上杉謙信との戦い~佐野昌綱の生き残り作戦
永禄七年(1564年)10月27日、上杉謙信が、再び背いた佐野昌綱の唐沢山城を攻略しました。
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よく、戦国時代の幕開けと称される応仁の乱ですが、私的には、未だ、この応仁の乱の直後あたりは、室町幕府政権内での上下関係が、将軍家を頂点に、管領(かんれい=将軍の補佐)家→守護(しゅご=県知事)家→守護代(しゅごだい=副知事)家→領主家→みたいに、ある程度保たれていたように思います。
しかし、応仁の乱が全国各地の武将を巻き込んで行われた事によって、各地の武将の力関係がギクシャクし、内紛が起こり、やがて、そのギクシャク内紛が下剋上(げこくじょう=下の者が上の者を倒す)を生み、戦国の群雄割拠となっていく・・・もちろん、その原因を作ったのが応仁の乱という事になれば、戦国の幕開けとするのもアリだと思いますが。。。
とは言え、そんな戦国も、幕開けから何年か経つと、徐々に、その力関係にも差がでてきて、大大名と称されるような戦国大名が登場して来ます。
畿内では、明応の政変(4月22日参照>>)でクーデターを起こした管領の細川政元(ほそかわまさもと)亡き後、その後継者争いでモメてる中で(2月13日参照>>)力をつけた三好長慶(みよしながよし)が、天文十八年(1549年)の江口の戦いに勝利して、ほぼ畿内を掌握し(6月24日参照>>)し、永禄元年(1558年)には、第13代室町幕府将軍の足利義輝(よしてる)と交戦しても、その力は揺るぎないほどになっています(6月9日参照>>)。
一方の関東では、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東支配のための足利家)がゴタゴタやってる中で(9月30日参照>>)公方家の一つである堀越(ほりごえ)公方を倒した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)の孫の北条氏綱(うじつな)が、天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)で関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)もろとも古河(こが)公方の足利晴氏(はるうじ)をせん滅(4月20日参照>>)。
この時、もはや名ばかりの関東管領となってしまった上杉憲政が頼ったのが、越後(えちご=新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存知、後の上杉謙信(うえすぎけんしん)です。
謙信の長尾家は、もともとは越後の守護だった上杉房能(ふさよし=憲政の養父の弟)を追いやって、守護代の長尾為景(ながおためかげ=謙信の父)が掌握したという経緯ではありましたが、背に腹は代えられん!てな感じ?で、永禄二年(1559年)に上杉憲政から家督と関東管領職を譲られて上杉謙信と名乗るようになるわけですが(6月26日参照>>)、
憲政から頼られたこの頃は、未だ越後統治も盤石ではなく、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が信濃(しなの=長野県)への侵攻を着々と進めていて(10月29日参照>>)、それが、あの川中島(かわなかじま)(9月1日参照>>)に発展し、なかなかに厳しい頃ではありましたが、忙しい中でも謙信は、憲政の要請で度々関東へも出兵するようになっていました。
そう・・・関東の諸将は、関東支配を広めようとする北条と、それを阻止しようとする上杉の間で揺れ動く事となっていたのです。
永禄二年(1559年)に下野(しもつけ=栃木県)の国人領主(地侍)だった父=佐野泰綱(さのやすつな)の死を受けて家督を継いだ唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)の佐野昌綱(まさつな)という武将も、その揺れ動く武将の一人でした。
昌綱は、はじめは足利晴氏に仕えていましたが、上記の通り、晴氏が北条に追われたために北条氏康(うじやす=氏綱の息子)と結んでいましたが、ここに来て、かの謙信が安房(あわ=千葉県南部)の里見義堯(さとみよしたか)の救援要請を受けて関東に出兵(1月20日参照>>)する事を知り、上杉側に寝返り・・・
それを知った北条によって、永禄三年(1560年)2月に3万の北条軍で以って唐沢山城を攻められるも、見事!撃退しています。
翌永禄四年(1561年)3月に、謙信が再び関東に出張って来て、北条の本拠地である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を包囲した際には、キッチリ、その包囲陣の一人に加わっていた佐野昌綱・・・
しかし、上記の通り、謙信の関東入りあくまで出張・・・
そんな出張のさ中に、北陸は越中(えっちゅう)富山の神保長職(じんぼうながもと)が勢力拡大に乗り出した(3月30日参照>>)事を知った謙信は、即座に領国へ戻らなければならなくなりました。
しかも、この年は、川中島でも最も有名な…♪鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)~夜 河を渡る~♪でお馴染みの第四次川中島の戦い(9月10日参照>>)が9月にあった年ですから、小田原城を包囲したとて、「今、陥落させるのは無理」と判断すれば、とっとと領国へ帰ってしまうわけで・・・
案の定、上杉軍が去った後の同年の12月・・・謙信への加勢に怒った北条氏康が唐沢山城へ攻撃を仕掛けます。
