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2021年9月29日 (水)

東北の関ヶ原~長谷堂の戦い…猛将・上泉奏綱=上泉憲元の討死

 

慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂の戦い=慶長出羽合戦にて上泉奏綱=上泉憲元が討死しました。

・・・・・・・

本日は、『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)に残る上泉憲元(かみいずみのりもと)長谷堂(はせどう)の戦いでの勇姿をご紹介させていただきますが、

実は、『常山紀談』に、新陰流(しんかげりゅう)の開祖&剣聖と称えられる上泉信綱(のぶつな)(1月16日参照>>)の弟として登場する上泉憲元とは、上泉家の伝承での上泉信綱の孫の上泉泰綱(やすつな)に比定されています。

なので、今回の長谷堂の戦いでの逸話も、一般的には上泉泰綱の話ではあるとされているのですが、今回は『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきますので、本当は上泉泰綱の話かも知れないですが、本文は上泉憲元の名で書かせていただきますm(_ _)m

・‥…━━━☆

上泉憲元が浪人の身となって、京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に身を寄せていた頃、世は、まさに豊臣政権の真っただ中でありました。

この時期に上洛した上杉景勝(うえすぎかげかつ)のお供をして、京都にやって来ていた上杉家執政(しっせい=政務を執る役職)直江兼続(なおえかねつぐ)が、
「相国寺に剣聖の弟がいる」
と聞き伝えて、
「会いたい」
と言って、彼をもてなしたところ、その立ち居振る舞いを見て一発で気に入り

「会津(あいづ=福島県西部)は遠いですが、貴殿なら、景勝は3000石の禄(ろく=給料)を差し上げるでしょう」
と上杉家にお誘い・・・
「喜んで!」
と、憲元は、一発内定をゲットします。

やがて迎えた慶長五年(1600年)・・・

ご存知、、、
この年の4月に上杉景勝の上洛拒否(4月1日参照>>)と、直江兼続のケンカ売りまくり直江状(4月14日参照>>)に、「上杉に謀反あり!」と会津征伐を決意した豊臣五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)・・・

でしたが、その北上途中に留守にした伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を、家康と敵対する石田三成(いしだみつなり)らに攻撃(7月19日参照>>)された事を知り、すぐさまUターンして(7月25日参照>>)、三成率いる西軍と戦う事に・・・そう、あの関ヶ原の戦いの勃発です。(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

家康の攻めを回避した上杉としては、本来なら戻る家康を追撃すべきところなのですが、当主の上杉景勝がそれを許さず・・・ならば!と直江兼続は、このチャンスに、隣国で、東軍の家康を支持している最上義光(もがみよしあき)を潰そうと出羽(でわ=山形県・秋田県)への侵攻を開始・・・最上配下の支城を次々と落として、志村光安(しむらあきやす)の守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

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『長谷堂合戦図屏風』右隻(最上義光歴史観蔵)

長谷堂城内の志村の兵は、わずか1000・・・なれど、周囲には、最上義光の居城=山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から救援に駆け付けた鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)や、義光の要請を受けた伊達政宗(だてまさむね)配下の留守政景(るすまさかげ)などの諸隊が睨みを効かせているうえ、何たってこの長谷堂城はなかなかの堅城で、ぞの城門をピタリと閉めて、上杉軍を寄せ付けない雰囲気を醸し出しています。

この時、上泉憲元は、直江兼続に、
「この先の山形城は、沼に囲まれ何重にも柵を張り巡らしたメッチャ優れた城ですし、最上は先祖代々この地に何百年も住み、地の利もあります。
すでに何10もの支城を落として、コチラの力も見せつけてるので、ここは一旦、下がりませんか?」
と、進言しますが、ヤル気満々の直江兼続は、
「今更、退けるかい!弱気な事を言うな」
と、まったく聞き入れず、9月16日、長谷堂城への総攻撃を開始するのです。

しかし最上方は、連日の上杉からの攻撃に、ある程度ダメージは受けるものの、いずれも決定打には至らず、両者の小競り合いが続きます(このあたりは2009年9月16日のページ参照>>)

そんなこんなの慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂城側が城下の谷に沿う川をせき止めて水を蓄えていると感じた上杉側が、こっそり物見の兵を差し向け、そのついでに焼働き(放火)をしようとしたところ、城中から完全武装の800ほどの城兵が出て来て暴れ回ったのです。

「今は合戦の時でなはい」
と判断した直江兼続は、(←…て言うても放火しとるけどね)
使者を出して
「今は退け」
と指示をだしますが、両者にらみ合って、誰も退かない・・・てか、行った使者まで帰って来ない。。。

やがて、近づく両者は、いつしか鉄砲を撃ち合い、合戦が始まってしまいます。

それでも兼続は「早く引き揚げられよ!」と命じたところ、上泉憲元が、
「思うとこがあります。私が参りましょう」
と進み出ます。

そこを、上泉の組に属していた大高七左衛門(おおたかしちざえもん)なる武将が馬で書け寄せ、
「侍大将たる者が、ただ一騎で駆け出る事などあってはなりません」
と、止めに入りますが、上泉は聞く耳もたず駆け出したので、やむなく大高も後に従います。

