家康の侵攻で…奸臣か?忠臣か?~井伊家の家老・小野政次
永禄十二年(1569年)4月7日、 徳川家康の侵攻を受けた遠江井伊谷城を占拠していた小野政次が処刑されました。
・・・・・・・・
小野政次(おのまさつぐ)は、遠江(とおとうみ=静岡県の大井川以西)の井伊谷(いいのや=静岡県浜松市北区引佐町)を支配していた国人領主=井伊(いい)家の家老であった小野政直(まさなお)の息子で、天文二十三年(1554年)8月27日に死去した父の後を継いで井伊家の家老を務めた人物・・・名前は小野道好(みちよし)だったとも伝わりますが、本日は、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で採用されていた政次というお名前で…
大河ドラマでは高橋一生さんの好演で、これまで残る井伊家の記録で悪役一辺倒だった小野政次さんの印象がずいぶん変わった事は、記憶に新しいところです。
この頃の井伊家は、東海一の弓取りと称された駿河(するが=静岡県の大井川以東)の今川義元(いまがわよしもと)の傘下であり、父の小野政直は、その今川に忠誠を誓う気持ちが強かったため、逆に今川と距離を置きたい井伊一門とはことごとく対立して、その敵対勢力を謀殺したりする奸臣(かんじん=邪心を持つ家臣)で、当主=井伊直盛(いいなおもり)に逆らって井伊家をわが物にした人物のように伝えられています(1月12日参照>>)。
そのためか?小野政直の死をキッカケに、それまで危険を感じて身を隠していた井伊直親(なおちか=直盛の甥)が領国に戻って来て、後継ぎ男子がいなかった井伊直盛が、直親を養子に迎えたりしていました。
小野政次が父の後を継いで家老になった頃は、このような状況だったわけですが、そんなこんなの永禄三年(1560年)5月、大看板の今川義元が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)に敗れる、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町・同名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)があり、今川軍に従軍していた井伊直盛が討たれてしまいます。
この桶狭間では、小野政次も弟の小野朝直(ともなお)などを失いますが、ここで、亡き直盛に代って新当主となる養子の直親は、仲が悪かった父の時代からの因縁もあって、やはり直親も小野政次とはソリが合わないわけで・・・
そんな中、桶狭間キッカケで今川での人質生活から脱出して(2008年5月19日参照>>)独立した三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)が、義元を討った相手の信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、今川と縁を切っての領国経営をこなし始めます。
これまで、家康が人質に取られていた松平同様に、命令一つ出すにも大大名の今川にお伺いを立てて気遣いせねばならないような立場だった井伊の者から見れば、
「家康ができんねやったら、俺らもイケんちゃうん?」
と、隣人=家康の様子を見て、独立を夢見る者もチラホラ・・・どうやら、当主=直親自らが、そのような感じで、家康に近づいて行ったとか・・・
ただし、実際には、どこまで德川に内通したか?あるいはまったくしてなかったのか?がわかっておらず、そこはあくまで「内通の疑い」だったわけですが、
未だ今川に忠誠を誓う小野政次が義元の後を継いだ息子=今川氏真(うじざね)に、その「内通の疑い」をチクり・・・
それを信じた氏真の命によって、直親は、駿河への弁明に向かう途中に今川家臣によって殺されてしまいます。
氏真は、直親の息子である虎松(とらまつ=後の井伊直政)も殺害すべく小野政次に命じますが、そこは、親井伊派の今川家臣=新野親矩(にいのちかのり)の助けによって虎松は身を隠し、無事乗り切りました。
しかし、その後、永禄六年(1563年)に井伊直平(なおひら=直盛の祖父)も亡くなった事から、井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)には城主がいなくなってしまったため、出家していた、亡き直盛のひとり娘=次郎法師(じろうほうし)を還俗させて井伊直虎(なおとら)と名乗らせ、井伊家の当主としました。
(↑この方が大河の主役…くわしくは【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】で>>内容カブッてますがスミマセン)
しかし、そんなこんなの永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)一方で、同盟者の徳川家康は隣国=遠江への侵攻を開始するのです。
これは、大黒柱の義元を失って後、息子=氏真が後を継ぐも、なかなかウマく領国経営できずにいた今川の領地を狙っての行動・・・
これを見た甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)は、
「このままやったら今川の領地全部、家康に取られるやん!」
とばかりに、これまでは、その領地を北側へと広げるべく、越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)とドンパチやってた(【川中島の戦い】参照>>)のを、ここに来て矛先を南へとシフトチェンジ・・・
信長の仲介で(今川領地の)大井川から西は家康が、東は信玄が…との約束を交わし、両者は、ともに今川を倒しにかかって来たのです。
この時、今川軍に従軍していた小野政次は、氏真から、
「虎松を殺害して井伊谷を掌握し、井伊軍を連れて今川方に加勢せよ」
との命を受け、井伊谷城を占拠・・・直虎&虎松らは、何とか城を脱出して菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ=静岡県浜松市北区)に身を寄せました。
一方、かつて義元が健在の時期に、武田や今川とともに甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)(3月3日参照>>)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)の北条氏康(うじやす)は、今回の信玄の勝手な裏切り行為に激怒して挙兵しますが(【薩埵峠の戦い】参照>>)、信玄はそれらをかわしつつ、
