川の間で揺れ動いていた井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)配下の同族=菅沼忠久(ただひさ)味方に引き入れたのが菅沼定盈でした。

おかげで、家康の遠江侵攻は、かなりスムーズに展開し(2019年12月13日参照>>)、わずか5日で引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入っています。

一方、この家康の遠江侵攻と同時に動き始めたのが甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)・・・「このままでは今川の領地を家康に取られてしまう」とばかりに、これまでは信濃(しなの=長野県)方面へ伸ばしていた手を、一気に方向転換させ、信長の仲介によって家康と約束を結び、

Takedasingen600b 信玄は北から、家康は西から、今川領へと進み、倒したあかつきには大井川より東(駿河)は信玄が、西(遠江)は家康が治めると取り決め、両方向から今川へ仕掛けていきます。

永禄十一年(1568年)12月13日、信玄に今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を奪われた氏真は(2007年12月13日参照>>)掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走・・・すかざず、この掛川城を、今度は家康が攻撃します。(12月27日参照>>)

しかし、この信玄の行動に怒り心頭なのが、かつて甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい=武田&北条&今川の三者による同盟)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)でした。

同盟を締結した今川義元が亡くなったとて、もう一人の同盟者である北条を無視して、勝手に同盟を破棄して今川に攻め込んだわけですから・・・

そこで北条氏政は、信玄をけん制しつつ(【薩埵峠の戦い】参照>>)掛川城を攻めあぐねている家康と交渉・・・城攻め開始から5ヶ月経っても掛川城を落とせていなかった家康は、北条と同盟を結び、北条の介入&助け舟によって、ようやく、翌永禄十二年(1569年)5月に掛川城を開城させる事に成功したのです。

しかし当然の事ながら、今度は、この家康の行動に信玄が怒り心頭・・・

「もはや、大井川から西も東もクソもない!」
とばかりに、自力での旧今川領獲得へと進み始めます。

永禄十二年(1569年)7月に大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を奪取(7月2日参照>>)して、
10月には三増(みませ)峠で北条と戦い(10月6日参照>>)、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を開城(12月6日参照>>)・・・

翌元亀元年(1570年=4月に永禄十三年から改元)には奥さんの三条の方(さんじょうのかた)(7月28日参照>>)を失いつつも、さらに翌年の元亀二年(1571年)の1月には深沢城(ふかさわじょう=静岡県御殿場市)を奪取します(3月27日参照>>)

この間の徳川家康は、気賀(きが=浜松市北区細江)一揆(3月27日参照>>)など、未だ今川色の強い地域の支配を進めつつ、同盟者である信長の姉川の戦い(6月28日参照>>)に参戦したりしておりましたが、

そんなこんなの元亀二年(1571年)4月15日、信玄が德川配下の鈴木重直(すずきしげなお)の拠る足助城(あすけじょう=愛知県豊田市:真弓山城)を落とし、いよいよ遠江に侵攻して来たのです。

さらに、その勢いのまま、浅谷城(あさがいじょう=同豊田市山谷町)八桑城(やくわじょう=同豊田市新盛町)大沼城(おおぬまじょう=同豊田市大沼町)田代城(たしろじょう=同豊田市下山田代町)大桑城(おおくわじょう=豊田市大桑町)などを次々と落とし(自落した城もあり)周辺一帯は、またたく間に武田の支配下となりました。

そして、今度は南に進んで東三河に入り、今回の信玄侵攻キッカケで徳川方から武田に寝返った作手城(つくでじょう=愛知県新城市:亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)田峯城(だみねじょう=愛知県北設楽郡設楽町)菅沼定忠(さだただ)を道案内に…

ちなみに、この時、菅沼定忠は同族の菅沼定盈を攻撃する事に躊躇し、武田方に、わざと遠回りの道を教えて時間稼ぎしたとも言われていますが・・・

とにもかくにも元亀二年(1571年)4月28日の夜に、信玄配下の小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)山県昌景(やまがたまさかげ)らが軍勢を率いて作手を発って、夜中行軍にて菅沼定盈の守る野田城へと向かい、到着後、間もなく・・・その夜のうちに武田方は野田城への攻撃を開始します。

実は、この野田城・・・後に、大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん=忠教)が著した『三河物語』でも「藪のうちに小城あり」と記されている事でもわかるように、かなりの小さな城だったうえ、菅沼定盈以下、城兵の数もさほど多くは無かったようで・・・

