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2021年7月29日 (木)

浅井長政の下剋上~VS六角の蒲生野の戦い

 

永禄九年(1566年)7月29日、一時は主従関係にあった六角義賢浅井長政が蹴散らした蒲生野の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・

祖父=浅井亮政(あざいすけまさ)下剋上により(3月9日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)守護(しゅご=県知事)であった主筋の京極(きょうごく)を追い落とした浅井ではありましたが、南近江の守護である六角(ろっかく)との戦いには苦戦したため、結局、亮政息子の浅井久政(ひさまさ)六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・孫の浅井長政(ながまさ)が元服する頃には、六角家臣である平井定武(ひらいさだたけ)の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いておりました。

Azainagamasa600 しかし、この関係に不満を持つ浅井家臣らによって、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

父・久政は隠居させられ、わずか15歳で一軍を率いた長政は、永禄三年(1560年)8月の野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦い(8月18日参照>>)にて六角義賢に勝利した事で奥さんを実家に返し、「賢」の字も捨てて長政を名乗り(長政の名は織田信長との同盟の際に名乗ったとも)六角氏と絶縁の体制を取るようになったのです。

翌永禄四年(1561年)7月には、六角義賢が畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦いのために京都に出陣した【将軍地蔵山の戦い】参照>>)事をチャンスと見て、父が以前奪えなかった六角配下の太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんとしますが、残念ながらこの時は失敗(7月1日参照>>)・・・

ところが、その2年後の永禄六年(1563年)、義賢の出家によって本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を引き継いでいた嫡男の六角義治(よしはる=義弼)が、重臣の後藤賢豊(ごとうかたとよ)を殺害し、それに怒った家臣たちによって観音寺城を追われるという・・・世に「観音寺騒動(かんのんじそうどう)と呼ばれる内ゲバ事件が発生したのです(10月7日参照>>)

この時、チャンスとばかりに、主君に反発する六角家臣に加勢する長政は、彼らとともに、義治が逃げ込んだ日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)を攻撃するのですが、この日野城の城主は勇将名高い六角重臣の蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)・・・

1ヶ月近い籠城戦の末、反発していた六角家臣も長政も和睦する事になりました。

こうして和睦した事で、六角義治は、もとの観音寺城に戻って元通り・・・となるのですが、当然、ゴタゴタの亀裂が全回復するわけもなく、この一件で六角氏の力は確実に衰退する事になります。

そんなこんなの永禄九年(1566年)5月・・・かねてより六角義治に不信感を抱いていた六角重臣の布施公雄(ふせきみお=淡路入道)謀反を起こし布施山城(ふせやまじょう=滋賀県東近江市布施町)籠城したのです。

布施公雄からの援軍要請に応じた浅井長政は、7月になって居城の小谷城おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)から江南(こうなん=琵琶湖の南岸)へと進出し、まずは自軍を5陣に分けてから、25日に先陣を舟岡山(ふなおかやま=同東近江市糠塚町:船岡山)から 布施山に向かわせ、自身は小幡(おばた=同東近江市五個荘小幡町)に本陣を置き、六角勢を迎える態勢に・・・

一方の六角軍は、池田定輔(いけださだすけ)が布施山城を攻め、平井定武が堀内の屋敷にて、三上栖雲軒(みかみせいうんけん=士忠)上羽田(かみはねだ=同東近江市上羽田町)にて浅井勢を迎え撃つ事とします。

かくして永禄九年(1566年)7月29日、舟岡山の麓一帯に広がる蒲生野(がもうの=東近江市野口町・糠塚町周辺)と呼ばれる場所にて、浅井VS六角の合戦が展開される事になったのです。

Gamounonotatakai 蒲生野の戦いの位置関係図→
クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

戦いの詳細は不明なれど、この日の大きな流れとしては浅井勢が分が悪く、徐々に北方面へと撤退を開始したところ、六角義治勢が、それを追撃しつつ北進・・・

そこには、かの後藤賢豊とともに「六角の両藤」と呼ばれた六角重臣の進藤賢盛(しんどうかたもり)の奮戦もあり、逃げる浅井に追う六角で、戦場は北へ北へと進み、やがて8月13日、たどり着いた佐和山(さわやま=滋賀県彦根市佐和山町)周辺での合戦にて、さらに多くの戦死者を出してしまった浅井勢は、やむなく全軍の完全退却に至りました。

