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2021年8月23日 (月)

まもなく関ヶ原~中山道でぶつかる河渡の戦い

 

慶長五年(1600年)8月23日、関ヶ原の戦いで、中山道を西へと進む東軍と、それを阻止しようとする西軍がぶつかった河渡の戦いがありました。

・・・・・・・・

ご存知、関ヶ原の戦いです。
この日までの経緯は・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、朝鮮出兵の時に率先して戦った武闘派(ぶとうは)と事務方だった文治派(ぶんじは)の間に入った亀裂が、約1年後、御大前田利家(まえだとしいえ)の死をキッカケに武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件によって表面化(3月4日参照>>)・・・

五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が何とか納めたものの、石田三成は謹慎処分となる一方で、なんだかんだで、もはや豊臣家臣のトップとなった家康は、自身は徐々に秀吉の遺言(8月9日参照>>)を無視しつつ、逆に豊臣恩顧の大名には、ちょっとした行動でイチャモンつけるように・・・

謀反の疑いをかけられた加賀(かが=石川県西南部)前田利長(としなが=利家の息子)は、母のまつ江戸に人質に出して、何とか回避しますが(5月17日参照>>)、同じく謀反の疑いをかけられた会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)屈せず(4月14日参照>>)・・・

そこで家康は、上杉を討伐すべく慶長五年(1600年)6月18日、豊臣政権の大老として、大軍を率いて会津征伐へと向う事になります。

この家康の出兵は、現在では三成をおびき出す(三成に先にこぶしを挙げさせる)ための作戦だった?とも言われてますが、それは今後の状況を知ってる後世の人間だからわかる事で、この時点では、やはり、この家康の会津遠征を「チャンス」と見た三成が、

すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻すして、(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走ってもらい(7月14日参照>>)、家康に対抗できるコチラ側の総大将として毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に入ってもらい(7月15日参照>>)、いよいよ7月17日、三成は、13項目に及ぶ『内府ちがひの条々』(家康が行った亡き秀吉との約束破りを告発する書状)を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告したわけです。(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)

かくして最初の戦いとなったのは、
7月18日:高取城の攻防>>
以下、
7月19日~:伏見城の攻防・開始>>
7月21日~:田辺城の攻防・開始>>
7月25日:家康が小山評定>>にて
     会津征伐を中止し西に戻る事を表明
8月10日:三成が西軍本拠となる大垣城に着陣>>
8月11日:戻って来た東軍先鋒が岡崎城へ入城>>
8月16日:東軍が苗木城を奪取>>
     東軍が福束城を奪取>>
8月19日:東軍が南美濃の諸城を奪取>>
8月22日:東軍が竹ヶ鼻城を奪取>>

と、西へ戻る東軍が、西軍方の諸城を次々と落としていく中、西軍の織田秀信(おだひでのぶ=信長の孫・三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を東軍の福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)らが落としたのが、慶長五年(1600年)8月23日の朝の事でした(8月22日参照>>)

この間も、大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)にて東軍の動向を逐一報告を受けていた三成は、竹ヶ鼻城を落とした東軍が、大垣に来襲するかも・・・と、島津義弘(しまづよしひろ)を長良川西岸に位置する墨俣(すのまた=大垣市安八郡)に派遣して美濃路を備え、自らも小西行長こにしゆきなが)とともに大垣城を出て揖斐川(いびがわ)右岸の沢渡(さわたり=大垣市東町)に布陣します。

しかし、8月22日に、岐阜城勢が米野(こめの=岐阜県羽島郡)での戦いに敗れた事を知り、東軍が、そのまま岐阜城を無視して、一気に西に向かって来るかも知れないとの考えから、舞兵庫(まいひょうご)を一軍の将として約1000の兵をつけ、長良川西岸の河渡(ごうど=岐阜県岐阜市・合渡)に向かわせました。

