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2021年6月17日 (木)

本能寺の変の実戦隊長…斎藤利三の処刑

 

天正十年(1582年)6月17日、本能寺の変の後、山崎の戦い羽柴秀吉に敗れた明智光秀の家老・斎藤利三が処刑されました。 

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斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)は、
平安時代頃からの藤原一族の流れを汲む美濃(みの=岐阜県南部)土岐(とき)守護次官斎藤氏(斎藤道三は別系)の人とされる白樫城(しらかしじょう=岐阜県揖斐郡)主・斎藤利賢(としかた)を父に、

代々室町幕府の重臣の家系である蜷川氏(にながわし=アニメ一休さんの新右衛門さんが有名)蜷川親順(ちかより)の娘との間の次男として天文三年(1534年)頃に生まれたとされますが、その生年も諸説あり、お母さんも、斎藤道三(どうさん)の娘説、明智光秀(あけちみつひで)の妹説などもあり、少々謎です。

ただ、利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)が、母の再婚相手である石谷光政(みつまさ=空然)の養子となって石谷姓を継ぎ、義父の職を継いで室町幕府の奉公衆となっていて、弟の斎藤利三も、兄と同じく幕府奉公衆であった事を考えると、やはり母は蜷川氏の娘さんである可能性が高いように思われます。

ちなみに、母と再婚相手との間に生まれた利三にとっては異父妹にあたる姫の嫁ぎ先が、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)で、この縁談の仲介役だったのが兄の石谷頼辰と、同僚(幕府奉公衆)細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)だったようで、この頃は藤孝の中間(ちゅうげん)だった明智光秀は、この時に長宗我部元親と知り合いになったとされていて、

後々の本能寺の変の一因とも噂される光秀&利三&元親の3人の関係ができた物と思われます(本能寺の変:四国説>>) 。

Saitoutosimitu600a そんな斎藤利三の最初の結婚相手は斎藤道三の娘と言われますが、確固たる証拠はありません・・・ただ、何かしらの縁があって、この頃、利三は道三の息子である斎藤義龍(よしたつ)に仕えるようになっていますので、道三の系列と密な関係になっていた事はうかがえます。

その後、その道三の家臣であった稲葉一鉄(いなばいってつ)与力となって、一鉄の娘(もしくは姪)と再婚します。

ご存知のように、この稲葉一鉄は、永禄十年(1567年)の斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)陥落(8月15日参照>>)の時に、攻撃側の織田信長(おだのぶなが)の道案内をして織田に寝返った美濃三人衆の一人(8月1日参照>>)、これをキッカケに一鉄配下の斎藤利三も織田傘下となるのです。

翌年の永禄十一年(1568年) には、ご存知のように織田信長が室町幕府15代将軍となる足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たし(9月7日参照>>)、畿内を掌握していく事になるわけですが、

ところが・・・
織田家傘下の稲葉の配下として様々な武功を挙げる斎藤利三ですか、少々不満があったようで・・・

それは、自らの武功に対して、稲葉一鉄が、それに見合った報酬を与えてくれない事・・・

かくして元亀元年(1570年)頃(もうチョイ後かも)、日頃の不満が爆発した利三は、逃げるように稲葉家を出て、すでに信長の家臣として活躍中の明智光秀のもとへと走ります。

つまり、明智光秀が稲葉一鉄の家臣である斎藤利三を引き抜いて自分の家臣にしたわけですが、この頃、光秀は別の人も引き抜こうとしてモメていますので、どうやら、利三の不満が爆発していきなり・・・というよりは、光秀との約束事が、すでに水面下で決まっており、稲葉家を出たものと思われます。

なんせ、かつて同じ職場(幕府奉公衆)だったわけですし、同じ土岐氏でもありますから・・・

とは言え、家臣を引き抜かれた一鉄は激おこプンプン丸で、収まらないその怒りを主君である信長に訴え、利三の返還を求めます。

事を治めたい信長は、利三に切腹を命じますが、織田の家臣で利三と親しかった猪子平助(いのこへいすけ)という武将が間に入って(『改正三河後風土記』では光秀自身が信長に反論して利三を守ったとなっています)、何とか利三の切腹は免れましたが、無茶な引き抜きを行った光秀は、信長からかなりキツく怒られたようで・・・もちろん、稲葉一鉄との確執も残ったままになってしまいます(この一件も本能寺の一因と噂されます)

