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2021年10月13日 (水)

徳川家康の直系ご先祖~松平親忠の井田野の戦い

 

明応二年(1493年)10月13日、松平親忠が彼に反発する勢力に勝利した井田野の戦いがありました。

・・・・・・・

その不穏な空気は、三河(みかわ=愛知県東部)松平氏3代当主松平信光(まつだいらのぶみつ)が亡くなった長享二年(1488年)もしくは長享三年(1489年)・・・その死の直後から始まります。

…というのも、
遺言により、その死を受けて家督は三男の松平親忠(ちかただ)に譲られ、親忠が松平氏第4代当主となったとされているのですが、なぜに三男に譲るのか?がハッキリしない・・・

しかも、一説には、本当は、長男に家督を譲り、三男=親忠は、あくまでその分家の補佐だったものの、後に、この親忠の家系から大物を輩出するので、あとから、親忠が家督を継いだ事に書き換えた・・・なんて事も言われます。

そう、
実は、この親忠さんが、あの徳川家康(とくがわいえやす)の祖父の祖父の父=5代前のご先祖様なのです。

そもそもは、松平信光が松平氏3代という事も曖昧で・・・だとすると、当然、後を継いだ親忠の第4代もどうなんだか?…てな感じですが、

ま、有名になる前の人物の家系図という物は、概ね、そんな感じが多いので、とりあえず親忠が三男だけど、父の遺言を受けて家督を継いだ・・・という事で話を進めさせていただきます。

とにもかくにも、そんな曖昧な家督相続だった事から、これに反発する国人領主も多く、先代信光の死からほどなく、未だ親忠が正式に家督を相続していない段階から、不満分子たちが結束して、打倒親忠ののろしを挙げたのです。

それは明応二年(1493年)・・・と言いますから、

畿内では、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)が、前将軍をクビにして、自身の意のままになる将軍を擁立したクーデター『明応の政変』が起こり(4月22日参照>>)

関東では、幕府奉公衆(諸説あり)だった北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が、幕府公認の堀越公方(ほりごえくぼう=関東公方の後継)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒して公方家を滅亡させた『伊豆討ち入り』があった(10月11日参照>>)

まさに時代の転換期=戦国の幕開けとも言える年・・・

反親忠派として蜂起したのは、
伊保城(いぼじょう=愛知県豊田市保見町)三宅加賀守(みやけかがのかみ)
挙母城(ころもじょう=同豊田市小坂本町・七州城とも)中条出羽守(なかじょうでわのかみ)
八草城(やぐさじょう=同豊田市八草町)那須宗左衛門(なすそうざえもん)
上野城(うえのじょう=同豊田市上郷町)阿部孫次郎(あべまごじろう)(以上『参河国聞書』より)

さらに、
寺部城(てらべじょう=同豊田市寺部町)鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ)
も加わっており『松平町誌』より)
これは、親忠側にとっては、なかなかの窮地・・・

Idanonotatakai
「井田野の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

かくして明応二年(1493年)10月13日、三宅ら連合軍は、松平側の岩津城(いわつじょう=同岡崎市岩津町)を攻め落とし、その勢いのまま、親忠の拠る岡崎城(おかざきじょう=同岡崎市康生町)へと迫ったのです。

三宅・中条・阿部の諸隊が、大門(だいもん=岡崎市岩津地区)から矢作川(やはぎがわ=長野→岐阜→愛知から三河湾に注ぐ)を渡り、鈴木隊が桑原(くわばら=岡崎市桑原町)細川ほそかわ=岡崎市細川町)に寄せて来ます。

これを受けた親忠は、岡崎城を出て、井田野(いだの=岡崎市井田町)にて迎え撃つ事にしたのです。

この時、先手を担当したのは、松平長勝(ながかつ)という武将でした。

この長勝は、松平郷松平家(まつだいらごうまつだいらけ=松平太郎左衛門家とも)と呼ばれる三河国の国衆である松平氏の宗家の4代目の人・・・

後に、この松平郷松平家は庶宗家なんて呼ばれ方をしますが、それは、最初に書いた通り、今回の主役である松平親忠さんの松平家が、後々徳川家康に繋がっていくにあたり、いつしか、そっちが本家のような扱いになってしまうからであって、この頃は、むしろ、この松平郷松平家が宗家だったわけですが・・・

…で、今回、先手を預かった井田野の戦いでは、長勝は、まさに先陣を切って敵に突入し、壮絶な討死を遂げますが、その死と引き換えに、親忠に勝利をもたらし、松平親忠の武名の向上に一役かったのでした。

その命を懸けた戦いぶりに感動した親忠は、長勝の嫡子である松平勝茂(かつしげ)に、その所領を大幅加増して、猛将の死を惜しんだと言います。

ちなみに、この松平郷松平家は、結局は、戦国時代において三河の国衆レベル以上の出世を遂げる事はありませんでしたが、家康が天下を取って後も、江戸時代には旗本ながら独立大名に近い扱いを受け、松平家発祥の地を守り抜き、明治維新を迎えるまで立派に存続したという事です。
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コメント

三河の松平本家と言える「松平郷松平家」はいま当主はいますか?
私の親せきでいま90才くらいの人が岡崎市に住んでいるので、もしかするとこの戦いを故事・伝承として知っているかも?
余談ですが、松平親忠の息子(家康の高祖父)の長親は家康が生まれた時まだ生きていたんですね。
といっても家康が生まれた時点で、70才くらいだったと聞いてます。

投稿: えびすこ | 2021年10月15日 (金) 22時21分

えびすこさん、こんばんは~

>「松平郷松平家」は…
血脈は続いているようですね。

>長親は家康が生まれた時まだ生きていた…

代々名乗る名である竹千代の名を家康の幼名にした人と言われてるらしいですね。

投稿: 茶々 | 2021年10月16日 (土) 05時07分

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