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2021年11月24日 (水)

松永久秀の奈良侵攻~檜牧城の戦い

 

永禄三年(1560年)11月24日、奈良支配を強める松永久秀檜牧城を開城させました。

・・・・・・・・・

その地名から、自明塁(じみょうるい)とも呼ばれる檜牧城(ひのまきじょう=奈良県宇陀市榛原区檜牧自明)は、左記の通り、現在の奈良県宇陀市にあったお城で、位置的には有名な長谷寺(はせでら=奈良県桜井市初瀬)室生寺(むろうじ=奈良県宇陀市室生)の真ん中あたり・・・

長谷寺から東へ向かう伊勢本街道(大阪からの伊勢参りの道)を行き、途中で室生寺へ向かう道と分かれて、そのまま伊勢本街道を進んだ先でぶつかる内牧川によって形勢された谷に横たわる集落を見下ろす尾根に立地する天然の要害で、規模的には中規模であったものの、2重の堀と随所に塹壕(ざんごう=敵から身を守るための穴)が設けられた、なかなか実践的な城であったようです。
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檜牧城の麓にある自明不動堂横の国道から旧伊勢本街道への分かれ道

ここを代々治めて来たのが檜牧(ひのまき)氏・・・

この檜牧氏は、「和州宇陀三人衆(やまとしゅううだなんにんしゅう)あるいは「宇陀三将(うださんしょう)と呼ばれた秋山(あきやま)芳野(ほうの)(さわ)のうちの沢氏の同名衆(どうみょうしゅう=もともと同じ苗字を持ち行動をともにした武士の集団)で、この頃は与力(よりき=組下)を務めていたとか・・・

とは言え、ここは、山深いほんのわずかな集落・・・なので、ここを治めていた檜牧氏は、言わば典型的な土豪(どごう=土地に根付く侍)で、いわゆる戦闘員も寡少だったわけですが、それだけに家臣団の団結力も高く、少数ながら一騎当千の精鋭たちに支えられる存在でした。

そんな宇陀地方に狙いをつけて来たのが、去る永禄元年(1558年)の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)に勝利した後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して京都に迎え入れ(11月27日参照>>)、その将軍のもと、いままさに畿内を牛耳る天下人に手をかけた三好長慶(みよしながよし)…の右筆(うひつ=秘書のような家臣)であった松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から、主君の三好長慶の天下人への道の一環として大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始した松永久秀は、かつては大和守護代(しゅごだい=副知事)木沢長政(きざわながまさ)(3月17日参照>>)の居城だった信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改築して、そこを拠点とし、翌永禄三年(1560年)7月には、手始めに井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を陥落させていました(7月24日参照>>)

そんな松永久秀にとって、この宇陀地域は重要な場所・・・それは、冒頭にも書かせていただいた通り、この山あいを伊勢本街道が通っているから。

ご存知のように、一般人がこの街道を通って伊勢神宮にお参りするようになるのは江戸時代以降ですが、古くは記紀にて倭姫命(やもとひめのみこと)天照大神(あまてらすおおみかみ)が鎮座する場所を求めて旅した道で・・・

ま、↑この話は神話の中の出来事だとしても、少なくとも飛鳥時代には政権の置かれた大和と伊勢を結ぶ重要な道として登場していますし、南北朝以降は、伊勢国司(こくし=中央から派遣された官吏)北畠(きたばたけ)が伊勢周辺を本拠(7月20日の真ん中あたり参照>>)とした事から、多くの武士が行き交う要道だったわけですから、

例え小さな土豪と言えど、その場所に、自らに敵対する勢力が根付いている事は、松永久秀陣営にとっては捨ておけないわけで・・・

かくして永禄三年(1560年)11月某日、圧倒的に優勢な数の兵を率いた松永久秀が、山深い檜牧城を囲んだのです。

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檜牧城周辺の位置関係図
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

記録が曖昧なため、くわしい経緯はわからないのですが、幾日かの攻撃があった後の永禄三年(1560年)11月24日、力尽きたとおぼしき檜牧城は、松永方との話し合いの場を設け、結果、噯(あつかい=示談・和睦)となった『足利季世記』との事。。。

