信長を大敗させた半兵衛の作戦~斎藤龍興の新加納の戦い
永禄六年(1563年)4月21日、美濃へ侵攻した織田信長を迎撃し、斎藤龍興が勝利した新加納の戦いがありました。
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その出世ヒストリーから「美濃(みの=岐阜県南部)のマムシ」と呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)が、反発する息子の斎藤義龍(よしたつ=高政とも)によるクーデターによって倒れたのは弘治二年(1556年)4月の事でした(【長良川の戦い】参照>>)。
この時、道三は、娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の嫁ぎ先である尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)に「美濃を譲る」の遺言状を書いた(4月19日参照>>)とも言われますが、
そんな遺言状があろうがなかろうが、おそらく信長は娘婿として道三の弔い合戦を考えていた事でしょうが、いかんせん、この頃の信長は、未だ尾張一国をも手にしていない一武将・・・
しかも、道三を倒しただけあって義龍は、なかなかの勇将で、とても美濃には手出しできない状況でした。
そんな中、永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま)にて今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った(2007年5月19日参照>>)事で一躍名を挙げた信長のもとに、永禄四年(1561年)5月11日に「義龍が30半ばの若さで急死した」との情報が舞い込んで来ます。
しかも、後を継いだのは未だ14歳の息子=斎藤龍興(たつおき)・・・
信長は早速、永禄四年(1561年)5月13日に美濃への侵攻を開始し、翌14日の森部の戦い(5月14日参照>>)、23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と、立て続けに戦を仕掛けましたが、さすがは美濃の王者・・・
本家本元の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を何とかせねば、斎藤氏が揺るぐことはありません。
そんなこんなの永禄五年(1562年)11月、尾張守護代家の内紛に乗じて織田信賢(のぶかた)を倒して(2011年11月1日参照>>)、ようやく尾張を統一した信長は、再び、その矛先を美濃に向けます。
永禄六年(1563年)4月21日、上記のような経験から、本拠の稲葉山城の攻略を目標に置く信長は、約1万の兵を率いて木曽川を渡った後、その稲葉山の動向を見つつ、各務野(かかみの=岐阜県各務原市)付近に侵攻し、周辺の村々に火を放ちつつ進軍しました。
それは、
先陣に池田恒興(いけだつねおき=信輝)隊、
第2陣に森可成(もりよしなり)隊、
第3陣に柴田勝家(しばたかついえ)隊、
最後尾の信長本隊を丹羽長秀(にわながひで)隊がサポートする順列で、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)を経て、稲葉山城に迫る勢いで進みます。
一方、迎える斎藤龍興方は、
先陣の牧村半之助(まきむらはんのすけ)&野村甚右衛門(のむらじんえもん)ら2千余騎、
第2陣の日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)ら1500余騎を大手(正面)側に配しておいて、
長井道利(ながいみちとし=道三の息子説あり)(8月28日参照>>)を将とする別動隊を森蔭や竹藪に伏せさせておき、
本隊を前一色山(まえいっしきやま=金華山の南東にある山:八幡山)の麓に隠した後、
偽装の本陣を山頂に設けて、やたら派手々々の吹き流しやのぼりを、これでもか!っと賑やかに据え、
準備万端整えて、信長軍を待ち構えていました。
そんな中、まずは新加納に布陣していた牧村隊が、ただ今やって来た織田先陣の池田隊とぶつかりますが、「とても抗いきれない」という雰囲気で、牧村隊が少し後退すると、そこを池田隊とともに、第2陣の森隊が追撃を仕掛けます。
しかし、それは斎藤方の作戦・・・
頃合いを見計らって、斎藤第2陣の日根野隊が牧村隊を救援すますが、これも、やや劣勢で後退し始めると、この状況に「斎藤劣勢なり!」と見た柴田隊&丹羽隊もが追撃にかかります。
この絶好のタイミングで、森蔭に伏せていた長井の別動隊が一斉に横から突いたため、さすがの織田軍も混乱・・・隊形が乱れます。
斎藤軍は、さらに、そこをグッとこらえて織田軍を十分に引き付けてから、これまた絶好のタイミングで全軍に反撃命令・・・伏兵&本隊&別動隊が一斉に鬨(とき)の声を挙げて突入します。
やられた織田方は、味方ともそれぞれ分断され、連絡も途絶えて散々に乱れ、死者が続出する中で前にも後ろにも行けず、右にも左にも回避できぬ状態となり、もはや全滅寸前となります。
もう、信長本隊にさえ敵が突入し、側近の馬廻衆が必死のパッチで、かろうじて防戦するあり様でした。
実は、斎藤方のこの作戦を考えたのが、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)だったと言われています。
さすがは名軍師・・・と言いたいところですが、上司&同僚のパワハラにキレた半兵衛が稲葉山城を占拠する有名なあの【竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件】>>は、この翌年の事なので、この情報は、後に有名になる人の定番=後付けエピソードなのかも知れませんが、ひょっとして?と思わせるほどの斎藤方の見事な作戦でした。
…と、ここで信長の命すら危ない風前の灯となった織田軍でありましたが、
この頃、ちょうど夕暮れ時となり、各務野一帯が薄暗くなって来た中、ここで突然、稲葉山南方の尾根・瑞龍寺山(ずいりゅうじやま=同岐阜市)に数百に及ぶ松明(たいまつ)が掲げられます。
「すわ!一大事」
と慌てる斎藤軍・・・
実は、今回の織田軍迎撃のため、ほぼ全軍で立ち向かっていた斎藤方は、今現在、本拠の稲葉山城は、ほぼカラッポ状態・・・ほとんど兵を配置していなかったのです。
「この間に、別動隊が城を落とす作戦かも知れん」
と思った斎藤方は、慌てて包囲を解いて稲葉山城へと引き揚げていったのでした。
実は、この主君のピンチの際に、作戦には無かったフェイク松明を焚いたのが、織田方の殿(しんがり=軍の最後尾)を担当していた木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)だったと言われています。
まぁ、これも半兵衛同様に、後の展開を見た後付けエピソードかも知れませんが、実にオモシロイじゃありませんか!
半兵衛の作戦により大勝を得た龍興、
秀吉の機転により、
大敗でありながらも命落とさずに済んだ信長。
この後の、秀吉&半兵衛二人の関係を思うとワクワクしますね~
こうして、何とか無事、尾張に帰還した信長は、今回の手痛い敗戦に懲りた事で、「美濃を落とすためには、それ用の城が必要」と考え、小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)の構築を決意したと言われています。
★その後の信長の美濃侵攻関連は
永禄八年(1565年)8月:堂洞合戦>>
永禄九年(1566年)9月:墨俣の一夜城?>>
永禄十年(1567年)8月 :美濃三人衆内応>>
同年8月:稲葉山城・陥落>>
でどうぞ。。。
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