忙しい謙信からの援軍が期待できない佐野昌綱は、やむなく唐沢山城を開城し、氏康に降伏したのです。
ところが今度は、永禄四年の12月、その降伏を「北条への寝返り」とみなした上杉謙信が唐沢山城を包囲・・・
しかし、実は、この唐沢山城は、唐沢山の山頂に位置する本丸と連郭する曲輪(くるわ=土塁など区画された場所)が見事に配置された「関東一の山城」と称される堅城で、さすがの謙信も簡単には落とせず、本格的な冬を前に(当時は旧暦なので…)、包囲を解いて撤退しました。
そう、実は、この戦いから後の佐野昌綱の敵は上杉謙信のみ・・・しかも、その生涯で大小合わせると10回ほどの戦いがあったとされる中、そのほとんどを佐野昌綱は撃退しているのです。
上記の永禄四年の12月の戦いでの撤退後、越後には戻らず前橋城(まえばしじょう=群馬県前橋市)にて冬を越した謙信は、春を迎えた永禄五年(1562年)3月に、またもや唐沢山城に攻め寄せますが、またもや落城へは至らず撤退・・・
翌永禄六年(1563年)に入ると、謙信が越中での戦いに忙しい事を見越した北条が関東での勢力を拡大し、以前から上杉と北条の間で取り合い(7月20日参照>>)になっていた要所=松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)を奪回します。
謙信は、上記の松山城には間に合わなかったものの、急遽、冬の行軍を決行して関東に入り、関東の北条側の諸城を攻撃して回り、次々と開城させていったのです。
さすがの唐沢山城も、この時の謙信の勢いには勝てず、あえなく開城・・・
しかし、そんな謙信が下野を去った永禄七年(1564年)2月、またもや佐野昌綱は、謙信留守のスキを狙って反旗を翻しますが、この時は、それを阻止せんとする上杉軍との間で激しい戦いとなったため、
さすがの堅城=唐沢山城も耐えがたく、しかも、頼みの北条は第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)に忙しく援軍を期待できないため、やむなく佐野昌綱は、敵方の降伏要請に応じて唐沢山城を開城しました。
ところが、この年の8月に起こった5度目の川中島の戦い(8月3日【塩崎の対陣】参照>>)に謙信が向かったスキを狙って、案の定、北条氏康が侵出・・・
佐野昌綱は、またまた北条側へと寝返り、上杉側についている藤岡城(ふじおかじょう=栃木県栃木市藤岡町)を攻めたのです。
もちろん、謙信としては、この佐野昌綱の行動は許せません。
すぐさま兵を整え、下野へと侵攻した謙信は、10月20日に多田木山 (ただきやま=栃木県足利市多田木町)に着陣して丸一日兵馬を休ませた後、ここから佐野方面へとじりじりと距離を詰め、22日には沼尻(ぬまじり=同栃木市藤岡)に着陣します。
ここで、味方である祇園城(ぎおんじょう=栃木県小山市城山町・小山城)の小山秀綱(おやまひでつな)と、足利公方家の家臣である簗田晴助(やなだはるすけ)を招いて軍議を開き、
25日に、小山(おやま=栃木県小山市)から出陣すると佐野昌綱に向けて警告を発し、唐沢山城に迫って来たのです。
そう・・・残念ながら、さすがの佐野昌綱も、上杉&連合軍からピンポイントで狙われては勝ち目はありません。
かくして永禄七年(1564年)10月27日、佐野昌綱はやむなく降伏・・・人質を差し出しての恭順を誓ったのでした。
とまぁ、さすがに今回は、人質を差し出しての降伏という事で、しばらくは大人しくしていた佐野昌綱でしたが、約2年後の永禄九年(1566年)、謙信が、かねてよりの武田&北条との戦いに加え、またまた越中が騒がしくなった状況(4月13日参照>>)を見て、
「今がチャンス!」
とばかりに、またまた北条側に寝返り・・・それを許さぬ謙信に永禄十年(1567年)2月に、またまた唐沢山城を攻められますが、お約束の如く、冬に勝てない謙信は、一旦撤退・・・
しかし、雪解けを待った翌3月に攻められ、結局、佐野昌綱は、またもや開城を余儀なくされるのですが、
そう・・・以前に、このブログでご紹介した「戦国最弱」と噂される小田氏治(おだうじはる)さん(11月13日参照>>)が、そうであるように、落城&降伏しても、謙信は、その命を取る事はなかったのです。
なんせ謙信は関東管領として出兵しているわけで、自身の領国は越後・・・関東の諸将には、自分の傘下にさえ収まってくれていれば、あえて一族もろともせん滅する必要も無いわけで・・・
そんなこんなしているうちに、永禄十一年(1568年)、あの第15代室町幕府将軍の足利義昭(あしかがよしあき)の上洛(9月7日参照>>)によって、政情が大きく変わります。
この時、武田信玄が甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田と北条と今川の同盟)を勝手に破棄して駿河(するが=静岡県東部)の今川を攻め始めたため、北条が激怒(12月12日参照>>)・・・敵の敵は味方とばかりに、北条が謙信と同盟を結んだおかげで、佐野昌綱が北条と上杉の間で揺れ動く事はなくなりました。
それから後は、元亀元年(1570年)1月に1度だけ、謙信が唐沢山城に迫った事がありましたが、やはりこの時も、謙信は城を落とす事無く兵を退いています。
こうして大国と大国の間で何とか生き残りを掛けて奔走した佐野昌綱・・・残念ながら、息子&孫の時代に北条に呑み込まれてしまう事になるのですが、少なくとも、佐野昌綱自身は、堅城である唐沢山城と、自身の知略で以って天正二年(1574年)まで生き抜いたのでした。
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