もちろん、建物が小さいぶん、攻め手の攻め口も小さい造りにはなっていたようですが、所詮は多勢に無勢・・・結果は火を見るよりも明らかで、野田城は、未だ夜が明けぬ寅の刻=午前4時頃に落城してしまいました。

・・・と、ここまで書いておいて恐縮ですが、

実は、近年の研究では、今回の野田城の戦いは、元亀二年(1571年)の信玄の遠江侵攻時では無く、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(したらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)前哨戦であったのでは?との指摘もあります。

そうなると、菅沼定盈が戦った相手は信玄でなく、息子の武田勝頼(かつより=信玄の四男)という事になりますし、この翌年の信玄の西上作戦(せいじょうさくせん=上洛するつのりだった?と言われる信玄による武田軍の遠征)で、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦い(12月22日参照>>)の後に行われる信玄最後の戦い=一般には第2次とされる野田城の攻防戦(1月11日参照>>)の方が先という事になってしまうわけですが・・・

確かに、今回、夜襲によって落城するものの、菅沼定盈は討ち取られる事無く無事ですし、城も、第2次とされる西上作戦の時の攻防戦までのわずかな間に、信玄がかなり攻めあぐねるほどに見事な修復をされていますので、やはり少々の疑問が残ります。

なので、ひょっとしたら天正三年(1575年)の出来事かも知れないのですが、一応、このブログでは、複数の史料に登場する元亀二年(1571年)4月28日の日付で、今回はご紹介させていただく事にしました。
(新たな資料発見で、また変わるかも知れませんが…)

ところで、本日の主役である菅沼定盈さん・・・

その信玄の西上作戦の時の第2次野田城の戦いでも敗れ、一時は武田方に捕らわれの身となりますが、直後の人質交換により、再び家康の元に戻り、その後の長篠設楽原の戦い小牧長久手の戦い(3月6日参照>>)でも德川方として活躍・・・あの関ヶ原の時には最前線には出なかったものの、江戸城の留守居役を立派にこなしています。

このページでも、井伊谷の菅沼忠久さんや、武田に寝返った田峯の菅沼定忠さんがいたように、菅沼の一族がたくさんいて、定盈の野田菅沼は、嫡流から枝分かれした、むしろ支流だったわけですが、上記の通り、健やかなる時も病める時も、1度も家康を裏切る事無く尽くした事から、この野田菅沼家は、天下を取った德川家から優遇され、江戸時代を通じて(1度改易されるも旗本として復帰)菅沼一族の中では1番の出世頭となっています。
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2021年4月21日 (水)

信長を大敗させた半兵衛の作戦~斎藤龍興の新加納の戦い

 

永禄六年(1563年)4月21日、美濃へ侵攻した織田信長を迎撃し、斎藤龍興が勝利した新加納の戦いがありました。

・・・・・・・・

その出世ヒストリーから「美濃(みの=岐阜県南部)のマムシ」と呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)が、反発する息子の斎藤義龍(よしたつ=高政とも)によるクーデターによって倒れたのは弘治二年(1556年)4月の事でした【長良川の戦い】参照>>)

この時、道三は、娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の嫁ぎ先である尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)「美濃を譲る」の遺言状を書いた(4月19日参照>>)とも言われますが、

そんな遺言状があろうがなかろうが、おそらく信長は娘婿として道三の弔い合戦を考えていた事でしょうが、いかんせん、この頃の信長は、未だ尾張一国をも手にしていない一武将・・・

しかも、道三を倒しただけあって義龍は、なかなかの勇将で、とても美濃には手出しできない状況でした。

そんな中、永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま)にて今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った(2007年5月19日参照>>)事で一躍名を挙げた信長のもとに、永禄四年(1561年)5月11日に「義龍が30半ばの若さで急死した」との情報が舞い込んで来ます。

Saitoutatuoki300 しかも、後を継いだのは未だ14歳の息子=斎藤龍興(たつおき)・・・

信長は早速、永禄四年(1561年)5月13日に美濃への侵攻を開始し、翌14日の森部の戦い(5月14日参照>>)、23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と、立て続けに戦を仕掛けましたが、さすがは美濃の王者・・・

本家本元の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を何とかせねば、藤氏が揺るぐことはありません。

そんなこんなの永禄五年(1562年)11月、尾張守護代家の内紛に乗じて織田信賢(のぶかた)を倒して(2011年11月1日参照>>)、ようやく尾張を統一した信長は、再び、その矛先を美濃に向けます。

