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2021年10月20日 (水)

南北朝合一の第100代天皇~室町幕府に翻弄された後小松天皇

 

永享五年(1433年)10月20日、 南北朝合一に関与した第100代=後小松天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

わずか6歳の幹仁(もとひと)親王が、父である後円融(ごえんゆう)天皇の譲位を受けて、北朝第6代後小松(ごこまつ天皇号は後に呼称される物ですが、ややこしいので…)天皇となったのは永徳二年(1382年)の事でした。

ご存知のように、
Nanbokutyoukeizu2cc ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、後醍醐(ごだいご=96代・南朝初代)天皇と袂を分かつ事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都にて室町幕府を開き、持明院統光厳(こうごん=北朝初代)天皇を立てた北朝(8月15日参照>>)に対抗し、大覚寺統の後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)にて開いたのが南朝(12月21日参照>>)です。

初頭から楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)などの有力武将を失い、さらに延元四年・暦応二年(1339年)には後醍醐天皇さえも崩御される(8月16日参照>>)危機を迎えながらも踏ん張る南朝(12月7日参照>>)と、

一方で、概ね優位に戦いを進めながらも観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)など、内部分裂激しい北朝・・・

しかし、尊氏の孫の足利義満(よしみつ)第3代室町幕府将軍に就任する(12月30日参照>>)応安元年(正平二十三年・1368年)頃からは、南朝方の衰退が目立つようになり、今回の後小松天皇が即位する頃には、和平交渉も開始されるように・・・ただ、幕府に対して強硬路線をとる南朝の長慶(ちょうけい=第98代・南朝3代)天皇との交渉はなかなか進まずにいました。

そんな中、九州にて勢力を保っていた南朝側の懐良(かねよし・かねなが)親王(8月6日参照>>)が弘和三年・永徳三年(1383年)3月に亡くなった事(3月27日参照>>)

また、同年の冬に強硬派の長慶天皇が、弟で和平派の後亀山(ごかめやま=99代・北朝4代)天皇に譲位した事、

さらに元中八年・明徳二年(1391年)の明徳の乱で有力守護の山名氏清(やまなうじきよ)を葬り去った(12月30日参照>>)事、

などを受けた足利義満が、ここで本格的に南北朝の合一に乗り出し、ついに元中九年・明徳三年(1392年)10月、義満から出された

  1. 三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡され、それは「御譲国の儀式」にのっとって行われる事
  2. 今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う
  3. 旧南朝ゆかりの君臣を経済的に援助するため、旧南朝方に「諸国国衙領(しょこくこくがりょう)を領知(りょうち・土地を領有して支配)させる

の三条件を提示した書状が南朝に送られた後、10月2日に条件を呑んだ後亀山天皇が嵯峨野(さがの=京都市)大覚寺(だいかくじ)に入り、その3日後に、南朝が保持していた三種の神器が後小松天皇の皇居に送られ、ここに50余年に渡る南北朝の時代が終わったのです。

Gokomatutennou700a そう、この南北朝合一の時の天皇が後小松天皇なのですね~なので後小松天皇は北朝第6代であり第100代の天皇でもあるわけです。

ただ、上記の合一への三条件が足利義満から出された事でもわかるように、すでに義満の朝廷への影響はかなり大きかったわけで、この時期は、天皇と言えど後小松天皇は未だ若く、父の後円融上皇が形ばかりの院政を行っていたのが現状でした。

さらに、翌・明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御された事で、足利義満の朝廷への影響が、増して大きくなり、後小松天皇が治天の君(ちてんのきみ=政務の実権を握った天皇)として親政の形をとるものの、結局のところ、実権を握っていたのは義満でした。

翌応永元年(1395年)12月には、義満は、嫡男の足利義持(よしもち)将軍職を譲って隠居しますが、お察しの通り、退くどころか益々実権を握り、同年に従一位太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)にまで昇進しています。

ちなみに、武家で太政大臣になったのは、あの平清盛(たいらのきよもり)(2月11日参照>>)以来の2人めです。

その翌年に義満は、出家して道義と号しますが、これは仏門に帰依というよりは、武家として征夷大将軍という頂点に達し、朝廷では太政大臣として、これまた頂点に達した義満が、寺社勢力においても頂点を掴もうとした?と考えられていて、仏門に入って隠居というには、ほど遠い物だったと思われます。

おそらく、この頃が義満の最高潮時代・・・なんせ、以前は交易しようと声をかけても、九州の懐良親王を「日本国王良懐」として相手にしてくれなかった(みん=現在の中国)の国王から、応永八年(1401年)には「日本国王源道義」なる返書をもらって(5月13日参照>>)、まさに国王のごとく振舞っていたウキウキ時期でしたから。

また、古くから巷には「百王思想」とか「百王説」などと呼ばれる「皇統が100代続けば断絶し新しい王が生まれる」という考え方があり、ちょうど後小松天皇が100代だった事から、「このまま足利が取って代わるのではないか?」なんて噂が、まことしやかに囁かれていたようなので、

後小松天皇としても、不本意ではあるものの、ここは、その勢いを認めて大人しくして、リベンジのチャンスを伺うしかなかった事でしょう。

しかし、そんな足利義満も 応永十五年(1408年)5月に病死・・・それを受けてか?応永十九年(1412年)8月に後小松天皇は第1皇子の称光(しょうこう=101代)天皇に譲位して、自身は上皇となり院政を開始します。

さぁ、ここからいよいよ・・・と言いたいところですが、お察しの通り、これは、完全なる約束破り・・・そう上記の合一条件の2番=「今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う」はずだったのに、それを無視して自分の息子に譲位しちゃったわけですから。。。

もちろん、これは後小松天皇の独断ではなく、北朝足利側が、はなから守る気無かったって感じですが、残念ながら、これに反発した旧南朝勢力が武将蜂起をしたり、後亀山天皇が吉野へ出奔するなどの事件が起こってしまっています(4月12日参照>>)

しかも、院政を開始したと言っても、しごく微妙な感じ・・・結局は、後小松天皇が親政を行っていた治天の君だったかどうかは、様々な考え方があり、幕府権力との力関係についても、よくわかっていないのが現状です。

なんせ白河(しらかわ=72代)天皇が上皇となって院政を開始して政界に君臨した(11月26日参照>>)あの平安の時代とは、なにもかも違うのですから、おそらくは、その頃のような権力を握れる事は無かったでしょう。

病弱だった称光天皇が崩御し、永享元年(1429年)には後花園(ごはなぞの=103代・伏見宮からの猶子)天皇が即位し、この2代に渡って院政を敷いた後、永享五年(1433年)10月20日に、後小松天皇は57歳で崩御されます。

結局、この後小松天皇以降は、院政も治天の君も、完全なる形だけの物となり、2度と日の目を見る事はない、事実上の終焉を迎えている事を踏まえれば、やはり後小松天皇の実力云々以前に、もはや時代の波に抗う事はできなかった物と思われます。

この次に、幕府に物申す強気な天皇が登場するのは、約400年後・・・江戸も天保の第119代光格(こうかく)天皇まで待たねばならない事になります。

★光格天皇については…
  御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件
のページでどうぞm(_ _)m
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