この時、六角に敗れて逃走して来た浅井の将=磯野員昌(いそのかずまさ)を匿ってくれたのが八町城(はっちょうじょう=滋賀県犬上郡豊郷町)の城主=赤田興(あかだおこる)でしたが、9月に入って、八町城内の者が六角家臣の高野瀬秀澄(たかのせひでずみ)に内通して、八町城に火を放ったのです。

しばしの休息で態勢を立て直していた浅井長政は、ここに参戦・・・高野瀬の居城である肥田城(ひだじょう=同犬上郡豊郷町)から赤田の八町城にかけての一帯で、高野瀬VS浅井+赤田+磯野連合軍の激しい戦いが行われたのでした。

結果は・・・高野瀬秀澄兄弟が討死したほか、六角本隊から派遣されていた三雲賢持(みくもかたもち)も戦死し、大きな痛手を負った六角勢は敗退する事となりました。

ご覧の通り、途中、ヤバイ場面もあったものの、永禄九年(1566年)5月の布施公雄の謀反に始まった今回の合戦は、最終的には浅井の勝利という結果で終止符が打たれたのです。

この一連の戦いは蒲生野の戦いと呼ばれます。

この戦いで、観音寺騒動から始まったの六角氏の弱体化が決定的な事を悟った六角義治は、この翌年=永禄十年(1567年)4月に弟の六角義定(よしさだ)に家督を譲る事となります。

一方の浅井長政は・・・

ちょうどこの頃に、美濃(みの=岐阜県南部)を手中に治め、陥落させた稲葉山城(いなばやまじょう)岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改めて『天下布武(てんかふぶ)の印鑑を使い始めた織田信長(おだのぶなが)が、岐阜から京に向かう道筋にある近江に着目・・・

そう、その織田信長の妹(もしくは姪)お市(いち)の方を浅井長政が娶って、浅井×織田の同盟が結ばれるのが、永禄十年(1567年)10月の事と言われています。

さらに翌年の永禄十一年(1568年)7月に、信長は足利義昭(あしかがよしあき)と面会(10月4日参照>>)・・・翌・8月に、直接、浅井長政に会って上洛への道筋を再確認した信長(6月28日前半部分参照>>)、さらに、その翌月の9月に義昭を奉じて上洛を果たすのです(9月7日参照>>)

…で、ご存知のように、その上洛の際に抵抗した六角父子は観音寺城を追われるハメに・・・(9月12日参照>>)

もちろん、さすがの名門六角氏ですから、観音寺城を追われてもなお、まだまだ信長に抵抗する(6月4日参照>>)わけですが、

今回の蒲生野の戦いでご活躍の進藤賢盛さんも、先の観音寺騒動で六角義治を匿った蒲生賢秀さんも、結局は、この後、織田家の家臣になっちゃて

なんなら途中離脱の浅井長政(8月29日参照>>)より長く織田傘下として、いや、その後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の忠臣としても生き残っていくで、戦国の世渡りは、なかなかに難しいですね。
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2021年7月21日 (水)

何だか気になる「三大〇〇」~日本三景の日にちなんで

 

1618年7月21日(元和4年5月29日)は、江戸前期の儒学者で 、著書『日本国事跡考』の中で天橋立・松島・宮島日本三景として絶賛した林鵞峰(はやしがほう=林羅山の三男)の誕生日である事から、今日、7月21日「日本三景の日」という記念日なのだそうです。

Nihonsankei900o
日本三景

今回の「日本三景」に限らず、「御三家(尾張・水戸・紀州もしくは舟木・橋・西郷)「三人娘(美空・江利・雪村)など、とかく「三大〇〇」というのがよくあります。

日本では、もともと奇数が良い数字とされ、
七五三>>
白波五人男>>
七福神>>
また「食器のセットが5人分(瀬戸物参照>>)など「三大」以外も多いですが、

一般には割り切れる偶数が良い数字とされ、「食器のセットも6人分」「1ダースは12」が基本の欧米でも、
「三大珍味(トリュフ・キャビア・フォアグラ)
「三大発明(活版印刷・火薬・羅針盤)
「世界三大美女
(国によって違う)なんてのがあったりします。

自然発生的な面もあり、もはや「なぜに3なのか?」というハッキリした根拠を決めるのは難しいでしょうが、とにかく心理学的に、この「3」という数字は、人間が落ち着く数字であり安定感を感じる数字である事は確かなのです。

