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2021年5月25日 (火)

【平安京ニュース】式部省官僚・大江至孝による強姦未遂が殺人事件に…

 

平安京ニュースの時間です。

長和五年(1016年)5月25日未明、 洛中の観峯女さん宅に大江至孝容疑者が強姦目的で侵入したところ、関係者同士がもみ合いになり、1名が死亡した模様です。

・・・・・・・

今回、被害を受けた観峯女(かんぼうのむすめ)さんは、威儀師(いぎし=仏教の重要儀式を進行・指揮する僧)である僧の観峯(かんぼう)氏の娘で、すで他界した藤原致行(ふじわらのむねゆき)氏の妻でありましたが、式部省(しきぶしょう=文部省)の官僚で大学助(だいがくのすけ=官僚育成機関副長格)大江至孝(おおえのゆきたか)容疑者は、日頃から被害者に思いを寄せ、何度もストーカー行為を繰り返していたのが目撃されています。
(「僧侶なのに娘がいる」という事は、今回は棚の上に置いといてくださいm(_ _)m)

今朝未明、大江至孝容疑者は、被害者宅に強姦目的で侵入したものの、女性が抵抗し騒がれたため、事件に気づいて駆け付けた弟子たちともみ合いになっていたところ、異変に気付いた近隣の源澄政(みなもとのなりまさ)さん宅の警備を担当していた警備員によって、一旦取り押さえられました。

ここで身柄を拘束された大江容疑者は、この状況を打開すべく、摂政(せっしょう=天皇の補佐)藤原道長(ふじわらのみちなが)氏の三男で近衛中将(このえちゅうじょう=皇居護衛の副官)を務める藤原能信(よしのぶ)氏に相談し、加勢を依頼。

要請を受けた藤原能信氏が、即座に複数人(10人以上であったとみられる)の従者を被害者宅に派遣したところ、現場に到着した彼らは、大江容疑者を拘束して離さない僧侶たちと口論からのもみ合いになった模様です。

一部の目撃者からは
「まるで合戦のようだった」
との情報もある事から、近隣の住民が怯えるほどの騒動になったものと思われる中、何とか大江容疑者を奪い返した藤原能信の従者たちが、一路、帰宅しようとしたところ、

興奮収まらず、凶器を持って追いかけて来た弟子の僧侶が、藤原能信氏の従者の一人を殺害。

すると、仲間が殺害された事に憤慨した藤原能信の従者たちが、さらに多くの仲間を連れて再び被害者宅に戻って来て暴れはじめ、金品を略奪し、邸宅を破壊し、観峯女さんを拉致、連れ去りました。

そのまま、藤原能信氏宅に連れ込まれそうになった観峯女さんは、途中、何とか自力で逃走し、その身に危害を加えられる事はありませんでしたが、その邸宅内は、目撃者が
「値打ちのある物や使える物は、すべて無くなっていた」
と語るほどひどい物であったようです。

現在、検非違使(けびいし=検察)観峯女さんの身柄を拘束して取り調べを行っています。

Heiankyouneus_20210522030701
↑新聞風にしてみました

・・・・・・・・・

と、まぁ、これが、
世界最古の直筆日記としてユネスコの世界記憶遺産にも登録されている、あの『御堂関白記(みどうかんぱくき=藤原道長の日記)をはじめとする、複数の公家の日記に登場する事件の概要ですが、、、

「おいおい!なんで被害者が検察に拘束されて取り調べられなアカンねん!」
をはじめとして、事件そのものも大概なものの、それよりも、この後の事件処理が「さすが平安時代」と言えるトンデモな状態になっております。

そもそも、強姦に入った男が侵入先で捕まったのを、
SPが助けに行く…って!!
ほんで、殺人事件に発展する…って!!
しかも、それに怒って報復襲撃する…って!!

さすがに、強姦男を加勢した藤原能信は、
「これは、マズい!」
と思ったのか?

朝になって、慌てて父の道長のところに弁明に行きますが、すでに道長はメッチャ怒っていて、
「言い訳は聞きたない!」
と言って能信を追い返したそうです。

ただ、今回の能信さんの場合は、ひょっとしたら「大江至孝が観峯女を強姦しようとして捕まったのだ」という事を知らず、単に至孝から連絡を受けた時には「友人がゴロツキに絡まれて困ってる」と思って加勢の従者を差し向けた可能性もあります。

だって、藤原能信は現場には行っておらず、「助けて来たって」と下人に指示を出しただけなので、それだけだと、かなり罪は軽いし、何なら、指示を受けて向かったうちの一人が殺されてるわけですから、考えようによっちゃぁ、相手(僧侶)が過剰防衛の可能性もあるわけで・・・

…って弁護している場合ではないな。。。(^^;;)アセアセ

なんせ結局、この事件は
実行犯だった下っ端の3名のみの逮捕だけで、あとはウヤムヤにされてしまうのですよ。

本家本元の容疑者である大江至孝でさえ、最初は逮捕する方針で捜索していたものの、事件後の彼が身を隠していた場所が内大臣(ないだいじん=左右大臣に次ぐ3番目)藤原公季(きんすえ)の邸宅・・・

しかも、その公季の息子は捜査する側の検非違使の現役長官と来たぁ~!