つまりは、話し合いによって和睦したという事ですが、実は、以前に書かせていただいたように、この同日、檜牧城から3km弱離れた場所にある沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)も、話し合いの末、松永久秀に開け渡されています(2016年11月24日参照>>)

おそらくは、この沢城の一件があっての檜牧城の開城・・・となった物と思われます。

なんせ、上記の通り、沢城の沢房満(さわふさみつ:房満の没年が不明なので、もしかしたら源六郎かも?)は、檜牧氏の親方ですから、そこが陥落した以上、多勢に無勢の無謀な戦いを続けるのは無意味。。。

一方の松永久秀も、合戦とは言え、自軍の犠牲も少ないに越した事は無く、相手が穏やかに対処しようとしている物を、ムリクリで力攻めする必要もないわけで、今回は、檜牧氏を自身の配下に収める形で、早々に信貴山城に引き上げて行ったという事です。

毎度の事ではありますが、華々しく散るのも戦国武将なら、生き残って血脈をつなぐのも戦国武将・・・どちらかと言えば、何とか生き残って次のチャンスを狙う方が得策かも知れません。

その後の松永久秀の奈良支配
 ●松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
 ●久秀に城を奪われた筒井の報復~大和高田城の戦い
 ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
 ●十市氏の内紛~松永久秀と筒井順慶のはざまで…
 ●松永久秀VS筒井順慶~辰市城の戦い
 ●松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
 ●松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い
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2021年11月17日 (水)

岩櫃斎藤氏の滅亡~真田幸隆の嵩山城の戦い

 

永禄八年(1565年)11月17日、武田信玄の配下となった真田幸隆が、斎藤憲宗城虎丸が守る嵩山城を落とした嵩山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

信濃(しなの=長野県)小県(ちいさがた=上田市とその周辺)を支配していた海野(うんの)海野棟綱(うんのむねつな)の長男もしくは次男、もしくは孫、もしくは娘婿で、小県の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたとされる真田幸隆(さなだゆきたか= 幸綱)。。。

Sanadayukitaka300a しかし、天文十年(1541年)5月14日の海野平(うんのたいら)の戦い(5月14日参照>>)にて、葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)諏訪頼重(すわよりしげ)と連合した甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)に、海野氏もろとも敗北した真田幸隆は、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命し、一時は浪人の身になったものの、

その海野平の戦い直後に、かの信虎は、息子の武田信玄(しんげん=当時は晴信)のクーデターに遭い(6月14日参照>>)、甲斐を追放されてしまうのです。

その後、父を追放した信玄が父とは真逆の方針を打ち出し、翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始(6月24日参照>>)村上義清とも敵対(2月14日参照>>)した事から、真田幸隆は海野平の恨みをを捨て、武田の家臣となったのです。

信濃への更なる侵攻を目論む信玄にとって、この周辺の地の利を持つ幸隆の存在は大変心強く、その期待通り幸隆は、信玄が手こずった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)を落とし(9月9日参照>>)、有名な永禄四年(1561年)の川中島の戦い(9月10日参照>>)でも、啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊を担当しました。

そんなこんなの永禄六年(1563年)、幸隆は、斎藤憲広(さいとうのりひろ)岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)に狙いを定め、周辺の諸将の寝返り作戦&内応者の懐柔作戦を展開しつつ、3度目の総攻撃で岩櫃城を攻略・・・

城主の斎藤憲広と嫡子の斎藤憲宗(のりむね=則宗)は、上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼って越後(えちご=新潟県)へと落ちていったのです(10月14日参照>>)

こうして岩櫃城は落としたものの、実は、近くにあるもう一つの斎藤の城=嵩山城(たけやまじょう=群馬県吾妻郡中之条町)には、斎藤憲広の四男の斎藤城虎丸(しろとらまる)が健在でした。

もちろん、一旦は退いたとは言え、斎藤憲宗(←父の憲広は越後への逃亡以降は不明)の目論見は、この嵩山城を足掛かりに岩櫃城を奪回する事・・・

そんな事は重々承知の幸隆ではありましたが、斎藤憲宗らの亡命を受け入れた上杉謙信が、自身の配下となってる尻高城(しったかじょう=群馬県高山村・要害城)尻高景家(しったかかげいえ)中山安芸守(なかやまあきのかみ)らに嵩山城の支援をさせており、そう簡単には手を出せません。