その様子を見ていた前田慶次郎(まえだけいじろう=利益?利太?(6月4日参照>>)宇佐美民部(うさみみんぶ)は、すぐさま上泉の陣に向かい、
「一陣の大将が攻めかかろうというのに、ただ見てるだけなんは武士の本意ではないやろ!さぁ、攻めかかれ」
と周囲の者に声をかけるも、誰も憲元らに続こうとしないので、やむなく、前田慶次郎ら、約20騎ばかりが駆け向かいました。

先に突っ込んで行った上泉と大高が、馬から下りて槍を以って敵に突き込むと、瞬く間に城兵内を突破し、敵は後ずさり・・・

「よし!これで良い」
とばかりに、上泉らが引き揚げようとした時、伊達から派遣されていた留守政景の兵・約300ほどが、横合いから斬ってかかります。

一歩も退く気のない上泉は、再び、その新手と合戦に突入・・・もちろん、前田や宇佐美ら剛の者も参戦し、両者入り乱れての戦いを繰り広げました。

やがて、
「日も暮れかかった。これ以上は進めん。引き揚げろ!」
との直江兼続の号令が響きます。

「承知した!」
と上泉・・・しかし、その返答とはうらはらに
「俺は、上泉とう申す剛の者である。我と思わん者は討ち取れ!」
と名乗るが早いか、たちまちのうちに数十人を斬り伏せるも、とうとう、その場で討死をしたのです。

首を取ったのは金原加兵衛(かなはらかへい)なる者・・・上泉憲元、享年34でした。

上泉の討死に勢いづく伊達勢は、乱れた上杉勢を追撃しますが、その先には、未だ無傷の上杉勢が控えていた事、退く兵が何度も取って返して反撃した事で、お互いに負傷者多数・・・結局、両軍ともに退く事となり、この日の戦いは終わりました。

それぞれに7~8本の矢を鎧に受け、槍も刀もボロボロに、人馬ともに血まみれになって戻って来た前田慶次郎ら・・・

そこに控えていた上泉の組の前を通った前田慶次郎は、
「お前ら、大将を見捨てたよな?これからは男や言うな!武士は大高だけや!」
と罵りましたが、誰一人ぐうの音も出なかったのだとか・・・

…にしても、
そもそもは、西で起こっている関ヶ原を意識しての、この東北での戦い・・・

ご存知のように、かの関ヶ原は、去る9月15日に、わずか半日で決着がついて、東軍の徳川家康の勝利となっています。

長谷堂城を囲む直江兼続が、その関ケ原の結果を知るのは、この憲元討死の翌日・・・9月30日の事でした。

もはや勝敗が決まった以上、西軍に与する上杉は全面撤退するしかありません。

その撤退戦は、翌・10月1日から開始されますが、そのお話は【自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退】>>のページでどうぞm(_ _)m
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2021年9月23日 (木)

三浦義同VS三浦時高~養子と養父の新井城の戦い

 

明応三年(1494年)9月23日、三浦時高の拠る新井城に、三浦義同が夜討ちを仕掛けて勝利し、負けた時高が自刃しました。

・・・・・・・・

三浦時高(みうら ときたか)は、平安時代より衣笠城(きぬがさじょう=神奈川県横須賀市)に本拠を置いて三浦半島一帯を支配し、あの源平の合戦の際に、いち早く源頼朝(みなもとのよりとも)を助けた三浦義明(よしあき)(8月27日参照>>)の子孫です。

以来、三浦半島に君臨し、室町のこの頃は新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市三崎町・三崎城とも)の城主を務め、 関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方足利家の補佐役・関東執事)扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)に従い、京都の第6代室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり)の意に従わなくなった鎌倉公方(かまくらくぼう=将軍家から関東支配を任されている足利分家)足利持氏(もちうじ)の討伐(【永享の乱】参照>>)でも活躍したりなんぞして、なかなかの武勇を誇っておりました。

ただ、時高は、なかなか子供に恵まれなかった・・・

おそらく、この時、20代半ばとおぼしき時高は、このままでは由緒正しき三浦が絶えてしまう・・・早く後継を定めねばとの思いがありました。

そこで、扇谷上杉家の現当主であった上杉持朝(もちとも)の信頼も篤かった時高は、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)城主で相模(さがみ=神奈川県)西部を支配していた大森氏頼(おおもりうじより)に嫁いだ妹が氏頼との間にもうけた女の子(つまり時高の姪っ子)を上杉持朝の次男である高救(たかひら)と結婚させて、その高救を三浦家の養子として迎え、後を継いでもらう事にします。

さらに、その二人の間に生まれた息子=義同(よしあつ)養子にして、これで、三浦家は安泰安泰・・・

と、思いきや、世の中なかなか思い通りにはいきません。

この時期、成長した足利成氏(しげうじ=持氏の遺児)が、父=持氏同様に将軍家に反発して関東で大暴れしていた事で、京都の将軍家から新たな鎌倉公方として派遣されて来た足利政知(まさとも=将軍義教の次男)鎌倉に入れないという出来事があったのですが(10月14日の真ん中あたり参照>>)

