ジッチャンの恨みを晴らす!宇喜多直家の砥石城奪回戦
天文三年(1534年)6月30日、備前砥石城にて宇喜多直家の祖父=宇喜多能家が自刃しました。
本日は、その砥石城を、能家孫の宇喜多直家が奪回するまでのお話。。。
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鎌倉幕府の倒幕にも貢献し、その後の南北朝の動乱でも一貫して足利将軍家を助けた赤松則村(あかまつのりむら・円心)(4月3日参照>>)の活躍で、室町幕府政権下でも播磨(はりま=兵庫県南西部)や備前(びぜん=岡山県東南部と兵庫&香川の一部)や美作(みまさか=岡山県東北部)など中国地方を中心に広域の領地を持つ大きな存在であった赤松(あかまつ)氏・・・
しかし、その則村の4代後の赤松満祐(みつすけ)が、第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)を暗殺した事で(6月24日参照>>)、その討伐戦で功績のあった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)にほとんどの領地を取られ、一旦は滅亡状態となりますが、その後に起こった応仁の乱(おうにんのらん)(10月22日参照>>)で赤松満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)が、宗全と敵対する東軍の細川勝元(ほそかわかつもと)に見出されて活躍して再興を果たした後、かの嘉吉の乱で失った領地を取り戻すべく山名との戦いを繰り返していたのでした(4月7日参照>>)。
そんな赤松の家臣だったのが播磨の浦上荘を本拠地とする浦上(うらがみ)氏で、この頃の当主の浦上則宗(うらがみのりむね)は赤松政則を助け、赤松氏再興に尽力した一人です。
さらに、その浦上氏の家臣だったのが、備前豊原荘に根を張る半商半士の土豪(どごう=その地の小豪族)の宇喜多久家(うきたひさいえ)が、浦上が構築した砥石城(といしじょう=岡山県瀬戸内市)の城番を任されて以来、代々宇喜多家が、その城主を務めていました。
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そんな中、上記の赤松VS山名の当人同士の戦いは長享二年(1488年)の英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)の戦いを最後に終焉を迎えますが(4月7日参照>>)、赤松復活の象徴でもあった赤松政則が明応五年(1496年)に亡くなった事から、赤松家中に後継者争いが起こり(3月11日の真ん中あたり参照>>)、明応八年(1499年)前後に宇喜多家を継いだ宇喜多能家(よしいえ=久家の孫で直家の祖父)が城主になる頃には、赤松家中は真っ二つに分裂し、その争いに配下の浦上も宇喜多も巻き込まれていくのです。
しかも、ここまで主君赤松命だった浦上氏が、浦上則宗の死去により浦上村宗(むらむね=則宗の甥?)が継いだ文亀二年(1502年)あたりから赤松への反発心が増してきて、やがて、赤松に対して反旗をひるがえし、永正十五年(1518年)の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)攻防戦では、見事!主君の赤松義村(よしむら=政則の娘婿)を城から追い出す事に成功します。
●【浦上松田合戦】参照>>
●【三石城攻防戦】参照>>
もちろん、これらの戦いで大いに活躍した宇喜多能家だったわけですが・・・
そんな中で、享禄四年(1531年)に起きた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)の細川(ほそかわ)家の後継者争いである天王寺の戦い(大物崩れ)(6月8日参照>>)で、細川高国(ほそかわたかくに)側にて参戦していた浦上村宗が、その合戦で討死を遂げた事で、またもや周辺状況が変化しはじめるのです。
能家は、主君=村宗の死を受けて砥石城にて剃髪し、常玖(じょうきゅう)と号して隠遁生活を送っていましたが、
そんなこんなの天文三年(1534年)6月30日、能家に代って浦上の家政を執っていた高取山城(たかとりやまじょう=岡山県瀬戸内市邑久町)の島村盛貫(しまむらもりつら=盛実)が、亡き村宗の遺命と称して砥石城を襲撃し、もはや病で歩行も困難だった能家を自刃に追い込んだと・・・
とされていましたが、実は、この話は、2年後の天文五年(1536年)もしくは天文九年(1540年)に能家の息子である宇喜多興家(おきいえ)が島村盛貫の一族の息子たちとモメて、暴力沙汰となり殺害されたという事件(←この事件も本当にあったかどうか?疑わしいんですが)を受けての後世の軍記物の創作なのだそうで・・・
実際には、かの天王寺の戦いで細川高国&浦上村宗らと敵対する側で参戦していた赤松晴政(はるまさ=義村の息子)の命を受けた勢力によって、砥石城内にて殺害されたとの事。。。(経緯は違えど亡くなったという事は事実のようです)
この時、息子の興家が、幼い息子=宇喜多直家(なおいえ)を連れ、鞆の浦(とものうら=広島県福山市)へと落ちた事で、宇喜多の家督と砥石城主は、主君の浦上の命により、能家の異母弟である浮田国定(うきたくにさだ)が受け継ぐ事になりました。
これも、軍記物などでは、浮田国定が島村盛貫と組んでいて…要は、乗っ取ったみたいな話になっていたりしますが、上記の通り、能家息子の興家が砥石城を落ちてしまっているわけですので、ある意味、正統な後継であったという意見もあります。
また、一戦にも及ばず、父をみすみす殺害されたあげくに逃げ出してしまった状況となった息子の興家は、父に似ぬ不肖の子とか、暗愚の将などと言われますが、本当のところは、よくわかっていません…てか、その真偽が確かめられるほどの興家さんに関する史料が残っていないのが現実です。