SPに加勢され、大臣の息子の検察庁長官が助け船を出す・・・って時点で、今回の犯人=大江至孝という人の立ち位置もお察し、、、

…で、
最終的に大江至孝が逮捕されたかどうかも記録に残っていない、何ともスッキリしない結末となってしまうのです。

まぁ、記録に残ってないので逮捕されてない」とは言い切れないものではありますが、

ただ、その検察長官の公季の息子が、事件の2ヶ月後に長官を辞任してますので、やはり何かしらの後ろめたさ的な物があったのかも知れません。

とにもかくにも、強姦未遂に誘拐未遂に略奪の被害者となられた観峯女さんがお気の毒でならない、後味の悪い事件な感じがします。
 .

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2021年5月19日 (水)

土佐の出来人~長宗我部元親が逝く

 

慶長四年(1599年)5月19日、土佐から四国統一を果たした長宗我部元親が61歳で死去しました。

・・・・・・・

天正十八年(1590年)、天下を阻む最後の大物とも言える小田原(おだわら=神奈川県小田原市)北条(ほうじょう)氏を倒した豊臣秀吉(とよとみひでよし)・・・
●小田原征伐開始>>
●小田原城開城>>

関東から凱旋帰国して、自らの聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい=京都府京都市)に出陣した諸将を招いて、その労をねぎらった秀吉は、その饗応の席で、この小田原征伐水軍を率いて参戦し、見事、下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を落とした(4月1日参照>>)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を呼び寄せて、こう言ったといいます。

Tyousokabemototika600 「元親クンは四国をご所望か?
それとも…本心は天下を狙ってる…とか?」

すると元親は、
「四国だけなんて…当然、天下が欲しいです」

「君に天下はムリやろww」
と秀吉が茶化すと、

「悪しき時代に生まれ来て、天下の主(あるじ)に成り損じてございます」『土佐物語』より)
と、元親か返したのだとか・・・

「ん?どういう意味?」
と考える秀吉に、元親はすかさず、
「他の方の天下やったら、おそらく僕にもチャンスがあったかと思いますが、秀吉様ほどの器量の持ち主の天下では、僕なんか太刀打ちできませんよって。
たまたたま、僕が、秀吉様の時代に生まれてしもて、天下への望みを失うてしもたので、
あぁ、悪い時代に生まれて来てしもたなぁ~て思う…って意味ですわ」

これを聞いた秀吉は、笑いながら
「ほな、今度、茶の湯でもごちそうになろかな~」
と上機嫌だったのだとか。。。

ちなみに、この「茶の湯でもごちそうになろかな~」というこの言葉・・・
以前、【北野大茶会】>>のところでもチョコッと書かせていただきましたが、信長の時代から、茶会を開くには殿様の許可が必要でした。

しかも、その許可は「茶会を開く許可」ではなく、様々な功績を挙げて忠義を尽くし、主君が「コイツなら!」と認めた人に「茶会を開いても良い権利を許可する」という、その人自身に与える物なので、今回の秀吉の「茶の湯でもごちそうになろかな~」は、単に「お茶が飲みたい」わけではなく、秀吉が元親を認めた…という意味があるわけです。

なので、このあと、元親は大喜びで、いそいそと千利休(せんのりきゅう)のもとへ向かい、茶会の打ち合わせをして、その準備に入ったのだとか・・・

と、ちょっと話がソレましたが・・・(元に戻して…)

この上記の聚楽第での秀吉と元親のやりとり・・・どこまで本心なんでしょう?

あくまで想像ですが、
おそらくは、半分本気で半分ベンチャラ…といった感じ?

そもそも、これまでの元親は・・・

永禄三年(1560年)の長浜表(ながはまおもて=高知県高知市長浜)で初陣(5月26日参照>>)を飾って以来、
永禄七年(1564年)には長年のライバルだった本山親茂(ちかしげ・当時は貞茂)を配下に組み込み(4月7日参照>>)
永禄十二年(1569年)には安芸城(あきじょう=高知県安芸市)を陥落させ(8月11日参照>>)
天正三年(1575年)には四万十川(しまんとがわ)の戦いに勝利して、初陣から、わずか15年で土佐(とさ=高知県)統一(7月16日参照>>)を成し遂げていますが、

