土佐の出来人~長宗我部元親が逝く
慶長四年(1599年)5月19日、土佐から四国統一を果たした長宗我部元親が61歳で死去しました。
・・・・・・・
天正十八年(1590年)、天下を阻む最後の大物とも言える小田原(おだわら=神奈川県小田原市)北条(ほうじょう)氏を倒した豊臣秀吉(とよとみひでよし)・・・
●小田原征伐開始>>
●小田原城開城>>
関東から凱旋帰国して、自らの聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい=京都府京都市)に出陣した諸将を招いて、その労をねぎらった秀吉は、その饗応の席で、この小田原征伐に水軍を率いて参戦し、見事、下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を落とした(4月1日参照>>)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を呼び寄せて、こう言ったといいます。
「元親クンは四国をご所望か?
それとも…本心は天下を狙ってる…とか?」
すると元親は、
「四国だけなんて…当然、天下が欲しいです」
「君に天下はムリやろww」
と秀吉が茶化すと、
「悪しき時代に生まれ来て、天下の主(あるじ)に成り損じてございます」(『土佐物語』より)
と、元親か返したのだとか・・・
「ん?どういう意味?」
と考える秀吉に、元親はすかさず、
「他の方の天下やったら、おそらく僕にもチャンスがあったかと思いますが、秀吉様ほどの器量の持ち主の天下では、僕なんか太刀打ちできませんよって。
たまたたま、僕が、秀吉様の時代に生まれてしもて、天下への望みを失うてしもたので、
あぁ、悪い時代に生まれて来てしもたなぁ~て思う…って意味ですわ」
これを聞いた秀吉は、笑いながら
「ほな、今度、茶の湯でもごちそうになろかな~」
と上機嫌だったのだとか。。。
ちなみに、この「茶の湯でもごちそうになろかな~」というこの言葉・・・
以前、【北野大茶会】>>のところでもチョコッと書かせていただきましたが、信長の時代から、茶会を開くには殿様の許可が必要でした。
しかも、その許可は「茶会を開く許可」ではなく、様々な功績を挙げて忠義を尽くし、主君が「コイツなら!」と認めた人に「茶会を開いても良い権利を許可する」という、その人自身に与える物なので、今回の秀吉の「茶の湯でもごちそうになろかな~」は、単に「お茶が飲みたい」わけではなく、秀吉が元親を認めた…という意味があるわけです。
なので、このあと、元親は大喜びで、いそいそと千利休(せんのりきゅう)のもとへ向かい、茶会の打ち合わせをして、その準備に入ったのだとか・・・
と、ちょっと話がソレましたが・・・(元に戻して…)
この上記の聚楽第での秀吉と元親のやりとり・・・どこまで本心なんでしょう?
あくまで想像ですが、
おそらくは、半分本気で半分ベンチャラ…といった感じ?
そもそも、これまでの元親は・・・
永禄三年(1560年)の長浜表(ながはまおもて=高知県高知市長浜)で初陣(5月26日参照>>)を飾って以来、
永禄七年(1564年)には長年のライバルだった本山親茂(ちかしげ・当時は貞茂)を配下に組み込み(4月7日参照>>)、
永禄十二年(1569年)には安芸城(あきじょう=高知県安芸市)を陥落させ(8月11日参照>>)、
天正三年(1575年)には四万十川(しまんとがわ)の戦いに勝利して、初陣から、わずか15年で土佐(とさ=高知県)統一(7月16日参照>>)を成し遂げていますが、
当然の事ながら、これ全部、自力で勝ち取って来たわけです。
ここで元親は、更なる野望=四国統一を果たすべく、今現在、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)で武田勝頼(たけだかつより)を破って上り調子満載で本拠の安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(2月23日参照>>)を構築しつつあった織田信長(おだのぶなが)に、
「この勢いのまま四国統一しちゃってイイっすか?」
をお伺いをたてたところ、
「えぇゾ!いてまえ~」
と、信長が快諾・・・
そうして、伊予(いよ=愛媛県)・阿波(あわ=徳島県)・讃岐(さぬき=香川県)への侵攻を開始するのです。
一方の信長は、この頃から、あの石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗の総本山)との戦いが激化・・・天正四年(1576年)7月の第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)では、本願寺を支援する毛利(もうり)水軍と村上(むらかみ)水軍のゲリラ戦に翻弄され、まんまと兵糧を運び込まれてしまいます。
2年後の天正六年(1578年)第二次木津川口での海戦(11月6日参照>>)の時には、あの鉄甲船(てっこうせん)(9月30日参照>>)を登場させて、何とか大阪湾の制海権を確保した信長でしたが、本願寺を支援して敵対する西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との関係もあって、是非とも、瀬戸内海の制海権が欲しいわけで・・・
