足利義昭~上洛への道
永禄九年(1566年)8月3日、近江矢島に滞在する足利義昭のもとに三好三人衆が軍兵を差し向けた坂本の戦いがありました。
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第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる)の次男として生まれた足利義昭(よしあき=義秋)は、将軍職の後継者争いを避けるための足利将軍家の慣習に従って幼くして仏門に入り、奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)にて覚慶(かくけい)と号して僧侶としての道を歩んでおりました。
ところが永禄八年(1565年)5月、父の後を継いで第13代将軍となっていた兄の足利義輝(よしてる)が、畿内を掌握していた今は亡き三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の後継である三好義継(みよしよしつぐ=三好長慶の甥)と三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・岩成友通)、そして彼らに与する松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)らによって暗殺(5月19日参照>>)された事で、その人生が一変します。
この時、兄と一緒にいた母や、相国寺鹿苑院(ろくおんいん=京都府京都市上京区)の僧侶だった弟=周暠(しゅうこう=周高・周嵩)も殺され、自らも、興福寺にて幽閉&監視の身となっていた義昭でしたが、
2か月後の7月28日、一色藤長(いっしきふじなが)に和田惟政(わだこれまさ)に三淵藤英(みつぶちふじひで)& 細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)兄弟ら、義輝の側近たちの手引きにより、興福寺から脱出し、近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)の六角義賢(ろっかくよしかた)の了解を得て、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)にある和田惟政の屋敷(和田城=甲賀市甲賀町和田)に、一旦、身を寄せました(内容カブってますが…7月28日参照>>)。
ここで義昭は、自らが将軍になる決意を固めたと言います。
和田の館に約4ヶ月滞在した後、11月21日からは、より京都に近い野洲郡矢島(やじま=守山市矢島町)に移動し、ここを矢島御所と定めて在所とし、自身による室町幕府再興に向けて動き出すのです。
その第一歩は、自分を将軍に担いでくれる強い武将を探す事・・・そう…以前書かせていただいたように、当時、関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みだった越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)に支援依頼の手紙を出したのもこの頃です(10月4日参照>>)。
なぜなら、兄の義輝を殺害した三好&松永派は、すでに、生前の三好長慶が推していた堺公方=足利義維(よしつな=義晴の弟)(【堺幕府】参照>>)の息子で、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで=つまり義昭らの従兄弟)を第14代将軍にすべく朝廷に働きかけていたわけで、
そんな中で義昭の味方をしてくれる者は、ごくわずか・・・三好勢に対抗して将軍になるためには、彼らに匹敵する力が必要なわけです。
そして翌永禄九年(1566年)2月17日、いよいよ還俗(げんぞく=出家した僧侶から一般人に戻る事)して、足利義秋(よしあき)と名乗ります。
一方、ちょうどこの頃、以前から大和(やまと=奈良県)の支配を巡って筒井順慶(つついじゅんけい)との戦いに明け暮れていた松永久秀(ひさひで)に対し、三好三人衆が筒井側に回った事で、三好と松永の関係が何やらギクシャクし始めていたわけで。。。
【筒井城攻防】参照>>
【大和高田城の戦い】参照>>
これをチャンスと見た義昭は、
管領家で河内(かわち=大阪府南東部)守護の畠山高政(はたけやまたかまさ)や能登(のと=石川県北部)守護の畠山義綱(よしつな)、若狭(わかさ=福井県西部)守護の武田義統(たけだよしずみ)や越前(えちぜん=福井県東部)守護の朝倉義景(あさくらよしかげ)といった、そうそうたるメンバーに、せっせと支援の手紙を書きまくります。
この義昭の動きをけん制すべく、永禄九年(1566年)8月3日、三好長逸(みよしながやす)が矢島の義昭に向けて軍兵を発し、坂本(さかもと=滋賀県大津市)まで侵攻して来たのです。
これを迎え撃つ義昭・・・この戦いで義昭を支援したのは六角義治(よしはる=義賢の息子・義弼)でした。
六角氏は、この3年前の永禄六年(1563年)に起こったお家騒動=「観音寺騒動(かんのんじそうどう)」(10月7日参照>>)にて、それまでの威信を失ってしまい、今は、ここぞとばかりに三好側に降る者も多数出てはいましたが、なんだかんだで佐々木源氏の流れを汲む名門・・・まだまだ力は持ってます。
『言継日記』に
「足利義秋 三好長逸の兵を近江坂本にて迎え撃ちて これを敗る」