とにもかくにも、ここで父の能家を失い、砥石城も叔父の浮田国定の物となってしまった興家は、息子の直家とともにしばしの放浪人生を送ったとされます。
その間、宇喜多の主君である浦上では、浦上村宗が亡くなった後に、家督を継いでいた嫡男の浦上政宗(まさむね)と、その弟=浦上宗景(むねかげ)との間で意見の食い違いがあり、両者が対立・・・おのずと、その配下の国衆たちも分裂するようになっていたわけですが・・・
そこに登場するのが、成長した能家の孫=宇喜多直家・・・実は、しばらくの没落の後、かつて祖父の能家が守将を務めていたと伝わる乙子城(おとごじょう=岡山県岡山市東区)にて宇喜多家の再興が許され、各地に散っていた旧臣たちが直家のもとに集まって来ていたのです。
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そんなこんなの天文十四年(1545年)・・・あれからも砥石城の城主を務めていた浮田国定が、毛利(もうり)へ内通しているとの情報が浦上宗景のもとに飛び込んで来ます。
くわしく調べてみると、どうやら、その情報は本当らしい・・・
そこで浦上宗景は、宇喜多直家に浮田国定への攻撃を命じたのです。
時に直家17歳・・・宗景から派遣されて来た天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の援軍を得て、直家は砥石城を攻め立てます。
しかし、残念ながら願い叶わず・・・這う這うの体で逃げかえると、逆に、勢いづいた砥石城が乙子城を攻め立てます。
ここは何とか足軽たちの奮戦で城を守り切った直家でした。
この後も、何度も砥石城に攻撃を仕掛ける直家でしたが、その都度反撃を受けて切り崩され、足軽同士の小競り合い的な戦いが続く事になるのですが、この攻防戦に決着がつくのが・・・
天文十八年(1549年)もしくは弘治元年(1555年)か弘治二年(1556年)の事・・・
直家は、やはり宗景から派遣された天神山城の援軍と示し合わせて、砥石城に夜討ちをかけたのです。
不意を突かれた浮田国定は、瞬く間に城を乗っ取られ、やむなく城外へ逃走を図りますが、敗走する浮田を追走する宇喜多勢が討ち取り、多くの首級を挙げ、一説には国定も、この時討ち取られたとされます。
落城した砥石城は、宗景の命により同じ山並みに高取山城を持つ島村一族の島村貫阿弥(かんあみ=観阿弥:大物崩れで討死した島村弾正の子か孫で実名は宗政とも、また島村盛貫と同一人物ともされる不明な人物)に与えられ、直家は新庄山城(しんじょうやまじょう=岡山県岡山市東区:奈良部城とも)を与えられました。
そんな直家がようやく祖父の無念を晴らすのが、永禄二年(1559年)・・・この時、やはり主君の宗景の命により、沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼:亀山城とも)を守る舅(しゅうと=直家の正室の父)の中山勝政(なかやまかつまさ=中山信正)を攻めて討ち取った直家は、同時に高取山城と砥石城の島村貫阿弥も討ち取って、城を奪い返そうと計画します。
沼城の落城の後、主君の宗景に頼んで、島村貫阿弥を沼城に誘い出す書状を書いてもらい、貫阿弥が数人の部下だけを連れて沼城にやって来たところを待ち伏せして斬殺・・・騙し討ちにしたのです。
さらに、後から続いて駆けつけて来る島村の家臣たちも、ことごとく討ち果たし、その勢いのまま、直家自らが軍勢を率いて砥石城と高取山城へと、ほぼ同時に押しかけます。
わずかの留守兵しか残っていなかった両城は、主君の貫阿弥が討ち取られたと知るや、城内は騒然となり、そのまま降伏したのです。
かくして、直家は、ようやくジッチャンの無念を晴らし、砥石城を弟の宇喜多春家(はるいえ=忠家かも)に守らせるのでした。
これが宇喜多家による25年に渡る砥石城争奪戦・・・と言いたいところですが、今回のこの記述、ほぼ『備前軍記』に沿って書かせていただきました。
そう・・・
先にも書きましたが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説・・・ある程度は史実に基づいてはいるものの、かなりの創作も入っており、あまり史料も無くて、その活躍ぶりがわからない興家さんは、あくまで何もできなかった愚将の如く描かれ、浦上配下として、ある程度の活躍記録が残る能家ジッチャンと、後に全国ネットに躍り出る直家をカッコ良く、しかもそこに、「ジッチャンの名に懸けて恨みを晴らす」的なドラマチックな要素が盛り込まれているわけです。
なので、おそらく事実であろう直家さんの活躍は、この後の戦い↓から?・・・という事になるかと思いますが、
かと言って、すべてが創作とも言えないし、とにかく他に史料が無いのが現実ですから、ここは直家の出世物語として、心に留めておきたい出来事だと思います。
★この後の直家は…
●永禄十一年(1568年)7月:金川城攻略戦>>
●永禄十年(1567年)7月:明善寺合戦>>
●天正三年(1575年)1月:高田城攻防戦>>
●天正三年(1575年)4月:天神山城の戦い>>
●天正三年(1575年)6月:松山合戦>>
●天正七年(1579年)2月:作州合戦>>
●天正八年(1580年)6月:祝山合戦>>
でどうぞm(_ _)m
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コメント
ちょうど今、宇喜多直家を主人公にした4コマ漫画が「コミック乱ツインズ」で連載されています。
ただ、別の漫画で今回の記事の内容を見たことがあります。
投稿: えびすこ | 2021年7月 3日 (土) 21時15分
えびすこさん、こんばんは~
このお話も、若き直家の武勇伝として語られているのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2021年7月 4日 (日) 02時44分