そこで、まずは、城虎丸が、その信頼を置く後見人の池田重安(いけだしげやす)を、コチラ側に寝返らせる作戦を展開・・・

初め池田重安は、主君=城虎丸の助命を条件に…つまり、
「主君の命を助けてくれたら、自分は武田の下につく」
と真田幸隆に申し出ていましたが、

幸隆が、
「おそらく信玄が城虎丸を許す事は無い事」
「どうあがいても、このままでは嵩山城は落ちてしまう事」
「武田に従えば池田重安の本領は安堵する事」
などなど、徐々に徐々にの懐柔交渉を繰り返し、ついに池田重安を寝返らせる事に成功します。

そして、永禄七年(1564年)、その支城である仙蔵城(せんぞうじょう=群馬県吾妻郡中之条町)を落とし、ここを拠点として嵩山城への攻撃を開始するのです。

明けて永禄八年(1565年)、未だ頑張ってる嵩山城に、上杉謙信の援助を受けて越後から戻った斎藤憲宗が、さらに浪人たちを集めて嵩山城へと入り、弟の城虎丸らと合体して岩櫃城の奪回を模索・・・

かくして11月16日、これ以上の敵方の進軍を防ぐべく、斎藤勢が、仙蔵城近くの五反田原(ごたんだはら=群馬県吾妻郡中之条町)で、真田勢を迎え撃ち、両者は激しい戦いとなりました。

しかし、力攻めで勝る真田勢を食い止める事ができず・・・やむなく、斎藤勢は嵩山城へと後退を開始。

それを追うように、嵩山城近くまで軍勢を勧めた真田方は、翌永禄八年(1565年)11月17日早朝、嵩山城への総攻撃を仕掛けたのです。

戦い激しく、池田より先に降った元斎藤家臣の唐沢杢之助(からさわもくのすけ=十勇姿のモデルの忍者とされる唐沢玄蕃の父)や 西窪治郎左衛門(にしくぼじろうざえもん)らの先陣に戦死者を出しつつも、何とか城内へ突入した真田勢は、一の木戸口(大手)にて湯本善太夫(ゆもとぜんだゆう)が、斎藤一の剛の者と名高い早川源蔵(はやかわげんぞう)を討ち取る功績を挙げ、ついに本丸を落としたのです。

これを受けて、兄の斎藤憲宗は城内で自刃しました。

弟の城虎丸は・・・
実は、嵩山城のある嵩山は、古より修験道の山として信仰を集めていた標高789mの岩山で、大天狗中天狗小天狗と呼ばれる3つの高低差のある峰が存在していたのですが、

その中でも最も厳しい大天狗岩より投身自殺を図ったのでした。

ここに、岩櫃斎藤氏は滅亡したのです。

この翌年の永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さんまで攻め落とす(9月30日参照>>)真田幸隆は、おかげで『謀略の士』『謀将』などと呼ばれつつ、やがては武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられる出世を果たし、真田の祖となるのは皆さまご存知の通りです。

幸隆さんの生涯については2017年5月19日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2021年11月10日 (水)

天下の三大家老~池田家に仕えた姫路築城の総奉行…伊木忠次

 

慶長八年(1603年)11月10日 、戦国時代から江戸時代初期にかけて、池田恒興輝政父子に仕えた家老=伊木忠次が病死しました。

・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)に仕えていた伊木忠次(いぎただつぐ)は、永禄四年(1561年)に、信長が美濃(みの=岐阜県南部)の 斉藤龍興(さいとうたつおき)を攻めた際、
 (【森部の戦い】参照>>)
 (【美濃十四条の戦い】参照>>)
伊木山にて多くの斎藤勢を討つ活躍を見せた事から、信長から伊木の姓を賜って伊木忠次と名乗るようになり、さらに築城も許されて、その伊木山に伊木城(いぎやまじょう=岐阜県各務原市)を構築したとされています。

