三浦義同VS三浦時高~養子と養父の新井城の戦い
明応三年(1494年)9月23日、三浦時高の拠る新井城に、三浦義同が夜討ちを仕掛けて勝利し、負けた時高が自刃しました。
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三浦時高(みうら ときたか)は、平安時代より衣笠城(きぬがさじょう=神奈川県横須賀市)に本拠を置いて三浦半島一帯を支配し、あの源平の合戦の際に、いち早く源頼朝(みなもとのよりとも)を助けた三浦義明(よしあき)(8月27日参照>>)の子孫です。
以来、三浦半島に君臨し、室町のこの頃は新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市三崎町・三崎城とも)の城主を務め、 関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方足利家の補佐役・関東執事)の扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家に従い、京都の第6代室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり)の意に従わなくなった鎌倉公方(かまくらくぼう=将軍家から関東支配を任されている足利分家)の足利持氏(もちうじ)の討伐(【永享の乱】参照>>)でも活躍したりなんぞして、なかなかの武勇を誇っておりました。
ただ、時高は、なかなか子供に恵まれなかった・・・
おそらく、この時、20代半ばとおぼしき時高は、このままでは由緒正しき三浦が絶えてしまう・・・早く後継を定めねば!との思いがありました。
そこで、扇谷上杉家の現当主であった上杉持朝(もちとも)の信頼も篤かった時高は、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)城主で相模(さがみ=神奈川県)西部を支配していた大森氏頼(おおもりうじより)に嫁いだ妹が氏頼との間にもうけた女の子(つまり時高の姪っ子)を上杉持朝の次男である高救(たかひら)と結婚させて、その高救を三浦家の養子として迎え、後を継いでもらう事にします。
さらに、その二人の間に生まれた息子=義同(よしあつ)も養子にして、これで、三浦家は安泰安泰・・・
と、思いきや、世の中なかなか思い通りにはいきません。
この時期、成長した足利成氏(しげうじ=持氏の遺児)が、父=持氏同様に将軍家に反発して関東で大暴れしていた事で、京都の将軍家から新たな鎌倉公方として派遣されて来た足利政知(まさとも=将軍義教の次男)が鎌倉に入れないという出来事があったのですが(10月14日の真ん中あたり参照>>)、
それが政知の執事である渋川義鏡(しぶかわよしかね)から「三浦と大森がジャマしてるから鎌倉に入れないんじゃないか?」と疑われてしまったために、その潔白を証明すべく、三浦時高は出家して隠居し、家督を高救に譲り、高救が三浦家の当主になる事で、その責めを回避・・・
したは良かったが、なんと、ここに来て時高に実子が誕生・・・
さらに文明十八年(1486年)、高救が三浦家に養子に出た事で実家の扇谷上杉家を継いでいた上杉定正(さだまさ=高救の弟)が忠臣の太田道灌(おおたどうかん)を殺害した事件(7月26日参照>>)に怒った高救が、自らが扇谷上杉を継ぐべく、当主の座を義同に譲って三浦家を去ってしまいます。
これが、なかなかに武勇優れた人で、器量、才覚もあった事から、養子ではあるものの祖母は三浦の女性である事もあって、三浦一門も郎党たちまでもが彼を信頼し、三浦を継ぐにふさわしい人物として納得していたのです。
ところが、納得しなかったのが前当主=時高です。
そう、もともと実子が生まれたからには、実の息子に後を継いでもらいたい気持ちがある中で、それより何より、高救が個人的感情で三浦を出て義同に後継を譲った事が許せない!
時高は、あからさまに義同を疎んじるようになり、ことごとく敵対・・・これには、三浦の家臣たちも何度か諌めはしたものの、とうとう近臣に義同を討つ命を出したとか・・・
この、養父の態度に危険を感じた義同は、すぐさま新井城を出て、祖母の夫である大森氏頼を頼って小田原へ向かい総世寺(そうせいじ=神奈川県小田原市久野)にて剃髪し道寸(どうすん)と号して(ややこしいので名前は義同のままで…)隠居する姿勢を取りながらも、一門の中から自分に賛同してくれる者たちを募り、新井城を攻撃すべく準備を開始したのです。
かくして明応三年(1494年)9月23日、密かに、時高らの拠る新井城に夜討ちをかける義同隊・・・
勝手知ったる城内に、鬨(とき)の声を挙げて一気に乱入する義同側に対し、まさか隠居して身を隠した養子が襲って来るとは考えていなかった城内は、完全に準備不足で、ただただ右往左往するばかり。
新井城はほどなく落ち、義同は、養父の高時と、その実子である高教(たかのり)を自害に追い込んだのです。
この戦いのさ中、城側から相模梅沢(うめざわ=神奈川県中郡二宮町)の住人=中村式部少輔(なかむらしきぶしょうゆう)なる武士が、義同の前に進み出て、
「こは如何に父に向て弓を引事
八道の罪人ぞや
汝等が武運頓て盡べし」
(父親に向かって弓引くとは何事や
そんなもん、八道(人が進むべき道)の罪人やないかい!
あんたの武運も、やがて尽きる事やろな)
と言い放って、壮絶な討死を遂げたとか・・・
という事ですが、
実のところ、時高父子が、この日この時、この新井城にて自刃したかどうかは、微妙なのです。
結果的に、この後、義同が新井城に拠る事から、一旦、出家した義同が高時父子を討ち取った(もしくは自刃に追い込んだ)事は事実と思われますが、問題は時期・・・
上記の通り、義同は祖母の婚家である大森氏の支援を受けて新井城に夜討ちをかけた事になってますが、当の大森氏頼は、この夜討ち実行日の約1ヶ月前に死去していて、その直後から後継問題でゴタゴタしてたうえに、そのゴタゴタに乗じて北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)が小田原城狙いでチョッカイ出してたようで(翌・明応四年(1495年)2月に早雲が小田原城を奪取=参照>>)、
後継となった大森藤頼(ふじより=氏頼の次男)は、この時、義義同の支援どころでは無い状態だったはずで、実に疑わしいのです。
というのも、今回ぎ紹介したお話のほとんどが北条側による記録(『北条記』)で、その脚色率高しなんです。
先の中村式部少輔なる武将の最期の捨てゼリフなんかも、おそらくは、この後、義同が、早雲に攻め込まれて、この同じ新井城にて命を落とし(7月13日参照>>)、三浦家が滅亡する事を踏まえての伏線感満載です。
なので、すべてを信じるわけにはいきませんが、かと言ってすべてが創作とも言い難く・・・それこそ、今後の新たなる発見に期待ですね。
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