河渡は中山道の宿場町ですから、西へと進む東軍勢が中山道を通った場合、ここで食い止める事ができます。

Goudonotatakai
「河渡の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

一方、上記の通り、22日~23日にかけての攻撃で、23日朝に岐阜城を落とした東軍は、おそらく垣城から岐阜城への救援が来るものと予想し、黒田長政(くろだながまさ)田中吉政(たなかよしまさ)藤堂高虎(とうどうたかとら)らが率先して、この援軍を阻止せんと中山道を西へと進みます。

で、この東軍の彼らが、長良川東岸に到着した時には、上記の通り、すでに西岸に舞兵庫らが布陣していたわけです。

しかし、この時、(西軍にとっては運悪く)川面には霧が立ち込めていて、西軍の兵は対岸に東軍が到着した事に気づけず、一部の兵は朝食をとっていたのです。

「向こうは気づいてない」
と察した東軍は、「今が好機」とばかりに、一斉に銃撃を開始・・・田中隊が、いきなり川を渡って奇襲をかける一方で、黒田隊は少し下流の位置から川を渡り、宿場の西側に迂回して舞兵庫の本陣に突撃します。

突然の攻撃に驚いた西軍は、持ちこたえる事が出来ず、やむなく後退・・・西軍の殿(しんがり=軍の最後尾)を務めた杉江勘兵衛(すぎえかんべえ)討死するも、何とか一軍は大垣を目指して敗走して行きました。

一方、墨俣の島津隊を警戒する藤堂隊は、 さらに一里(=約4km)ほど下流にて川を渡って黒田隊&田中隊と呼応しつつ、更なる西へと進撃し、この日は揖斐川の左岸で宿営しました。

こうして、河渡の戦いで西軍を破った黒田隊・田中隊・藤堂隊・・・

翌24日には、中山道をさらに西へ進み、赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)に着陣し、

ほどなく岐阜城を落とした福島隊や池田隊も赤坂に到着し、以後しばらくは、この赤坂が東軍の拠点となり、未だ西軍についている周辺の諸城を攻略しつつ、まもなく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出発して来るであろう徳川家康(9月1日【家康出陣】参照>>)の本陣の準備をする事になります。

ご存知のように、このあとも、本チャンの関ヶ原までは、まだイロイロあるんですが、
それら関ヶ原の戦いの全体の流れについては…
【関ヶ原の戦いの年表】>>からどうぞm(_ _)m
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2021年8月18日 (水)

六角からの脱却~浅井長政の野良田の戦い

 

永禄三年(1560年)8月18日、それまで、ほぼ主従関係にあった六角氏浅井長政が勝利する野良田の戦いがありました。

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祖父=浅井亮政(あざいすけまさ)下剋上により(3月9日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)守護(しゅご=県知事)であった主筋の京極(きょうごく)の追い落としに成功した浅井氏・・・

しかし、京極氏とは同族で、浅井が京極に取って代わる事をヨシとしない南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)の守護=六角(ろっかく)は、度々浅井と敵対・・・

その戦いに苦戦した亮政の息子=浅井久政(ひさまさ)は、やむなく六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・

息子の浅井長政(ながまさ=つまり亮政の孫)が元服する頃には、六角家臣である平井定武(ひらいさだたけ)の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いておりました。

Azainagamasa600 しかし永禄二年(1559年)、この状況に不満を持つ浅井家臣らが、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

父・久政は、家臣らによって隠居させられて竹生島(ちくぶじま=琵琶湖に浮かぶ島)に追放されてしまいます。

こうして、わずか15歳で浅井家を率いる事になったた長政・・・目標は、もちろん六角の呪縛からの脱却ですが、

当然、これに激おこプンプンの六角義賢は、早速、浅井方の百々盛実(どどもりざね)の守る佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を攻撃します。

しかし、この時は、城を落とす事ができずに退却・・・

そこで、翌永禄三年(1560年)8月に、六角義賢は再び、江北(こうほく=滋賀県北部)に大軍を侵攻させます。

Rokkakuyosikata500 先陣蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)永原重興(ながはらしげおき)進藤賢盛(しんどうかたもり)池田景雄(いけだかげかつ)など、