それが政知の執事である渋川義鏡(しぶかわよしかね)から「三浦と大森がジャマしてるから鎌倉に入れないんじゃないか?」と疑われてしまったために、その潔白を証明すべく、三浦時高は出家して隠居し、家督を高救に譲り、高救が三浦家の当主になる事で、その責めを回避・・・

したは良かったが、なんと、ここに来て時高に実子が誕生・・・

さらに文明十八年(1486年)、高救が三浦家に養子に出た事で実家の扇谷上杉家を継いでいた上杉定正(さだまさ=高救の弟)が忠臣の太田道灌(おおたどうかん)を殺害した事件(7月26日参照>>)に怒った高救が、自らが扇谷上杉を継ぐべく、当主の座を義同に譲って三浦家を去ってしまいます。

Miurayosiatu500as これを受け、三浦家の当主となった三浦義同・・・

これが、なかなかに武勇優れた人で、器量、才覚もあった事から、養子ではあるものの祖母は三浦の女性である事もあって、三浦一門も郎党たちまでもが彼を信頼し、三浦を継ぐにふさわしい人物として納得していたのです。

ところが、納得しなかったのが前当主=時高です。

そう、もともと実子が生まれたからには、実の息子に後を継いでもらいたい気持ちがある中で、それより何より、高救が個人的感情で三浦を出て義同に後継を譲った事が許せない!

時高は、あからさまに義同を疎んじるようになり、ことごとく敵対・・・これには、三浦の家臣たちも何度か諌めはしたものの、とうとう近臣に義同を討つ命を出したとか・・・

この、養父の態度に危険を感じた義同は、すぐさま新井城を出て、祖母の夫である大森氏頼を頼って小田原へ向かい総世寺(そうせいじ=神奈川県小田原市久野)にて剃髪し道寸(どうすん)と号して(ややこしいので名前は義同のままで…)隠居する姿勢を取りながらも、一門の中から自分に賛同してくれる者たちを募り、新井城を攻撃すべく準備を開始したのです。

かくして明応三年(1494年)9月23日、密かに、時高らの拠る新井城に夜討ちをかける義同隊・・・

勝手知ったる城内に、(とき)の声を挙げて一気に乱入する義同側に対し、まさか隠居して身を隠した養子が襲って来るとは考えていなかった城内は、完全に準備不足で、ただただ右往左往するばかり。

新井城はほどなく落ち、義同は、養父の高時と、その実子である高教(たかのり)を自害に追い込んだのです。

この戦いのさ中、城側から相模梅沢(うめざわ=神奈川県中郡二宮町)の住人=中村式部少輔(なかむらしきぶしょうゆう)なる武士が、義同の前に進み出て、
「こは如何に父に向て弓を引事
 八道の罪人ぞや
 汝等が武運頓て盡べし」
(父親に向かって弓引くとは何事や
 そんなもん、八道(人が進むべき道)の罪人やないかい!
 あんたの武運も、やがて尽きる事やろな)
と言い放って、壮絶な討死を遂げたとか・・・

という事ですが、
実のところ、時高父子が、この日この時、この新井城にて自刃したかどうかは、微妙なのです。

結果的に、この後、義同が新井城に拠る事から、一旦、出家した義同が高時父子を討ち取った(もしくは自刃に追い込んだ)事は事実と思われますが、問題は時期・・・

上記の通り、義同は祖母の婚家である大森氏の支援を受けて新井城に夜討ちをかけた事になってますが、当の大森氏頼は、この夜討ち実行日の約1ヶ月前に死去していて、その直後から後継問題でゴタゴタしてたうえに、そのゴタゴタに乗じて北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)小田原城狙いでチョッカイ出してたようで(翌・明応四年(1495年)2月に早雲が小田原城を奪取=参照>>)

後継となった大森藤頼(ふじより=氏頼の次男)は、この時、義義同の支援どころでは無い状態だったはずで、実に疑わしいのです。

というのも、今回ぎ紹介したお話のほとんどが北条側による記録(『北条記』)で、その脚色率高しなんです。

先の中村式部少輔なる武将の最期の捨てゼリフなんかも、おそらくは、この後、義同が、早雲に攻め込まれて、この同じ新井城にて命を落とし(7月13日参照>>)三浦家が滅亡する事を踏まえての伏線感満載です。

なので、すべてを信じるわけにはいきませんが、かと言ってすべてが創作とも言い難く・・・それこそ、今後の新たなる発見に期待ですね。
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2021年9月14日 (火)

関ヶ原前日~本陣勝山にて軍議を開いた家康の思惑は…

 

慶長五年(1600年)9月14日、明日の関ヶ原決戦を控えて、勝山を本営とした徳川家康ら東軍が軍議を開きました。

・・・・・・・・・

いよいよ関ヶ原です。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、豊臣五大老の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として会津討伐に出向いたスキに、これまでの家康の行動に不満を持つ豊臣家臣の石田三成(いしだみつなり)が、家康を告発する『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)家康に宣戦布告し、留守となった伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)を攻撃(7月19日参照>>)した事で火蓋を切った関ヶ原の戦い。。。

一方、それを受けた家康は、会津征伐を中止して西へとUターン小山評定>>)
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

家康につく福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)ら東軍諸将の先発隊が西へ向かう中、迎え撃つべく大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に本陣を構える三成ら西軍。