当然の事ながら、これ全部、自力で勝ち取って来たわけです。

ここで元親は、更なる野望=四国統一を果たすべく、今現在、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)田勝頼(たけだかつより)を破って上り調子満載で本拠の安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(2月23日参照>>)を構築しつつあった織田信長(おだのぶなが)に、

「この勢いのまま四国統一しちゃってイイっすか?」
をお伺いをたてたところ、
「えぇゾ!いてまえ~」
と、信長が快諾・・・

そうして、伊予(いよ=愛媛県)阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)への侵攻を開始するのです。

一方の信長は、この頃から、あの石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗の総本山)との戦いが激化・・・天正四年(1576年)7月の第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)では、本願寺を支援する毛利(もうり)水軍村上(むらかみ)水軍のゲリラ戦に翻弄され、まんまと兵糧を運び込まれてしまいます。

2年後の天正六年(1578年)第二次木津川口での海戦(11月6日参照>>)の時には、あの鉄甲船(てっこうせん)(9月30日参照>>)を登場させて、何とか大阪湾の制海権を確保した信長でしたが、本願寺を支援して敵対する西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との関係もあって、是非とも、瀬戸内海の制海権が欲しいわけで・・・

そこで信長は、かつての高屋(たかや=大阪府羽曳野市古市)・新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)の戦い(4月21日参照>>)で信長に降って以降、織田配下となって活躍している三好康長(みよしやすなが)織田の四国担当とします。

この三好康長は、一時期畿内を制した三好長慶(ながよし)(5月9日参照>>)の叔父にあたる人で、信長上洛(9月7日参照>>)の際には三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)とともに信長に敵対してましたが、上記の通り今は味方・・・しかも、ご存知のように、かの三好氏の本拠は阿波ですから、康長はもともと阿波には強い地盤を持っていたわけです。

で、信長は元親に、
「阿波だけは三好クンに譲ったてネ」
と方針転換。。。。

「えぇっ(ノ°ο°)ノそんなん今更…約束ちゃいますやん!」
と元親・・・当然、信長と元親の関係は悪化します。

そんなこんなの天正十年(1582年)、四国攻めを決意した信長から四国先鋒担当を任された康長は、一足先(2月頃から?)に四国に入って、シレッと長宗我部側の武将を寝返らせたりなんぞしながら、四国攻めの総大将となった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の四国入りを待ちます。

ところが、ここで起こったのが、あの天正十年(1582年)6月2日の本能寺の変です(6月2日参照>>)

まもなく四国に入るはずだった信孝は、織田軍をまとめきれず右往左往してる間に、中国攻略中(5月7日参照>>)だった秀吉(当時は羽柴秀吉)神ワザ的速さで畿内へ帰還(6月6日参照>>)・・・その秀吉が信孝を総大将に担いでくれ、ともに父の仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府八幡&大山崎付近)破り(6月13日参照>>)、何とか息子としての信孝の面目は保たれました。

実は、この時・・・一説には、明智光秀と元親は連携して、北東(光秀)と南西(元親)で秀吉軍を挟み撃ちする作戦があったとか・・・ご存知のように、元親の奥さんは、明智光秀の重臣=斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹(?諸説あり)だったとも言われ、光秀が謀反に至る動機の一つに「信長に四国攻めを止めさせたかった=四国説」(6月11日参照>>)があるくらいですから、さもありなんという感じですが、

とは言え、結果的には、その挟み撃ちは決行されず、むしろ信長死すのゴタゴタの間に、元親は阿波を平定(9月21日参照>>)しています。

さらに、織田政権の派閥者争いで秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)がモメた賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(2011年4月21日参照>>)では、勝家側についた元親を警戒した秀吉が淡路島(あわじしま=兵庫県洲本市)に派遣していた仙石秀久(せんごくひでひさ)と、まさに賤ヶ岳のあったその日=天正十一年(1583年)4月21日に引田表(ひけたおもて)で戦い(2010年4月21日参照>>)勝利して讃岐を手に入れました。

ただ、ご存知のように、一方の勝家の方は秀吉に敗北して自刃しています(4月23日参照>>)

さらにさらに・・・
その後、秀吉と袂を分かった信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を後ろ盾にして、天正十二年(1584年)起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知・岐阜・三重など)の戦い(11月16日参照>>)でも、元親は信雄&家康と結んで秀吉と敵対し、戦いのどさくさ真っただ中の天正十二年(1584年)10月19日に西園寺公広(さいおんじきんひろ)黒瀬城(くろせじょう=愛媛県西伊予市)を陥落させて伊予を手中に治め(10月19日参照>>)、ここに於いて、一応の四国統一を果たしたとされます(統一範囲には諸説ありなので…)

