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2021年9月 1日 (水)

未だ謎多き~豊臣秀吉の大坂城

 

天正十一年(1583年)9月1日、羽柴秀吉が大坂城の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(6月2日【本能寺の変】参照>>)後、

いち早く畿内に戻って、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)事により、

少し後れを取った(【石動荒山の戦い】参照>>) 家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)に対して、

信長後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にて、織田重臣の丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を味方につけて、うまく立ち回る事に成功した羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

事実上、織田家臣団のトップを決める事になる賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利して(4月21日参照>>)

本拠の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に退いた柴田勝家を自刃に追い込んだ(4月23日参照>>)のは、天正十一年(1583年)4月24日の事でした。

柴田勝家と組んで秀吉に敵対していた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)も、翌月の5月2日に、秀吉を後ろ盾に信長の後継を狙う織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄・信長の次男)追い詰められて自刃します(5月2日参照>>)

勝家&信孝に味方して長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)で籠城して孤軍奮闘していた滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)、彼ら亡き今、この7月に降伏しました。

こうして、
もはや織田家の後継は、あの清須会議で後継者と定められた幼い三法師(さんほうし=後の織田秀信・信長の孫)現時点で秀吉に丸め込まれ中の信雄のみだし、重臣の丹羽&池田は味方だし・・・

てな事で、天正十一年(1583年)9月1日、秀吉は、いよいよ大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)の築城を開始するのです。

いよいよ…と書いたのは、この少し前、秀吉は、自身の手紙の中で、
「大坂を受け取り候て
 人数入れ置き
 国々城割り候て
 これ以後無法無き様に致し申し候て
 五十年も国々鎮まり候様に申し付け候」
と・・・

つまり、
「大坂を本拠として、戦いの無い平和な世を作る」
との並々ならぬ決意を語っているから・・・

これまでも秀吉は、いくつか城を構築してはいますが、この決意を見る限り、まさに天下統一を見据えた国家の政庁としての城が、この大坂城であった事が伺えます。

その場所は、現在も大阪城が建つ、あの場所で、それ以前は、信長と約10年に渡る戦いを繰り広げた一向一揆(いっこういっき)(8月2日参照>>)の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ)が建っていた場所でした(【春日井堤の戦い】参照>>)

ちなみに、かつては本願寺は京都の山科に本拠を構えていましたが、日蓮宗や法華宗との戦い(【山科本願寺の戦い】参照>>)で山科を追われた時に移った先が、中興の祖と言われる蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた石山御坊(いしやまごぼう)で、以後、ここを石山本願寺として一向宗の拠点としていたのでした。

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「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵) 

あの『信長公記』にも、ここは
「日本一の境地なり」
と表現されているように、この場所は、奈良京都にも近く、淀川大和川などの大河に守られつつ、そこから派生して縦横無尽に走る川に囲まれていながら(↑の通り、当時の大阪平野は未だ海っぽかった)

この建造予定の場所だけは神代から陸地だった上町台地という高台となるわけで、

守りに強く、外国からの大船にも対応できるし、もちろん貿易にも有利な、まさに日本一の場所だったわけです。

おそらく、信長もそのつもりであり、もし本能寺で倒れなければ、彼もまた、この場所に城を構築していた事でしょうね。

とにもかくにも、そんな天下の一等地に、上記のような意気込みで構築する城・・・まして、秀吉の城づくりを見る限り、それは戦う城というよりも見せる城なんですから、巨大かつ豪華絢爛でなくてはなりません。

そう、
「こんなスゴイの建てる人と戦って勝てるワケない」
と思わせるような城でなくては。。。

もちろん、工事は天下普請(てんかぶしん)・・・一般的には、江戸幕府が始まってから、徳川将軍が全国の諸大名に命令して行わせた土木工事の事を天下普請と言いますが、

吉田兼見(よしだかねみ)の書いた『兼見卿記』によれば、大名たちだけでなく公家にも負担が課されたというし、
『イエズス会日本年報』によれば、連日5万名に及ぶ人々が従事していたと言いますから、やはり、これは天下普請。