…で、8月23日に長良川を渡った東軍は、さらに赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)まで進み、ここで御大の家康を待つ事に・・・
(8月23日参照>>:ここまでの流れを少しくわしく書いてます)

Tokugawaieyasu600 かくして、東軍先発隊の西反転から遅れる事1ヶ月・・・

ようやく9月1日に江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出陣した家康は(9月1日参照>>)、9日には岡崎(おかざき=愛知県岡崎市)、13日には岐阜(ぎふ=岐阜県岐阜市)に到着します。

そして翌・慶長五年(1600年)9月14日、朝早くに岐阜を出発した家康は、正午頃に赤坂に到着し、そのまま岡山の本陣に入ります。

岡山は、先の赤坂の南側にあたり、三成が拠る大垣城から見て北西約4kimの場所に位置する小高い丘(標高51m)・・・

先発の諸将が、すでに家康を迎えるべく普請を行っており、総大将が着陣したここから、この岡山が本営となります。

ちなみに、この岡山は、今回の関ヶ原の戦いに家康=東軍が結果的に勝利する事で、この後は「勝山」と呼ばれるようになりますので、ここからは勝山と呼ばせていただきます。

…で、この後、さっそく東軍諸将を集めて、軍議を開く事になるのですが・・・

最初に出たのは、井伊直政(いいなおまさ)池田輝政(いけだてるまさ)らによる、大垣城力攻めの案でした。

一方、本多忠勝(ほんだただかつ)や福島正則らは、大垣城をスルーして西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)が拠る大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に向かう事を主張したとか・・・

この時、家康が1番心配したのが、西軍が大垣城に籠ってしまった事で、今回の戦いが長期に渡る籠城戦になってしまう事・・・「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)を奉じて出陣して来るかも知れない」という事でした。

それだけは避けたい家康は、秀頼が西軍として出陣する前に大坂城を抑えようと考え、軍議では、大垣城には抑えの兵だけを置いて、まずは佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市・三成の本拠)落としてから大坂方面へ向かう事を決定したのです。

さらに、何としても籠城戦を避けて短期決戦したい家康は、この情報を意図的に西軍に流し、彼らを城に籠らせない=つまり、城から出て来て戦うよう仕向けたって事らしい・・・

というのが、この9月14日、関ヶ原本チャンの直前に行われた勝山本営での軍議の内容・・・てな事が、一般的解釈です。

しかし、個人的には、どーも引っかかる・・・(←あくまで個人の見解です)

上記の
「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」
という部分。

これじゃ、まるで、今回の関ヶ原の戦いが「德川VS豊臣」の戦いみたいじゃないですか?

これまで、何度かブログに書かせていただいてますが、私としては、この関ヶ原は、あくまで、豊臣政権内での主導権争い・・・

五大老筆頭である家康についていく派か、
秀頼が若いのを良い事にまるで自分の政権かのように主導する家康に反対する派か、
どちらが主導権を握るかの戦いだったと思っています。

あくまで、この時点では、東西の両方ともが豊臣の配下・・・もちろん、家康の腹の奥には「豊臣を倒して天下を取る」という構想があったかも知れませんが(淀殿に結婚式をドタキャンされた恨みもあるしねww(12月16日参照>>)、それは、家康の心の内だけで、少なくとも、表向きは豊臣配下で秀頼を敵に回す気持ちなど、みじんも見せていなかったはずです。

…でないと、この関ケ原での勝利の後、9月27日に大坂城に入って秀頼と淀殿(よどどの=秀吉の側室で秀頼の母・浅井茶々)謁見し、戦勝報告をするとともに、更なる忠誠を誓い、そのまま西の丸に住む事に対する辻褄が合いません。

さらに、関ヶ原の戦いの論功行賞などが落ち着いた11月27日には、家康の三男=德川秀忠(ひでただ=後の2代将軍)と、四男=松平忠吉(まつだいらただよし)が、兄弟そろって豊国神社(とよくにじんじゃ=当時は東山にあった秀吉を「豊国大明神」として祀る神社)に参拝している意味もわかりません。

これらの、一家総出の行動は、心中いかであろうとも、あくまで見た目は家康(德川)が「豊臣政権下での内部抗争を落ち着かせた」という演出だったに違いない・・・

でないと、後々、政権握った途端(夏の陣の2ヶ月後)に有無を言わさず破却命令を出す神社に(7月9日参照>>)わざわざ息子二人を行かせますか?っつー話ですよ。

もちろん、家康が、この関ケ原の戦いを短期決戦にしたかったのは確かでしょう。

なんせ、東軍についた諸将も、豊臣の家臣なわけですから、グダグダやってて、秀頼もしくは朝廷などから停戦命令が出たひにゃ、政権内の敵対勢力を一掃する事できませんからね。

しかし、「長引くと、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」的な見方は、おそらく、この先の家康さんの天下取りを知ってる人のリップサービス的な匂いがしますね。

よく「天下分け目の関ヶ原」と言いますが、関ヶ原で天下が決まったわけではなく、関ヶ原から家康の天下取りモードが始まった・・・今風に言えば「豊臣の終わりの始まり」が関ヶ原だったわけです。

