« 東北の関ヶ原~長谷堂の戦い…猛将・上泉奏綱=上泉憲元の討死 | トップページ | 徳川家康の直系ご先祖~松平親忠の井田野の戦い »

2021年10月 6日 (水)

東北の関ヶ原~伊達政宗と本庄繁長の福島城攻防

 

慶長五年(1600年)10月6日、関ヶ原のドサクサで展開された長谷堂城の戦いの撤退戦のドサクサで、伊達政宗が福島城を攻めました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、会津征伐を決行した出陣した豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)に対し、反対派(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い

この時、家康の会津攻めに先立って、岩出山城(いわでやまじょう=現・宮城県大崎市)を居城としていた伊達政宗(だてまさむね)は、北目城(きためじょう=宮城県仙台市太白区)へと入ります。

…というのも、未だ豊臣政権盛隆なる頃、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命で、かの上杉家が越後(えちご=新潟県)から会津に転封した際(1月10日参照>>)刈田(かった=現在の宮城県刈田郡付近)信夫(しのぶ=福島県福島市付近)といった、かつての伊達領が、そこに組み込まれ、現在は上杉領となっていたため、このドサクサで旧領を回復させようと考えたから・・・

Datemasamune650 もちろん、この時の政宗は、家康から会津攻めを信夫口にてサポートする命も受けておりましたから、上杉との境界線への出兵は、はなから計算していた事だったわけですが。。。

そして、そのまま上杉の目をくぎ付けにすべく上杉配下の河股城(かわまたじょう=福島県伊達郡 )を攻撃しておいて、そのスキに、同じく上杉の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)へ向かい、7月25日、白石城を開城に追い込み(7月25日参照>>)ここを拠点に上杉領深くへ攻め込むつもりでした。

ところがドッコイ・・・
なんと、その同じ日に、上記の三成による伏見城攻撃を知った家康が、会津征伐を中止してUターンを決意するのです(【小山評定】参照>>)

西での決戦を意識した家康は、政宗に上杉をあまり刺激しないよう進言しつつも、一方で、西へ戻る自身の背後を突かれぬために、上杉へのけん制を怠らないよう釘を刺し、勝利のあかつきには、かつての伊達領+αの恩賞を政宗に与える覚書=世に言う「100万石のお墨付き」を送ったのです(8月12日参照>>)

ここで実際に、上杉が、西へ戻る家康を追撃していたら、家康は相当マズかったわけですが、幸いな事に上杉は動かず・・・一説には上杉執政(しっせい=政務を行う役職)直江兼続(なおえかねつぐ)は、追撃する気満々だったものの、景勝が許さなかったとも言われていますが、

とにかく、御大家康からの制止要請が入り、上杉の追撃も無い以上、うかつに動けぬ伊達政宗は、白石城を石川昭光(いしかわあきみつ)に任せ、北目城に戻り、心ならずも上杉との和睦交渉に入ります。

伊達と同じく、この時、東軍の家康についていた出羽(でわ=山形県・秋田県)最上義光(もがみよしあき)も上杉との和睦交渉に入りますが、おそらくこれは、両者とも(関ヶ原の動向を)様子見ぃの時間稼ぎ・・・

上杉側も、それは百も承知で、上杉自身も西の様子は気になるところではありますが、ヤル気満々な中、家康の追撃を景勝の命で諦めざるを得なかった直江兼続が、

ここで最上義光の山形城(やまがたしょう=山形県山形市)を落とすべく、9月9日、出羽への侵攻を開始し、まずは、最上配下の志村光安(しむらあきやす)が守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

長谷堂城は、本拠である山形城の守りの要・・・
「ここを落とされて、上杉軍に山形に殺到されては困る」
と思った最上義光は、伊達政宗に援軍の要請をしますが、

つい先日に和睦を進めた手前、
「自らが出陣するのはマズイ」
と思った政宗は、叔父の留守政景(るすまさかげ)を最上の援軍として向かわせした。

そんなこんなの9月29日、ようやく伊達政宗は北目城を出陣し、翌9月30日に白石城に入って、ここから、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)にいる結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男)らと連携して上杉領へと侵攻・・・するつもりでしたが、