永禄六年(1563年)4月21日、上記のような経験から、本拠の稲葉山城の攻略を目標に置く信長は、約1万の兵を率いて木曽川を渡った後、その稲葉山の動向を見つつ、各務野(かかみの=岐阜県各務原市)付近に侵攻し、周辺の村々に火を放ちつつ進軍しました。

それは、
先陣に池田恒興(いけだつねおき=信輝)隊、
第2陣に森可成(もりよしなり)隊、
第3陣に柴田勝家(しばたかついえ)隊、
最後尾の信長本隊を丹羽長秀(にわながひで)隊がサポートする順列で、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)を経て、稲葉山城に迫る勢いで進みます。

一方、迎える斎藤龍興方は、
先陣の牧村半之助(まきむらはんのすけ)野村甚右衛門(のむらじんえもん)ら2千余騎、
第2陣の日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)ら1500余騎を大手(正面)側に配しておいて、
長井道利(ながいみちとし=道三の息子説あり)(8月28日参照>>)を将とする別動隊を森蔭や竹藪に伏せさせておき、
本隊を前一色山(まえいっしきやま=金華山の南東にある山:八幡山)の麓に隠した後、
偽装の本陣を山頂に設けて、やたら派手々々の吹き流しやのぼりを、これでもか!っと賑やかに据え、

準備万端整えて、信長軍を待ち構えていました。

そんな中、まずは新加納に布陣していた牧村隊が、ただ今やって来た織田先陣の池田隊とぶつかりますが、「とても抗いきれない」という雰囲気で、牧村隊が少し後退すると、そこを池田隊とともに、第2陣の森隊が追撃を仕掛けます。

しかし、それは斎藤方の作戦・・・

頃合いを見計らって、斎藤第2陣の日根野隊が牧村隊を救援すますが、これも、やや劣勢で後退し始めると、この状況に「斎藤劣勢なり!」と見た柴田隊&丹羽隊もが追撃にかかります。

この絶好のタイミングで、森蔭に伏せていた長井の別動隊が一斉に横から突いたため、さすがの織田軍も混乱・・・隊形が乱れます。

斎藤軍は、さらに、そこをグッとこらえて織田軍を十分に引き付けてから、これまた絶好のタイミングで全軍に反撃命令・・・伏兵&本隊&別動隊が一斉に鬨(とき)の声を挙げて突入します。

やられた織田方は、味方ともそれぞれ分断され、連絡も途絶えて散々に乱れ、死者が続出する中で前にも後ろにも行けず、右にも左にも回避できぬ状態となり、もはや全滅寸前となります。

もう、信長本隊にさえ敵が突入し、側近の馬廻衆が必死のパッチで、かろうじて防戦するあり様でした。

実は、斎藤方のこの作戦を考えたのが、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)だったと言われています。

さすがは名軍師・・・と言いたいところですが、上司&同僚のパワハラにキレた半兵衛が稲葉山城を占拠する有名なあの【竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件】>>は、この翌年の事なので、この情報は、後に有名になる人の定番=後付けエピソードなのかも知れませんが、ひょっとして?と思わせるほどの斎藤方の見事な作戦でした。

…と、ここで信長の命すら危ない風前の灯となった織田軍でありましたが、

この頃、ちょうど夕暮れ時となり、各務野一帯が薄暗くなって来た中、ここで突然、稲葉山南方の尾根・瑞龍寺山(ずいりゅうじやま=同岐阜市)数百に及ぶ松明(たいまつ)が掲げられます。

「すわ!一大事」
と慌てる斎藤軍・・・

実は、今回の織田軍迎撃のため、ほぼ全軍で立ち向かっていた斎藤方は、今現在、本拠の稲葉山城は、ほぼカラッポ状態・・・ほとんど兵を配置していなかったのです。

「この間に、別動隊が城を落とす作戦かも知れん」
と思った斎藤方は、慌てて包囲を解いて稲葉山城へと引き揚げていったのでした。

実は、この主君のピンチの際に、作戦には無かったフェイク松明を焚いたのが、織田方の殿(しんがり=軍の最後尾)を担当していた木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)だったと言われています。

まぁ、これも半兵衛同様に、後の展開を見た後付けエピソードかも知れませんが、実にオモシロイじゃありませんか!