・・・・とまぁ、長々と長宗我部元親の戦いの経緯を書いてしまいましたが、

何が言いたいかというと、
ここまでの元親さんは
「とにかく秀吉に敵対し続けていた人」
という事。。。

当然の事ながら、そんな元親を秀吉も警戒し「潰しておかねばならない相手」と認識し、紀州征伐(きしゅうせいばつ=和歌山県の根来・雑賀・高野山など)(3月28日参照>>)を終えた天正十三年(1585年)、弟の豊臣秀長(ひでなが=羽柴秀長)を総大将に約11万の大軍を四国に送り込んで元親を降伏させ、長宗我部を土佐一国に押し込めたのです(7月25日参照>>)

こうして元親は、その後は秀吉の配下として生き残る事になるわけですが。。。

どうやら、その後の秀吉、、、
ここまで徹底的に敵対していたワリには、配下となってから後の元親の事は、意外と気に入っていた?フシがあります。

というのも、一旦降伏してからの元親は、秀吉に対し、忠誠を尽くしに尽くしまくるからで、まぁ、ベンチャラあるいはゴマスリと言えばそうなんですが、そりゃ、秀吉だって愛想悪いよりは、少々オーバー気味でも、一所懸命ご機嫌とってくれてる人の方が「愛い奴…」と思うのもごもっとも・・・

降伏した先の四国攻めの7月25日のページ>>でも書かせていただいたように、この時は未だ秀吉方の攻撃を受けていたのが四国全土に及ばない段階で、戦わずして降伏したわけで・・・つまりは、「命かけて守る」とか「死んでも恨む」といった雰囲気ではなく、「無理な戦いはしない」合理的な判断や、良いように解釈すれば先を見る力もあったとも言えます。

また、戦いの後に上洛して秀吉と謁見した際には、元親自身が聚楽第の壮麗さに見る桃山文化のすばらしさに感銘を受けた事も確か・・・

だからこそ、秀吉の配下になったからにはトコトン忠誠を尽くしてやろう!という気持ちの切り替えをやってのけたのかも知れません。

降伏直後の天正十四年(1586年)に、秀吉が、奈良の東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)の大仏をしのぐ大きな大仏と大仏殿を、京都に建立する事を計画した時(7月28日の前半部分参照>>)には、数百艘の船を連ねて、土佐の山奥から伐り出した大木を誰よりも早く送り届け、秀吉を大いに喜ばせたとか・・・

その年の戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)では、最前線で戦って嫡男の長宗我部信親(のぶちか)を失い、そのショックで以前の勇猛さが無くなったとも言われますが(12月12日参照>>)

一方で、冒頭に書いたように、小田原征伐でもしっかり功績を残しています。

その翌年には、浦戸湾に迷い込んだ鯨9頭を生け捕りにし、そのまま数十隻の船で大坂城まで運んで、これまた秀吉を大いに喜ばせたとか・・・

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(4月23日参照>>)にも従軍し、その水軍力は大いに期待されました。

しかし、やはり優秀な後継ぎであった信親を失ったのは大きかったのでしょう。

次男の親和(ちかかず=香川親和)と三男の親忠(ちかただ=津野親忠)が他家を継いでいる事もあってか、元親は四男の盛親(もりちか)を後継者に指名しますが、これが家臣たちからの猛反対を受けます。

その反対を押し切って盛親に後を継がせた事、また、慶長三年(1598年)8月に御大秀吉が亡くなった(8月9日参照>>)事で政情も不安定に・・・

その後は、徳川家康と誼(よしみ)を通じたものの、やがて体調を崩した元親は、慶長四年(1599年)5月19日病状の悪化して61歳で、この世を去るのです。

若き頃は、色白で部屋に籠りっきりだったため「姫若子(ひめわかご)と言われたものの、その後、見事な初陣を飾り、いつしか「土佐の出来人(できびと)と呼ばれるようになった元親・・・

しかし、彼が後継者に選んだ息子=盛親は、関ヶ原では西軍につき、兵を動かさないまま敗報に接し、家康によって土佐一国の国主の座を奪われる事になってしまい、

残念ながら、元親の夢が子々孫々と受け継がれる事は無かったのです。

★その後の長宗我部↓
 ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆>>
 ●大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死>>
 ●盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣>>
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2021年5月13日 (木)

桓武平氏の祖~高望王が平の姓を賜る

 

寛平元年(889年)5月13日、桓武天皇の曾孫(もしくは孫)高望王が、宇多天皇から平姓を賜り上総介に任じられました。

・・・・・・・

 『平家勘文録(へいけかんもんろく=南北朝頃に成立)によれば、
民部卿宗章(みんぶきょうむねあき)朝臣なる人物(実在不詳)が謀反を起こした際、その宗章を追罰した功績によって、高見王(たかみおう=第50代:桓武天皇の孫)の子である高望王(たかもちおう)が、寛平元年(889年)5月13日宇多天皇(うだてんのう=第59代:桓武天皇の曾孫)勅命(ちょくめい=天皇の命令)により、平朝臣(たいらあそん=平氏)を賜って臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りる事)、以後、この方が平高望(たいらのたかもち)と名乗って活動した事で桓武平氏の祖とされる人物です。

