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2021年10月27日 (水)

上杉謙信との戦い~佐野昌綱の生き残り作戦

 

永禄七年(1564年)10月27日、上杉謙信が、再び背いた佐野昌綱唐沢山城を攻略しました。

・・・・・・・・・

よく、戦国時代の幕開けと称される応仁の乱ですが、私的には、未だ、この応仁の乱の直後あたりは、室町幕府政権内での上下関係が、将軍家を頂点に、管領(かんれい=将軍の補佐)守護(しゅご=県知事)守護代(しゅごだい=副知事)領主家→みたいに、ある程度保たれていたように思います。

しかし、応仁の乱が全国各地の武将を巻き込んで行われた事によって、各地の武将の力関係がギクシャクし、内紛が起こり、やがて、そのギクシャク内紛が下剋上(げこくじょう=下の者が上の者を倒す)を生み、戦国の群雄割拠となっていく・・・もちろん、その原因を作ったのが応仁の乱という事になれば、戦国の幕開けとするのもアリだと思いますが。。。

とは言え、そんな戦国も、幕開けから何年か経つと、徐々に、その力関係にも差がでてきて、大大名と称されるような戦国大名が登場して来ます。

畿内では、明応の政変(4月22日参照>>)でクーデターを起こした管領の細川政元(ほそかわまさもと)亡き後、その後継者争いでモメてる中で(2月13日参照>>)力をつけた三好長慶(みよしながよし)が、天文十八年(1549年)の江口の戦いに勝利して、ほぼ畿内を掌握し(6月24日参照>>)し、永禄元年(1558年)には、第13代室町幕府将軍の足利義輝(よしてる)と交戦しても、その力は揺るぎないほどになっています(6月9日参照>>)

一方の関東では、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東支配のための足利家)がゴタゴタやってる中で(9月30日参照>>)公方家の一つである堀越(ほりごえ)公方を倒した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)の孫の北条氏綱(うじつな)が、天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)上杉憲政(うえすぎのりまさ)もろとも古河(こが)公方足利晴氏(はるうじ)をせん滅(4月20日参照>>)

この時、もはや名ばかりの関東管領となってしまった上杉憲政が頼ったのが、越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存知、後の上杉謙信(うえすぎけんしん)です。

Uesugikensin500 謙信の長尾家は、もともとは越後の守護だった上杉房能(ふさよし=憲政の養父の弟)を追いやって、守護代の長尾為景(ながおためかげ=謙信の父)が掌握したという経緯ではありましたが、背に腹は代えられん!てな感じ?で、永禄二年(1559年)に上杉憲政から家督と関東管領職を譲られて上杉謙信と名乗るようになるわけですが(6月26日参照>>)

憲政から頼られたこの頃は、未だ越後統治も盤石ではなく、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)信濃(しなの=長野県)への侵攻を着々と進めていて(10月29日参照>>)、それが、あの川中島(かわなかじま)(9月1日参照>>)に発展し、なかなかに厳しい頃ではありましたが、忙しい中でも謙信は、憲政の要請で度々関東へも出兵するようになっていました。

そう・・・関東の諸将は、関東支配を広めようとする北条と、それを阻止しようとする上杉の間で揺れ動く事となっていたのです。

永禄二年(1559年)に下野(しもつけ=栃木県)国人領主(地侍)だった父=佐野泰綱(さのやすつな)の死を受けて家督を継いだ唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)佐野昌綱(まさつな)という武将も、その揺れ動く武将の一人でした。

昌綱は、はじめは足利晴氏に仕えていましたが、上記の通り、晴氏が北条に追われたために北条氏康(うじやす=氏綱の息子)と結んでいましたが、ここに来て、かの謙信が安房(あわ=千葉県南部)里見義堯(さとみよしたか)の救援要請を受けて関東に出兵(1月20日参照>>)する事を知り、上杉側に寝返り・・・

それを知った北条によって、永禄三年(1560年)2月に3万の北条軍で以って唐沢山城を攻められるも、見事!撃退しています。

翌永禄四年(1561年)3月に、謙信が再び関東に出張って来て、北条の本拠地である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を包囲した際には、キッチリ、その包囲陣の一人に加わっていた佐野昌綱・・・

しかし、上記の通り、謙信の関東入りあくまで出張・・・

そんな出張のさ中に、北陸は越中(えっちゅう)富山神保長職(じんぼうながもと)が勢力拡大に乗り出した(3月30日参照>>)事を知った謙信は、即座に領国へ戻らなければならなくなりました。

