武田信玄VS徳川家康~第1次野田城の戦い
元亀二年(1571年)4月28日、遠江&東三河に侵攻して来た武田信玄が、徳川家康方の菅沼定盈が守る野田城を攻撃しました。
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菅沼定盈(すがぬまさだみつ)は、駿河(するが=静岡県東部)を領し遠江(とおとうみ=静岡県西部)を間接支配する大大名=今川義元(いまがわよしもと)に仕えていた武将です。
とは言え、そもそもは野田城(のだじょう=愛知県新城市)を本拠とする三河(みかわ=愛知県東部)の武将で、今川義元の支配圏が三河周辺まで拡大された事によって、その傘下に入っていた状況でしたから、永禄三年(1560年)のあの桶狭間(おけはざま)の戦い(2015年5月19日参照>>)で義元が討たれ、それキッカケで今川家の人質だった徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平信康)が岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)にて独立する(2008年5月19日参照>>)と、その家康に従う道を選びます。
しかし、当然の事ながら、義元亡きあとの今川を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、それを許さず・・・永禄四年(1561年)に今川からの攻撃をを受けて、城は陥落し、一時は親戚筋を頼って逃れたものの、翌永禄五年(1562年)に夜襲をかけて奪回していました。
この間に、家康は、かの桶狭間で義元を討った尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び(1月15日参照>>)、完全に今川とは手を切ります。
やがて、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)を手に入れて(8月15日参照>>)、上り調子の信長は、永禄十一年(1568年)9月に、足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じての上洛を果たしますが(9月7日参照>>)、
ちょうどその頃、大黒柱を失ってから力が衰え、今川の支配が緩くなって来ていた遠江に、家康が侵攻を開始しますが、この時、遠江への道案内をかって出たばかりか、未だ今川と德川の間で揺れ動いていた井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)配下の同族=菅沼忠久(ただひさ)を味方に引き入れたのが菅沼定盈でした。
おかげで、家康の遠江侵攻は、かなりスムーズに展開し(2019年12月13日参照>>)、わずか5日で引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入っています。
一方、この家康の遠江侵攻と同時に動き始めたのが甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)・・・「このままでは今川の領地を家康に取られてしまう」とばかりに、これまでは信濃(しなの=長野県)方面へ伸ばしていた手を、一気に方向転換させ、信長の仲介によって家康と約束を結び、
信玄は北から、家康は西から、今川領へと進み、倒したあかつきには大井川より東(駿河)は信玄が、西(遠江)は家康が治めると取り決め、両方向から今川へ仕掛けていきます。
永禄十一年(1568年)12月13日、信玄に今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を奪われた氏真は(2007年12月13日参照>>)、掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走・・・すかざず、この掛川城を、今度は家康が攻撃します。(12月27日参照>>)
しかし、この信玄の行動に怒り心頭なのが、かつて甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田&北条&今川の三者による同盟)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)の北条氏政(ほうじょううじまさ)でした。
同盟を締結した今川義元が亡くなったとて、もう一人の同盟者である北条を無視して、勝手に同盟を破棄して今川に攻め込んだわけですから・・・
そこで北条氏政は、信玄をけん制しつつ(【薩埵峠の戦い】参照>>)、掛川城を攻めあぐねている家康と交渉・・・城攻め開始から5ヶ月経っても掛川城を落とせていなかった家康は、北条と同盟を結び、北条の介入&助け舟によって、ようやく、翌永禄十二年(1569年)5月に掛川城を開城させる事に成功したのです。
しかし当然の事ながら、今度は、この家康の行動に信玄が怒り心頭・・・
「もはや、大井川から西も東もクソもない!」
とばかりに、自力での旧今川領獲得へと進み始めます。
永禄十二年(1569年)7月に大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を奪取(7月2日参照>>)して、
10月には三増(みませ)峠で北条と戦い(10月6日参照>>)、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を開城(12月6日参照>>)・・・
