鎌倉公方分裂~堀越・古河・小弓…内紛が危機を招く
永正六年 (1509年)6月23日、古河公方の足利政氏と敵対していた足利高基が和睦しました。
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これまでも何度か書かせていただいている通り、そもそもは関東に本拠を置きながらも京都にて幕府を開く事になった室町幕府初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの嫡男の足利義詮(よしあきら)に2代将軍の座を譲り、四男の足利基氏(もとうじ)に地元を治める鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、それぞれの家系にて、その座を世襲させていく事にしたわけですが(9月19日参照>>)、
その後、何年かして、更なる支配拡大を目論む鎌倉公方は独自に道を歩み始め、その独走を制止しようとする関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐約・執事)の上杉家とも対立するようになって来ます。
それは、正長二年(1429年)に第6代将軍の足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)と第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)の頃に激しさを増し、結局、永享十一年(1439年)に朝廷から持氏追討の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて朝廷が発給する命令書)を受けた幕府軍によって持氏は攻められて自害に追い込まれました(永享の乱>>)。
しかし、その翌年に義教が暗殺され(6月24日参照>>)、その後を継いだ第7代足利義勝(よしかつ=義教嫡男)も早世し、わずか8歳の足利義政(よしまさ=義教三男)が第8代将軍に就任した事もあり、鎌倉公方が空位のままではマズイとなって、先の永享の乱の時には未だ幼く、将軍家と鎌倉公方家との対立も理解していなかった持氏の末っ子=足利成氏(しげうじ)が第5代鎌倉公方に就任しました。
とは言え、そんな幼子もやがては大人になるわけで・・・結局、父と同じく独立的な関東支配を目論むようになり、関東管領の上杉家とも対立して関東を暴れ回る中、幕府は、成氏の鎌倉公方を廃し、新たに足利政知(まさとも=義教次男・義政の兄)を公方として関東に派遣しますが、戦火激しい中で政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)を本拠地とする事になり、以後、堀越公方と呼ばれました(なので堀越が幕府公認の公方です)。
一方の成氏も鎌倉には戻れず、下総古河(こが=茨城県古河市)に留まった事で、コチラは古河公方と呼ばれます(なので古河公方は自称です)。
さらに、この頃から、関東管領職を代々世襲していた上杉家も、同族&家内での争い(扇谷上杉×山内上杉)が激しくなる中、明応六年(1497年)に成氏が死去(ここまでの経緯については9月30日参照>>)・・・その後を継いだのが成氏嫡男の足利政氏(まさうじ)でした。
政氏は、上杉家内の抗争において、はじめは扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)を支持していましたが、扇谷上杉家を盛り上げた執事の太田道灌(おおたどうかん=資長)が主君の上杉定正(うえすぎさだまさ)に暗殺され(7月26日参照>>)、その定正も明応三年(1494年)に死去した事を受けて扇谷上杉家に見切りをつけて、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)派に転身・・・
今度は、山内上杉家の当主=上杉顕定(あきさだ)とともに扇谷上杉家を継いだ上杉朝良(ともよし)と戦うのです。
永正元年(1504年)には、扇谷上杉朝良に味方する駿河(するが=静岡県東部)の今川氏親(うじちか)と、その叔父である北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の母の兄)と戦った山内上杉顕定について、政氏も立河原(たちかわのはら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)に参陣しています。
そう・・・ここらあたりで台頭して来るのが北条早雲・・・
早雲は、すでに延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に幕府公認の堀越公方を追放し(10月11日参照>>)、明応四年(1495年)には小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して(12月16日参照>>)、そこを本拠として関東にグングン勢力をのばしつつあったのです。