第二陣田中治部大輔(たなかじぶたいふ)和田惟政(わだこれまさ)などを配置し、義賢自らは馬廻りとともに中軍に位置し、

後陣後藤賢豊(ごとうかたとよ)らで固め、総勢2万5千余騎の大軍となって愛知川(えちがわ)を渡ります。

狙うは、前年の佐和山攻めの後に長政の調略に乗って浅井方に寝返った高野瀬秀隆 (たかのせひでたか)肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市肥田町)です。

実は、義賢は、この高野瀬秀隆の寝返りにメッチャ怒っていて、この4月から、すでに、この肥田城を水攻めにかかっていたのですが、それが、あまり功を奏さず・・・

ここに来て、力攻めで以って、一気に落としてしまおうと考えていたのです。

高野瀬秀隆から、肥田城の急を聞いた長政は、百々盛実・磯野員昌(いそのかずまさ)ら5千余騎を先陣に、

後陣には自らが出馬し、自身の周囲を、赤尾清綱(あかおきよつな)今村氏直(いまむらうじなお)弓削家澄(ゆげいえずみ)安養寺氏秀(あんようじうじひで)ら6千余騎に囲ませ、

計、約1万1千騎で以って永禄三年(1560年)8月18日野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)へと押し出したのです。

宇曽川(うそがわ=湖東地域を流れる)を挟んで、北に浅井軍、南に六角軍。。。 

まずは、浅井の先陣=百々が六角の先陣=蒲生に挑み、一進一退の戦いを約4時間ほど繰り広げたところに、六角二陣の田中らが横からの攻撃を仕掛けたので、

百々勢は崩れて後退し始めたところを、自らは馬を返して衆を励まし奮戦していた百々盛実でしたが、ここでスキを突かれ、蒲生の家臣=結解十郎兵衛(ゆっけじゅうろうべえ)に討たれてしまいます。『武辺咄聞書』『浅井三代記』などによる)

「先陣の大将を討ち取ったぞ~~!」
とばかりに、士気が高まる六角軍が、さらに激しく攻め立てたので、浅井の敗色が濃くなって来ました。

なんせ、もともと2万5千VS1万1千で、数的にも不利な状況・・・

しかし、ここで長政、怯むことなく、安養寺と今村を呼び寄せて戦術の変更を話し合い、兵を2手に分け、安養寺ら1手には勝ちに乗じて突進する蒲生勢を迎え撃たせ、残りの1手は長政自らが精鋭を率いて六角本陣に突入する事に・・・

この時、蒲生勢と奮戦する浅井の1手が、蒲生の一翼を担っていた千種(ちぐさ)の将を討ち取った事で先陣の蒲生勢が戸惑う中、初戦の勝ちに少々の油断していた六角本陣の方に、長政率いる2手目のメンバーが殺到します。

不意の猛攻を防ぎきれぬ六角本陣から、慌てて六角義賢自身が退去し始めた事で、それまで勝ってたはずの六角勢が、総大将の動向につられ、なんと!全軍が敗走の形になってしまったのです。

そのまま、あれよあれよと言う間に、気が付けば、いつしか壊滅状態・・・

浅井も400ほどの戦死者を出してしまいますが、六角方の戦死者は900越えとなって、結果、浅井の勝利となったのです。

この野良田の戦いの勝利にて、浅井は北近江における政治的基盤を確立し、父の久政も戻って来て正式に長政に家督を譲り、長政も六角から与えられていた「賢政」の名を捨て、長政に改名したという事です。
(長政の名は信長の「長」の字…つまり信長と同盟を結んでからの改名の説もあり)

一方の六角氏は、この3年後の永禄六年(1563年)に起こった「観音寺騒動(かんのんじそうどう)と呼ばれる内ゲバ事件(10月7日参照>>)にて、義賢の後を継いだ嫡男の六角義治(よしはる=義弼)が、

居城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を追われる事態(後に戻ります)となり、その弱体化が始まってしまうのです。