「武士」と聞けば、
合戦での勇猛な姿とか、あるいは、江戸時代のいわゆる「お侍さん」を思い浮かべてしまうし、

「源平」と言えば、
平清盛(たいらのきよもり)源頼朝(みなもとのよりとも)の姿を想像したり、教科書等に載る「武士のおこり」なんていう歴史用語も思い浮かべますが、

そんな武士も、おおもとは皇族や貴族であって、そこに明確な区別はなく、最初のうちは、あくまで「皇族や貴族の中の武勇に優れた人」だったわけです。

そもそもは、
嵯峨天皇(さがてんのう=第52代:桓武天皇の皇子)の時代の弘仁五年(814年)に、増えすぎた皇親に対する厚遇が国家財政の大きな負担となっていた事により、経費を軽減させるため、母親の身分が低い幾人かの子女たちに、「天皇と源を同じくする」という意味の源朝臣(みなもとのあそん=源氏)の姓を与えて臣籍に下して任官させたのが始まりとされています。

もちろん、それには経費削減だけでなく、様々な役職に任官した彼らを政治に関わらせて朝廷内から皇室を守る(有利にする)という役割を担わせるという意味もあったと言います。

その嵯峨源氏誕生から11年後の天長二年(825年)に、桓武天皇の孫にあたる高棟王(たかむねおう=高見王の兄)臣籍降下して平朝臣姓を与えられ平高棟(たいらのたかむね)と名乗り、この人の家系が高棟流と呼ばれ、子や孫が公卿に昇進し、貴族としての道を歩みます。
なので、高棟王も桓武平氏の祖と呼ばれます(7月6日参照>>)

ちなみに、平清盛の奥さん=平時子(ときこ)は、この家系です。

と、一方、今回の高望王は、その高棟王の弟の高見王の子供・・・って事になるわけですが、実は、そこがハッキリせず(高見王の存在があやふや)、一説には、高見王の父である(つまりは桓武天皇の皇子)葛原親王(かずらわらしんのう)の子供かも知れないという事なので、そうなると桓武天皇の孫という事になるのですが、そこらへんは曖昧ですので、今回は、とりあえず置いて置いときます(スミマセンm(_ _)m)

とにもかくにも、嵯峨天皇系が一貫して「源」姓だったのに対し、桓武天皇系は久賀朝臣(くがのあそん)在原朝臣(ありわらのあそん=在原業平さんとこです)など複数の賜姓があった中で、今回の高望王は、冒頭に書いた通り、「謀反を平定した功績」という事で「平(たいら)となった?なんて話もありますが、

上記の通り、高望王が平姓を賜る半世紀以上前に、すでに高棟王が「平」を賜ってるはずなので、これは話半分てな感じですが・・・
それでは、なぜ?高望王が最初ではないのに、高棟王とともに桓武平氏の祖って言われるのか?

実は、この高望王は、姓を賜って平高望になった後が別格なのです。

冒頭に書いた通り、高望王は、平姓を賜るとともに上総介(かずさのすけ)に任ぜられたわけですが、この上総介というのは上総国(かずさのくに)=つまり、現在の千葉県の中部・市原市(いちはらし)を中心とした地域の事です。

ここ上総は、常陸国(ひたちのくに=茨城県)上野国(こうずけのくに=群馬県)とともに親王任国(しんのうにんごく)と呼ばれる親王(しんのう=天皇の皇子の中も次期天皇候補とされる皇子)が国守を務める場所で、そこでの「介」というのは、その長官(国守)という意味です。

ただ、当時は、それらに任官されたとしても、現地に赴く事は無かったわけですが、高望王は実際に東国に下り、しかも任期が過ぎた後も坂東(ばんどう=現在で言う関東地方)に土着して、都に戻って来る事が無かったのです。

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任国へ向かう国司の様子(因幡堂薬師縁起絵巻・東京国立博物館蔵)

それには、同時代を生きた在原業平(ありわらのなりひら)のお話(5月28日参照>>)や、第56代・清和天皇(せいわてんのう)のお話(12月4日参照>>)でも垣間見えるように、この頃の中央政権は右を見ても左を見ても「藤原」&「藤原」状態で、もはや、入り込む隙間が無かった事を含め、