家康は、ここから徐々に、15年かけてジワジワと、それこそ「鳴くまで待とうホトトギス」の精神で、豊臣を滅亡へと追い込んで行ったのですね~

この関ケ原と大坂の陣の間に、加藤清正(かとうきよまさ)など、多くの豊臣恩顧の武将たちが次々と亡くなってしまった(6月24日参照>>)事も、家康有利に働きましたが、実にウマイですなぁ~家康さん。。。

ちなみに、関ケ原から大坂の陣にかけての豊臣と德川の関係については、家康の上洛要請を秀頼が拒否する5月10日のページ>>で見ていただくとありがたいです。

ちなみのちなみに慶長十六年(1611年)3月に行われた家康と秀頼の二条城(にじょうじょう=京都市)の会見(3月28日参照>>)でも、一応、家康は秀頼に気を使ってるポーズ継続中ですので、お見知りおきをwww

Sekigaharakosenzyouzu
笹尾山(三成陣)から見た関ヶ原古戦場 

この同日の午後には杭瀬川の戦い>>、さらに翌日は本チャンの関ヶ原>>ですが、くわしい流れは、やはり【関ヶ原の戦いの年表】>>でどうぞm(_ _)m
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2021年9月 7日 (火)

源実朝~鎌倉幕府・第3代将軍就任

 

建仁三年(1203年)9月7日、源実朝が、第3代鎌倉幕府将軍に補任されました。

・・・・・・

源実朝(みなもとのさねとも)は、源頼朝(よりとも)北条政子(ほうじょうまさこ)夫妻の次男として建久三年(1192年)に生まれました。

ご存知の「イイクニ作ろう鎌倉幕府」の年・・・頼朝のもとに征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)任命の辞令が届いた、まさに絶頂の日の13日後の後継爆誕でした。
(現在は「イイハコ=1185」が主流です…参照>>)

幼名は千幡(せんまん)と言いますが、ややこしいので今日は「実朝」の名前で通させていただきます。

Minamotonosanetomo600 そんな実朝は、乳付役(うつけやく=乳母)に母・政子の妹である阿波局(あわのつぼね)乳母夫(めのと=後見役)北条氏が務めるという、まさに北条一色体制でのスタートとなります。

ちなみに、実朝の10歳年上の兄で嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)源頼家(よりいえ=幼名:万寿)が、頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)の養子である幕府有力御家人の比企能員(ひきよしかず)の家で生まれ、比企尼の娘が乳付役になって比企氏が乳母夫となっている関係から、後に娶る奥さんも比企能員の娘・・・つまり頼家の比企一色体制とは対照的。。。

もう、完全に後々のアレやコレやがミエミエ・・・ドラマやと「もう、わかりやす過ぎやん!」とツッコミたくなるほどのあからさまな伏線張まくり状態ですがwww

しかも、頼朝は、この次男の誕生祝を盛大に行うと、居並ぶ御家人たちの前で
「みんな、心を一つにして、この子の未来を見守ってやってくれよ~」
と言いながら、一人一人に実朝を抱っこさせて回ったとか・・・こりゃ、荒れまっせ。

と、思ったのもつかの間・・・ご存知のように、建久十(1199年)1月13日、頼朝が突然亡くなります(12月27日参照>>)

一般的には、その半月前の落馬事故が原因とされていますが、
「将軍ともあろうお人が、落馬するのかなぁ??」
という違和感も残ります。

とにもかくにも、頼朝が急死した事で、兄の頼家が、1月26日付けで第2代鎌倉殿となりますが、未だ天皇からの正式な征夷大将軍の宣下はありませんでした。
(この前年に、比企能員の娘が頼家の長子である一幡を産んでいますので、すでに既婚で比企一色体制は強化)

このお代替わりが、幕府にとって、かなりの不安材料だったのでしょうか?
「反乱の芽は今のうちに摘んどけ!」
とばかりに、すぐさま平清盛(たいらのきよもり)の曾孫で、僧となっていた平六代(たいらのろくだい=高清)を処刑しています(2月5日参照>>)

そして4月12日には、あの13人の有力御家人たちによる合議制にて、今後の政治を行う事が決定されるのです(4月12日参照>>)・・・「鎌倉殿の13人」ですねwww

まぁ、頼家もまだ18歳の若者だから仕方ないか~~~

と、思いつつも、波乱はすぐにやって来ます。

それから、わずか9ヶ月後の正治二年(1200年)1月、その13人のうちの一人である梶原景時(かじわらかげとき)反乱を起こして自刃に追い込まれてしまいます(1月20日参照>>)

この景時の反乱は、御家人たちが景時弾劾状(だんがいじょう=失敗や罪を告発する書状)(10月28日参照>>)を提出した事で、景時が鎌倉を追われたために起こったわけですが、

一説には、景時は、将軍頼家に、
「弟の実朝を将軍にしようと画策する者がいるので気をつけて!」
と密かにチクッたものの、その行動が逆に周りの御家人の反感を買ったとも言われていて、