たとえば、こんな話があります。

ある定食屋さんが、お昼のランチとしてAランチ(800円)Bランチ(500円)を売り出したものの、さほど売れ行きが良くない・・・

しかも、ほとんどのお客さんが500円のランチを注文する。。。

そこで、上記の「3の法則」をアドバイスされた定食屋の主人が、Aランチの上にもう一つSランチ(1000円)を出してみたところ、なんと、飛ぶように売れ始め、しかも、ほとんどのお客さんが800円のBランチを頼んでしまう・・・という結果に。。。

人は3つあると安定するうえに、その真ん中だと特に安心感を持ってしまうらしい。
松竹梅もそうですよね~

しかも、3つの選択肢という安定感から、おそらくお昼ご飯としては高いであろう1000円のランチを、たまには奮発して…と頼む人も出て来るわけで・・・

自分自身、胸に手を当てて考えてみても、究極の2択より、3つからの方が選びやすいです。

そんな中、今回の「日本三景」を選んだ林鵞峰さんは江戸初期の人、また、下に書いてる信長三大苦難が登場する『武家事紀』を記した山鹿素行(やまがそこう)も江戸時代初めの人

ですから、日本人の「三大〇〇」言いたがりも、なかなかに歴史があると言えますね~

てな事で、本日は、愚ブログに登場する「三大〇〇」をご紹介させていただきたいと思います。

★日本三大怨霊
 ●菅原道真>>
 ●平将門>>
 ●崇徳天皇>>

★日本三大怪談
 ●四谷怪談>>
 ●番町皿屋敷>>
 ●牡丹灯籠>>

★戦国三大奇襲
 ●河越夜戦>>
 ●厳島の戦い>>
 ●桶狭間の戦い>>

★信長三大苦難『武家事紀』より
 ●金ヶ崎の退き口>>
 ●志賀の陣=宇佐山の戦い>>堅田の戦い>>
 ●福島野田の対陣=野田福島>>春日井堤>>

天下の三大名器(肩衝の茶入れ)>>
 ●初花(はつはな)
 ●楢柴(ならしば)
 ●新田(にった)

★日本三大山城
 ●備中松山城>>
 ●美濃岩村城>>
 ●大和高取城>>

★日本三大水攻め
 ●備中高松城>>
 ●紀伊太田城>>
 ●武蔵忍城>>…って全部秀吉がらみやん

★三英傑
 ●織田信長>>
 ●豊臣秀吉>>
 ●徳川家康>>

★日本三大仇討ち
 ●曽我兄弟の仇討ち>>
 ●伊賀上野鍵屋の決闘>>
 ●元禄赤穂事件(忠臣蔵)>>

★放浪の三大詩人
 ●西行>>
 ●松尾芭蕉>>
 ●飯尾宗祗>>

★日本三大お家騒動
 ●黒田騒動>>
 ●伊達騒動>>
 ●加賀騒動>>もしくは仙石騒動>>

★江戸三大大火
 ●明暦の振袖大火>>
 ●明和九年の迷惑大火>>
 ●文化の大火>>

★江戸三大改革
 ●享保の改革>>
 ●寛政の改革>>
 ●天保の改革>>

★維新三傑
 ●西郷隆盛>>
 ●大久保利通>>
 ●木戸孝允>>

ちなみに、「日本三大祭」は、
 大阪「天神祭」
 東京「神田祭」
 京都「祇園祭」・・・

全国各地のお祭りがテレビ中継される今では、
「もっとスゴイお祭り、いっぱいあるやん」
と、お思いの方も多いでしょう。

まして地元の方なら、
「なんで?ウチのやないん?この3祭なん?」
と思われるのは当然だと思うのですが、

あくまで、私の個人的な推理で言わせていただくと、
この「三大祭」を選出された方は…どなたかは存じませんが、おそらくは「怨霊の強さ」で選んだんじゃないか?と思うのです。

五穀豊穣のお祭りは、それこそ、各地に大小メッチャクチャあり、その起源も新古様々で、その中から何を基準に選ぶのか?というのは、大変難しくほぼ不可能・・・そんな中で、怨霊を鎮めるお祭りなら、その怨霊の恐ろしい度や有名度なんかで、なんとか三大を選ぶ事ができるわけで・・・