さらに、永禄九年(1566年)の蒲生野(がもうの=東近江市野口町・糠塚町周辺)の戦いでの勝利にて、六角との手切れが決定的となった浅井長政は、あの織田信長(おだのぶなが)との同盟を結ぶことになります(7月29日:蒲生野の戦いを参照>>)
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2021年8月11日 (水)

居城を追われた畠山尚順~後継者争いに翻弄された人生

 

永正十七年(1520年)8月11日、名門管領家・畠山氏の畠山尚順が、居城を追われた事を報告する手紙を書きました。

・・・・・・・・

応仁元年(1467年)、将軍家の後継者争いに武家の後継者争いが絡み、日本全国の武将を東西に分けて戦った大乱=応仁の乱(5月20日参照>>)

最初にぶつかって、その大乱の引き金となった戦いが、管領家(かんれいけ=将軍補佐役を引き継ぐ家系)畠山(はたけやま)の後継者争い=従兄弟同士の畠山政長(はたけやままさなが)畠山義就(よしひろ)による御霊合戦(ごりょうがっせん)でした(1月17日参照>>)

Ouninnoransoukanzu2 文明五年(1473年) に、西軍大将山名宗全(やまなそうぜん=持豊)と、東軍大将細川勝元(ほそかわかつもと)が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事もあって、合戦の内容も、徐々に小競り合いばかりのグダグダとなっていく中、文明九年(1477年)になって、両大将の後継者である山名政豊(まさとよ=宗全の孫)細川政元(まさもと=勝元の嫡男)の間に和睦が成立して、約10年渡る大乱に終止符を打ちました(11月11日参照>>)

しかし、これは、あくまで応仁の乱の両大将同士の和解であって、乱に関わった武将たちの後継者争いには、未だ決着はついていないわけで、結局それは、中央の京都で合戦しなくなっただけ・・・今度は、それぞれの武将のそれぞれの領地にて戦いが続いていく事になります。

今回の畠山両家の戦いも、舞台を地元に変えて続けられるのです(7月12日参照>>)

文明十七年(1485年)12月11日に起こった有名な山城の国一揆(やましろのくにいっき)も、この両畠山家の戦いで徴兵されたり田畑を荒されたりする事に我慢できなくなった山城(やましろ=京都府南部)国人(こくじん=地元に根付いた半士半農の武士)たちが、「畠山出てけ!」「税金搾取すんな!」「関所作って金取んな!」を訴えた一揆だったわけです(12月11日参照>>)

それは、延徳二年(1491年)に畠山義就が亡くなっても(12月12日参照>>)、明応二年(1493年)に細川政元が起こした将軍交代(義稙→義澄)クーデター明応の政変(めいおうのせいへん)絡みで畠山政長が自刃しても(4月22日参照>>)、その息子たち=畠山義豊(よしとよ=義就息子)畠山尚順(ひさのぶ=政長息子)によって継続されるのでした。

父=政長の自刃の際、なんとか領国の一つである紀伊(きい=和歌山県)に逃れていた尚順は、同じく政変で第11代足利義澄(よしずみ)に取って代わられたために越中(えっちゅう=富山県)へと逃走していた前将軍の足利義稙(よしたね=当時は義材・後に義尹:義視の息子)と連携をとり、明応八年(1499年)に河内(かわち=大阪府中東部)に侵出し、畠山義豊を死に追いやったものの、細川政元とタッグを組んだ畠山義英(よしひで=義豊の息子)に敗れ、再び紀伊へと逃れました(9月27日参照>>)

永正元年(1504年)に入って、尚順と義英は、一旦は和睦を結ぶのですが、そんなこんなの永正四年(1507年)、かの細川政元が暗殺され(6月23日参照>>)細川家内に養子同士の後継者争いが起きた事で(8月1日参照>>)、両者ともに、またぞろ戦いの渦中に・・・