とにもかくにも、
野茂のメジャー行きくらいに(←例えが古い)大モメにもめた移籍劇ではありましたが、明智光秀の配下となった斎藤利三は大いに活躍して光秀の信頼を得、光秀が信長から任された丹波(たんば=兵庫県の一部)攻めで、天正七年(1579年)に黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)を落とした(8月9日参照>>)時には、その後の黒井城を任され、光秀の家老に抜擢されました。

やがてやって来るのが天正十年(1582年)の本能寺の変・・・
★本能寺の変については↓
 ●本能寺の変~『信長公記』>>
 ●その時の安土城>>
 ●数時間のタイム・ラグ>>

6月1日夜、「殿(信長)に陣容を見せる」という名目で、居城の亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)を出た明智の軍勢【明智越体験記】参照>>)・・・一説には、山城(やましろ=京都府)との国境である老ノ坂(おいのさか)の手前で、光秀は、一部の重臣に対して「変の決行」を打ち明けたと言いますが、もちろん、打ち明けたメンバーの中には斎藤利三も・・・

これには、利三は反対したものの、光秀の決意は固く・・・という説と、
むしろ利三が積極的で、なんなら利三に押された形で光秀が決意したという、真逆な説があります。

ごく最近、「光秀が現地(本能寺)には行って無い」という史料の発見もあり、今は、後者の「利三が主導していた」との考えが強くなって来ています。
(信長の四国攻めが間近だった事もあるので)

とにもかくにも、ここで本能寺の変は決行され、「変」自体は成功を収めたわけですが、ご存知のように、電光石火で畿内に戻って来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に推された織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)率いる織田軍によって、明智軍は敗れ、戦場を離れた光秀も討たれてしまいます。
★このへんは、すでに書いておりますのでコチラで↓
 ●秀吉の中国大返し>>
 ●天王山~山崎の合戦>>

斎藤利三も何とか戦場を脱出しますが、堅田(かただ=滋賀県大津市)に潜伏していたところを、秀吉の命を受けた一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を大将とする30余人の捕手と足軽50人に囲まれ、息子らとともに奮戦するも、息子2人は斬られ、利三自身は捕縛されてしまいました。
(捕縛したのは猪飼秀貞の説もあり)

かくして天正十年(1582年)6月17日、市中引き回しのうえ六条河原にて斬首された斎藤利三・・・享年49でした。

消えてゆく 露の命は 短夜の
 明日をも待たず 日の岡の峰 ♪  利三辞世
「夜露の命は短い夜だけで、お日様が上ったら消えてしまうものなんや」

その遺体は、5日後の23日、明智光秀の首とともに、あらためて三条粟田口(あわたぐち)にて磔刑(たっけい)に処せられたという事です。

しかし、その後、利三の友人だった絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)(8月28日参照>>)が盗み出し、同じく友人の東陽坊長盛( とうようぼうちょうせい)が住職を務める真正極楽寺(しんしょうごくらくじ=京都市左京区)に葬られました。

ちなみに、この時、4歳で父=斎藤利三を亡くし、母方の稲葉家に預けられたのが、後の春日局(かずかのつぼね)(10月10日参照>>)という事になります。
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コメント

茶々さん、こんにちは。
斎藤利三の生涯を改めて見直してみると、光秀よりも利三の方が信長を恨んでいるように見えてしまいます。
本能寺には光秀は行かず利三が主導した件も、総大将は前線に出ないとはいえ、一世一代の謀反を他人に任せるなんてありえるんでしょうかねえ。
失敗して信長が生き延びたら、光秀はどうするつもりだったのか。
光秀も老齢だし、明智家は利三が実権を握っていたのでは…!?と、謎が膨らみます。

そして、こんなにネタが豊富なのに、利三や四国攻めよりもオリキャラを活躍させた大河も本当に勿体ない!

投稿: 禿鼠 | 2021年7月 1日 (木) 14時03分

禿鼠さん、こんばんは~

…ですよね~
やはり、本能寺の変の1番の謎は、光秀が起こすにしては、計画性がなく衝動的な謀反のように映るところですよね~

なので、後方にいた(あるいは現地に行って無い)光秀が気づいた時には、すでに先発が本能寺に突入してたんじゃ?
みたいな話もありますね。。。

麒麟では、利三は家臣になる時にスポット当たっただけで、その後はほとんど出てきませんでしたね。
もう少し、スポット当ててほしかったです。

投稿: 茶々 | 2021年7月 2日 (金) 05時00分

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