半兵衛の作戦により大勝を得た龍興、
秀吉の機転により、
大敗でありながらも命落とさずに済んだ信長。

この後の、秀吉&半兵衛二人の関係を思うとワクワクしますね~

こうして、何とか無事、尾張に帰還した信長は、今回の手痛い敗戦に懲りた事で、「美濃を落とすためには、それ用の城が必要」と考え、小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)構築を決意したと言われています。

★その後の信長の美濃侵攻関連
永禄八年(1565年)8月:堂洞合戦>>
永禄九年(1566年)9月:墨俣の一夜城?>>
永禄十年(1567年)8月 :美濃三人衆内応>>
同年8月:稲葉山城・陥落>>
でどうぞ。。。
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2021年4月14日 (水)

義景を裏切った朝倉景鏡の最期~天正の越前一向一揆・平泉寺の戦い

 

天正二年(1574年)4月14日、越前一向一揆に攻められた朝倉景鏡アラタメ土橋信鏡が討死しました。

・・・・・・・・・

ご存知、織田信長(おだのぶなが)浅井朝倉攻め・・・

天正元年(1573年)、小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月20日参照>>)信長はいよいよ越前を手に入れました。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

この時、かつての姉川の戦い(6月28日参照>>)から3~4年の月日がある事で、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいたわけで、
大河ドラマ「麒麟がくる」でのこの表情
37kirinkageakira
で話題になった朝倉景鏡(かげあきら)もその一人ですが、

この景鏡さんは、ドラマの通り、主君を裏切るのは最後の最後なわけですが、かなり早いうちから織田方へと寝返って、情報を流し道案内をしていたのが、今回の朝倉滅亡をキッカケに前波吉継(まえばよしつぐ)から名前を改めた桂田長俊(かつらだながとし)で、
そのおかげで信長から朝倉の本拠であった一乗谷の守護代という大役に抜擢されたのでした。

しかし、上記の通り、朝倉からの寝返り組は他にも・・・

で、そんな桂田長俊の足を引っ張ろうとしたのが、同じ寝返り組で府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)で、

そのために、加賀一向一揆の一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取って援軍を要請し、なんと一向一揆の力を借りて桂田長俊を攻めたのです(くわしくは1月20日参照>>)

そもそも、加賀と越前は隣国という位置関係でもあり、朝倉の統治時代から越前一向一揆が盛んで何度も交戦していた(8月6日参照>>)わけで、その軍事力たるや戦国武将にも匹敵するほど・・・

結果、天正二年(1574年)1月20日、富田長繁は勝利し、その勢いのまま、信長が北ノ庄(きたのしょう=福井県福井市)に置いていた代官所も襲撃し、目付として赴任していた3人の奉行まで追放してしまいますが、

ここらへんでハタと気付いた?
自分は、織田の配下であり、その織田は大坂にて石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗総本山)と抗戦中だと・・・

しかし、時すでに遅し・・・案の定、桂田長俊に勝利した一向一揆は、もはや富田長繁の援軍もクソもなく、その勢いのまま走り続けるのです。

かの桂田攻めから半月と経たない2月上旬には、朝倉の旧臣が守っていた中角館なかつのやかた=福井県福井市中角町)を攻撃して占拠し、2月15日には丹波(たんば=京都中部・兵庫北東部)の一向一揆と合流し、やはり朝倉旧臣の拠る三留城(みとめじょう=同福井市三留)も奪います。

さらに2月18日には、やはり朝倉旧臣だった黒坂景久(くろさかかげひさ=この頃はすでに死去)の3人の息子が守る舟寄館(ふなよせやかた=福井県坂井市丸岡町)を襲撃して三兄弟を討ち片山館(かたやまやかた=福井市片山町)に拠る富田長繁の腹心も血祭りにあげました。

もちろん、彼らは正式な軍隊でなく一揆衆ですから、複数のリーダーが率いる別々のグループが、どこからともなく湧いて出るように現れ、ある時は寄り集まって大軍となり、ある時は、また違うグループ同志がくっついたりしながら暴れ回るので始末が悪い・・・

そんな中、一揆の総大将として本願寺から派遣されていた下間頼照(しもつまらいしょう)は、杉浦玄任とともに豊原寺(とよはらじ=福井県坂井市丸岡町)に陣を置いて、一連の一揆の成果となる首実検をしていましたが、

ここに来て、最後の最後に朝倉を裏切って今は土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と名を改めている朝倉景鏡(ややこしいので本日は景鏡さんの名のままで…)を討つために発進します。

すでに、その兆候を察していた景鏡は妻子を逃した後、自らも本拠の戌山城(いぬやまじょう=福井県大野市犬山)を出て、郎党とともに平泉寺(へいせんじ=福井県勝山市平泉寺町)に立て籠もっていました。