しかも、この年は、川中島でも最も有名な…♪鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)~夜 河を渡る~♪でお馴染みの第四次川中島の戦い(9月10日参照>>)が9月にあった年ですから、小田原城を包囲したとて、「今、陥落させるのは無理」と判断すれば、とっとと領国へ帰ってしまうわけで・・・

案の定、上杉軍が去った後の同年の12月・・・謙信への加勢に怒った北条氏康が唐沢山城へ攻撃を仕掛けます。

忙しい謙信からの援軍が期待できない佐野昌綱は、やむなく唐沢山城を開城し、氏康に降伏したのです。

ところが今度は、永禄四年の12月、その降伏を「北条への寝返り」とみなした上杉謙信が唐沢山城を包囲・・・

しかし、実は、この唐沢山城は、唐沢山の山頂に位置する本丸と連郭する曲輪(くるわ=土塁など区画された場所)が見事に配置された「関東一の山城」と称される堅城で、さすがの謙信も簡単には落とせず、本格的な冬を前に(当時は旧暦なので…)、包囲を解いて撤退しました。

そう、実は、この戦いから後の佐野昌綱の敵は上杉謙信のみ・・・しかも、その生涯で大小合わせると10回ほどの戦いがあったとされる中、そのほとんどを佐野昌綱は撃退しているのです。

上記の永禄四年の12月の戦いでの撤退後、越後には戻らず前橋城(まえばしじょう=群馬県前橋市)にて冬を越した謙信は、春を迎えた永禄五年(1562年)3月に、またもや唐沢山城に攻め寄せますが、またもや落城へは至らず撤退・・・

翌永禄六年(1563年)に入ると、謙信が越中での戦いに忙しい事を見越した北条が関東での勢力を拡大し、以前から上杉と北条の間で取り合い(7月20日参照>>)になっていた要所=松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)を奪回します。

謙信は、上記の松山城には間に合わなかったものの、急遽、冬の行軍を決行して関東に入り、関東の北条側の諸城を攻撃して回り、次々と開城させていったのです。

さすがの唐沢山城も、この時の謙信の勢いには勝てず、あえなく開城・・・

しかし、そんな謙信が下野を去った永禄七年(1564年)2月、またもや佐野昌綱は、謙信留守のスキを狙って反旗を翻しますが、この時は、それを阻止せんとする上杉軍との間で激しい戦いとなったため、

さすがの堅城=唐沢山城も耐えがたく、しかも、頼みの北条は第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)に忙しく援軍を期待できないため、やむなく佐野昌綱は、敵方の降伏要請に応じて唐沢山城を開城しました。

ところが、この年の8月に起こった5度目の川中島の戦い(8月3日【塩崎の対陣】参照>>)に謙信が向かったスキを狙って、案の定、北条氏康が侵出・・・

佐野昌綱は、またまた北条側へと寝返り、上杉側についている藤岡城(ふじおかじょう=栃木県栃木市藤岡町)を攻めたのです。

もちろん、謙信としては、この佐野昌綱の行動は許せません。

すぐさま兵を整え、下野へと侵攻した謙信は、10月20日に多田木山 (ただきやま=栃木県足利市多田木町)に着陣して丸一日兵馬を休ませた後、ここから佐野方面へとじりじりと距離を詰め、22日には沼尻(ぬまじり=同栃木市藤岡)に着陣します。

ここで、味方である祇園城(ぎおんじょう=栃木県小山市城山町・小山城)小山秀綱(おやまひでつな)と、足利公方家の家臣である簗田晴助(やなだはるすけ)を招いて軍議を開き、

25日に、小山(おやま=栃木県小山市)から出陣すると佐野昌綱に向けて警告を発し、唐沢山城に迫って来たのです。

そう・・・残念ながら、さすがの佐野昌綱も、上杉&連合軍からピンポイントで狙われては勝ち目はありません。

かくして永禄七年(1564年)10月27日佐野昌綱はやむなく降伏・・・人質を差し出しての恭順を誓ったのでした。

とまぁ、さすがに今回は、人質を差し出しての降伏という事で、しばらくは大人しくしていた佐野昌綱でしたが、約2年後の永禄九年(1566年)、謙信が、かねてよりの武田&北条との戦いに加え、またまた越中が騒がしくなった状況(4月13日参照>>)を見て、
「今がチャンス!」
とばかりに、またまた北条側に寝返り・・・それを許さぬ謙信に永禄十年(1567年)2月に、またまた唐沢山城を攻められますが、お約束の如く、冬に勝てない謙信は、一旦撤退・・・