もう一つ、
当時の坂東では盗賊の蜂起も絶えず、また、富豪浪人(ふごうろうにん)あるいは富豪之輩(ふごうのやから)と呼ばれる王臣家人(おうしんけにん=前任国司や中央貴族と繋がりを持つ人)が成長して活発化していた事により、奈良時代に制定されて平安期にも続けられていた戸籍に基づいた班田(はんでん=農地の支給や収容)(【土地制度の変化】参照>>)などによる律令制的な人別支配の維持が困難になっていたので、
(このへん↑チョイとややこしいです)

そこに、実際に武勇に優れた人物を送り込んで統治してもらおう…という意味もあったようです。

こうして地元に根付く事になった高望王ご一家・・・

その子供たちは地元坂東の有力者の娘を娶ったりして在地の勢力と深く結びつき、自らが関東の未墾地の開発者で生産者となることによって勢力を拡大し、やがては、自らが開発した土地を守るため、更なる武力拡大を図り、やがて武士団を形成していく事になるのです。

高望王自身は、延喜二年(902年)に西海道(さいかいどう=九州)の国司に任ぜられ、大宰府(だざいふ=九州福岡に設置された地方行政機関)に居住して、10年後に、その地で死去していますが、
(同時期に菅原道真も行って(1月25日参照>>)ので、これは左遷なのか?)

長男の平国香(くにか=良望)筑波(つくば=茨城県つくば市)を本拠とし、やがて、この家系から伊勢平氏=平清盛が誕生します。

また三男(もしくは四男)平良将(よしまさ)は、あの平将門(まさかど)(2月14日参照>>)の父です。

さらに五男の平良文(よしふみ)の家系からは、あの源平合戦で頼朝の配下の坂東平氏として活躍する畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)上総介広常(かずさのすけひろつね)(12月20日参照>>)につながり、

高望王の息子とも平良茂(よしもち=良持・良将と同一?)の子ともされる平良正(よしまさ)からは、同じく、頼朝配下として鎌倉幕府を担う梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)和田義盛(わだよしもり)(5月2日参照>>)、第3代将軍=源実朝(さねとも)の暗殺に関わったかも知れない三浦義村(みうらよしむら)(1月27日参照>>)などへとつながるわけで・・・

ね。。。桓武平氏の祖でしょ?

ちなみに、北条政子(ほうじょうまさこ)さんも、平清盛と同じく長男の国香の子孫です。

Kanmuheisikeizu_2
↑クリックすると、さらに大きく見れます

ちなみのちなみに、清和源氏の方ですが・・・

*源氏の系図はコチラ→Seiwagenzikeizu

ご存知のように、この高望王と同時代を生きた清和天皇の流れから大量に源姓を賜る人々が登場しますが、中央に残った清和源氏からも右大臣や左大臣になった人もチラホラ登場しするものの、何たって地方で勢力を張った「河内源氏」「摂津源氏」「大和源氏」・・・

彼らのほとんどが清和源氏で、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(10月23日参照>>)酒呑童子(しゅてんどうじ)退治(12月8日参照>>)で有名な源頼光(らいこう・よりみつ)に、もちろん源頼朝に足利(あしかが)新田(にった)に、果ては徳川家康(とくがわいえやす)まで・・・(家康は怪しいけど…ww)

それこそ、「武士」と聞いて思い浮かぶ武士そのものの人々につながっていく事になります。
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2021年5月 6日 (木)

大坂夏の陣~藤堂高虎と渡辺了の八尾の戦い

 

慶長二十年(1615年:元和元年)5月6日は、大坂夏の陣での若江・八尾の戦いのあった日ですが、今回は、『常山紀談』に残る渡辺了の八尾の戦いでの逸話をご紹介させていただきます。

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ご存知、大坂の陣(おおさかのじん)は、
豊臣秀吉(とよみひでよし)亡き後、豊臣政権内の主導権争いでもある関ヶ原の戦いに勝利して家臣団の中でもトップの位置についた徳川家康(とくがわいえやす)が、徐々に力をつけていき、主君である豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)がやろうとしていた一大プロジェクトである大仏建立にイチャモンをつけた(7月21日参照>>)事をキッカケに始まった「豊臣追い落とし作戦」
(↑スンマセンm(_ _)m一般的な経緯と違い、ちょいと大阪生まれ大阪育ちの主観入ってますが、その思いは下記↓のページで…)
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】>>

慶長十九年(1614年)11月に(11月29日参照>>)勃発した大坂冬の陣は、12月19日に講和が成立し(12月19日参照>>)、一応の決着がついたものの、くすぶる火種が消える事無く、翌年=慶長二十年(1615年・元和元年)4月26日の大和郡山城(やまとこおりやまじょう=奈良県大和郡山市)の戦い(4月26日参照>>)を皮切りに、大坂夏の陣が勃発します。

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

南から迫る紀州一揆(きしゅういっき=和歌山周辺の一揆勢)(4月28日参照>>)と連携して守りを固めるはずだった樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)に敗れた大坂方は、いよいよ、北東から迫る德川方を、大阪平野の東を南北に連なる生駒山地の切れ目にて迎え撃つ事になります。

