居城を追われた畠山尚順~後継者争いに翻弄された人生
永正十七年(1520年)8月11日、名門管領家・畠山氏の畠山尚順が、居城を追われた事を報告する手紙を書きました。
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応仁元年(1467年)、将軍家の後継者争いに武家の後継者争いが絡み、日本全国の武将を東西に分けて戦った大乱=応仁の乱(5月20日参照>>)。
最初にぶつかって、その大乱の引き金となった戦いが、管領家(かんれいけ=将軍補佐役を引き継ぐ家系)の畠山(はたけやま)の後継者争い=従兄弟同士の畠山政長(はたけやままさなが)と畠山義就(よしひろ)による御霊合戦(ごりょうがっせん)でした(1月17日参照>>)。
文明五年(1473年) に、西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)と、東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事もあって、合戦の内容も、徐々に小競り合いばかりのグダグダとなっていく中、文明九年(1477年)になって、両大将の後継者である山名政豊(まさとよ=宗全の孫)と細川政元(まさもと=勝元の嫡男)の間に和睦が成立して、約10年渡る大乱に終止符を打ちました(11月11日参照>>)。
しかし、これは、あくまで応仁の乱の両大将同士の和解であって、乱に関わった武将たちの後継者争いには、未だ決着はついていないわけで、結局それは、中央の京都で合戦しなくなっただけ・・・今度は、それぞれの武将のそれぞれの領地にて戦いが続いていく事になります。
今回の畠山両家の戦いも、舞台を地元に変えて続けられるのです(7月12日参照>>)。
文明十七年(1485年)12月11日に起こった有名な山城の国一揆(やましろのくにいっき)も、この両畠山家の戦いで徴兵されたり田畑を荒されたりする事に我慢できなくなった山城(やましろ=京都府南部)の国人(こくじん=地元に根付いた半士半農の武士)たちが、「畠山出てけ!」「税金搾取すんな!」「関所作って金取んな!」を訴えた一揆だったわけです(12月11日参照>>)。
それは、延徳二年(1491年)に畠山義就が亡くなっても(12月12日参照>>)、明応二年(1493年)に細川政元が起こした将軍交代(義稙→義澄)クーデター=明応の政変(めいおうのせいへん)絡みで畠山政長が自刃しても(4月22日参照>>)、その息子たち=畠山義豊(よしとよ=義就息子)&畠山尚順(ひさのぶ=政長息子)によって継続されるのでした。
父=政長の自刃の際、なんとか領国の一つである紀伊(きい=和歌山県)に逃れていた尚順は、同じく政変で第11代足利義澄(よしずみ)に取って代わられたために越中(えっちゅう=富山県)へと逃走していた前将軍の足利義稙(よしたね=当時は義材・後に義尹:義視の息子)と連携をとり、明応八年(1499年)に河内(かわち=大阪府中東部)に侵出し、畠山義豊を死に追いやったものの、細川政元とタッグを組んだ畠山義英(よしひで=義豊の息子)に敗れ、再び紀伊へと逃れました(9月27日参照>>)。
永正元年(1504年)に入って、尚順と義英は、一旦は和睦を結ぶのですが、そんなこんなの永正四年(1507年)、かの細川政元が暗殺され(6月23日参照>>)、細川家内に養子同士の後継者争いが起きた事で(8月1日参照>>)、両者ともに、またぞろ戦いの渦中に・・・
細川高国(たかくに=備中細川家からの養子)につく尚順と、細川澄元(すみもと=阿波細川家からの養子)についた義英・・・
その高国が、周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけ、亡き政元に追放されていた、あの足利義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で勝利した事により、翌年には足利義稙が将軍に返り咲き、尚順も正式に畠山家の後継の地位を獲得・・・
これで、越中&河内&紀伊の守護になった尚順は、永正十二年(1515年)には河内守護職を息子の畠山稙長(たねなが)に譲り、自らは紀伊の広城(ひろじょう=和歌山県有田郡広川町)に居を構え、越中と紀伊の領国統治に励みます。
