東北の関ヶ原~長谷堂の戦い…猛将・上泉奏綱=上泉憲元の討死
慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂の戦い=慶長出羽合戦にて上泉奏綱=上泉憲元が討死しました。
・・・・・・・
本日は、『常山紀談(じょうざんきだん)』(1月9日参照>>)に残る上泉憲元(かみいずみのりもと)の長谷堂(はせどう)の戦いでの勇姿をご紹介させていただきますが、
実は、『常山紀談』に、新陰流(しんかげりゅう)の開祖&剣聖と称えられる上泉信綱(のぶつな)(1月16日参照>>)の弟として登場する上泉憲元とは、上泉家の伝承での上泉信綱の孫の上泉泰綱(やすつな)に比定されています。
なので、今回の長谷堂の戦いでの逸話も、一般的には上泉泰綱の話ではあるとされているのですが、今回は『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきますので、本当は上泉泰綱の話かも知れないですが、本文は上泉憲元の名で書かせていただきますm(_ _)m
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上泉憲元が浪人の身となって、京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に身を寄せていた頃、世は、まさに豊臣政権の真っただ中でありました。
この時期に上洛した上杉景勝(うえすぎかげかつ)のお供をして、京都にやって来ていた上杉家執政(しっせい=政務を執る役職)の直江兼続(なおえかねつぐ)が、
「相国寺に剣聖の弟がいる」
と聞き伝えて、
「会いたい」
と言って、彼をもてなしたところ、その立ち居振る舞いを見て一発で気に入り、
「会津(あいづ=福島県西部)は遠いですが、貴殿なら、景勝は3000石の禄(ろく=給料)を差し上げるでしょう」
と上杉家にお誘い・・・
「喜んで!」
と、憲元は、一発内定をゲットします。
やがて迎えた慶長五年(1600年)・・・
ご存知、、、
この年の4月に上杉景勝の上洛拒否(4月1日参照>>)と、直江兼続のケンカ売りまくり直江状(4月14日参照>>)に、「上杉に謀反あり!」と会津征伐を決意した豊臣五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)・・・
でしたが、その北上途中に留守にした伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を、家康と敵対する石田三成(いしだみつなり)らに攻撃(7月19日参照>>)された事を知り、すぐさまUターンして(7月25日参照>>)、三成率いる西軍と戦う事に・・・そう、あの関ヶ原の戦いの勃発です。(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)
家康の攻めを回避した上杉としては、本来なら戻る家康を追撃すべきところなのですが、当主の上杉景勝がそれを許さず・・・ならば!と直江兼続は、このチャンスに、隣国で、東軍の家康を支持している最上義光(もがみよしあき)を潰そうと出羽(でわ=山形県・秋田県)への侵攻を開始・・・最上配下の支城を次々と落として、志村光安(しむらあきやす)の守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)。
長谷堂城内の志村の兵は、わずか1000・・・なれど、周囲には、最上義光の居城=山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から救援に駆け付けた鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)や、義光の要請を受けた伊達政宗(だてまさむね)配下の留守政景(るすまさかげ)などの諸隊が睨みを効かせているうえ、何たってこの長谷堂城はなかなかの堅城で、ぞの城門をピタリと閉めて、上杉軍を寄せ付けない雰囲気を醸し出しています。
この時、上泉憲元は、直江兼続に、
「この先の山形城は、沼に囲まれ何重にも柵を張り巡らしたメッチャ優れた城ですし、最上は先祖代々この地に何百年も住み、地の利もあります。
すでに何10もの支城を落として、コチラの力も見せつけてるので、ここは一旦、下がりませんか?」