Ikedatuneoki600a その後、有能な家臣を探していた織田家重臣の池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)にスカウトされ、恒興の与力(よりき=主君は信長だけど指揮命令系統は恒興から受ける)となりました。

…と言っても、実は、このへんは曖昧・・・伊木忠次が歴史上に登場して活躍し始めるのは、その信長が、あの本能寺(ほんのうじ)に倒れた(6月2日参照>>)天正十年(1582年)以降なのです。

それは、天正十二年(1584年)の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県長久手市周辺)の戦い・・・

ご存知のように、この戦いは、信長の後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)で、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の両者で争う中、

山崎の戦い(6月13日参照>>)で仇の明智光秀(あけちみつひで)を討つという功績のあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、信長とともに死んだ嫡男の織田信忠(のぶただ)の遺児である三法師(さんほうし=後の織田秀信)を推し、その後見人に信雄と信孝を据える事で、双方文句無いように収めたはずだったのですが・・・

本能寺の後に燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)の修復をしてる間だけ、居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる約束だった織田信孝が、いつまで経っても三法師を放さないばかりか、

そのまま岐阜城にて籠城し、そんな信孝を重臣の柴田勝家(しばたかついえ)が応援した事から、これまたご存知の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いが勃発しました(2月12日参照>>)

この時、柴田勝家を倒したのは、ご存知、秀吉です(4月21日参照>>)信孝を攻めたのは兄の信雄だった(5月2日参照>>)わけで・・・そのため、どうやら信雄は「信孝亡き後は我こそが織田家の後継者」てな事を考えていたようなのですが、

一方で、大々的に行った信長の葬儀を仕切り(10月15日参照>>)、天正十一年(1583年)9月には、信長が築城を夢見ていた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)跡地に、天下無双の大坂城(おおさかじょう)を築き始めた(9月1日参照>>)秀吉の事を、信雄は、徐々に脅威に感じ

父の長年の同盟者であり、秀吉に対抗できる力を持つ徳川家康(とくがわいえやす)に相談して、共に歩調を合わせる約束をし、翌年=天正十二年(1584年)3月に、自らの配下である3人の家老を「秀吉に通じている疑いがある」として殺害してしまうのです(3月6日参照>>)

こうして始まったのが小牧長久手の戦い・・・秀吉と、信雄を担ぐ家康の直接対決となった戦い。。。

つまり、この時点での恒興は、清須会議にて秀吉とともに三法師を推したとは言え、信長とは乳兄弟だし、本能寺の時の所属は嫡男=信忠の付属だったわけですから、どちらに味方しようが本人次第だったわけです。

そんな中で家康は、さすがに自分と信雄だけでは勝ち目は無いと考え、行動を起こすと同時に、各地の大名に「羽柴筑前、許し難し」の書状を送って味方になってくれるよう呼びかけ四国長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)越前(えちぜん=福井県東部)佐々成政(さっさなりまさ)などが、これに応えていたわけですが、

この時、家康が密かに頼りにしていたのが、信長の乳兄弟である池田恒興だったわけです。

ところが、実際の直接対決の幕開けとなった天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を奇襲(3月12日参照>>)すると、

その日の深夜(厳密には13日の夜明け前)、秀吉方が犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)を攻撃(3月13日参照>>)・・・この犬山城攻撃の中心となったのが池田恒興だったのです。

…とまぁ、
長い前置きになりましたが、何が言いたいかと言いますと、この時、どちらにつくが悩む恒興に、これからの状況を予測して、
「秀吉っさんにしなはれ」
進言したのが伊木忠次だったのです。

結果的に、この戦いで秀吉は揺らぐことなく、なんなら、うまいこと信雄を誘導して、家康の知らぬ間に単独講和に持ち込み(11月16日参照>>)、最終的には、その人たらしの術で家康をも文句言わせない状況に持ち込んだ(10月27日参照>>)わけですから、秀吉に味方するよう進言した伊木忠次の読みは正しかった事になります。