しかし、雪解けを待った翌3月に攻められ、結局、佐野昌綱は、またもや開城を余儀なくされるのですが、

そう・・・以前に、このブログでご紹介した「戦国最弱」と噂される小田氏治(おだうじはる)さん(11月13日参照>>)が、そうであるように、落城&降伏しても、謙信は、その命を取る事はなかったのです。

なんせ謙信は関東管領として出兵しているわけで、自身の領国は越後・・・関東の諸将には、自分の傘下にさえ収まってくれていれば、あえて一族もろともせん滅する必要も無いわけで・・・

そんなこんなしているうちに、永禄十一年(1568年)、あの第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)の上洛(9月7日参照>>)によって、政情が大きく変わります。

この時、武田信玄が甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田と北条と今川の同盟)を勝手に破棄して駿河(するが=静岡県東部)今川を攻め始めたため、北条が激怒(12月12日参照>>)・・・敵の敵は味方とばかりに、北条が謙信と同盟を結んだおかげで、佐野昌綱が北条と上杉の間で揺れ動く事はなくなりました。

それから後は、元亀元年(1570年)1月に1度だけ、謙信が唐沢山城に迫った事がありましたが、やはりこの時も、謙信は城を落とす事無く兵を退いています。

こうして大国と大国の間で何とか生き残りを掛けて奔走した佐野昌綱・・・残念ながら、息子&孫の時代に北条に呑み込まれてしまう事になるのですが、少なくとも、佐野昌綱自身は、堅城である唐沢山城と、自身の知略で以って天正二年(1574年)まで生き抜いたのでした。
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2021年10月20日 (水)

南北朝合一の第100代天皇~室町幕府に翻弄された後小松天皇

 

永享五年(1433年)10月20日、 南北朝合一に関与した第100代=後小松天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

わずか6歳の幹仁(もとひと)親王が、父である後円融(ごえんゆう)天皇の譲位を受けて、北朝第6代後小松(ごこまつ天皇号は後に呼称される物ですが、ややこしいので…)天皇となったのは永徳二年(1382年)の事でした。

ご存知のように、
Nanbokutyoukeizu2cc ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、後醍醐(ごだいご=96代・南朝初代)天皇と袂を分かつ事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都にて室町幕府を開き、持明院統光厳(こうごん=北朝初代)天皇を立てた北朝(8月15日参照>>)に対抗し、大覚寺統の後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)にて開いたのが南朝(12月21日参照>>)です。

初頭から楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)などの有力武将を失い、さらに延元四年・暦応二年(1339年)には後醍醐天皇さえも崩御される(8月16日参照>>)危機を迎えながらも踏ん張る南朝(12月7日参照>>)と、

一方で、概ね優位に戦いを進めながらも観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)など、内部分裂激しい北朝・・・

しかし、尊氏の孫の足利義満(よしみつ)第3代室町幕府将軍に就任する(12月30日参照>>)応安元年(正平二十三年・1368年)頃からは、南朝方の衰退が目立つようになり、今回の後小松天皇が即位する頃には、和平交渉も開始されるように・・・ただ、幕府に対して強硬路線をとる南朝の長慶(ちょうけい=第98代・南朝3代)天皇との交渉はなかなか進まずにいました。

そんな中、九州にて勢力を保っていた南朝側の懐良(かねよし・かねなが)親王(8月6日参照>>)が弘和三年・永徳三年(1383年)3月に亡くなった事(3月27日参照>>)

また、同年の冬に強硬派の長慶天皇が、弟で和平派の後亀山(ごかめやま=99代・北朝4代)天皇に譲位した事、

さらに元中八年・明徳二年(1391年)の明徳の乱で有力守護の山名氏清(やまなうじきよ)を葬り去った(12月30日参照>>)事、

などを受けた足利義満が、ここで本格的に南北朝の合一に乗り出し、ついに元中九年・明徳三年(1392年)10月、義満から出された

  1. 三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡され、それは「御譲国の儀式」にのっとって行われる事
  2. 今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う
  3. 旧南朝ゆかりの君臣を経済的に援助するため、旧南朝方に「諸国国衙領(しょこくこくがりょう)を領知(りょうち・土地を領有して支配)させる