それならば「この時点での景時は頼家の味方」という事になるわけで・・・ここで、みすみす景時を死なせてしまった事は、頼家にとっては痛手と言えるかも知れません。

その後、翌建仁元年(1201年)には、景時派の残党も鎮圧され、さらに、その翌年の建仁二年(1202年)7月に、頼家は第2代征夷大将軍の宣下を受ける事になります。

ところが、その翌年の建仁三年(1203年)5月、将軍頼家は、叔父(父頼朝の弟)で北条寄りの阿野全成(あのぜんじょう)謀反の疑いがあるとして逮捕・・・さらに、全成の奥さんとなっていた阿波局をも逮捕しようとします。

先に書いた通り、この阿波局は実朝の乳母で北条政子の妹・・・この時は、政子の抵抗により、阿波局は逮捕に至りませんでしたが、

将軍頼家と、その後ろにひしめく「比企氏VS北条氏」という対立構造が、見事に露わになったわけです。

そんな中、頼家は、すでに、かの全成逮捕事件以前から体調を崩していたようで、それが、ここに来て悪化し、8月には重体に陥ってしまいました

これをチャンスと見た北条時政(ときまさ=政子の父)と政子は、将軍の病気を盾に、13人の合議制を利用して(将軍に万が一の事があった時は)東国を頼家の息子である一幡が、西国を弟である実朝が継ぐ」という案をゴリ推ししたのです。

「そんなもん、将軍亡き後は、その息子が全部相続すんのが普通やろ!」
と、怒りを露わにする比企能員に対し、翌9月2日、北条邸に能員を呼びだして謀殺・・・残った比企一族を一幡もろとも滅亡させ(【比企能員の乱】参照>>)

病気の頼家を伊豆の修善寺に幽閉して、朝廷に対しては「頼家が亡くなった」と虚偽の報告をして、弟の実朝への家督&将軍職の継承を願い出るのです。

この幕府からの申請を受けた、時の天皇=後鳥羽天皇(ごとばてんのう=第82代)は、建仁三年(1203年)9月7日実朝を従五位下征夷大将軍に補任したのです。(『吾妻鏡』では宣下を受けたとされる)

『明月記』などによれば、ここで同時に、天皇から「新将軍の名を『実朝』とするよう」との定めが・・・つまり、実朝の名付け親は後鳥羽天皇だったという事のようです。

わずか12歳の少年将軍は、祖父の北条時政がシッカリとサポート・・・1ヶ月後の10月8日には元服し、正式に実朝を名乗ります。

一方、幽閉された頼家は、その後、奇跡的に快復しますが、わずか10ヶ月後の元久元年(1204年)7月、刺客によって殺害されています(7月18日参照>>)

しかし、スタートしたばかりの少年将軍の前に、まだまだ内輪のトラブルが続くのです。

元久二年(1205年)の6月 には、頼朝の時代からの重臣であった畠山重忠(はたけやましげただ)が、時政の陰謀により、一族もろとも滅ぼされる(6月22日参照>>)一方で、

翌7月には、その時政自身が後妻の牧の方(まきのかた)絡みの一件で失脚して(1月6日の中盤部分を参照>>)しまい、生母の北条政子が親権を行使する形で将軍権力を代行する事になりますが、実質的には、政子弟の北条義時(よしとき)主導する政治体制ができあがるのです。

ここに来ても実朝は、まだ14歳・・・今しばらくは、政治は大人の手に委ねつつ、自身は和歌に目覚め、後に『小倉百人一首』の撰者として有名になる藤原定家(ふじわらのさだいえ)に、歌の教授や評価をねだったり、

その定家の門弟に頼んで『新古今集』の写本を送ってもらったり。。。以後、両者は良好な師弟関係となり、ご存知のように、実朝は、後世の歌人たち(正岡子規や斎藤茂吉など)が「天才歌人」と評するほどの秀歌を残す名人になるわけですが・・・

とは言え、そんな少年将軍も、やがては大人になるわけで・・・実朝が18歳になった承元3年(1209年)、4月に従三位に叙せられ、翌5月に右近衛中将に任ぜられたあたりから、どうやら、彼は親裁権を行使しはじめるのです。

複数の職員(別当や知家事)らを抱える政所(まんどころ)を開設し、将軍親裁の中心的な機関とするのです。

もちろん、古株の北条義時や大江広元(おおえひろもと)などは、当初、若い実朝を軽く見る傾向にありましたが、そんな義時の要求を跳ね除けるなど、ここからの実朝は、将軍の権威を見せながら統治者として様々な政策を打ち出していく事になるのですが、

それら親政のお話は、おいおい、その日付にて書かせていただく事にして、今回は、「実朝が第3代鎌倉幕府将軍に補任された日」という事で、実朝が将軍になるまでの経緯を中心に書かせていただきました。

★関連ページ(この後の出来事)
 和田義盛の乱>>
 実朝の大船建造>>
 実朝・暗殺事件の謎>>
 実朝・暗殺事件の謎Part2>>
 源実朝暗殺犯・公暁の最期>>
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2021年9月 1日 (水)

未だ謎多き~豊臣秀吉の大坂城

 

天正十一年(1583年)9月1日、羽柴秀吉が大坂城の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(6月2日【本能寺の変】参照>>)後、

いち早く畿内に戻って、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)事により、

少し後れを取った(【石動荒山の戦い】参照>>) 家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)に対して、