「これはマズイ!」
と思ったのが、扇谷&山内の両上杉家・・・そう、同族同志でモメてる場合ではありません。
そこで、敵の敵は味方(…と思ったかどうかは知らんが)とばかりに永正二年(1505年)に両上杉家は和睦します。
この頃、政氏は、弟の顕実(あきざね=以前は足利義綱)を上杉顕定の養子に出して関係をさらに強化していますが・・・
ここに来て、今度は、自分とこの家内が怪しくなって来るのです。
『喜連川判鑑 (きつれがわはんがん)』によれば永正三年(1506年)春、『鎌倉九代記』によれば永正四年(1507年)夏頃から、足利政氏と、その嫡男の高基(たかもと=高氏・義基)との間に不和が生じはじめたのだとか。。。
結局、高基は家出・・・奥さんの実家である宇都宮成綱(うつのみやしげつな=宇都宮氏17代当主)の下に身を寄せて永正五年(1508年)には嫡男の足利晴氏(はるうじ)をもうけます。
こんな父子の状況を憂いた上杉顕定は出家して可諄(かじゅん)と号して両者の仲介をし、永正六年 (1509年)6月23日、何とか父子は和解して、高基は古河に戻りました。
しかし、そんな上杉顕定も、翌永正七年(1510年)6月の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)の戦いにて、越後(えちご=新潟県)の守護代であった長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)に敗れて討死すると(6月20日参照>>)、この同じ頃に再び父子は不和になり、今度の高基は、古河公方家の軍事を担っていた重臣=簗田政助(やなだまさすけ)の息子=簗田高助 (たかすけ)を抱き込んで対抗します。
怒った政氏が、下野(しもつけ=栃木県)の那須(なす)氏の者に命じて簗田高助の関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿)を攻撃させたりした事で、
この父子ケンカは、
父方に、
陸奥大館(むつおおだて=福島県いわき市)の岩城常隆(いわきつねたか)、
常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義舜(さたけよしきよ)など、
息子方に、
舅の宇都宮成綱、
下総(しもうさ=千葉北部・埼玉東部・茨城南西部・東京都の一部)の結城政朝(ゆうきまさとも)、
佐竹に対抗する同じ常陸の小田政治(おだまさはる=足利政知の落胤説あり)、
などが味方し、徐々に大きな戦い(永正の乱)へと発展して行くのです。
とは言え、諸戦の状況は、少々父の分が悪い・・・
関東の諸将の多くが息子の高基を支持している事に怒り心頭の政氏は、永正九年(1512年)、古河を捨て、自身に味方してくれる小山成長(おやましげなが)を頼って、彼の祇園城(ぎおんじょう=栃木県小山市城山町・小山城)へと入り、以後は、この祇園城から関宿城までの各地にて対立抗争の戦いが繰り広げられるのです。
永正十年(1513年)4月には三浦三崎(みうらみさき=神奈川県三浦市)の要害で激しく戦うも、やはり状況は高基側が優勢・・・やむなく政氏は、永正十三年(1516年)12月には祇園城から、武蔵(むさし=東京都・埼玉・神奈川の一部)の岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)へと移動します。
しかし結局は、政氏VS高基父子の戦いは、高基優勢の形が崩される事はなく、最終的に政氏は、不利な条件を呑んでの高基との和睦を選択し、公方の座も息子に譲る事となりました。
こうして、ようやく政氏VS高基父子の戦いが収拾したかに見えた永正十四年(1517年)、今度は政氏次男の足利義明(よしあき)が、父とも兄とも対立して家を飛び出し、安房(あわ=千葉県南部)の里見(さとみ)氏の支援を受けて原胤清(はらたねきよ)の小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)を奪い、ここを拠点とする小弓公方を自称して古河公方と対立するようになるのです。
そして案の定、この父子&兄弟ゲンカが、公方家の弱体化を加速させる事となり、やがて、皆さまご存知のように、関東は北条の治める地となってしまうわけです。
★鎌倉公方関連のその後…
●大永四年(1524年):北条氏綱の江戸進出>>
●大永六年(1526年):里見の鶴岡八幡宮の戦い>>
●天文七年(1538年):国府台合戦で足利義明討死>>
●天文八年(1539年):足利晴氏と北条氏綱の娘結婚>>
●天文十五年(1546年):河越夜戦で公方壊滅>>
★オマケ
●里見義弘と青岳尼(足利義明の娘)が結婚>>
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