の三条件を提示した書状が南朝に送られた後、10月2日に条件を呑んだ後亀山天皇が嵯峨野(さがの=京都市)大覚寺(だいかくじ)に入り、その3日後に、南朝が保持していた三種の神器が後小松天皇の皇居に送られ、ここに50余年に渡る南北朝の時代が終わったのです。

Gokomatutennou700a そう、この南北朝合一の時の天皇が後小松天皇なのですね~なので後小松天皇は北朝第6代であり第100代の天皇でもあるわけです。

ただ、上記の合一への三条件が足利義満から出された事でもわかるように、すでに義満の朝廷への影響はかなり大きかったわけで、この時期は、天皇と言えど後小松天皇は未だ若く、父の後円融上皇が形ばかりの院政を行っていたのが現状でした。

さらに、翌・明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御された事で、足利義満の朝廷への影響が、増して大きくなり、後小松天皇が治天の君(ちてんのきみ=政務の実権を握った天皇)として親政の形をとるものの、結局のところ、実権を握っていたのは義満でした。

翌応永元年(1395年)12月には、義満は、嫡男の足利義持(よしもち)将軍職を譲って隠居しますが、お察しの通り、退くどころか益々実権を握り、同年に従一位太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)にまで昇進しています。

ちなみに、武家で太政大臣になったのは、あの平清盛(たいらのきよもり)(2月11日参照>>)以来の2人めです。

その翌年に義満は、出家して道義と号しますが、これは仏門に帰依というよりは、武家として征夷大将軍という頂点に達し、朝廷では太政大臣として、これまた頂点に達した義満が、寺社勢力においても頂点を掴もうとした?と考えられていて、仏門に入って隠居というには、ほど遠い物だったと思われます。

おそらく、この頃が義満の最高潮時代・・・なんせ、以前は交易しようと声をかけても、九州の懐良親王を「日本国王良懐」として相手にしてくれなかった(みん=現在の中国)の国王から、応永八年(1401年)には「日本国王源道義」なる返書をもらって(5月13日参照>>)、まさに国王のごとく振舞っていたウキウキ時期でしたから。

また、古くから巷には「百王思想」とか「百王説」などと呼ばれる「皇統が100代続けば断絶し新しい王が生まれる」という考え方があり、ちょうど後小松天皇が100代だった事から、「このまま足利が取って代わるのではないか?」なんて噂が、まことしやかに囁かれていたようなので、

後小松天皇としても、不本意ではあるものの、ここは、その勢いを認めて大人しくして、リベンジのチャンスを伺うしかなかった事でしょう。

しかし、そんな足利義満も 応永十五年(1408年)5月に病死・・・それを受けてか?応永十九年(1412年)8月に後小松天皇は第1皇子の称光(しょうこう=101代)天皇に譲位して、自身は上皇となり院政を開始します。

さぁ、ここからいよいよ・・・と言いたいところですが、お察しの通り、これは、完全なる約束破り・・・そう上記の合一条件の2番=「今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う」はずだったのに、それを無視して自分の息子に譲位しちゃったわけですから。。。

もちろん、これは後小松天皇の独断ではなく、北朝足利側が、はなから守る気無かったって感じですが、残念ながら、これに反発した旧南朝勢力が武将蜂起をしたり、後亀山天皇が吉野へ出奔するなどの事件が起こってしまっています(4月12日参照>>)

しかも、院政を開始したと言っても、しごく微妙な感じ・・・結局は、後小松天皇が親政を行っていた治天の君だったかどうかは、様々な考え方があり、幕府権力との力関係についても、よくわかっていないのが現状です。

なんせ白河(しらかわ=72代)天皇が上皇となって院政を開始して政界に君臨した(11月26日参照>>)あの平安の時代とは、なにもかも違うのですから、おそらくは、その頃のような権力を握れる事は無かったでしょう。

病弱だった称光天皇が崩御し、永享元年(1429年)には後花園(ごはなぞの=103代・伏見宮からの猶子)天皇が即位し、この2代に渡って院政を敷いた後、永享五年(1433年)10月20日に、後小松天皇は57歳で崩御されます。