信長後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にて、織田重臣の丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を味方につけて、うまく立ち回る事に成功した羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

事実上、織田家臣団のトップを決める事になる賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利して(4月21日参照>>)

本拠の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に退いた柴田勝家を自刃に追い込んだ(4月23日参照>>)のは、天正十一年(1583年)4月24日の事でした。

柴田勝家と組んで秀吉に敵対していた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)も、翌月の5月2日に、秀吉を後ろ盾に信長の後継を狙う織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄・信長の次男)追い詰められて自刃します(5月2日参照>>)

勝家&信孝に味方して長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)で籠城して孤軍奮闘していた滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)、彼ら亡き今、この7月に降伏しました。

こうして、
もはや織田家の後継は、あの清須会議で後継者と定められた幼い三法師(さんほうし=後の織田秀信・信長の孫)現時点で秀吉に丸め込まれ中の信雄のみだし、重臣の丹羽&池田は味方だし・・・

てな事で、天正十一年(1583年)9月1日、秀吉は、いよいよ大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)の築城を開始するのです。

いよいよ…と書いたのは、この少し前、秀吉は、自身の手紙の中で、
「大坂を受け取り候て
 人数入れ置き
 国々城割り候て
 これ以後無法無き様に致し申し候て
 五十年も国々鎮まり候様に申し付け候」
と・・・

つまり、
「大坂を本拠として、戦いの無い平和な世を作る」
との並々ならぬ決意を語っているから・・・

これまでも秀吉は、いくつか城を構築してはいますが、この決意を見る限り、まさに天下統一を見据えた国家の政庁としての城が、この大坂城であった事が伺えます。

その場所は、現在も大阪城が建つ、あの場所で、それ以前は、信長と約10年に渡る戦いを繰り広げた一向一揆(いっこういっき)(8月2日参照>>)の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ)が建っていた場所でした(【春日井堤の戦い】参照>>)

ちなみに、かつては本願寺は京都の山科に本拠を構えていましたが、日蓮宗や法華宗との戦い(【山科本願寺の戦い】参照>>)で山科を追われた時に移った先が、中興の祖と言われる蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた石山御坊(いしやまごぼう)で、以後、ここを石山本願寺として一向宗の拠点としていたのでした。

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「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵) 

あの『信長公記』にも、ここは
「日本一の境地なり」
と表現されているように、この場所は、奈良京都にも近く、淀川大和川などの大河に守られつつ、そこから派生して縦横無尽に走る川に囲まれていながら(↑の通り、当時の大阪平野は未だ海っぽかった)

この建造予定の場所だけは神代から陸地だった上町台地という高台となるわけで、

守りに強く、外国からの大船にも対応できるし、もちろん貿易にも有利な、まさに日本一の場所だったわけです。

おそらく、信長もそのつもりであり、もし本能寺で倒れなければ、彼もまた、この場所に城を構築していた事でしょうね。

とにもかくにも、そんな天下の一等地に、上記のような意気込みで構築する城・・・まして、秀吉の城づくりを見る限り、それは戦う城というよりも見せる城なんですから、巨大かつ豪華絢爛でなくてはなりません。

そう、
「こんなスゴイの建てる人と戦って勝てるワケない」
と思わせるような城でなくては。。。

もちろん、工事は天下普請(てんかぶしん)・・・一般的には、江戸幕府が始まってから、徳川将軍が全国の諸大名に命令して行わせた土木工事の事を天下普請と言いますが、

吉田兼見(よしだかねみ)の書いた『兼見卿記』によれば、大名たちだけでなく公家にも負担が課されたというし、
『イエズス会日本年報』によれば、連日5万名に及ぶ人々が従事していたと言いますから、やはり、これは天下普請。

天正十一年(1583年)9月1日に始まり、まずは3ヶ月後には、三段からなる見上げるような石垣の天守台が完成し、この先、その上に建つであろう五重の大天守は、黄金の装飾がふんだんに用いられた豪華な造り・・・

その構築と同時に、周囲は、石山本願寺の遺構を組み込みつつ、本丸から二の丸を二重の堀が囲み、さらに秀吉の邸宅となる奥御殿から、政庁となる表御殿が建造され、草庵や茶室が点在する山里曲輪(やまざとくるわ)と進み、

Toyotomioosakazyoukamae 一方では、北に淀川、東に平野川猫間川を天然の外堀とし、そこに城下町を取り込んだ総構(そうがまえ)横堀(現在の東横堀川)が開削され、南には空堀(からほり)が掘られていきます。
(現在の大阪城の4~5倍くらいか?→)

天正十四年(1586年)の4月に、今まさに建築中の大坂城をおとずれた大友宗麟(おおともそうりん)も、国許(くにもと)への手紙で「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と絶賛してます(4月6日参照>>)

そんな、周囲約8kmに及ぶ巨大な城郭の姿が露わになっのは、文禄三年(1594年)頃・・・最終的な完成に至ったのは慶長三年(1598年)の事でした。

とは言え、秀吉は、天正十三年(1585年)に関白に任ぜられて、関白としての政庁である聚楽第(じゅらくてい=京都市上京区周辺)を建造し(2月23日参照>>)