天正十一年(1583年)9月1日に始まり、まずは3ヶ月後には、三段からなる見上げるような石垣の天守台が完成し、この先、その上に建つであろう五重の大天守は、黄金の装飾がふんだんに用いられた豪華な造り・・・

その構築と同時に、周囲は、石山本願寺の遺構を組み込みつつ、本丸から二の丸を二重の堀が囲み、さらに秀吉の邸宅となる奥御殿から、政庁となる表御殿が建造され、草庵や茶室が点在する山里曲輪(やまざとくるわ)と進み、

Toyotomioosakazyoukamae 一方では、北に淀川、東に平野川猫間川を天然の外堀とし、そこに城下町を取り込んだ総構(そうがまえ)横堀(現在の東横堀川)が開削され、南には空堀(からほり)が掘られていきます。
(現在の大阪城の4~5倍くらいか?→)

天正十四年(1586年)の4月に、今まさに建築中の大坂城をおとずれた大友宗麟(おおともそうりん)も、国許(くにもと)への手紙で「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と絶賛してます(4月6日参照>>)

そんな、周囲約8kmに及ぶ巨大な城郭の姿が露わになっのは、文禄三年(1594年)頃・・・最終的な完成に至ったのは慶長三年(1598年)の事でした。

とは言え、秀吉は、天正十三年(1585年)に関白に任ぜられて、関白としての政庁である聚楽第(じゅらくてい=京都市上京区周辺)を建造し(2月23日参照>>)

その関白を退いてからは隠居所として建てた伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)(3月7日参照>>)にいましたし、上記の最終的な完成からわずかしか経たない慶長三年(1598年)の8月に亡くなってしまいます(8月9日参照>>)ので、

実際に秀吉自身が滞在した時間は、現在の私たちが「太閤(たいこう=関白の職を退いた人・ここでは秀吉の事)さんの城」という頭で描くイメージよりは、かなり短かったわけですが、

死の間際には、自分が亡くなった後は一人息子の秀頼(ひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々・秀吉の側室で秀頼の母)が大坂城に入って、五大老の助けを借りながら政権を維持するよう遺言を残していますので、

やはり秀吉にとって、大坂城は天下人の拠点とすべき城だった事でしょう。

しかし、ご存知のように、その大坂城は、五大老筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)の攻撃を受け、慶長二十年(1615年)5月の大坂夏の陣にて炎上&落城してしまいます。(くわしくは【大坂の陣の年表】参照>>)

そして、難儀な事に、勝利した德川家が、豊臣時代の大坂城を縄張りごとスッポリと土で覆ってしまい、

その上に江戸幕府の大坂城を構築してしまったために(1月23日参照>>)(←これが現在の大阪城です)、以来、豊臣時代の遺構は地中深く埋まったままになってしまったのです。

それから約300年・・・
なぜか、すっかり、その事を忘れていた大阪市民。。。

昭和の当時、そこにある大阪城を太閤さんの城と信じて疑わなかった大阪市民は、昭和六年(1931年)、すでに焼失していた天守閣を市民の全面寄付により復興・・・

しかし、それは大坂夏の陣図屏風(11月13日参照>>)に描かれた「豊臣デザインの天守閣を徳川時代の天守台に復興してしまう」という大勘違いだったわけですが(11月7日参照>>)、これも、何事にもおおらかなお笑いの聖地ならではのご愛敬・・・

なんせ、秀吉の大坂城と現在(德川)の大阪城が、別々の縄張りだとわかるのは、第二次大戦後、占領軍から大阪市に変換された事により、昭和三十四年(1959年)に行われた「大坂城総合学術調査」にて・・・

そこでようやく、現在の堀や石垣が豊臣時代の物では無い事が周知されるようになるのです。

最初の簡単な調査で、もともとあった強固な地盤の上に10m以上の盛り土をした上に築城されている事がわかり、さらに本丸・天守閣で行われたコア・ボーリング調査にて地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されたのです。