結局、この後小松天皇以降は、院政も治天の君も、完全なる形だけの物となり、2度と日の目を見る事はない、事実上の終焉を迎えている事を踏まえれば、やはり後小松天皇の実力云々以前に、もはや時代の波に抗う事はできなかった物と思われます。

この次に、幕府に物申す強気な天皇が登場するのは、約400年後・・・江戸も天保の第119代光格(こうかく)天皇まで待たねばならない事になります。

★光格天皇については…
  御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件
のページでどうぞm(_ _)m
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2021年10月13日 (水)

徳川家康の直系ご先祖~松平親忠の井田野の戦い

 

明応二年(1493年)10月13日、松平親忠が彼に反発する勢力に勝利した井田野の戦いがありました。

・・・・・・・

その不穏な空気は、三河(みかわ=愛知県東部)松平氏3代当主松平信光(まつだいらのぶみつ)が亡くなった長享二年(1488年)もしくは長享三年(1489年)・・・その死の直後から始まります。

…というのも、
遺言により、その死を受けて家督は三男の松平親忠(ちかただ)に譲られ、親忠が松平氏第4代当主となったとされているのですが、なぜに三男に譲るのか?がハッキリしない・・・

しかも、一説には、本当は、長男に家督を譲り、三男=親忠は、あくまでその分家の補佐だったものの、後に、この親忠の家系から大物を輩出するので、あとから、親忠が家督を継いだ事に書き換えた・・・なんて事も言われます。

そう、
実は、この親忠さんが、あの徳川家康(とくがわいえやす)の祖父の祖父の父=5代前のご先祖様なのです。

そもそもは、松平信光が松平氏3代という事も曖昧で・・・だとすると、当然、後を継いだ親忠の第4代もどうなんだか?…てな感じですが、

ま、有名になる前の人物の家系図という物は、概ね、そんな感じが多いので、とりあえず親忠が三男だけど、父の遺言を受けて家督を継いだ・・・という事で話を進めさせていただきます。

とにもかくにも、そんな曖昧な家督相続だった事から、これに反発する国人領主も多く、先代信光の死からほどなく、未だ親忠が正式に家督を相続していない段階から、不満分子たちが結束して、打倒親忠ののろしを挙げたのです。

それは明応二年(1493年)・・・と言いますから、

畿内では、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)が、前将軍をクビにして、自身の意のままになる将軍を擁立したクーデター『明応の政変』が起こり(4月22日参照>>)

関東では、幕府奉公衆(諸説あり)だった北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が、幕府公認の堀越公方(ほりごえくぼう=関東公方の後継)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒して公方家を滅亡させた『伊豆討ち入り』があった(10月11日参照>>)

まさに時代の転換期=戦国の幕開けとも言える年・・・

反親忠派として蜂起したのは、
伊保城(いぼじょう=愛知県豊田市保見町)三宅加賀守(みやけかがのかみ)
挙母城(ころもじょう=同豊田市小坂本町・七州城とも)中条出羽守(なかじょうでわのかみ)
八草城(やぐさじょう=同豊田市八草町)那須宗左衛門(なすそうざえもん)
上野城(うえのじょう=同豊田市上郷町)阿部孫次郎(あべまごじろう)(以上『参河国聞書』より)

さらに、
寺部城(てらべじょう=同豊田市寺部町)鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ)
も加わっており『松平町誌』より)
これは、親忠側にとっては、なかなかの窮地・・・

Idanonotatakai
「井田野の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

かくして明応二年(1493年)10月13日、三宅ら連合軍は、松平側の岩津城(いわつじょう=同岡崎市岩津町)を攻め落とし、その勢いのまま、親忠の拠る岡崎城(おかざきじょう=同岡崎市康生町)へと迫ったのです。

三宅・中条・阿部の諸隊が、大門(だいもん=岡崎市岩津地区)から矢作川(やはぎがわ=長野→岐阜→愛知から三河湾に注ぐ)を渡り、鈴木隊が桑原(くわばら=岡崎市桑原町)細川ほそかわ=岡崎市細川町)に寄せて来ます。