ただし、誤算もありました。

それは、この一連の戦いの中で天正十二年(1584年)4月9日に起こった長久手の戦い(2007年4月9日参照>>) ・・・

この時、伊木忠次は、池田恒興の嫡男である池田元助(もとすけ=之助)の命を受けて岩崎城(いわさきじょう=愛知県日進市)への攻撃に出陣していたのですが、そのさ中に池田恒興&池田元助父子は、森長可(もりながよし=恒興の娘婿・森蘭丸の兄)(2008年4月9日参照>>)らとともに、家康&信雄連合軍の攻撃を受けて父子もろとも討死してしまったのです。

その一報を聞いた伊木忠次は、ともに岩崎城攻撃に参戦していた恒興の次男=池田輝政(てるまさ)とともに、何とか戦場からの離脱に成功して戻ったわけですが、

この敗戦のせいで、秀吉は輝政の池田家相続を認めず、逆に恒興に進言した功により、忠次を田原城(たはらじょう=愛知県田原市)の城主に抜擢して大名にしようとしたらしい・・・

ただ、この時は忠次が固持して輝政の池田家相続を願ったので、秀吉は、輝政の池田家相続を許し、忠次には引き続き輝政を補佐するよう命じた・・・という話もあるようですが、

一方で、輝政を恒興同様に盛り立てる事を約束する4月11日(戦いの2日後)付けのメッチャ良い人っぽい秀吉の手紙(4月11日参照>>)も残っているので、そこの所はどうなんでしょうね?(そこが人たらしなのかも知れんww)

とにもかくにも、結果的には輝政の相続で池田家は残り、5年後の天正十七7年(1589年)には、忠次は、秀吉から(池田家を飛び越えて)直接に美濃葉栗郡(はぐりぐん=現在の一宮市&江南市の一部)で5000石の知行を与えられ、

背にヒョウタンが描かれた自ら愛用の陣羽織を与えられたという事なので、やはり、池田家というよりは、伊木忠次その人が秀吉のお気に入りだったのかも知れません。

とは言え、その後も忠政は、小田原征伐(7月5日参照>>)奥州仕置き(9月4日参照>>)での功績にて、東三河(ひがしみかわ=愛知県東部)15万2000石の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)主となった池田輝政を支えていく事になるのです。

そんなこんなの文禄三年(1594年)、秀吉の仲介で、徳川家康の次女= 督姫(とくひめ)を娶る話が持ち上がります。

実は輝政・・・すでに、中川清秀(なかがわきよひで)の娘である糸姫(いとひめ)を正室に迎えていたのですが、この方が嫡男の池田利隆(としたか)を産んだ天正十二年(1584年)に体調を崩して実家に戻ったまま・・・中川家とは絶縁状態にはなってないものの、もはや、周囲から再婚を勧められるような状態だったようで・・・

一方の督姫も、以前ブログで書かせていただいたように、あの北条嫡流最後の人=北条氏直(ほうじょううじなお)との離縁を経験しています(11月4日参照>>)

この時、
「家康は父と兄の仇」
との思いが抜けない輝政は、督姫との結婚を何とか断れないか?と忠次に相談していたようなのですが、上記の通り、秀吉の勧めでもある事から、有効な手立ては見つからず、結局、輝政は糸姫と正式に離縁して督姫を継室として迎える事に・・・

しかし、やがて・・・
時は慶長五年(1600年)、あの関ヶ原

男輝政・・・今度は、嫁さんが家康の娘である事が功を奏します。

その縁でバッチリ德川についた輝政に従い、忠次も東軍の一員として岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)攻め(8月22日参照>>)など美濃を転戦しました。

おかげで、戦後は、輝政は姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)52万石に大加増・・・筆頭家老となった忠次も三木3万7000石を与えられ、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)築城に関して、輝政から総奉行を命じられたのです

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姫路城:5層7階の現在の天守は、池田輝政が慶長六年(1601年)から8年間の歳月を費やして完成させました。

こうして恒興&輝政父子2代に渡って忠誠を尽くした伊木忠次は、慶長八年(1603年)11月10日 、病を得て61歳でこの世を去りますが、

その晩年、姫路に大幅加増された事によって、新規の家臣を召し抱える事に必死になっていた輝政に対し、
「新規の家臣を召し抱える事ばっかりせんと、譜代の家臣を労り、大事にせなあきまへんで」
切々と諫言し、