Etizenikkouikkiheisenzi
越前一向一揆平泉寺戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正二年(1574年)4月14日未明、2万余騎の大軍となった一向一揆が攻め寄せ、平泉寺手前の村岡山(むろこやま=福井県勝山市村岡町)にて景鏡軍とぶつかります。

一進一退の死闘が繰り広げられるものの、もともと景鏡の軍は総勢8300余騎で、一揆勢の数にはかなわぬわけで・・・やがて怒涛の如く押し寄せる敵兵に押され気味の景鏡軍は平泉寺へと後退し、その数は、わずか50~60騎に減ってしまいます。

「もはや、これまで!」
を覚悟した景鏡は、腹心である杉本(すぎもと)江村(えむら)の二人を連れ、主従ただ3騎にて、多勢の一揆勢の真っただ中に斬り込みますが、そんな中で杉本&江村の二人が討たれたのを見て、

「雑兵の手にかかるは無念なり!」
と叫んで、自らの太刀を胸元に突き立て、その姿のまま、馬からドッと落ち、息絶えたところを袋田(ふくろだ=福井県勝山市)の住人に首を取られたのだとか・・・

 景鏡の首実検を済ませた下間頼照は、景鏡の二人の息子(10歳と6歳)も捕らえて処刑し、3人の首を木に吊るして晒したという事です。

ちなみに、このあたりが現在「福井県勝山市」なのは、この時、村岡山にて一揆軍が勝利した事に由来すると言われています。

とは言え、まだまだ収まらぬ一向一揆・・・

5月には、同じく朝倉の旧臣で織田に降った朝倉景綱(かげつな)織田城(おだじょう=福井県丹生郡越前町)を攻め立て、景綱はたまらず城を明け渡し、妻子を連れて敦賀(つるが=福井県敦賀市)へと落ちて行きました。

一方、この間も、
「チョットやり過ぎた」
と反省しきりの富田長繁は、なんとか信長に許してもらおうと弁明に走りますが、信長の怒りが収まる事はなく、逆に、その態度は協力してくれた一向一揆にも歯向かう行為なわけで・・・

「富田長繁が、またぞろ織田の傘下に納まるんやったら、いっその事いてまえ~」
とばかりに、一向一揆は富田長繁を攻撃し、天正三年(1575年)2月18日、長繁は一揆との抗戦中、銃弾に倒れました(2月18日参照>>)

これで、名実ともに、越前は一向一揆の持ちたる国になってしまったわけです。

ただし、
もちろんではありますが、信長さんが、越前をこのままにしておくはずは無いわけで・・・

この年の5月に、武田勝頼(たけだかつより)を相手にした長篠設楽原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)を終えた信長は、

天正三年(1575年)8月に自ら越前へと向けて出陣・・・北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする約3万の大軍が越前一向一揆のせん滅にやって来るのですが、そのお話は8月12日のページでどうぞ>>
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2021年4月 7日 (水)

家康の侵攻で…奸臣か?忠臣か?~井伊家の家老・小野政次

 

永禄十二年(1569年)4月7日、 徳川家康の侵攻を受けた遠江井伊谷城を占拠していた小野政次が処刑されました。

・・・・・・・・

小野政次(おのまさつぐ)は、遠江(とおとうみ=静岡県の大井川以西)井伊谷(いいのや=静岡県浜松市北区引佐町)を支配していた国人領主=井伊(いい)家老であった小野政直(まさなお)の息子で、天文二十三年(1554年)8月27日に死去した父の後を継いで井伊家の家老を務めた人物・・・名前は小野道好(みちよし)だったとも伝わりますが、本日は、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で採用されていた政次というお名前で…

大河ドラマでは高橋一生さんの好演で、これまで残る井伊家の記録で悪役一辺倒だった小野政次さんの印象がずいぶん変わった事は、記憶に新しいところです。

この頃の井伊家は、東海一の弓取りと称された駿河(するが=静岡県の大井川以東)今川義元(いまがわよしもと)の傘下であり、父の小野政直は、その今川に忠誠を誓う気持ちが強かったため、逆に今川と距離を置きたい井伊一門とはことごとく対立して、その敵対勢力を謀殺したりする奸臣(かんじん=邪心を持つ家臣)で、当主=井伊直盛(いいなおもり)に逆らって井伊家をわが物にした人物のように伝えられています(1月12日参照>>)

 そのためか?小野政直の死をキッカケに、それまで危険を感じて身を隠していた井伊直親(なおちか=直盛の甥)が領国に戻って来て、後継ぎ男子がいなかった井伊直盛が、直親を養子に迎えたりしていました。