これを受けた親忠は、岡崎城を出て、井田野(いだの=岡崎市井田町)にて迎え撃つ事にしたのです。

この時、先手を担当したのは、松平長勝(ながかつ)という武将でした。

この長勝は、松平郷松平家(まつだいらごうまつだいらけ=松平太郎左衛門家とも)と呼ばれる三河国の国衆である松平氏の宗家の4代目の人・・・

後に、この松平郷松平家は庶宗家なんて呼ばれ方をしますが、それは、最初に書いた通り、今回の主役である松平親忠さんの松平家が、後々徳川家康に繋がっていくにあたり、いつしか、そっちが本家のような扱いになってしまうからであって、この頃は、むしろ、この松平郷松平家が宗家だったわけですが・・・

…で、今回、先手を預かった井田野の戦いでは、長勝は、まさに先陣を切って敵に突入し、壮絶な討死を遂げますが、その死と引き換えに、親忠に勝利をもたらし、松平親忠の武名の向上に一役かったのでした。

その命を懸けた戦いぶりに感動した親忠は、長勝の嫡子である松平勝茂(かつしげ)に、その所領を大幅加増して、猛将の死を惜しんだと言います。

ちなみに、この松平郷松平家は、結局は、戦国時代において三河の国衆レベル以上の出世を遂げる事はありませんでしたが、家康が天下を取って後も、江戸時代には旗本ながら独立大名に近い扱いを受け、松平家発祥の地を守り抜き、明治維新を迎えるまで立派に存続したという事です。
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2021年10月 6日 (水)

東北の関ヶ原~伊達政宗と本庄繁長の福島城攻防

 

慶長五年(1600年)10月6日、関ヶ原のドサクサで展開された長谷堂城の戦いの撤退戦のドサクサで、伊達政宗が福島城を攻めました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、会津征伐を決行した出陣した豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)に対し、反対派(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い

この時、家康の会津攻めに先立って、岩出山城(いわでやまじょう=現・宮城県大崎市)を居城としていた伊達政宗(だてまさむね)は、北目城(きためじょう=宮城県仙台市太白区)へと入ります。

…というのも、未だ豊臣政権盛隆なる頃、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命で、かの上杉家が越後(えちご=新潟県)から会津に転封した際(1月10日参照>>)刈田(かった=現在の宮城県刈田郡付近)信夫(しのぶ=福島県福島市付近)といった、かつての伊達領が、そこに組み込まれ、現在は上杉領となっていたため、このドサクサで旧領を回復させようと考えたから・・・

Datemasamune650 もちろん、この時の政宗は、家康から会津攻めを信夫口にてサポートする命も受けておりましたから、上杉との境界線への出兵は、はなから計算していた事だったわけですが。。。

そして、そのまま上杉の目をくぎ付けにすべく上杉配下の河股城(かわまたじょう=福島県伊達郡 )を攻撃しておいて、そのスキに、同じく上杉の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)へ向かい、7月25日、白石城を開城に追い込み(7月25日参照>>)ここを拠点に上杉領深くへ攻め込むつもりでした。

ところがドッコイ・・・
なんと、その同じ日に、上記の三成による伏見城攻撃を知った家康が、会津征伐を中止してUターンを決意するのです(【小山評定】参照>>)

西での決戦を意識した家康は、政宗に上杉をあまり刺激しないよう進言しつつも、一方で、西へ戻る自身の背後を突かれぬために、上杉へのけん制を怠らないよう釘を刺し、勝利のあかつきには、かつての伊達領+αの恩賞を政宗に与える覚書=世に言う「100万石のお墨付き」を送ったのです(8月12日参照>>)

ここで実際に、上杉が、西へ戻る家康を追撃していたら、家康は相当マズかったわけですが、幸いな事に上杉は動かず・・・一説には上杉執政(しっせい=政務を行う役職)直江兼続(なおえかねつぐ)は、追撃する気満々だったものの、景勝が許さなかったとも言われていますが、

とにかく、御大家康からの制止要請が入り、上杉の追撃も無い以上、うかつに動けぬ伊達政宗は、白石城を石川昭光(いしかわあきみつ)に任せ、北目城に戻り、心ならずも上杉との和睦交渉に入ります。

伊達と同じく、この時、東軍の家康についていた出羽(でわ=山形県・秋田県)最上義光(もがみよしあき)も上杉との和睦交渉に入りますが、おそらくこれは、両者とも(関ヶ原の動向を)様子見ぃの時間稼ぎ・・・

上杉側も、それは百も承知で、上杉自身も西の様子は気になるところではありますが、ヤル気満々な中、家康の追撃を景勝の命で諦めざるを得なかった直江兼続が、

ここで最上義光の山形城(やまがたしょう=山形県山形市)を落とすべく、9月9日、出羽への侵攻を開始し、まずは、最上配下の志村光安(しむらあきやす)が守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