そこで信長は、かつての高屋(たかや=大阪府羽曳野市古市)・新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)の戦い(4月21日参照>>)で信長に降って以降、織田配下となって活躍している三好康長(みよしやすなが)を織田の四国担当とします。
この三好康長は、一時期畿内を制した三好長慶(ながよし)(5月9日参照>>)の叔父にあたる人で、信長上洛(9月7日参照>>)の際には三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)とともに信長に敵対してましたが、上記の通り今は味方・・・しかも、ご存知のように、かの三好氏の本拠は阿波ですから、康長はもともと阿波には強い地盤を持っていたわけです。
で、信長は元親に、
「阿波だけは三好クンに譲ったてネ」
と方針転換。。。。
「えぇっ(ノ°ο°)ノそんなん今更…約束ちゃいますやん!」
と元親・・・当然、信長と元親の関係は悪化します。
そんなこんなの天正十年(1582年)、四国攻めを決意した信長から四国先鋒担当を任された康長は、一足先(2月頃から?)に四国に入って、シレッと長宗我部側の武将を寝返らせたりなんぞしながら、四国攻めの総大将となった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の四国入りを待ちます。
ところが、ここで起こったのが、あの天正十年(1582年)6月2日の本能寺の変です(6月2日参照>>)。
まもなく四国に入るはずだった信孝は、織田軍をまとめきれず右往左往してる間に、中国攻略中(5月7日参照>>)だった秀吉(当時は羽柴秀吉)が神ワザ的速さで畿内へ帰還(6月6日参照>>)・・・その秀吉が信孝を総大将に担いでくれ、ともに父の仇である明智光秀(あけちみつひで)を山崎(やまざき=京都府八幡&大山崎付近)破り(6月13日参照>>)、何とか息子としての信孝の面目は保たれました。
実は、この時・・・一説には、明智光秀と元親は連携して、北東(光秀)と南西(元親)で秀吉軍を挟み撃ちする作戦があったとか・・・ご存知のように、元親の奥さんは、明智光秀の重臣=斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹(?諸説あり)だったとも言われ、光秀が謀反に至る動機の一つに「信長に四国攻めを止めさせたかった=四国説」(6月11日参照>>)があるくらいですから、さもありなんという感じですが、
とは言え、結果的には、その挟み撃ちは決行されず、むしろ信長死すのゴタゴタの間に、元親は阿波を平定(9月21日参照>>)しています。
さらに、織田政権の派閥者争いで秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)がモメた賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(2011年4月21日参照>>)では、勝家側についた元親を警戒した秀吉が淡路島(あわじしま=兵庫県洲本市)に派遣していた仙石秀久(せんごくひでひさ)と、まさに賤ヶ岳のあったその日=天正十一年(1583年)4月21日に引田表(ひけたおもて)で戦い(2010年4月21日参照>>)、勝利して讃岐を手に入れました。
ただ、ご存知のように、一方の勝家の方は秀吉に敗北して自刃しています(4月23日参照>>)。
さらにさらに・・・
その後、秀吉と袂を分かった信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)が徳川家康(とくがわいえやす)を後ろ盾にして、天正十二年(1584年)起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知・岐阜・三重など)の戦い(11月16日参照>>)でも、元親は信雄&家康と結んで秀吉と敵対し、戦いのどさくさ真っただ中の天正十二年(1584年)10月19日に西園寺公広(さいおんじきんひろ)の黒瀬城(くろせじょう=愛媛県西伊予市)を陥落させて伊予を手中に治め(10月19日参照>>)、ここに於いて、一応の四国統一を果たしたとされます(統一範囲には諸説ありなので…)。
・・・・とまぁ、長々と長宗我部元親の戦いの経緯を書いてしまいましたが、
何が言いたいかというと、
ここまでの元親さんは
「とにかく秀吉に敵対し続けていた人」
という事。。。
当然の事ながら、そんな元親を秀吉も警戒し「潰しておかねばならない相手」と認識し、紀州征伐(きしゅうせいばつ=和歌山県の根来・雑賀・高野山など)(3月28日参照>>)を終えた天正十三年(1585年)、弟の豊臣秀長(ひでなが=羽柴秀長)を総大将に約11万の大軍を四国に送り込んで元親を降伏させ、長宗我部を土佐一国に押し込めたのです(7月25日参照>>)。
こうして元親は、その後は秀吉の配下として生き残る事になるわけですが。。。
どうやら、その後の秀吉、、、
ここまで徹底的に敵対していたワリには、配下となってから後の元親の事は、意外と気に入っていた?フシがあります。
というのも、一旦降伏してからの元親は、秀吉に対し、忠誠を尽くしに尽くしまくるからで、まぁ、ベンチャラあるいはゴマスリと言えばそうなんですが、そりゃ、秀吉だって愛想悪いよりは、少々オーバー気味でも、一所懸命ご機嫌とってくれてる人の方が「愛い奴…」と思うのもごもっとも・・・