細川高国(たかくに=備中細川家からの養子)につく尚順と、細川澄元(すみもと=阿波細川家からの養子)についた義英・・・

その高国が、周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけ、亡き政元に追放されていた、あの足利義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で勝利した事により、翌年には足利義稙が将軍に返り咲き、尚順も正式に畠山家の後継の地位を獲得・・・

これで、越中&河内&紀伊の守護になった尚順は、永正十二年(1515年)には河内守護職を息子の畠山稙長(たねなが)に譲り、自らは紀伊の広城(ひろじょう=和歌山県有田郡広川町)に居を構え、越中と紀伊の領国統治に励みます。

その後、永正十七年(1520年)1月には、阿波にて態勢を立て直して三好之長(みよしゆきなが=長慶の祖父か曾祖父)四国勢を率いてやって来た細川澄元腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を落とされ(1月10日参照>>)六角(ろっかく)を頼って近江(おうみ=滋賀県)に逃れる場面もあった細川高国でしたが、4か月後の5月には等持院表(とうじいんおもて=京都市北区)の戦いで勝利し、再び高国が京都を制しています。

そんなこんなの永正十七年(1520年)8月・・・すでに隠居して卜山(ぼくざん)と号していた畠山尚順の身に、それは突然起こります。

尚順自身が永正十七年(1520年)8月11日付けの手紙にて、同盟を結んでいた越後(えちご=新潟県)長尾為景(ながおためかげ=上杉謙信の父)に報告しているので、おそらくは8月上旬に起こったと思われる出来事なのですが・・・

なんと、尚順は、自らの配下の者たちによって、居城の広城を追われてしまうのです。

尚順が「国民」と呼ぶ彼らは、おそらく畠山の内衆&国衆であり国人&土豪(どごう=地侍)と言った人たちですが、彼らからの攻撃を受けて敗北した尚順は、城を捨て、わずか20~30人の手勢とともに、泉州堺(さかい=大阪府堺市)に逃れたというのです。
(※本来「国民」とは大和における春日大社派の地侍の事…【貝吹山城攻防戦】参照>>

その原因はハッキリしないのですが、彼らは広城は襲撃しても、息子=稙長の高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)には、まったく敵対せず、むしろ、その跡目を稙長の弟(複数いるので誰を指名したかは不明)に頼んでいるくらいなのですから、

おそらくは、「畠山が…」というよりは、尚順自身の領国経営に何かしらの不満があった中、上記の細川家のゴタゴタで中央政権が目まぐるしく変わったこのタイミングを絶好の機会と見て、事を謀ったのではないか?と思われます。

その後、尚順は、河内守護代遊佐長教(ゆさながのり)を交渉に向かわせたり、9月25日には、幕府の力を借りて(一応守護ですから…)、幕府から根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)を通じて広城の返還を要求してもらったりもしましたが、いっこうにラチがあかず・・・

翌大永元年(1521年)5月には、梶原(かじわら)なる人物の助力を得て、広城に討ち入るも、散々に討ち負け淡路島(あわじしま=兵庫県)へと落ちて行きました。

それからは、新将軍=足利義晴(よしはる=11代)を推す細川高国を支持する息子=稙長に対し、尚順は、あくまで全将軍=義稙を推しながら、在地勢力からの広城奪回を模索する日々を送りますが、

大永二年(1522年)8月17日広城奪回の願いが叶う事無く、淡路の地で死を迎える事となります。。。享年48

思えば、生まれながらにして、畠山の当主を巡っての争いに身を投じる運命にあり、生涯、その戦いのために費やして来たような人生ですが、唯一の救いは、亡くなる前年に、あの畠山義英と和睦した事でしょうか・・・

まぁ、この時は、すでに広城を追われ、息子とも袂を分かった後なので、それだけで心休まる事は無かったかも知れませんが・・・
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2021年8月 3日 (火)

足利義昭~上洛への道

 