長谷堂城は、本拠である山形城の守りの要・・・
「ここを落とされて、上杉軍に山形に殺到されては困る」
と思った最上義光は、伊達政宗に援軍の要請をしますが、

つい先日に和睦を進めた手前、
「自らが出陣するのはマズイ」
と思った政宗は、叔父の留守政景(るすまさかげ)を最上の援軍として向かわせした。

そんなこんなの9月29日、ようやく伊達政宗は北目城を出陣し、翌9月30日に白石城に入って、ここから、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)にいる結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男)らと連携して上杉領へと侵攻・・・するつもりでしたが、

ここで、あの関ヶ原の戦いが、たった半日で勝敗が決し、東軍=家康が勝ったとの知らせが入ったため、再び、家康からの停戦命令が入るかも知れないと思い、政宗は、またまた北目城へと戻ります。

しかし、停戦命令は出なかった・・・

しかも、かの長谷堂での合戦真っただ中の直江兼続も、同じ9月30日に関ヶ原での一報を聞き、翌10月1日から撤退を開始し始めたのです(10月1日参照>>)

ならば!
と、10月3日、再び北目城を出陣した伊達政宗は、白石城で1日休憩した後、
「またとない好機!」
とばかりに、信夫郡に侵攻を開始・・・

かくして慶長五年(1600年)10月6日、伊達政宗は、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)総攻撃を仕掛けたのです。

もちろん、この福島城は、元をただせば伊達の城・・・平城ではあるものの、城の東方と南方には阿武隈川(あぶくまがわ)荒川(あらかわ)が流れて天然の要害を成す堅城です。

とは言え、攻める伊達は2万の兵に、守る城側はその半分くらい・・・しかも、政宗は、うまく会津との連絡線を断ち切っていたため、この福島の事態は上杉景勝のもとには届かず、おそらく援軍は期待できない状況でした。

Honzyousigenaga700a そんな中で、本庄繁長は、
「まずは迎撃!」
とばかりに大宝寺義勝(だいほうじよしかつ=本庄繁長の次男)とともに野戦へと挑みますが、上記の通り、伊達勢の数の多さには叶わず・・・

やむなく、城に引き返し、籠城戦へと入りますが、数に物を言わせた伊達勢は、ままたく間に城下へと押し寄せ、福島城を完全包囲したかと思うと、城門を打ち破って突入・・・福島城は、落城寸前となります。

しかし、この時・・・
本庄繁長らとともに福島城に籠城していた協力者である梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)須田長義(すだながよし)が、密かに城外へと向かい、伊達の小荷駄隊(こにだたい=合戦用の備品を運ぶ部隊)を襲撃(松川の戦いと呼ばれる)・・・

これが、かなりの敵勢を討ち取ったらしく、大きな痛手を被った伊達政宗は、やむなく、翌10月7日、そのまま北目城へと戻って行く事になります。

とは言え、実は、この松川の戦いは、その日付も内容も文献によって複数あり、どれが正しいのか?よくわかっていません。

今回の福島城の攻防においても、伊達と上杉、両者もが「勝った」と言い張ってるように記録されているので、実際のところは、落城寸前まで追い込んだ福島城をそのままに、伊達政宗が翌日に北目城に戻った理由も不明なのです。

一説には、未だ家康の攻撃許可が出ていなかった事を懸念したのではないか?とも考えられています。

後の、関ヶ原の論功行賞でも、政宗は結局2万石しか増加されず、先の「百万石のお墨付き」とは、ほど遠い結果になった事を見ても、家康は、伊達政宗によるヤリ過ぎ単独行動を、あまり快く思っていなかったように感じますので、やはり、そのへんの事を気使ったのかも知れません。

とにもかくにも、ここで本庄繁長の福島城は守られました。

その後、上杉家で以って開かれた軍議で、この先も家康との徹底抗戦を訴える直江兼続に対し、
「恭順な姿勢を見せて和睦交渉するべき」
と主張した本庄繁長・・・

結局、この繁長の案が採用され、上杉家は平謝りの和睦交渉の末、大幅減封とななるものの、お取り潰しにも主君景勝の首を取られる事も無く、大名として生き残る事となったわけです(そのお話は8月24日参照>>)
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