降伏した先の四国攻めの7月25日のページ>>でも書かせていただいたように、この時は未だ秀吉方の攻撃を受けていたのが四国全土に及ばない段階で、戦わずして降伏したわけで・・・つまりは、「命かけて守る」とか「死んでも恨む」といった雰囲気ではなく、「無理な戦いはしない」合理的な判断や、良いように解釈すれば先を見る力もあったとも言えます。
また、戦いの後に上洛して秀吉と謁見した際には、元親自身が聚楽第の壮麗さに見る桃山文化のすばらしさに感銘を受けた事も確か・・・
だからこそ、秀吉の配下になったからにはトコトン忠誠を尽くしてやろう!という気持ちの切り替えをやってのけたのかも知れません。
降伏直後の天正十四年(1586年)に、秀吉が、奈良の東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)の大仏をしのぐ大きな大仏と大仏殿を、京都に建立する事を計画した時(7月28日の前半部分参照>>)には、数百艘の船を連ねて、土佐の山奥から伐り出した大木を誰よりも早く送り届け、秀吉を大いに喜ばせたとか・・・
その年の戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)では、最前線で戦って嫡男の長宗我部信親(のぶちか)を失い、そのショックで以前の勇猛さが無くなったとも言われますが(12月12日参照>>)、
一方で、冒頭に書いたように、小田原征伐でもしっかり功績を残しています。
その翌年には、浦戸湾に迷い込んだ鯨9頭を生け捕りにし、そのまま数十隻の船で大坂城まで運んで、これまた秀吉を大いに喜ばせたとか・・・
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(4月23日参照>>)にも従軍し、その水軍力は大いに期待されました。
しかし、やはり優秀な後継ぎであった信親を失ったのは大きかったのでしょう。
次男の親和(ちかかず=香川親和)と三男の親忠(ちかただ=津野親忠)が他家を継いでいる事もあってか、元親は四男の盛親(もりちか)を後継者に指名しますが、これが家臣たちからの猛反対を受けます。
その反対を押し切って盛親に後を継がせた事、また、慶長三年(1598年)8月に御大秀吉が亡くなった(8月9日参照>>)事で政情も不安定に・・・
その後は、徳川家康と誼(よしみ)を通じたものの、やがて体調を崩した元親は、慶長四年(1599年)5月19日、病状の悪化して61歳で、この世を去るのです。
若き頃は、色白で部屋に籠りっきりだったため「姫若子(ひめわかご)」と言われたものの、その後、見事な初陣を飾り、いつしか「土佐の出来人(できびと)」と呼ばれるようになった元親・・・
しかし、彼が後継者に選んだ息子=盛親は、関ヶ原では西軍につき、兵を動かさないまま敗報に接し、家康によって土佐一国の国主の座を奪われる事になってしまい、
残念ながら、元親の夢が子々孫々と受け継がれる事は無かったのです。
★その後の長宗我部↓
●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆>>
●大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死>>
●盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣>>
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コメント
お詳しい様なので教えてください。
どうして元親は信長の陪々臣なんかを正室にしちゃったんでしょうか?
『お前なんか俺の家臣とすら対等じゃないんだよ』って、思いっきり馬鹿にされてるような気がするんですけど……。
斎藤利三の娘でもいいんですけど、信長の養女にしてから(光秀の養女にしてから、信長養女にするのが正しいのかな?)嫁ぐんじゃなければヤダ、と言えなかったんでしょうか?
投稿: SIYK | 2021年5月25日 (火) 16時23分
SIYKさん、こんばんは~
う~~ん?
歴史上の人物の心の内のホントのところはわかりませんので、あくまで想像ですが…
元親の正室となる女性は、お父さんが石谷光政という清和源氏の流れを汲む土岐氏の人で室町幕府将軍家の奉公衆でしたし、お母さんも代々幕府重臣の蜷川氏の人ですから、血筋としては良い方だったのではないでしょうか?
戦国下剋上の中で将軍家の力が衰えてしまったので、現実の立ち位置では陪々臣となってしまいますが、血脈はなかなかのエリートだと思いますよ。
もちろん、長宗我部も秦氏の子孫と言われてますが、もはや真偽もわからない昔の事で、現実は在地領主(国人)状態だったわけですから、
そこから見れば、将軍家に仕えていた人の娘さんなら「なかなか捨てたもんじゃない」てな雰囲気だったかも知れませんよ。
投稿: 茶々 | 2021年5月26日 (水) 04時39分
茶々様 ありがとうございました。
私、勘違いをしておりました。
元親が結婚したのは、永禄6年なので、
「信長? 誰それ? まぐれで今川に勝った人でしょ。」状態で、
元親は、普通に室町幕府の秩序の中で婚姻を行ったということでしたね。
失礼しました。
投稿: SIYK | 2021年5月26日 (水) 08時29分
SIYKさん、おはようございます。
そうですか~
結婚したのは永禄六年でしたか…
(何年か忘れておりました)
だったら、やはり、将軍家に代々仕えてる中央にも顔の利く人との縁は長宗我部にとっても重要ですね。
投稿: 茶々 | 2021年5月27日 (木) 06時01分