その後、永正十七年(1520年)1月には、阿波にて態勢を立て直して三好之長(みよしゆきなが=長慶の祖父か曾祖父)ら四国勢を率いてやって来た細川澄元に腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を落とされ(1月10日参照>>)、六角(ろっかく)氏を頼って近江(おうみ=滋賀県)に逃れる場面もあった細川高国でしたが、4か月後の5月には等持院表(とうじいんおもて=京都市北区)の戦いで勝利し、再び高国が京都を制しています。
そんなこんなの永正十七年(1520年)8月・・・すでに隠居して卜山(ぼくざん)と号していた畠山尚順の身に、それは突然起こります。
尚順自身が永正十七年(1520年)8月11日付けの手紙にて、同盟を結んでいた越後(えちご=新潟県)の長尾為景(ながおためかげ=上杉謙信の父)に報告しているので、おそらくは8月上旬に起こったと思われる出来事なのですが・・・
なんと、尚順は、自らの配下の者たちによって、居城の広城を追われてしまうのです。
尚順が「国民」と呼ぶ彼らは、おそらく畠山の内衆&国衆であり国人&土豪(どごう=地侍)と言った人たちですが、彼らからの攻撃を受けて敗北した尚順は、城を捨て、わずか20~30人の手勢とともに、泉州堺(さかい=大阪府堺市)に逃れたというのです。
(※本来「国民」とは大和における春日大社派の地侍の事…【貝吹山城攻防戦】参照>>)
その原因はハッキリしないのですが、彼らは広城は襲撃しても、息子=稙長の高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)には、まったく敵対せず、むしろ、その跡目を稙長の弟(複数いるので誰を指名したかは不明)に頼んでいるくらいなのですから、
おそらくは、「畠山が…」というよりは、尚順自身の領国経営に何かしらの不満があった中、上記の細川家のゴタゴタで中央政権が目まぐるしく変わったこのタイミングを絶好の機会と見て、事を謀ったのではないか?と思われます。
その後、尚順は、河内守護代の遊佐長教(ゆさながのり)を交渉に向かわせたり、9月25日には、幕府の力を借りて(一応守護ですから…)、幕府から根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)を通じて広城の返還を要求してもらったりもしましたが、いっこうにラチがあかず・・・
翌大永元年(1521年)5月には、梶原(かじわら)なる人物の助力を得て、広城に討ち入るも、散々に討ち負けて淡路島(あわじしま=兵庫県)へと落ちて行きました。
それからは、新将軍=足利義晴(よしはる=11代)を推す細川高国を支持する息子=稙長に対し、尚順は、あくまで全将軍=義稙を推しながら、在地勢力からの広城奪回を模索する日々を送りますが、
大永二年(1522年)8月17日、広城奪回の願いが叶う事無く、淡路の地で死を迎える事となります。。。享年48
思えば、生まれながらにして、畠山の当主を巡っての争いに身を投じる運命にあり、生涯、その戦いのために費やして来たような人生ですが、唯一の救いは、亡くなる前年に、あの畠山義英と和睦した事でしょうか・・・
まぁ、この時は、すでに広城を追われ、息子とも袂を分かった後なので、それだけで心休まる事は無かったかも知れませんが・・・
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コメント
はじめまして
この時に交渉に向かった河内守護代は遊佐長教ではなくその父の順盛ですよ。
投稿: HNOR | 2021年9月13日 (月) 12時58分
HNORさん、こんばんは~
確か、『上杉家文書』に残る為景宛ての手紙の中で「遊佐長教に交渉させてる」的な事が書いてあったと記憶しているのですが、記憶違いかも知れませんね。
調べなおして確かめてみたいので、何でご覧になったか出典をお知らせくだされば幸いです。
ただ、お父さんの順盛さんは永正八年(1511年)の船岡山で亡くなってるはずなのですが…そこのところも含めて確認してみたいです。
投稿: 茶々 | 2021年9月14日 (火) 02時26分