とあるだけで、細かな状況は読み取れないのですが、
とにもかくにも、この戦いでは、六角家臣の奮戦により、見事、三好勢を撃退しています。
そして、ここらへんで、「意外に、義昭の存在って大きいんだなぁ~」と思う出来事が・・・
敵の敵は味方!とばかりに、「三好&義栄」に敵対するコチラ側の諸将たちが近づくのです。
同族の京極(きょうごく)氏に取って代わった(【箕浦の戦い】参照>>) 事で、長年、浅井(あざい)に敵対心を持っていた六角氏がその浅井長政(あざいながまさ)と和睦したり、
尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)から、再三に渡って美濃(みの=岐阜県南部)への攻撃を受けていた(【新加納の戦い】参照>>)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)の斎藤龍興(さいとうたつおき=道三の孫)が、その信長と和睦したり・・・
おそらく、この頃に降って湧いたであろう浅井長政と信長の妹(もしくは姪)のお市の方との結婚話には、なんと六角氏の尽力もあったとか・・・
義昭を推す事で一致団結する武将たち・・・
とは言え、その一方で、義昭を奉じて上洛し、三好相手に戦おうという武将が現れる事も、未だ無かったのです。
そこで若狭の武田を頼って、若狭へと向かった義昭でしたが、武田はお家騒動の真っただ中(【国吉城の戦い】参照>>)で何ともならず・・・やむなく、9月には朝倉義景を頼って越前へと移ります。
一方で、義昭のもとに団結した諸将の関係も、刻々と変わる戦国の政情によって、その立場が揺らいでいきます。
翌永禄十年(1567年)8月には、信長が稲葉山城を陥落させて斎藤龍興が美濃を追われ(8月15日参照>>)、
10月には奈良で起きた三好と松永の戦闘で東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)の大仏殿が炎上し(10月10日参照>>)・・・
ところが、この間にも、三好勢が義栄を推しつつ朝廷や幕臣に働きかけていたいた事が功を奏し、
翌永禄十一年(1568年)2月、とうとう朝廷からの将軍宣下を受け、義栄が堺にて、第14代室町幕府将軍に就任してしまったのです。
頼みの六角氏も、ここらあたりで義栄&三好と手を組みます。
万事休す・・・
かと、思いきや、まだ諦めぬ義昭は、ここで、その名を義秋から義昭に変えて心機一転・・・
そして、ここに登場するのが、
幕臣の細川藤孝の中間(ちゅうげん=身の回りの世話係)だった?、
あるいは朝倉義景の家臣だった?
あるいは越前にて寺子屋を開いていた?
あるいは医学の知識で以って一旗上げようとしたいた?
(↑いきなりの登場のため、謎が謎呼び、さまざまな説がある)
この時、越前にいた明智光秀(あけちみつひで)です。
この時点で、すくなくとも40歳前後だと思われる光秀(もっと年上の可能性あり)が、これまた一説には信長の奥さんである濃姫(のうひめ=帰蝶)と従兄弟同士だったとも言われていて、
その縁で光秀が、前年に斎藤家を倒して岐阜に拠点を置いた信長と義昭との仲介役をし、ようやく、義昭は、自らを担いで上洛してくれる武将と出会えたわけです。
信長上洛の道のり
↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
こうして、永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えた信長が上洛する・・・お馴染みの場面となります。
(上洛の様子については9月7日のページで>>)
いやはや・・・さすがは戦国。
義昭のもとに一致団結するのも速ければ、また敵対するのも速い・・・
なんたって、このすぐ後、義輝を暗殺した三好義継と、それに加担したかも知れない松永久秀が、上洛した信長に、即座に挨拶しに行って、ちゃっかり織田傘下になっちゃうわけですからね~
めまぐるしく変わる情勢を、しっかり見てないと、戦国は生き抜いていけませんね。
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コメント
前・大河ドラマ「麒麟がくる」で詳しく触れていましたね。でも足利義昭が目立って登場したのは過去の大河作品でもあまりないですね。
あと珍しく14代将軍の足利義栄が出ていましたが、セリフがないまま出番が終わったのは驚きました。
明智光秀が一時期朝倉氏の家臣であったという以前の説ですが、これはどこからの資料による説でしょうか?前作では「越前にいた」だけでしたが。
投稿: えびすこ | 2021年8月 8日 (日) 11時42分
えびすこさん、こんばんは~
>明智光秀が一時期朝倉氏の家臣であったという以前の説ですが、これはどこからの資料による説でしょうか?
出典は、
以前は重要視されていた『明智軍記』や『惟任退治記』『川角太閤記』などでは無いでしょうか?
最近は、軍記物よりも日記や手紙の記述が重要視されるようになって来てますから、「朝倉の家臣」というよりは、「単に越前に滞在していた」とされるようになってますね。
ドラマに描かれるような、武将のイメージや出来事は、ほとんど軍記物に書かれている事が多いですね。
あの「敵は本能寺にあり」の名ゼリフも『川角太閤記』ですしね。
現在、再放送中の「黄金の日」」でも、けっこう義昭さん目立ってましたよ。
投稿: 茶々 | 2021年8月 9日 (月) 04時36分