翌元亀元年(1570年=4月に永禄十三年から改元)には奥さんの三条の方(さんじょうのかた)(7月28日参照>>)を失いつつも、さらに翌年の元亀二年(1571年)の1月には深沢城(ふかさわじょう=静岡県御殿場市)を奪取します(3月27日参照>>)。
この間の徳川家康は、気賀(きが=浜松市北区細江)一揆(3月27日参照>>)など、未だ今川色の強い地域の支配を進めつつ、同盟者である信長の姉川の戦い(6月28日参照>>)に参戦したりしておりましたが、
そんなこんなの元亀二年(1571年)4月15日、信玄が德川配下の鈴木重直(すずきしげなお)の拠る足助城(あすけじょう=愛知県豊田市:真弓山城)を落とし、いよいよ遠江に侵攻して来たのです。
さらに、その勢いのまま、浅谷城(あさがいじょう=同豊田市山谷町)や八桑城(やくわじょう=同豊田市新盛町)、大沼城(おおぬまじょう=同豊田市大沼町)、田代城(たしろじょう=同豊田市下山田代町)、大桑城(おおくわじょう=豊田市大桑町)などを次々と落とし(自落した城もあり)、周辺一帯は、またたく間に武田の支配下となりました。
そして、今度は南に進んで東三河に入り、今回の信玄侵攻キッカケで徳川方から武田に寝返った作手城(つくでじょう=愛知県新城市:亀山城とも)の奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)と田峯城(だみねじょう=愛知県北設楽郡設楽町)の菅沼定忠(さだただ)を道案内に…
ちなみに、この時、菅沼定忠は同族の菅沼定盈を攻撃する事に躊躇し、武田方に、わざと遠回りの道を教えて時間稼ぎしたとも言われていますが・・・
とにもかくにも元亀二年(1571年)4月28日の夜に、信玄配下の小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)、山県昌景(やまがたまさかげ)らが軍勢を率いて作手を発って、夜中行軍にて菅沼定盈の守る野田城へと向かい、到着後、間もなく・・・その夜のうちに武田方は野田城への攻撃を開始します。
実は、この野田城・・・後に、大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん=忠教)が著した『三河物語』でも「藪のうちに小城あり」と記されている事でもわかるように、かなりの小さな城だったうえ、菅沼定盈以下、城兵の数もさほど多くは無かったようで・・・
もちろん、建物が小さいぶん、攻め手の攻め口も小さい造りにはなっていたようですが、所詮は多勢に無勢・・・結果は火を見るよりも明らかで、野田城は、未だ夜が明けぬ寅の刻=午前4時頃に落城してしまいました。
・・・と、ここまで書いておいて恐縮ですが、
実は、近年の研究では、今回の野田城の戦いは、元亀二年(1571年)の信玄の遠江侵攻時では無く、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(したらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)の前哨戦であったのでは?との指摘もあります。
そうなると、菅沼定盈が戦った相手は信玄でなく、息子の武田勝頼(かつより=信玄の四男)という事になりますし、この翌年の信玄の西上作戦(せいじょうさくせん=上洛するつのりだった?と言われる信玄による武田軍の遠征)で、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦い(12月22日参照>>)の後に行われる信玄最後の戦い=一般には第2次とされる野田城の攻防戦(1月11日参照>>)の方が先という事になってしまうわけですが・・・
確かに、今回、夜襲によって落城するものの、菅沼定盈は討ち取られる事無く無事ですし、城も、第2次とされる西上作戦の時の攻防戦までのわずかな間に、信玄がかなり攻めあぐねるほどに見事な修復をされていますので、やはり少々の疑問が残ります。
なので、ひょっとしたら天正三年(1575年)の出来事かも知れないのですが、一応、このブログでは、複数の史料に登場する元亀二年(1571年)4月28日の日付で、今回はご紹介させていただく事にしました。
(新たな資料発見で、また変わるかも知れませんが…)
ところで、本日の主役である菅沼定盈さん・・・
その信玄の西上作戦の時の第2次野田城の戦いでも敗れ、一時は武田方に捕らわれの身となりますが、直後の人質交換により、再び家康の元に戻り、その後の長篠設楽原の戦いや小牧長久手の戦い(3月6日参照>>)でも德川方として活躍・・・あの関ヶ原の時には最前線には出なかったものの、江戸城の留守居役を立派にこなしています。
このページでも、井伊谷の菅沼忠久さんや、武田に寝返った田峯の菅沼定忠さんがいたように、菅沼の一族がたくさんいて、定盈の野田菅沼は、嫡流から枝分かれした、むしろ支流だったわけですが、上記の通り、健やかなる時も病める時も、1度も家康を裏切る事無く尽くした事から、この野田菅沼家は、天下を取った德川家から優遇され、江戸時代を通じて(1度改易されるも旗本として復帰)、菅沼一族の中では1番の出世頭となっています。
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コメント
家康は三方ヶ原の戦いの前から信玄に領地を脅かされていたんですね。
この状況だとさすがの織田信長も危機感を感じたのでは?
なお今年は武田信玄の生誕500周年です。
投稿: えびすこ | 2021年4月30日 (金) 11時39分
えびすこさん、こんばんは~
今川の旧領狙いには力入ってたと思いますよ。
投稿: 茶々 | 2021年5月 1日 (土) 02時17分