永禄九年(1566年)8月3日、近江矢島に滞在する足利義昭のもとに三好三人衆が軍兵を差し向けた坂本の戦いがありました。

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第12代室町幕府将軍足利義晴(あしかがよしはる)の次男として生まれた足利義昭(よしあき=義秋)は、将軍職の後継者争いを避けるための足利将軍家の慣習に従って幼くして仏門に入り、奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)にて覚慶(かくけい)と号して僧侶としての道を歩んでおりました。

ところが永禄八年(1565年)5月、父の後を継いで第13代将軍となっていた兄の足利義輝(よしてる)が、畿内を掌握していた今は亡き三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の後継である三好義継(みよしよしつぐ=三好長慶の甥)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・岩成友通)、そして彼らに与する松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)らによって暗殺(5月19日参照>>)された事で、その人生が一変します。

Asikagayosiaki600 この時、兄と一緒にいた母や、相国寺鹿苑院(ろくおんいん=京都府京都市上京区)の僧侶だった弟=周暠(しゅうこう=周高・周嵩)も殺され、自らも、興福寺にて幽閉&監視の身となっていた義昭でしたが、

2か月後の7月28日、一色藤長(いっしきふじなが)和田惟政(わだこれまさ)三淵藤英(みつぶちふじひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)兄弟ら、義輝の側近たちの手引きにより、興福寺から脱出し、近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)六角義賢(ろっかくよしかた)の了解を得て、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)にある和田惟政の屋敷(和田城=甲賀市甲賀町和田)に、一旦、身を寄せました(内容カブってますが…7月28日参照>>)

ここで義昭は、自らが将軍になる決意を固めたと言います。

和田の館に約4ヶ月滞在した後、11月21日からは、より京都に近い野洲郡矢島(やじま=守山市矢島町)に移動し、ここを矢島御所と定めて在所とし、自身による室町幕府再興に向けて動き出すのです。

その第一歩は、自分を将軍に担いでくれる強い武将を探す事・・・そう…以前書かせていただいたように、当時、関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みだった越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)支援依頼の手紙を出したのもこの頃です(10月4日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

なぜなら、兄の義輝を殺害した三好&松永派は、すでに、生前の三好長慶が推していた堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)(【堺幕府】参照>>)の息子で、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで=つまり義昭らの従兄弟)第14代将軍にすべく朝廷に働きかけていたわけで、

そんな中で義昭の味方をしてくれる者は、ごくわずか・・・三好勢に対抗して将軍になるためには、彼らに匹敵する力が必要なわけです。

そして翌永禄九年(1566年)2月17日、いよいよ還俗(げんぞく=出家した僧侶から一般人に戻る事)して、足利義秋(よしあき)と名乗ります。

一方、ちょうどこの頃、以前から大和(やまと=奈良県)の支配を巡って筒井順慶(つついじゅんけい)との戦いに明け暮れていた松永久秀(ひさひで)に対し、三好三人衆が筒井側に回った事で、三好と松永の関係が何やらギクシャクし始めていたわけで。。。
【筒井城攻防】参照>>
【大和高田城の戦い】参照>>

これをチャンスと見た義昭は、
管領家で河内(かわち=大阪府南東部)守護の畠山高政(はたけやまたかまさ)能登(のと=石川県北部)守護の畠山義綱(よしつな)若狭(わかさ=福井県西部)守護の武田義統(たけだよしずみ)越前(えちぜん=福井県東部)守護の朝倉義景(あさくらよしかげ)といった、そうそうたるメンバーに、せっせと支援の手紙を書きまくります。

この義昭の動きをけん制すべく、永禄九年(1566年)8月3日三好長逸(みよしながやす)矢島の義昭に向けて軍兵を発し、坂本(さかもと=滋賀県大津市)まで侵攻して来たのです。

これを迎え撃つ義昭・・・この戦いで義昭を支援したのは六角義治(よしはる=義賢の息子・義弼)でした。

六角氏は、この3年前の永禄六年(1563年)に起こったお家騒動=「観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)にて、それまでの威信を失ってしまい、今は、ここぞとばかりに三好側に降る者も多数出てはいましたが、なんだかんだで佐々木源氏の流れを汲む名門・・・まだまだ力は持ってます。