Dscn4113a_1←コア・ボーリング調査で発見された石垣

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、豊臣時代の物と断定するには至りませんでした。

なんせ、上記の通り、ここはもともと石山本願寺があった場所ですし、近くには大化の改新の時の都だった難波宮跡(12月11日参照>>)もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡でしたから。。。

Oosakazyouhonmarunakai1500a ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家(【中井正清】参照>>)のご子孫のお家から、

豊臣時代の『大阪城本丸図→』が発見され、その図と地下の石垣の位置を照合した結果、

この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定され、現在の大阪城の下には、豊臣時代の大坂城の縄張りが埋まっている事が確定となったわけです。

そして豊臣時代の遺構は、今現在も発掘中・・・

Eggenbergj また、2006年には、オーストリアエッゲンベルグ城の壁に飾られていた絵画(←)が

豊臣期の大坂城を描いた8曲1隻の屏風である事が判明し、その全容解明に一役買った事もありました(9月21日参照>>)

今も毎年のように新たな遺構が発見される大阪城・・・今後の、更なる発見に期待ですね。

ちなみに、天満橋駅京阪東口近くのドーンセンターのビル前には、この下から発掘された三の丸の遺構である石垣が、そのままの状態で地上へと移転されて展示されています。
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↑ドーンセンター前の石垣
(くわしい行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」で>>

ところで、この大阪城は、別名を「金城」あるいは「錦城」と書いて、どちらも「きんじょう」と呼ばれます。

どちらも同じ読みだし、どっちでも良いっちゃぁ良いんですが、個人的には「錦城」の表記が好みです。

不肖私、大阪城を朝な夕なに仰ぎ見る場所で生まれ育ちましたが、出身校の校歌の歌詞も「錦城」で、

愛唱歌には♪淀の流れに姿を映し~錦(にしき)のお城と背丈を競う♪というフレーズもあり、なにより、昭和の天守閣復興時の設計者である古川重春ふるかわしげはる)の著書も『錦城復興期』ですから・・・

信長が(みん=中国)の瓦師だった一観( いっかん)を招いて、安土城の屋根に明風瓦を使用した事は有名ですが、奇抜な事が大好きば秀吉ですから、ひょっとしたら彼も、普通には思いつかないような色の瓦を使っていた可能性も無きにしもあらず・・・

実際には、遺構からは数多くの金箔瓦が出土しており、天守閣の屋根は金箔の瓦で豪華に造られていたんだろうなぁ~と思いますが、その表現は「金ピカ」というよりは、「錦を織りなすような」色であったのでは?と想像している茶々であります。

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大阪城全景

ま、金城湯池(きんじょうとうち)という四字熟語もあり、その「金城」は堅固な城の代名詞でもあるので、結局は、どちらも良い別名なんで、あくまで好みなんですけどね。
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コメント

今後の調査で全容が解明されてくると、当時の城郭の様子(CGなどでの再現図)も今の物とは変化しますね。
織田信長が作った安土城も従来の姿(想像図)とは違い、かなり特異な構造だったらしいとの最近の調査考証です。
最近の大河ドラマでも敷地内の様子(主に本丸内)がそれを反映させているようです。

投稿: えびすこ | 2021年9月12日 (日) 11時41分

えびすこさん、こんばんは~

発掘が進めば、解明される事もある反面、謎も増えるかも知れませんね。

安土城などは、天守台跡が発掘されたいるものの、形がいびつで、その広さと文献等に残る各部屋の広さが一致しないため、「吹き抜け構造だったのでは?」なんて想像されたりしてますが、それも研究者の方によっては違う意見もあり、謎が謎呼んでます。

ま、そこがオモシロイんですが…
豊臣の大坂城も、いつか発掘されるのでしょうか?
ワクワクです。

投稿: 茶々 | 2021年9月12日 (日) 18時50分

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