天神祭りは、上記の三大怨霊の一人の天神さんこと菅原道真(すがわらのみちざね)の鎮魂・・・雷神となって京の都を揺るがす大怨霊です。

そして神田祭は、これまた三大怨霊の一人で、京都に晒された首が唸りをあげて東京まで飛んで行っちゃった平将門(たいらのまさかど)です。

そしてご存知のように、祇園祭>>牛頭天王こと須佐之男命(すさのおのみこと)・・・神代の昔から恐れられる荒ぶる神で怨霊の親玉みたいな方ですからね。。。(大将軍神社も参照>>)

まぁ、とにもかくにも、人は「三大〇〇」が大好きですわ!

とは言え、
ついでに付け加えると…

★幕末四大人斬り
 ●河上彦斎>>
 ●岡田以蔵>>
 ●中村半次郎(桐野利秋)>>
 ●田中新兵衛>>
なんてのも、ある・・・

確かに、戦国時代には
「〇〇四天王」てのも多いですな~

ただし
龍造寺四天王>>
は5人いてる。。。

って、結局は何でもアリなのかも知れんけど(^o^;)アセアセ

とにもかくにも、
最近では、「ウィキペディア3大文学」なんていうのも「読みだしたら止まらない」と話題になってるそうですから、この先もどんどん「三大〇〇」は生まれそうですね。
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2021年7月15日 (木)

上杉VS北条…後の河越夜戦につながる河越城の戦い

 

天文六年(1537年)7月 15日、北条氏綱武蔵河越城を攻め落とされた上杉朝定が松山城に敗走しました。

・・・・・・・・・

関東に本拠を持ちながら京都にて幕府を開いた初代室町幕府将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)が、嫡男の義詮(よしらきら)の家系に将軍職を継がせ、四男の基氏(もとうじ)を派遣して、その基氏の家系に関東支配をさせたのが鎌倉公方(かまくらくぼう)・・・(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

しかし、やがて京都の将軍と距離を置き、独自の路線を歩み始める鎌倉公方は、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代公方=足利持氏(もちうじ)の時に衝突し、将軍=幕府は関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐・執事)上杉家とともに持氏を滅ぼします永享の乱:2018年2月10日参照>>)

しばらくの公方空席の後、ほとぼりが冷めた頃に幼い足利成氏(しげうじ=持氏の遺児)が鎌倉公方に任命されますが、やがて成長した成氏は父と同じ道を歩み始めて関東は大混乱・・・

そのため、幕府は新たな鎌倉公方として義教の弟である足利政知(まさとも)を関東に派遣しますが、混乱で鎌倉に入れない政知は伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まり、以後、堀越公方(幕府公認)と呼ばれます。

一方、やはり混乱で鎌倉へ戻れなくなった成氏は古河(こが=茨城県古河市)本拠を置き、コチラは古河公方(無許可)を名乗ります。

そんな中、ここに来て、駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(うじちか)の右腕として台頭して来た北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の叔父)が、延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年) に堀越公方を倒して伊豆討ち入り・10月11日参照>>)関東支配に乗り出して来ます。
 【小田原城奪取】>>
 【立河原の戦い】>>
 【相模を制覇】>>

一方の古河公方は、ただでさえヤバイ状況なのに、成氏の後を継いで2代目古河公方となった足利政氏(まさうじ)の息子同志がモメて、兄の高基(たかもと)に対抗すべく、弟の義明(よしあき)が家出独立して小弓(おゆみ=千葉市中央区)に本拠を置き、小弓公方(無許可の無許可)を名乗りはじめます(6月23日参照>>)

Houzyouuzituna300a この状況に、大永元年(1521年)2月、兄の高基は、早雲亡き後に2代目を継いでいた息子の北条氏綱(うじつな)に、自身の息子=足利晴氏(はるうじ)と氏綱の(芳春院)との結婚話を打診・・・

とうとう古河公方も北条になびきはじめた大永四年(1524年)、氏綱は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ=関東管領家)上杉朝興(うえすぎともおき)から武蔵江戸城えどじょう=東京都千代田区)を奪ったのです(1月13日参照>>)

その後、岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区)板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)などを次々と落とされ、江戸へと戻れなくなった上杉朝興は、やむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に身を置く事になります。