Oosakanatunozinyaowatanabe 航空写真にポイントした右図→
(クリックで大きくなります→)
をご覧いただければ一目瞭然・・・

生駒の山越えしないで大阪平野に入るには、北東の枚方(ひらかた)方面からと、生駒山地の切れ目の藤井寺・道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市あたりの大和口から入る2ルートしかないわけで、

案の定、二条城(にじょうじょう=京都府京都市)からの徳川家康と伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)からの德川秀忠(ひでただ=家康の三男)は、枚方の星田方面の京街道ルートを取り、

伊達政宗(だてまさむね)本多忠政(ほんだただまさ)らは大和口からやって来る事に・・・

そこで豊臣方は、4月30日の軍議にて後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)が提案した大和口要撃作戦を決行・・・

北東方面を今福(いまふく=大阪市城東区)に陣取る木村重成(きむらしげなり)らが、少し南下した若江(わかえ=大阪府東大阪市)にて迎え撃ち(【若江の戦い】参照>>)、大和口を後藤又兵衛・真田幸村(さなだゆきむら=真田信繁)らが迎え撃つ事とし(【道明寺・誉田の戦い】参照>>)慶長二十年(1615年)5月6日その戦いの火蓋が切られたわけです。

・・・・・・・

Watanabesatoru700 近江(おうみ=滋賀県)土豪(どごう=土地に根付く武士)出身で、「槍の勘兵衛」と称されるほどの腕前だった渡辺了(わたなべさとる)は、この日、德川方の藤堂高虎(とうどうたかとら)の配下として先陣の中の手を受け持っておりました。

6日の朝、道明寺に軍を進めるべきか?否か?未だ作戦が決まらなかったため、
「地の利がないので、見て参ります」
と、自ら物見に出ると、先に物見に行った堺与右衛門(さかいよえもん)なる味方に出会ったので、たずねてみると
「すでに道明寺にて後藤又兵衛と思しき者が水野(みずの勝成)殿と鉄砲を交えております」
との事・・・

そこで了は、堺に従者をつけて陣に帰らせ、自らは、もう少し先の高台に進んで西を見渡せば、案の定、八尾から若江にかけて豊臣の軍勢が、馬の鼻先を揃えるように密集して押し寄せて来ていました。

「やはり…」
と確認して、すぐに取って返し、今より道明寺へ指して向かおうとしている味方を押し止めます。

「なぜ、止める?」
と問う藤堂高刑(たかのり=高虎の甥)に、
「見てみなはれ!すぐそこに敵がウヨウヨしてるのに、それを捨てて、わざわざ道明寺に行く事もないですやろ?」
と・・・

高刑は「なるほど」と納得してくれたものの、大将の藤堂高虎は、納得しれくれず・・・なので、続けて
「このあたりはぬかるんでますから、先陣を配置する場所なんてありません。
敵との間合いは四十町(約4km)ほど…そこに続く横堤まで十町(約1km)、その横堤には4本のあぜ道が見えますから、殿様は北2本を指揮して進んで行ってください。
僕は、南側2本を指揮します。
馬印は後方に控えさせておき、細いあぜ道を少数の馬で進んで行って、
敵を横堤で押し止めて、そこで隊列を整え、南北で以って挟み撃ちにすれば、必ず勝てましょう」
と説得しました。

ところが、作戦を練ってるその間に、藤堂良勝(よしかつ=高虎の従兄弟)藤堂良重(よししげ=高虎の従兄弟の息子)らが単騎にて馬で乗り出し、我先にと西へ向かって進んで行ってしまったのです。

実は彼ら・・・
昨年の冬の陣の時、主君~高虎と作戦において口論となった了が、
「こんなとこ、辞めたらぁ~!!」
と言い放って少々モメた事に、今も腹を立てていて、

今回、その一件が無かったかのように、またぞろ、自身の作戦をあーだこーだと指示する姿を苦々しく思っており、
「渡辺憎し!アイツより、もっとスゴイ武功を立てたるで~!」
と、了の意見を無視して先に出ていったのです。

その状況を見た了は、
「アカン!
こうなっては、作戦もクソもありませんわ!
早々に攻めかかられませ!」
と言い放ち、自身は佐堂(さどう=八尾市佐堂町…現在の近鉄大阪線:久宝寺口駅付近)側へと向かったのでした。

未だ朝霧かすむ中を、もはや我先にと進む藤堂隊を迎えたのは、豊臣方の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の軍でした。

「今いる堤の上では戦い難い」
と思った盛親は、旗を下ろして後方の堤の下へと隊列を移動・・・
これを「逃げるゾ!」
っと思った藤堂隊の面々は、さらに我先に追いかけ、乱れた藤堂隊は、ものの見事に敗北してしまうのです。