ここで、あの関ヶ原の戦いが、たった半日で勝敗が決し、東軍=家康が勝ったとの知らせが入ったため、再び、家康からの停戦命令が入るかも知れないと思い、政宗は、またまた北目城へと戻ります。

しかし、停戦命令は出なかった・・・

しかも、かの長谷堂での合戦真っただ中の直江兼続も、同じ9月30日に関ヶ原での一報を聞き、翌10月1日から撤退を開始し始めたのです(10月1日参照>>)

ならば!
と、10月3日、再び北目城を出陣した伊達政宗は、白石城で1日休憩した後、
「またとない好機!」
とばかりに、信夫郡に侵攻を開始・・・

かくして慶長五年(1600年)10月6日、伊達政宗は、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)総攻撃を仕掛けたのです。

もちろん、この福島城は、元をただせば伊達の城・・・平城ではあるものの、城の東方と南方には阿武隈川(あぶくまがわ)荒川(あらかわ)が流れて天然の要害を成す堅城です。

とは言え、攻める伊達は2万の兵に、守る城側はその半分くらい・・・しかも、政宗は、うまく会津との連絡線を断ち切っていたため、この福島の事態は上杉景勝のもとには届かず、おそらく援軍は期待できない状況でした。

Honzyousigenaga700a そんな中で、本庄繁長は、
「まずは迎撃!」
とばかりに大宝寺義勝(だいほうじよしかつ=本庄繁長の次男)とともに野戦へと挑みますが、上記の通り、伊達勢の数の多さには叶わず・・・

やむなく、城に引き返し、籠城戦へと入りますが、数に物を言わせた伊達勢は、ままたく間に城下へと押し寄せ、福島城を完全包囲したかと思うと、城門を打ち破って突入・・・福島城は、落城寸前となります。

しかし、この時・・・
本庄繁長らとともに福島城に籠城していた協力者である梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)須田長義(すだながよし)が、密かに城外へと向かい、伊達の小荷駄隊(こにだたい=合戦用の備品を運ぶ部隊)を襲撃(松川の戦いと呼ばれる)・・・

これが、かなりの敵勢を討ち取ったらしく、大きな痛手を被った伊達政宗は、やむなく、翌10月7日、そのまま北目城へと戻って行く事になります。

とは言え、実は、この松川の戦いは、その日付も内容も文献によって複数あり、どれが正しいのか?よくわかっていません。

今回の福島城の攻防においても、伊達と上杉、両者もが「勝った」と言い張ってるように記録されているので、実際のところは、落城寸前まで追い込んだ福島城をそのままに、伊達政宗が翌日に北目城に戻った理由も不明なのです。

一説には、未だ家康の攻撃許可が出ていなかった事を懸念したのではないか?とも考えられています。

後の、関ヶ原の論功行賞でも、政宗は結局2万石しか増加されず、先の「百万石のお墨付き」とは、ほど遠い結果になった事を見ても、家康は、伊達政宗によるヤリ過ぎ単独行動を、あまり快く思っていなかったように感じますので、やはり、そのへんの事を気使ったのかも知れません。

とにもかくにも、ここで本庄繁長の福島城は守られました。

その後、上杉家で以って開かれた軍議で、この先も家康との徹底抗戦を訴える直江兼続に対し、
「恭順な姿勢を見せて和睦交渉するべき」
と主張した本庄繁長・・・

結局、この繁長の案が採用され、上杉家は平謝りの和睦交渉の末、大幅減封とななるものの、お取り潰しにも主君景勝の首を取られる事も無く、大名として生き残る事となったわけです(そのお話は8月24日参照>>)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 東北の関ヶ原~長谷堂の戦い…猛将・上泉奏綱=上泉憲元の討死 | トップページ | 徳川家康の直系ご先祖~松平親忠の井田野の戦い »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 東北の関ヶ原~長谷堂の戦い…猛将・上泉奏綱=上泉憲元の討死 | トップページ | 徳川家康の直系ご先祖~松平親忠の井田野の戦い »