さらに朝興は、北条に対抗すべく、これまでワチャワチャやってた同族の山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)や古河公方の高基、小弓公方の義明とも和睦し、甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)をも味方につけ、河越城を拠点として、江戸を奪回すべく、この後しばらくは、何度も北条と刃を交える事になります。

 大永六年(1526年)5月~6月には蕨城(わらびじょう=埼玉県蕨市)で、
9月には小沢城(おざわじょう=神奈川県川崎市多摩区)
享禄二年(1529年)11月に玉縄城(たまなわじょう=神奈川県鎌倉市)
翌享禄三年(1530年)の正月には世田谷城(せたがやじょう=東京都世田谷区)や江戸城周辺で合戦や焼き討ち、
6月には多摩川河畔にて激戦となり、氏綱嫡子の北条氏康(うじやす)初陣の功名を挙げたとか・・・

この間の両者の戦いは複数の史料にいくつか残るものの、それぞれの内容がまちまちでハッキリとはしないのですが、

とにもかくにも天文六年(1537年)4月27日に50歳で病死する上杉朝興が、その死に際に「氏綱とは、すでに14回に渡って戦った」と言っていた『北条記』らしいので、やはり、何度も衝突を繰り返していたのでしょう。

この時、朝興の嫡子であった上杉朝定(ともさだ)は、未だ13歳と幼く、朝興弟の朝成(ともなり)が後見人となり、おそらく二人は朝興の死を目の当たりにしながら、その遺志を継ぐ事を誓い合ったのでしょう。

…というのも、この、朝興の死から、わずか2ヶ月後の6月20日、上杉朝定と朝成は、神太寺の古城=深大寺城(じんだいじじょう=東京都調布市)を修理&整備して氏綱と対峙の姿勢を見せるのです。

これを受けた氏綱は、7月11日、配下の諸将を召集し、その軍勢を五手に分けた約7000騎を率いて、河越城から五十余町(約5km)ほど離れた入間郡三木(いるまぐんみき=埼玉県狭山市)まで出張ります。

かくして天文六年(1537年)7月 15日、上杉朝定と上杉朝成は、配下の武蔵(むさし=東京&埼玉・神奈川の一部)上野(こうずけ=群馬県)の軍勢約2000余騎で以って、北条氏綱の軍を迎え撃つ事となります。

両者入り乱れての激しい戦いとなりますが、そんな中で深入りした朝成は、不覚にも生け捕られてしまい、上杉側には約700余名の討死が出てしまいます。

この状況に朝定は、やむなく河越城を捨て、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)の守る松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)へと逃走しました。

さらに、その5日後には、その松山城を攻める氏綱・・・と、このお話は「松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)のエピソードでの難波田さんがカッコイイので、くわしく書いた2019年7月20日のページ後半部分>>でどうぞm(_ _)m
(戦いまでの経緯も書いてますので前半部分の内容が丸カブリです…スミマセン)

というわけで、ここで、河越城を手にした北条氏綱・・・城代に北条綱成(つななり)を置きました。

これにて北条氏綱は、
翌年の天文七年(1538年)には小弓公方の足利義明を倒し国府台合戦・10月7日参照>>)、さらに翌年の天文八年(1539年)11月には古河公方を継ぐ足利晴氏と娘の婚姻が成立(11月28日参照>>)関東管領並みの扱いを受ける事になるのですが・・・

その氏綱が天文十年(1541年)7月に病死し、その後を北条氏康が継いだ頃から、古河公方&北条の蜜月期間も終了となり、足利晴氏は、かの上杉朝定や上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とつるんで、やがて彼らは一丸となって、北条に奪われた河越城を取り返しに来るわけで・・・

しかし、これを頼もしき3代目=氏康が迎え撃つ・・・これが天文十五年(1546年)4月=戦国三大奇襲に一つに数えられる河越夜戦(4月20日参照>>)という事になります。
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2021年7月 6日 (火)

桶狭間での独立から約一年~徳川家康の長沢の戦い

 

永禄四年(1561年)7月6日、小原鎮吉らの守る長沢城を徳川家康が落城させました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(5月19日参照>>)のドサクサで、長きに渡る今川の人質生活を脱して岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)にて独立を果たした徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)
(【桶狭間の戦いでの家康】参照>>)

