六角からの脱却~浅井長政の野良田の戦い
永禄三年(1560年)8月18日、それまで、ほぼ主従関係にあった六角氏に浅井長政が勝利する野良田の戦いがありました。
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祖父=浅井亮政(あざいすけまさ)の下剋上により(3月9日参照>>)、北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の守護(しゅご=県知事)であった主筋の京極(きょうごく)氏の追い落としに成功した浅井氏・・・
しかし、京極氏とは同族で、浅井が京極に取って代わる事をヨシとしない南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)の守護=六角(ろっかく)氏は、度々浅井と敵対・・・
その戦いに苦戦した亮政の息子=浅井久政(ひさまさ)は、やむなく六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・
息子の浅井長政(ながまさ=つまり亮政の孫)が元服する頃には、六角家臣である平井定武(ひらいさだたけ)の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いておりました。
しかし永禄二年(1559年)、この状況に不満を持つ浅井家臣らが、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・
父・久政は、家臣らによって隠居させられて竹生島(ちくぶじま=琵琶湖に浮かぶ島)に追放されてしまいます。
こうして、わずか15歳で浅井家を率いる事になったた長政・・・目標は、もちろん六角の呪縛からの脱却ですが、
当然、これに激おこプンプンの六角義賢は、早速、浅井方の百々盛実(どどもりざね)の守る佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を攻撃します。
しかし、この時は、城を落とす事ができずに退却・・・
そこで、翌永禄三年(1560年)8月に、六角義賢は再び、江北(こうほく=滋賀県北部)に大軍を侵攻させます。
先陣に蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)・永原重興(ながはらしげおき)・進藤賢盛(しんどうかたもり)・池田景雄(いけだかげかつ)など、
第二陣に田中治部大輔(たなかじぶたいふ)・和田惟政(わだこれまさ)などを配置し、義賢自らは馬廻りとともに中軍に位置し、
後陣を後藤賢豊(ごとうかたとよ)らで固め、総勢2万5千余騎の大軍となって愛知川(えちがわ)を渡ります。
狙うは、前年の佐和山攻めの後に長政の調略に乗って浅井方に寝返った高野瀬秀隆 (たかのせひでたか)の肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市肥田町)です。
実は、義賢は、この高野瀬秀隆の寝返りにメッチャ怒っていて、この4月から、すでに、この肥田城を水攻めにかかっていたのですが、それが、あまり功を奏さず・・・
ここに来て、力攻めで以って、一気に落としてしまおうと考えていたのです。
高野瀬秀隆から、肥田城の急を聞いた長政は、百々盛実・磯野員昌(いそのかずまさ)ら5千余騎を先陣に、
後陣には自らが出馬し、自身の周囲を、赤尾清綱(あかおきよつな)・今村氏直(いまむらうじなお)・ 弓削家澄(ゆげいえずみ)・安養寺氏秀(あんようじうじひで)ら6千余騎に囲ませ、
計、約1万1千騎で以って永禄三年(1560年)8月18日、野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)へと押し出したのです。
宇曽川(うそがわ=湖東地域を流れる)を挟んで、北に浅井軍、南に六角軍。。。
まずは、浅井の先陣=百々が六角の先陣=蒲生に挑み、一進一退の戦いを約4時間ほど繰り広げたところに、六角二陣の田中らが横からの攻撃を仕掛けたので、
百々勢は崩れて後退し始めたところを、自らは馬を返して衆を励まし奮戦していた百々盛実でしたが、ここでスキを突かれ、蒲生の家臣=結解十郎兵衛(ゆっけじゅうろうべえ)に討たれてしまいます。(『武辺咄聞書』『浅井三代記』などによる)
「先陣の大将を討ち取ったぞ~~!」
とばかりに、士気が高まる六角軍が、さらに激しく攻め立てたので、浅井の敗色が濃くなって来ました。
なんせ、もともと2万5千VS1万1千で、数的にも不利な状況・・・
しかし、ここで長政、怯むことなく、安養寺と今村を呼び寄せて戦術の変更を話し合い、兵を2手に分け、安養寺ら1手には勝ちに乗じて突進する蒲生勢を迎え撃たせ、残りの1手は長政自らが精鋭を率いて六角本陣に突入する事に・・・
この時、蒲生勢と奮戦する浅井の1手が、蒲生の一翼を担っていた千種(ちぐさ)の将を討ち取った事で先陣の蒲生勢が戸惑う中、初戦の勝ちに少々の油断していた六角本陣の方に、長政率いる2手目のメンバーが殺到します。
不意の猛攻を防ぎきれぬ六角本陣から、慌てて六角義賢自身が退去し始めた事で、それまで勝ってたはずの六角勢が、総大将の動向につられ、なんと!全軍が敗走の形になってしまったのです。
そのまま、あれよあれよと言う間に、気が付けば、いつしか壊滅状態・・・
浅井も400ほどの戦死者を出してしまいますが、六角方の戦死者は900越えとなって、結果、浅井の勝利となったのです。
この野良田の戦いの勝利にて、浅井は北近江における政治的基盤を確立し、父の久政も戻って来て正式に長政に家督を譲り、長政も六角から与えられていた「賢政」の名を捨て、長政に改名したという事です。
(長政の名は信長の「長」の字…つまり信長と同盟を結んでからの改名の説もあり)
一方の六角氏は、この3年後の永禄六年(1563年)に起こった「観音寺騒動(かんのんじそうどう)」と呼ばれる内ゲバ事件(10月7日参照>>)にて、義賢の後を継いだ嫡男の六角義治(よしはる=義弼)が、
居城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を追われる事態(後に戻ります)となり、その弱体化が始まってしまうのです。
さらに、永禄九年(1566年)の蒲生野(がもうの=東近江市野口町・糠塚町周辺)の戦いでの勝利にて、六角との手切れが決定的となった浅井長政は、あの織田信長(おだのぶなが)との同盟を結ぶことになります(7月29日:蒲生野の戦いを参照>>)。
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