関ヶ原前日~本陣勝山にて軍議を開いた家康の思惑は…
慶長五年(1600年)9月14日、明日の関ヶ原決戦を控えて、勝山を本営とした徳川家康ら東軍が軍議を開きました。
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いよいよ関ヶ原です。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、豊臣五大老の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として会津討伐に出向いたスキに、これまでの家康の行動に不満を持つ豊臣家臣の石田三成(いしだみつなり)が、家康を告発する『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)、家康に宣戦布告し、留守となった伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)を攻撃(7月19日参照>>)した事で火蓋を切った関ヶ原の戦い。。。
一方、それを受けた家康は、会津征伐を中止して西へとUターン(小山評定>>)
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)
家康につく福島正則(ふくしままさのり)や池田輝政(いけだてるまさ)ら東軍諸将の先発隊が西へ向かう中、迎え撃つべく大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に本陣を構える三成ら西軍。
…で、8月23日に長良川を渡った東軍は、さらに赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)まで進み、ここで御大の家康を待つ事に・・・
(8月23日参照>>:ここまでの流れを少しくわしく書いてます)
ようやく9月1日に江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出陣した家康は(9月1日参照>>)、9日には岡崎(おかざき=愛知県岡崎市)、13日には岐阜(ぎふ=岐阜県岐阜市)に到着します。
そして翌・慶長五年(1600年)9月14日、朝早くに岐阜を出発した家康は、正午頃に赤坂に到着し、そのまま岡山の本陣に入ります。
岡山は、先の赤坂の南側にあたり、三成が拠る大垣城から見て北西約4kimの場所に位置する小高い丘(標高51m)・・・
先発の諸将が、すでに家康を迎えるべく普請を行っており、総大将が着陣したここから、この岡山が本営となります。
ちなみに、この岡山は、今回の関ヶ原の戦いに家康=東軍が結果的に勝利する事で、この後は「勝山」と呼ばれるようになりますので、ここからは勝山と呼ばせていただきます。
…で、この後、さっそく東軍諸将を集めて、軍議を開く事になるのですが・・・
最初に出たのは、井伊直政(いいなおまさ)や池田輝政(いけだてるまさ)らによる、大垣城力攻めの案でした。
一方、本多忠勝(ほんだただかつ)や福島正則らは、大垣城をスルーして西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)が拠る大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に向かう事を主張したとか・・・
この時、家康が1番心配したのが、西軍が大垣城に籠ってしまった事で、今回の戦いが長期に渡る籠城戦になってしまう事・・・「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)を奉じて出陣して来るかも知れない」という事でした。
それだけは避けたい家康は、秀頼が西軍として出陣する前に大坂城を抑えようと考え、軍議では、大垣城には抑えの兵だけを置いて、まずは佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市・三成の本拠)を落としてから大坂方面へ向かう事を決定したのです。
さらに、何としても籠城戦を避けて短期決戦したい家康は、この情報を意図的に西軍に流し、彼らを城に籠らせない=つまり、城から出て来て戦うよう仕向けたって事らしい・・・
というのが、この9月14日、関ヶ原本チャンの直前に行われた勝山本営での軍議の内容・・・てな事が、一般的解釈です。
しかし、個人的には、どーも引っかかる・・・(←あくまで個人の見解です)
上記の
「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」
という部分。
これじゃ、まるで、今回の関ヶ原の戦いが「德川VS豊臣」の戦いみたいじゃないですか?
これまで、何度かブログに書かせていただいてますが、私としては、この関ヶ原は、あくまで、豊臣政権内での主導権争い・・・
五大老筆頭である家康についていく派か、
秀頼が若いのを良い事にまるで自分の政権かのように主導する家康に反対する派か、
のどちらが主導権を握るかの戦いだったと思っています。
あくまで、この時点では、東西の両方ともが豊臣の配下・・・もちろん、家康の腹の奥には「豊臣を倒して天下を取る」という構想があったかも知れませんが(淀殿に結婚式をドタキャンされた恨みもあるしねww(12月16日参照>>))、それは、家康の心の内だけで、少なくとも、表向きは豊臣配下で秀頼を敵に回す気持ちなど、みじんも見せていなかったはずです。
…でないと、この関ケ原での勝利の後、9月27日に大坂城に入って秀頼と淀殿(よどどの=秀吉の側室で秀頼の母・浅井茶々)に謁見し、戦勝報告をするとともに、更なる忠誠を誓い、そのまま西の丸に住む事に対する辻褄が合いません。
さらに、関ヶ原の戦いの論功行賞などが落ち着いた11月27日には、家康の三男=德川秀忠(ひでただ=後の2代将軍)と、四男=松平忠吉(まつだいらただよし)が、兄弟そろって豊国神社(とよくにじんじゃ=当時は東山にあった秀吉を「豊国大明神」として祀る神社)に参拝している意味もわかりません。
これらの、一家総出の行動は、心中いかであろうとも、あくまで見た目は家康(德川)が「豊臣政権下での内部抗争を落ち着かせた」という演出だったに違いない・・・
でないと、後々、政権握った途端(夏の陣の2ヶ月後)に有無を言わさず破却命令を出す神社に(7月9日参照>>)、わざわざ息子二人を行かせますか?っつー話ですよ。
もちろん、家康が、この関ケ原の戦いを短期決戦にしたかったのは確かでしょう。
なんせ、東軍についた諸将も、豊臣の家臣なわけですから、グダグダやってて、秀頼もしくは朝廷などから停戦命令が出たひにゃ、政権内の敵対勢力を一掃する事できませんからね。
しかし、「長引くと、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」的な見方は、おそらく、この先の家康さんの天下取りを知ってる人のリップサービス的な匂いがしますね。
よく「天下分け目の関ヶ原」と言いますが、関ヶ原で天下が決まったわけではなく、関ヶ原から家康の天下取りモードが始まった・・・今風に言えば「豊臣の終わりの始まり」が関ヶ原だったわけです。
家康は、ここから徐々に、15年かけてジワジワと、それこそ「鳴くまで待とうホトトギス」の精神で、豊臣を滅亡へと追い込んで行ったのですね~
この関ケ原と大坂の陣の間に、加藤清正(かとうきよまさ)など、多くの豊臣恩顧の武将たちが次々と亡くなってしまった(6月24日参照>>)事も、家康有利に働きましたが、実にウマイですなぁ~家康さん。。。
ちなみに、関ケ原から大坂の陣にかけての豊臣と德川の関係については、家康の上洛要請を秀頼が拒否する5月10日のページ>>で見ていただくとありがたいです。
ちなみのちなみに慶長十六年(1611年)3月に行われた家康と秀頼の二条城(にじょうじょう=京都市)の会見(3月28日参照>>)でも、一応、家康は秀頼に気を使ってるポーズ継続中ですので、お見知りおきをwww
★この同日の午後には杭瀬川の戦い>>、さらに翌日は本チャンの関ヶ原>>ですが、くわしい流れは、やはり【関ヶ原の戦いの年表】>>でどうぞm(_ _)m
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