12月13日には氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・駿府城)を攻撃して駿府を陥落させ(2007年12月13日参照>>)、負けた氏真は、やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走ます。
そして、まさに、この同じ12月13日に遠江へと入った家康・・・その道案内をしたのは、井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と呼ばれる菅沼忠久(すがぬまただひさ)・近藤康用(こんどうやすもち)・鈴木重時(すずきしげとき)の3人。
そう、今川に忠誠を誓って井伊谷城を占拠した小野政次に対し、彼らは家康の側についたのです(2019年12月13日参照>>)。
家康は、近隣の刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)や白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落とす一方で、かの井伊谷三人衆に井伊谷城の奪回を命じ、自らは、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)、氏真が逃げた先=掛川城の攻撃に入るのです(12月27日参照>>)。
このように圧倒的な力の差にある德川という後ろ盾を得た井伊谷三人衆に対し、もはや頼みの当主まで逃げちゃった小野政次ら今川派・・・勝敗は火を見るよりも明らかな中、負けた小野政次らは、何とか井伊谷城から逃走して、その身を隠しますが、
翌年、3月27日に起こった、壮絶な堀川一揆(ほりかわいっき)(3月27日参照>>)の際に、德川軍によって見つけ出されて捕縛されてしまいます。
かくして永禄十二年(1569年)4月7日、小野政次は、直親讒言の罪により、井伊谷川付近の仕置き場にて処刑されたのです。
その1ヶ月後には、二人の息子も処刑されました。
…とまぁ、讒言やら横領やら、とにかく、記録に残る小野政次は、悪役そのもの・・・残る史料が少なく、それも、かの虎松こと後の井伊直政(いいなおまさ)が家康の家臣として大出世した事で、
「この井伊家の歴史は…」
みたいな感じで編さんされたり、あるいは、他家の記録にチョコッと出てきたり・・・みたいな感じですから、幼き直政と敵対関係となる小野政次側を良く書き残す事は無いわけですし、別途残る書状なども非常に少ない。
とは言え、一連の出来事を冷静な目で見つつ、かつ、あの大河ドラマでの高橋政次さんの死に際がカッコ良かった事も相まって、ここのところ、少し違った見方もされるようになって来ました。
と言うのも、そもそも、その弱小さゆえ、今川の傘下となって生き延びていくしかなかった井伊家は、独立した家康が、信長や信玄とタッグを組んで事を起こし始めた時点で、
「このドチラにつくのか?」
が最大の生き残りの分かれ道であったはずで、周辺の同じような立場の国人領主たちは、その判断に悩み、その動向いかんによっては、滅亡も覚悟せねばならなかったわけで・・・
現に、この時、井伊家と同じく今川傘下で、同じく先代を桶狭間で失っている引馬城の飯尾(いのお)は、それ以前に離反を疑われて今川から攻められていたにも関わらず、家康の侵攻に対して、あからさまに德川につく事なく城の開けけ渡しを拒んだ事により德川軍に攻め込まれて落城しています(先の12月20日参照>>)。
つまり、家康が遠江侵攻を開始した以上、井伊家だって、井伊谷城を明け渡して家康に降伏するしかなかった状況だったはず・・・
しかし、ギリギリの線で井伊三人衆を道案内に向かわせるとともに、井伊谷城が小野政次に占拠されている状況だったからこそ、德川軍から直接攻撃される事も無かったし、その後に直虎&虎松が復帰=事実上領地を安堵される事になるわけです。
細かな事情がハッキリしないので断言はできませんが、
家康の侵攻と三人衆の道案内と小野政次の井伊谷城占拠が、ほぼ同時だったという、この経緯と結果だけを見れば、井伊家は、小野政次一族をスケープゴートにする事で、城を差し出す事もなく生き残った・・・という事になります。
もちろん、
小野政次が自ら望んで捨て石となったのか?
はたまた、この機会に主家=井伊家に取って代ろうとしたのか?
人の心の奥底はわかりませんが、戦国ファンとしては前者を願うばかりです。
ちなみに、このあと、掛川城の攻撃に手間取った家康が、北条氏康と和睦を結び、北条の助力によって掛川城を開城に導いた事から、信玄と家康とが手切れとなり(【信玄の大宮城の戦い】参照>>)、最終的に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)の戦いへと繋がっていく事になります。 .
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
お久しぶりです!今年の大河は草剪慶喜が高評のようですが、茶々さんはご覧になってますか?? 私は先日の直弼の豹変ぶりが、以前同じ岸谷五朗が演じた江での秀吉の豹変ぶり(宮沢茶々を抱き寄せたシーン)とダブッて見えました。鶴太郎さんが北条高時や小寺政職、摂津晴門など伝統側の非道い役ばかり演じるのと同様、岸谷さんも普通の人から黒い権力者に豹変する役を期待されているように見えます。井伊つながりでコメントさせていただきました。
投稿: 通りすがり | 2021年4月 7日 (水) 23時53分
通りすがりさん、こんばんは~
井伊直弼さんは攘夷派にとっては敵ですからね~
岸谷さんは好演でしたので、次回が最後なのは残念です。
投稿: 茶々 | 2021年4月 8日 (木) 02時30分
おんな城主直虎。まだ4年前の番組ですが懐かしいですね。
記事の内容の部分は番組内では善悪の構図が反対のように見えました。
先ほど直虎に出ていた井上芳雄さんがあさイチに出ていました。井上さんが演じていた小野玄播が、記事中の永禄10年の頃に生きていれば井伊家と小野家の運命は変わったかも?
さて、再来年に井伊直政を演じる人は誰かな?
投稿: えびすこ | 2021年4月16日 (金) 11時36分
えびすこさん、こんばんは~
大河での高橋一生さん、カッコ良かったですね~
投稿: 茶々 | 2021年4月17日 (土) 02時38分