 小野政次が父の後を継いで家老になった頃は、このような状況だったわけですが、そんなこんなの永禄三年(1560年)5月、大看板の今川義元が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)に敗れる、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町・同名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)があり、今川軍に従軍していた井伊直盛が討たれてしまいます。

この桶狭間では、小野政次も弟の小野朝直(ともなお)などを失いますが、ここで、亡き直盛に代って新当主となる養子の直親は、仲が悪かった父の時代からの因縁もあって、やはり直親も小野政次とはソリが合わないわけで・・・

そんな中、桶狭間キッカケで今川での人質生活から脱出して(2008年5月19日参照>>)独立した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)が、義元を討った相手の信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、今川と縁を切っての領国経営をこなし始めます。

これまで、家康が人質に取られていた松平同様に、命令一つ出すにも大大名の今川にお伺いを立てて気遣いせねばならないような立場だった井伊の者から見れば、
「家康ができんねやったら、俺らもイケんちゃうん?」
と、隣人=家康の様子を見て、独立を夢見る者もチラホラ・・・どうやら、当主=直親自らが、そのような感じで、家康に近づいて行ったとか・・・

ただし、実際には、どこまで德川に内通したか?あるいはまったくしてなかったのか?がわかっておらず、そこはあくまで「内通の疑い」だったわけですが、

未だ今川に忠誠を誓う小野政次が義元の後を継いだ息子=今川氏真(うじざね)に、その「内通の疑い」をチクり・・・

それを信じた氏真の命によって、直親は、駿河への弁明に向かう途中に今川家臣によって殺されてしまいます。

氏真は、直親の息子である虎松(とらまつ=後の井伊直政)も殺害すべく小野政次に命じますが、そこは、親井伊派の今川家臣=新野親矩(にいのちかのり)の助けによって虎松は身を隠し、無事乗り切りました。

しかし、その後、永禄六年(1563年)に井伊直平(なおひら=直盛の祖父)も亡くなった事から、井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)には城主がいなくなってしまったため、出家していた、亡き直盛のひとり娘=次郎法師(じろうほうし)を還俗させて井伊直虎(なおとら)と名乗らせ、井伊家の当主としました。
(↑この方が大河の主役…くわしくは【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】で>>内容カブッてますがスミマセン)

Tokugawaieyasu600 しかし、そんなこんなの永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)一方で、同盟者の徳川家康は隣国=遠江への侵攻を開始するのです。

これは、大黒柱の義元を失って後、息子=氏真が後を継ぐも、なかなかウマく領国経営できずにいた今川の領地を狙っての行動・・・

これを見た甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)は、
「このままやったら今川の領地全部、家康に取られるやん!」
とばかりに、これまでは、その領地を北側へと広げるべく、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)とドンパチやってた【川中島の戦い】参照>>)のを、ここに来て矛先を南へとシフトチェンジ・・・

信長の仲介で(今川領地の)大井川から西は家康が、東は信玄が…との約束を交わし、両者は、ともに今川を倒しにかかって来たのです。

この時、今川軍に従軍していた小野政次は、氏真から、
「虎松を殺害して井伊谷を掌握し、井伊軍を連れて今川方に加勢せよ」
との命を受け、井伊谷城を占拠・・・直虎&虎松らは、何とか城を脱出して菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ=静岡県浜松市北区)に身を寄せました。

一方、かつて義元が健在の時期に、武田や今川とともに甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)(3月3日参照>>)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)は、今回の信玄の勝手な裏切り行為に激怒して挙兵しますが【薩埵峠の戦い】参照>>)、信玄はそれらをかわしつつ、

12月13日には氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・駿府城)を攻撃して駿府を陥落させ(2007年12月13日参照>>)、負けた氏真は、やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走ます。

そして、まさに、この同じ12月13日に遠江へと入った家康・・・その道案内をしたのは、井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と呼ばれる菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人。

そう、今川に忠誠を誓って井伊谷城を占拠した小野政次に対し、彼らは家康の側についたのです(2019年12月13日参照>>)

家康は、近隣の刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落とす一方で、かの井伊谷三人衆に井伊谷城の奪回を命じ、自らは、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)、氏真が逃げた先=掛川城の攻撃に入るのです(12月27日参照>>)

このように圧倒的な力の差にある德川という後ろ盾を得た井伊谷三人衆に対し、もはや頼みの当主まで逃げちゃった小野政次ら今川派・・・勝敗は火を見るよりも明らかな中、負けた小野政次らは、何とか井伊谷城から逃走して、その身を隠しますが、