この時、ともに藤堂隊の一員として戦っていた元長宗我部家臣=桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)(桑名の戦いぶりに関しては=2019年5月6日参照>>)が、藤堂高刑に対し、
「陣の指揮をすべき大将が、一騎駆けするのは良くないですよ」
と注意するも、高刑は、
「渡辺ひとりが武勇を誇るなんか、許せん!アカンかったら討死するまでよ!」
と言って走り抜け、その通りに討死する事になってしまいました。

高刑だけではなく、了に負けじと単騎で行った藤堂良勝と藤堂良重も、そして主君に進言した桑名までもが、ここで討死しています。

そんな中、佐堂に回った了が、追い来る敵を蹴散らしつつ南側を見ると、今まさに藤堂隊が崩れまくって、敗れた藤堂先陣が旗を捨てて逃げて行くのが見えます。

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

そこで、すぐに南方向に転じ、藤堂高刑が戦死した場所を、なんとか占拠しますが、もはや了の手勢も、わずかに30騎ばかり・・・

そこへ総大将の藤堂高虎から、
「退け!」
の命令が何度も届きますが、了はいっこうに退かず・・・

7度の撤退命令を無視する了に高虎が、
「なぜ?退かぬ」
と聞けば、
「旗を押し進めてさえ下されば、我ら一陣で敵を切り崩し、逃げる敵を追いかけて大勝利をご覧にいれます」

更なる説得も聞かず、
「ウチの部隊長は戦い方をわかってません。
まばらに駆けて崩されて、見方を見殺しにする事を忠義と思てはるんですか?
僕は、今朝から、少ない軍兵でありながら、そこかしこで毎度打ち勝ち、横から敵を攻め破りました。
この渡辺がいなければ、もっと死者が、いや、全員死んでたかも知れません。
見たところ、長宗我部軍も、残りわずか…これを討ち漏らしたら殿の恥になりまっせ!
早々に旗本を進めてください。
僕が盛親を討ってみせます」
と、ますます退こうとしません。

と、そこに、若江の戦いで豊臣方の木村重成を破った井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)の軍が赤旗をなびかせて加勢にやって来るのが見え、長宗我部軍は新手の出現に動揺・・・了が「好機!」とばかりにドッと斬りかかると、長宗我部は乱れて、一斉に敗走していきます。

それを、「逃すまい!」と久宝寺から鉄砲を撃ちかけて追い詰める了・・・盛親は旗竿までも折られて、這う這うの体で何とか逃げ去りました。

さらに了は、その勢いのまま北西へ進んで平野(ひらの=大阪市平野区)を占拠したので、道明寺から大坂城内へと敗走する豊臣方は道を塞がれてしまいます。

ここで、了は
「軍兵さえいただければ、ここで疲れ果てている敵を一掃してみせます。
早く軍勢をよこしてください」
と使者を立てますが、高虎は、了の案をなったく聞き入れず、
ただただ
「早く、引き返せ」
「なんで、戻って来んのや」
と言うばかり・・・

しかたなく了は、大坂城に戻る敵軍を少しでも食い止めるべく、平野一帯に火をかけて本陣に戻りました。

後に、
もし、ここで渡辺了が退かなければ、真田幸村も、あの毛利勝永(もうりかつなが)も、ひょっとしたら大坂城へは帰還できなかったかも知れないと、世間の噂になったのだとか・・・

その後、戦い終わって藤堂高虎の陣を井伊直孝が訪れた際、
「同族が多く討死してしまい、無念です」
という高虎に、
「我らが、逃げる敵を追いかけて近くに来た時、筵(むしろ)の旗指物をした侍大将がいて、強敵を切り崩して見事に軍兵を指揮していた姿がアッパレでしたが、あの武将はどうなりましたか?」
と直孝が尋ねました。

そう、それは渡辺了、その人の事・・・

「いやぁ、筵の指物は僕ですわ~
まさか、井伊殿が目に止めて下さるとは!」
と、了が大声で答えたので、高虎は、ますます機嫌が悪くなったのだとか・・・

この後、了は案の定、高虎とはウマく行かず、藤堂家を出奔して、他家への再就職を試みますが、藤堂家から奉公構(ほうこうかまい=他家に「仕官させるな」の願いを出す事)=いわゆる「お前、ほすゾ」の命が出ていたため、他家への仕官は叶わなず、京都で僧になったそうな。

ま、今回の場合は、結果的にウマく行って、井伊さんにも褒められたので、了としてはウキウキだったかも知れませんが、一軍をまとめようとする大将から見れば、命令を無視して自分の意見ばかりグイグイ推して来る者は、モンスター家臣以外の何者でも無かったでしょうね。
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