と、進言しますが、ヤル気満々の直江兼続は、
「今更、退けるかい!弱気な事を言うな」
と、まったく聞き入れず、9月16日、長谷堂城への総攻撃を開始するのです。
しかし最上方は、連日の上杉からの攻撃に、ある程度ダメージは受けるものの、いずれも決定打には至らず、両者の小競り合いが続きます(このあたりは2009年9月16日のページ参照>>)。
そんなこんなの慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂城側が城下の谷に沿う川をせき止めて水を蓄えていると感じた上杉側が、こっそり物見の兵を差し向け、そのついでに焼働き(放火)をしようとしたところ、城中から完全武装の800ほどの城兵が出て来て暴れ回ったのです。
「今は合戦の時でなはい」
と判断した直江兼続は、(←…て言うても放火しとるけどね)
使者を出して
「今は退け」
と指示をだしますが、両者にらみ合って、誰も退かない・・・てか、行った使者まで帰って来ない。。。
やがて、近づく両者は、いつしか鉄砲を撃ち合い、合戦が始まってしまいます。
それでも兼続は「早く引き揚げられよ!」と命じたところ、上泉憲元が、
「思うとこがあります。私が参りましょう」
と進み出ます。
そこを、上泉の組に属していた大高七左衛門(おおたかしちざえもん)なる武将が馬で書け寄せ、
「侍大将たる者が、ただ一騎で駆け出る事などあってはなりません」
と、止めに入りますが、上泉は聞く耳もたず駆け出したので、やむなく大高も後に従います。
その様子を見ていた前田慶次郎(まえだけいじろう=利益?利太?)(6月4日参照>>)と宇佐美民部(うさみみんぶ)は、すぐさま上泉の陣に向かい、
「一陣の大将が攻めかかろうというのに、ただ見てるだけなんは武士の本意ではないやろ!さぁ、攻めかかれ」
と周囲の者に声をかけるも、誰も憲元らに続こうとしないので、やむなく、前田慶次郎ら、約20騎ばかりが駆け向かいました。
先に突っ込んで行った上泉と大高が、馬から下りて槍を以って敵に突き込むと、瞬く間に城兵内を突破し、敵は後ずさり・・・
「よし!これで良い」
とばかりに、上泉らが引き揚げようとした時、伊達から派遣されていた留守政景の兵・約300ほどが、横合いから斬ってかかります。
一歩も退く気のない上泉は、再び、その新手と合戦に突入・・・もちろん、前田や宇佐美ら剛の者も参戦し、両者入り乱れての戦いを繰り広げました。
やがて、
「日も暮れかかった。これ以上は進めん。引き揚げろ!」
との直江兼続の号令が響きます。
「承知した!」
と上泉・・・しかし、その返答とはうらはらに
「俺は、上泉とう申す剛の者である。我と思わん者は討ち取れ!」
と名乗るが早いか、たちまちのうちに数十人を斬り伏せるも、とうとう、その場で討死をしたのです。
首を取ったのは金原加兵衛(かなはらかへい)なる者・・・上泉憲元、享年34でした。
上泉の討死に勢いづく伊達勢は、乱れた上杉勢を追撃しますが、その先には、未だ無傷の上杉勢が控えていた事、退く兵が何度も取って返して反撃した事で、お互いに負傷者多数・・・結局、両軍ともに退く事となり、この日の戦いは終わりました。
それぞれに7~8本の矢を鎧に受け、槍も刀もボロボロに、人馬ともに血まみれになって戻って来た前田慶次郎ら・・・
そこに控えていた上泉の組の前を通った前田慶次郎は、
「お前ら、大将を見捨てたよな?これからは男や言うな!武士は大高だけや!」
と罵りましたが、誰一人ぐうの音も出なかったのだとか・・・
…にしても、
そもそもは、西で起こっている関ヶ原を意識しての、この東北での戦い・・・
ご存知のように、かの関ヶ原は、去る9月15日に、わずか半日で決着がついて、東軍の徳川家康の勝利となっています。
長谷堂城を囲む直江兼続が、その関ケ原の結果を知るのは、この憲元討死の翌日・・・9月30日の事でした。
もはや勝敗が決まった以上、西軍に与する上杉は全面撤退するしかありません。
その撤退戦は、翌・10月1日から開始されますが、そのお話は【自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退】>>のページでどうぞm(_ _)m
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