翌年、3月27日に起こった、壮絶な堀川一揆(ほりかわいっき)(3月27日参照>>)の際に、德川軍によって見つけ出されて捕縛されてしまいます。

かくして永禄十二年(1569年)4月7日、小野政次は、直親讒言の罪により、井伊谷川付近の仕置き場にて処刑されたのです。

その1ヶ月後には、二人の息子も処刑されました。

…とまぁ、讒言やら横領やら、とにかく、記録に残る小野政次は、悪役そのもの・・・残る史料が少なく、それも、かの虎松こと後の井伊直政(いいなおまさ)が家康の家臣として大出世した事で、
「この井伊家の歴史は…」
みたいな感じで編さんされたり、あるいは、他家の記録にチョコッと出てきたり・・・みたいな感じですから、幼き直政と敵対関係となる小野政次側を良く書き残す事は無いわけですし、別途残る書状なども非常に少ない。

とは言え、一連の出来事を冷静な目で見つつ、かつ、あの大河ドラマでの高橋政次さんの死に際がカッコ良かった事も相まって、ここのところ、少し違った見方もされるようになって来ました。

と言うのも、そもそも、その弱小さゆえ、今川の傘下となって生き延びていくしかなかった井伊家は、独立した家康が、信長や信玄とタッグを組んで事を起こし始めた時点で、
「このドチラにつくのか?」
が最大の生き残りの分かれ道であったはずで、周辺の同じような立場の国人領主たちは、その判断に悩み、その動向いかんによっては、滅亡も覚悟せねばならなかったわけで・・・

現に、この時、井伊家と同じく今川傘下で、同じく先代を桶狭間で失っている引馬城の飯尾(いのお)は、それ以前に離反を疑われて今川から攻められていたにも関わらず、家康の侵攻に対して、あからさまに德川につく事なく城の開けけ渡しを拒んだ事により德川軍に攻め込まれて落城しています(先の12月20日参照>>)

つまり、家康が遠江侵攻を開始した以上、井伊家だって、井伊谷城を明け渡して家康に降伏するしかなかった状況だったはず・・・

しかし、ギリギリの線で井伊三人衆を道案内に向かわせるとともに、井伊谷城が小野政次に占拠されている状況だったからこそ、德川軍から直接攻撃される事も無かったし、その後に直虎&虎松が復帰=事実上領地を安堵される事になるわけです。

細かな事情がハッキリしないので断言はできませんが、
家康の侵攻と三人衆の道案内と小野政次の井伊谷城占拠が、ほぼ同時だったという、この経緯と結果だけを見れば、井伊家は、小野政次一族をスケープゴートにする事で、城を差し出す事もなく生き残った・・・という事になります。

もちろん、
小野政次が自ら望んで捨て石となったのか?
はたまた、この機会に主家=井伊家に取って代ろうとしたのか?

人の心の奥底はわかりませんが、戦国ファンとしては前者を願うばかりです。

ちなみに、このあと、掛川城の攻撃に手間取った家康が、北条氏康と和睦を結び、北条の助力によって掛川城を開城に導いた事から、信玄と家康とが手切れとなり【信玄の大宮城の戦い】参照>>)、最終的に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)の戦いへと繋がっていく事になります。 .

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2021年4月 1日 (木)

秀吉の小田原征伐~水軍による下田城の戦い

 

天正十八年(1590年)4月1日、豊臣秀吉小田原征伐にて、豊臣水軍を受け持った長宗我部元親らが、軍艦大黒丸で北条方の清水康英の籠もる下田城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の時のお話です。

天正十年(1582年)の本能寺(ほんのうじ)にて織田信長(おだのぶなが)が倒れた(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)で主導権の握り(6月27日参照>>)、さらに信長の葬儀を仕切って(10月15日参照>>)、信長の三男である織田信孝(のぶたか)と織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒し(4月21日参照>>)、信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を抑え込んだ(11月16日参照>>)豊臣秀吉は、

天正十三年(1585年)には紀州征伐(3月24日参照>>)四国平定を成し遂げ(7月26日参照>>)、翌天正十四年(1586)には京都に政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の普請を開始(2月23日参照>>)する一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)、さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催(10月1日参照>>)・・・