その関白を退いてからは隠居所として建てた伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)(3月7日参照>>)にいましたし、上記の最終的な完成からわずかしか経たない慶長三年(1598年)の8月に亡くなってしまいます(8月9日参照>>)ので、

実際に秀吉自身が滞在した時間は、現在の私たちが「太閤(たいこう=関白の職を退いた人・ここでは秀吉の事)さんの城」という頭で描くイメージよりは、かなり短かったわけですが、

死の間際には、自分が亡くなった後は一人息子の秀頼(ひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々・秀吉の側室で秀頼の母)が大坂城に入って、五大老の助けを借りながら政権を維持するよう遺言を残していますので、

やはり秀吉にとって、大坂城は天下人の拠点とすべき城だった事でしょう。

しかし、ご存知のように、その大坂城は、五大老筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)の攻撃を受け、慶長二十年(1615年)5月の大坂夏の陣にて炎上&落城してしまいます。(くわしくは【大坂の陣の年表】参照>>)

そして、難儀な事に、勝利した德川家が、豊臣時代の大坂城を縄張りごとスッポリと土で覆ってしまい、

その上に江戸幕府の大坂城を構築してしまったために(1月23日参照>>)(←これが現在の大阪城です)、以来、豊臣時代の遺構は地中深く埋まったままになってしまったのです。

それから約300年・・・
なぜか、すっかり、その事を忘れていた大阪市民。。。

昭和の当時、そこにある大阪城を太閤さんの城と信じて疑わなかった大阪市民は、昭和六年(1931年)、すでに焼失していた天守閣を市民の全面寄付により復興・・・

しかし、それは大坂夏の陣図屏風(11月13日参照>>)に描かれた「豊臣デザインの天守閣を徳川時代の天守台に復興してしまう」という大勘違いだったわけですが(11月7日参照>>)、これも、何事にもおおらかなお笑いの聖地ならではのご愛敬・・・

なんせ、秀吉の大坂城と現在(德川)の大阪城が、別々の縄張りだとわかるのは、第二次大戦後、占領軍から大阪市に変換された事により、昭和三十四年(1959年)に行われた「大坂城総合学術調査」にて・・・

そこでようやく、現在の堀や石垣が豊臣時代の物では無い事が周知されるようになるのです。

最初の簡単な調査で、もともとあった強固な地盤の上に10m以上の盛り土をした上に築城されている事がわかり、さらに本丸・天守閣で行われたコア・ボーリング調査にて地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されたのです。

Dscn4113a_1←コア・ボーリング調査で発見された石垣

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、豊臣時代の物と断定するには至りませんでした。

なんせ、上記の通り、ここはもともと石山本願寺があった場所ですし、近くには大化の改新の時の都だった難波宮跡(12月11日参照>>)もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡でしたから。。。

Oosakazyouhonmarunakai1500a ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家(【中井正清】参照>>)のご子孫のお家から、

豊臣時代の『大阪城本丸図→』が発見され、その図と地下の石垣の位置を照合した結果、

この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定され、現在の大阪城の下には、豊臣時代の大坂城の縄張りが埋まっている事が確定となったわけです。

そして豊臣時代の遺構は、今現在も発掘中・・・

Eggenbergj また、2006年には、オーストリアエッゲンベルグ城の壁に飾られていた絵画(←)が

豊臣期の大坂城を描いた8曲1隻の屏風である事が判明し、その全容解明に一役買った事もありました(9月21日参照>>)

今も毎年のように新たな遺構が発見される大阪城・・・今後の、更なる発見に期待ですね。

ちなみに、天満橋駅京阪東口近くのドーンセンターのビル前には、この下から発掘された三の丸の遺構である石垣が、そのままの状態で地上へと移転されて展示されています。
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↑ドーンセンター前の石垣
(くわしい行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」で>>

ところで、この大阪城は、別名を「金城」あるいは「錦城」と書いて、どちらも「きんじょう」と呼ばれます。

どちらも同じ読みだし、どっちでも良いっちゃぁ良いんですが、個人的には「錦城」の表記が好みです。

不肖私、大阪城を朝な夕なに仰ぎ見る場所で生まれ育ちましたが、出身校の校歌の歌詞も「錦城」で、

愛唱歌には♪淀の流れに姿を映し~錦(にしき)のお城と背丈を競う♪というフレーズもあり、なにより、昭和の天守閣復興時の設計者である古川重春ふるかわしげはる)の著書も『錦城復興期』ですから・・・

信長が(みん=中国)の瓦師だった一観( いっかん)を招いて、安土城の屋根に明風瓦を使用した事は有名ですが、奇抜な事が大好きば秀吉ですから、ひょっとしたら彼も、普通には思いつかないような色の瓦を使っていた可能性も無きにしもあらず・・・

実際には、遺構からは数多くの金箔瓦が出土しており、天守閣の屋根は金箔の瓦で豪華に造られていたんだろうなぁ~と思いますが、その表現は「金ピカ」というよりは、「錦を織りなすような」色であったのでは?と想像している茶々であります。

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大阪城全景

ま、金城湯池(きんじょうとうち)という四字熟語もあり、その「金城」は堅固な城の代名詞でもあるので、結局は、どちらも良い別名なんで、あくまで好みなんですけどね。
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