『言継日記』
「足利義秋 三好長逸の兵を近江坂本にて迎え撃ちて これを敗る」
とあるだけで、細かな状況は読み取れないのですが、

とにもかくにも、この戦いでは、六角家臣の奮戦により、見事、三好勢を撃退しています。

そして、ここらへんで、「意外に、義昭の存在って大きいんだなぁ~」と思う出来事が・・・
敵の敵は味方!とばかりに、「三好&義栄」に敵対するコチラ側の諸将たちが近づくのです。

同族の京極(きょうごく)に取って代わった(【箕浦の戦い】参照>>) 事で、長年、浅井(あざい)に敵対心を持っていた六角氏がその浅井長政(あざいながまさ)と和睦したり、

尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)から、再三に渡って美濃(みの=岐阜県南部)への攻撃を受けていた(【新加納の戦い】参照>>)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)斎藤龍興(さいとうたつおき=道三の孫)が、その信長と和睦したり・・・

おそらく、この頃に降って湧いたであろう浅井長政と信長の妹(もしくは姪)お市の方との結婚話には、なんと六角氏の尽力もあったとか・・・

義昭を推す事で一致団結する武将たち・・・

とは言え、その一方で、義昭を奉じて上洛し、三好相手に戦おうという武将が現れる事も、未だ無かったのです。

そこで若狭の武田を頼って、若狭へと向かった義昭でしたが、武田はお家騒動の真っただ中(【国吉城の戦い】参照>>)で何ともならず・・・やむなく、9月には朝倉義景を頼って越前へと移ります。

一方で、義昭のもとに団結した諸将の関係も、刻々と変わる戦国の政情によって、その立場が揺らいでいきます。

翌永禄十年(1567年)8月には、信長が稲葉山城を陥落させて斎藤龍興が美濃を追われ(8月15日参照>>)
10月には奈良で起きた三好と松永の戦闘で東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)大仏殿が炎上(10月10日参照>>)・・・

ところが、この間にも、三好勢が義栄を推しつつ朝廷や幕臣に働きかけていたいた事が功を奏し、
翌永禄十一年(1568年)2月、とうとう朝廷からの将軍宣下を受け、義栄が堺にて、第14代室町幕府将軍に就任してしまったのです。

頼みの六角氏も、ここらあたりで義栄&三好と手を組みます。

万事休す・・・
かと、思いきや、まだ諦めぬ義昭は、ここで、その名を義秋から義昭に変えて心機一転・・・

そして、ここに登場するのが、
幕臣の細川藤孝の中間(ちゅうげん=身の回りの世話係)だった?、
あるいは朝倉義景の家臣だった?
あるいは越前にて寺子屋を開いていた?
あるいは医学の知識で以って一旗上げようとしたいた?
(↑いきなりの登場のため、謎が謎呼び、さまざまな説がある)
この時、越前にいた明智光秀(あけちみつひで)です。

この時点で、すくなくとも40歳前後だと思われる光秀(もっと年上の可能性あり)が、これまた一説には信長の奥さんである濃姫(のうひめ=帰蝶)と従兄弟同士だったとも言われていて、

その縁で光秀が、前年に斎藤家を倒して岐阜に拠点を置いた信長と義昭との仲介役をし、ようやく、義昭は、自らを担いで上洛してくれる武将と出会えたわけです。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えた信長が上洛する・・・お馴染みの場面となります。
(上洛の様子については9月7日のページで>>)

いやはや・・・さすがは戦国。
義昭のもとに一致団結するのも速ければ、また敵対するのも速い・・・

なんたって、このすぐ後、義輝を暗殺した三好義継と、それに加担したかも知れない松永久秀が、上洛した信長に、即座に挨拶しに行って、ちゃっかり織田傘下になっちゃうわけですからね~

めまぐるしく変わる情勢を、しっかり見てないと、戦国は生き抜いていけませんね。
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