一方、織田信長(おだのぶなが)による桶狭間の奇襲で命を落とした今川義元(いまがわよしもと)今川家は、息子の今川氏真(うじざね)が後を継ぐも、海道一の弓取りと称された大黒柱を失った事に、これまで大大名である今川の傘下に納まっていた西三河(にしみかわ=愛知県中部)諸将たちも動揺を隠せませんでした。

しかし、そんな中でも、亡き義元から信頼され、吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市:今橋城)花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市)等の城代を任されていた小原鎮実(おはらしげざね=大原資良と同一?)は、揺るぐことなく氏真に仕えていた今川家臣の一人でした。

そんな小原鎮実の息子(『改正三河後風土記』による)であった小原鎮吉(しげよし)が、当時、糟屋善兵衛(かすやぜんべえ)らとともに守っていたのが三河長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)でした。

Tokugawaieyasu600 上記の通り、永禄三年(1560年)に独立した家康は、その直後から、この長沢城を奪うべく、配下の松平信一(まつだいらのぶかず=家康の祖父の従兄弟)石川家成(いしかわいえなり=石川数正の叔父)らに命じて、度々の攻撃を仕掛けていたのです。

そんなこんなの永禄四年(1561年)7月6日、その戦いは偶然に起こります。

この日、長沢城の近くを通過する事になった家康は、
「敵の襲撃をうけるかも知れない」
と警戒して、自軍を二手に分けて、行軍する事にします。

ところが、その時、偶然、長沢城の城内で火災が起こり、城内が騒がしくなるのですが、その様子を見て取ったのが、山下を通過中の德川の一手・・・

「すわっ!これは山南を行く、もう一手が、城に火を放ったに違いない!
 すぐに加勢せねば!」
と急ぎます。

ところが、一方の山南を行く旗本衆の一手も
「やれ!城攻めが始まったぞ!
 我らも行かねば!」
と・・・

お互いに勘違いながらも、猛烈な攻撃が、ほぼ同時に開始され、とうとう、城を落としてしまうのです。

もちろん、守る小原鎮吉らも奮戦しますが、鎮吉は家康の家臣=渡辺守綱(わたなべもりつな)によって討ち取られ、糟屋善兵衛は、やむなく城を抜け出して、今川の本拠地である駿河(するが=静岡県東部)へ向けて落ちていきました。

また、後日の今川氏真の書状によれば、この戦いに関連した合戦が、嵩山(すせ=愛知県豊橋市周辺)市場口(いちばぐち=愛知県豊田市周辺)方面でも展開されたようです。

偶然かつ史料もあやふやな長沢の戦いではありますが、この永禄四年(1561年)から、西三河における今川家の影響力が著しく低下し、徐々に西三河周辺&東三河(ひがしみかわ=愛知県東部)の諸将たちもが松平=徳川家康になびくようになっていくのが見てとれますので、ある意味ラッキーサプライズであったのかも知れません。

この後の家康は、約半年後の永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)を結び(1月15日参照>>)、そのすぐ後には上ノ郷城(かみのごうじょう=愛知県蒲郡市 )襲撃して、今川領に残して来た妻子(築山殿&信康&亀姫)を取り戻(2月4日参照>>)・・・と、着々と三河での地盤を固めていく事になります。

Ieyasunagasawa
「家康と長沢の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

ところで、
そもそもの長沢城については、今川一族の関口(せきぐち)が文安年間(1444年~1449年)に構築して長沢直幸(ながさわなおゆき)が城主を務めていたのを応仁の乱の頃(1467年頃)に西三河の有力武将であった松平信光(まつだいらのぶみつ)が落とし、息子の松平親則(ちかのり)を入城させ、この親則が長沢松平家(ながさわまつだいらけ)の祖となったとされているのですが・・・

一方で、それには異説もあり、よくわかっていないですが、

今回の長沢の戦い以降は、家康の従兄弟で義弟でもある松平康忠(やすただ=母が家康の叔母で正室が家康の妹)が入城し、さらに、養子に入った家康の息子=松平忠輝(ただてる)が当主となって、やはり長沢松平家と呼ばれるようになるのですが、この方がほどなく改易となってしまうため(7月3日参照>>)わずかの間に家名が断絶してしまう事が、何とも悲しい限り・・・

以後は、長沢松平家の分家を継いだ松平正綱(まさつな)(6月22日参照>>)の家系が隆盛を誇る事になり、いつしか、長沢松平家と言えば、コチラの分家の事を指すようになっていったようです。
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