義景を裏切った朝倉景鏡の最期~天正の越前一向一揆・平泉寺の戦い
天正二年(1574年)4月14日、越前一向一揆に攻められた朝倉景鏡アラタメ土橋信鏡が討死しました。
・・・・・・・・・
ご存知、織田信長(おだのぶなが)の浅井朝倉攻め・・・
天正元年(1573年)、小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)に北近江(おうみ=滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)に越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月20日参照>>)、信長はいよいよ越前を手に入れました。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)
この時、かつての姉川の戦い(6月28日参照>>)から3~4年の月日がある事で、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいたわけで、
大河ドラマ「麒麟がくる」でのこの表情↓
で話題になった朝倉景鏡(かげあきら)もその一人ですが、
この景鏡さんは、ドラマの通り、主君を裏切るのは最後の最後なわけですが、かなり早いうちから織田方へと寝返って、情報を流し道案内をしていたのが、今回の朝倉滅亡をキッカケに前波吉継(まえばよしつぐ)から名前を改めた桂田長俊(かつらだながとし)で、
そのおかげで信長から朝倉の本拠であった一乗谷の守護代という大役に抜擢されたのでした。
しかし、上記の通り、朝倉からの寝返り組は他にも・・・
で、そんな桂田長俊の足を引っ張ろうとしたのが、同じ寝返り組で府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)で、
そのために、加賀一向一揆の一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取って援軍を要請し、なんと一向一揆の力を借りて桂田長俊を攻めたのです(くわしくは1月20日参照>>)。
そもそも、加賀と越前は隣国という位置関係でもあり、朝倉の統治時代から越前一向一揆が盛んで何度も交戦していた(8月6日参照>>)わけで、その軍事力たるや戦国武将にも匹敵するほど・・・
結果、天正二年(1574年)1月20日、富田長繁は勝利し、その勢いのまま、信長が北ノ庄(きたのしょう=福井県福井市)に置いていた代官所も襲撃し、目付として赴任していた3人の奉行まで追放してしまいますが、
ここらへんでハタと気付いた?
自分は、織田の配下であり、その織田は大坂にて石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗総本山)と抗戦中だと・・・
しかし、時すでに遅し・・・案の定、桂田長俊に勝利した一向一揆は、もはや富田長繁の援軍もクソもなく、その勢いのまま走り続けるのです。
かの桂田攻めから半月と経たない2月上旬には、朝倉の旧臣が守っていた中角館(なかつのやかた=福井県福井市中角町)を攻撃して占拠し、2月15日には丹波(たんば=京都中部・兵庫北東部)の一向一揆と合流し、やはり朝倉旧臣の拠る三留城(みとめじょう=同福井市三留)も奪います。
さらに2月18日には、やはり朝倉旧臣だった黒坂景久(くろさかかげひさ=この頃はすでに死去)の3人の息子が守る舟寄館(ふなよせやかた=福井県坂井市丸岡町)を襲撃して三兄弟を討ち、片山館(かたやまやかた=福井市片山町)に拠る富田長繁の腹心も血祭りにあげました。
もちろん、彼らは正式な軍隊でなく一揆衆ですから、複数のリーダーが率いる別々のグループが、どこからともなく湧いて出るように現れ、ある時は寄り集まって大軍となり、ある時は、また違うグループ同志がくっついたりしながら暴れ回るので始末が悪い・・・
そんな中、一揆の総大将として本願寺から派遣されていた下間頼照(しもつまらいしょう)は、杉浦玄任とともに豊原寺(とよはらじ=福井県坂井市丸岡町)に陣を置いて、一連の一揆の成果となる首実検をしていましたが、
ここに来て、最後の最後に朝倉を裏切って今は土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と名を改めている朝倉景鏡(ややこしいので本日は景鏡さんの名のままで…)を討つために発進します。
すでに、その兆候を察していた景鏡は妻子を逃した後、自らも本拠の戌山城(いぬやまじょう=福井県大野市犬山)を出て、郎党とともに平泉寺(へいせんじ=福井県勝山市平泉寺町)に立て籠もっていました。
越前一向一揆平泉寺戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして天正二年(1574年)4月14日未明、2万余騎の大軍となった一向一揆が攻め寄せ、平泉寺手前の村岡山(むろこやま=福井県勝山市村岡町)にて景鏡軍とぶつかります。
一進一退の死闘が繰り広げられるものの、もともと景鏡の軍は総勢8300余騎で、一揆勢の数にはかなわぬわけで・・・やがて怒涛の如く押し寄せる敵兵に押され気味の景鏡軍は平泉寺へと後退し、その数は、わずか50~60騎に減ってしまいます。
「もはや、これまで!」
を覚悟した景鏡は、腹心である杉本(すぎもと)&江村(えむら)の二人を連れ、主従ただ3騎にて、多勢の一揆勢の真っただ中に斬り込みますが、そんな中で杉本&江村の二人が討たれたのを見て、
「雑兵の手にかかるは無念なり!」
と叫んで、自らの太刀を胸元に突き立て、その姿のまま、馬からドッと落ち、息絶えたところを袋田(ふくろだ=福井県勝山市)の住人に首を取られたのだとか・・・
景鏡の首実検を済ませた下間頼照は、景鏡の二人の息子(10歳と6歳)も捕らえて処刑し、3人の首を木に吊るして晒したという事です。
ちなみに、このあたりが現在「福井県勝山市」なのは、この時、村岡山にて一揆軍が勝利した事に由来すると言われています。
とは言え、まだまだ収まらぬ一向一揆・・・
5月には、同じく朝倉の旧臣で織田に降った朝倉景綱(かげつな)の織田城(おだじょう=福井県丹生郡越前町)を攻め立て、景綱はたまらず城を明け渡し、妻子を連れて敦賀(つるが=福井県敦賀市)へと落ちて行きました。
一方、この間も、
「チョットやり過ぎた」
と反省しきりの富田長繁は、なんとか信長に許してもらおうと弁明に走りますが、信長の怒りが収まる事はなく、逆に、その態度は協力してくれた一向一揆にも歯向かう行為なわけで・・・
「富田長繁が、またぞろ織田の傘下に納まるんやったら、いっその事いてまえ~」
とばかりに、一向一揆は富田長繁を攻撃し、天正三年(1575年)2月18日、長繁は一揆との抗戦中、銃弾に倒れました(2月18日参照>>)。
これで、名実ともに、越前は一向一揆の持ちたる国になってしまったわけです。
ただし、
もちろんではありますが、信長さんが、越前をこのままにしておくはずは無いわけで・・・
この年の5月に、武田勝頼(たけだかつより)を相手にした長篠設楽原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)を終えた信長は、
天正三年(1575年)8月に自ら越前へと向けて出陣・・・北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする約3万の大軍が越前一向一揆のせん滅にやって来るのですが、そのお話は8月12日のページでどうぞ>>
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