と、まさに天下人へまっしぐら~だったわけですが、一方で、未だ関東から東はほぼ手つかず状態・・・

そんな中、天正十七年(1589年)10月、北条(ほうじょう)配下沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉が真田昌幸(さなだまさゆき)の物と認めていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を力づくで奪うという事件が発生します(10月23日参照>>)

これは、秀吉が発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為・・・かねてより、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠に、約100年渡って関東を支配し続けていた北条氏「何とかせねば!」と思っていた秀吉は、「コレ幸い」と、この関東惣無事令違反を大義名分として小田原征伐の開始を決定し、北条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告状を送ったのです(11月24日参照>>)

12月10日の小田原攻め軍議の決定(12月10日参照>>)にて、陸上は、北陸方面から進む上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らと東海道を進む本隊+途中合流の家康と、大きく分けて2方向から小田原に向かいます。

天正十八年(1590年)3月29日の足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)同時攻撃にて小田原征伐の幕が上がり(3月29日参照>>)、瞬く間に箱根(はこね)を越えた秀吉は、4月3日には小田原城の包囲を完了(4月3日参照>>)するのですが、

この時、陸上を行く部隊とは別に、海上から小田原に向かったのが豊臣水軍=船手勢です。

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:下田版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そのメンバーは長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)=2500、九鬼嘉隆(くきよしたか)=1500、脇坂安治(わきさかやすはる)=1300に加藤嘉明(かとうよしあきら)らも加わって、総勢1万以上と言われる大水軍でした。

そして、陸上部隊の小田原城包囲の2日前の天正十八年(1590年)4月1日・・・長宗我部元親ら水軍部隊が、北条方の清水康英(しみずやすひで)の籠もる下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を攻撃するのです。

守る清水康英は、 先々代=北条氏康(うじやす=氏政の父)乳兄弟(母が氏康の乳母)傅役(もりやく)でもあり、北条五家老の一人にも数えられる重臣ですが、この時点で持つ城兵は、わずかに600ほど・・・

それは、この小田原攻めでの北条側の軍議の際に、「豊臣軍は下田沖を通り=つまりは下田城をスルーして小田原城沖に直接入って来る可能性か高い」という意見があったため、それならば「下田城に多くの兵を配置するのはもったいない」と言われますが、

しかし一方で、現在残る文書(「清水文書」)によれば、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、「豊臣水軍の攻撃を想定して構築した下田城であり、水の備えとして戦上手の清水康英を配している…なのでこの度は康英にすべてを任す…口出し無用と言ったのだとか・・・

むしろ清水康英なら少数精鋭で守りきれる!と言わんばかり・・・主君からの篤い信頼がうかがえます。

かくして数千艘の船で以って海上から城を囲みつつ、豆州浦(ずしゅううら)から上陸した豊臣勢が下田城目掛けて攻撃を開始し、軍船から降ろした大砲を、下田城を見下ろす高台に設置して、威嚇射撃を行います。

しかし、抵抗する下田城は、なかなか落城せず・・・

そうこうしているうちに、上記の通り、豊臣本隊が4月3日に小田原城の包囲を完了した事から、豊臣水軍は長宗我部元親の長宗我部水軍だけを下田城攻めに残し、あとは小田原城の海上からの包囲に向かいます。

最大の危機を脱した下田城ですが、それでも相手は2500・・・しかも、あの高台の大砲は相変わらずの元気ハツラツで威嚇して来ます。

わずかの兵で踏ん張るものの、「もはやこれまで!」となった4月24日、豊臣の使者として脇坂安治と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が放った「降伏勧告」の書かれた矢文を受け取った清水康英は、両者と起請文(きしょうもん=約束状)を交わし、下田城を明け渡したのでした。

攻撃から1ヶ月、最初の包囲からは約50日ほど耐えた下田城でしたが、やはり、ここまでの多勢に無勢では致し方なかった・・・という所でしょうか。。。

このあと、清水康英は、菩提寺である三養院(さんよういん=静岡県賀茂郡河津町)に入って隠居・・・おそらくは、この3ヶ月後に小田原城が開城されるのを憂いつつ過ごしたものと思われますが、その翌年の天正十九年(1591年)6月に60歳で死去しました。

それから、わずか5ヶ月・・・切腹を免れて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入っていた北条最後の当主である氏直が30歳の若さで亡くなってしまい、北条宗家も絶える事になってしまいました(11月4日参照>>)

氏直は、小田原落城の際のその潔い姿に感銘した秀吉によって、再び大名に復帰できる予定になっていただけに、先に逝った清水康英にとっても、氏直の死は、さぞかし無念であった事でしょう。
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