見舞いに訪れた輝政は、この言葉に感激の涙を流しながら大いに反省し、
「忠政の諫言は生涯忘れぬ」
と受け入れたのだとか・・・

忠次の子孫は、池田家が備前岡山(おかやま=岡山県岡山市)に転封となってからも、代々、筆頭家老の職を世襲し、
仙台(せんだい=宮城県仙台市)伊達(だて)に仕えた片倉(かたくら)
阿波(あわ=徳島県)蜂須賀(はちすか)に仕えた稲田(いなだ)
並んで「天下の三大家老」の一つに数えられる一家となり、やがて明治維新を迎える事になるのです。
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2021年11月 2日 (火)

三好長慶&赤松義祐~明石城の戦い

 

天文二十三年(1554年)11月2日、三好勢の加勢を得た赤松義祐が、細川晴元側に属する明石城を攻めました。 

・・・・・・・・・

かの応仁の乱の後、室町幕府将軍に勝るとも劣らない絶大な力を持った管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参照>>)の後継者を巡っての養子同士の争いで、亡くなった父親(細川澄元=政元の養子)に代わって敵対勢力の細川高国(たかくに=政元の養子)を、配下の三好長慶(みよしながよし)とともに倒して(2月13日参照>>)、大永七年(1527年)に畿内を掌握した細川晴元(はるもと)でしたが、

Miyosinagayosi500a やがて細川晴元と三好長慶は袂を分かつ事になり(9月14日参照>>)、天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)にて長慶が勝利・・・

負けた晴元が、足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)を連れて近江(おうみ=滋賀県)に退去した事から、長慶は畿内を制する事実上の天下人となったのでした。

その体制は、
長兄の三好長慶が摂津(せっつ=大阪府北中部+兵庫県南東部)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府南西部)

次兄の三好実休(じっきゅう=義賢)が領国の阿波(あわ=徳島県)をまとめ、

三男の安宅冬康(あたぎふゆやす=安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>淡路(あわじ=淡路島周辺)安宅水軍を引き継ぎ、

四男の十河一存(かずまさ・かずなが=十河氏の養子に入った(5月1日参照>>)が十河氏の讃岐(さぬき=香川県)掌握する
という広範囲に及ぶ物でした。

とにもかくにも、
こうして晴元が近江に退いてからしばらくは、兄弟ともに大きな支配圏を連携しつつ転戦するという盤石な形で守りつつ、父=義晴の死を受けて将軍職を継いだ足利義輝(よしてる=13代将軍)と、晴元が義兄となる縁(義賢の姉が晴元の奥さん)から彼らに味方する六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)と、幾度にも渡って戦っておりました(【志賀の戦い】参照>>)

そんな(=近江)の脅威とともに、やはり三好総出で守らねばならぬのが西(=瀬戸内海)の脅威・・・

そう・・・
阿波や淡路の制海権を握って補給路を確保したい三好長慶にとって、明石城(あかしじょう=兵庫県明石市・枝吉城)に本拠を構える明石(あかし)は、大いに目障りだったのです。

そもそも明石氏は、村上源氏(むらかみげんじ=村上天皇の流れ)の流れを汲む赤松(あかまつ)の庶流(異説あり)・・・

なので、必然的に赤松晴政(あかまつはるまさ=政村・晴政・政祐)が支持する晴元派に属していたわけですが、

この頃は、その赤松自身が、出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ)氏や、

備前(びぜん=岡山県南東部+小豆島+赤穂)美作(みまさか=岡山県東北部)浦上(うらがみ)と配下の宇喜多能家(うきたよしいえ)などに脅かされ、隠居した赤松義村(よしむら=晴政の父)と晴政の2代に渡って、衰退の一途を辿っていました(11月12日参照>>)

この衰退状況を憂いての勢力挽回か?
ここに来て、赤松晴政の息子=赤松義祐(よしすけ)三好長慶に通じて来たのです。

これは三好にとって、明石城を手に入れる絶好のチャンス!

かくして天文二十三年(1554年)11月2日、安宅冬康や三好実休らの加勢を得た赤松義祐が、明石城への攻撃を仕掛けたのです。

まずは、安宅冬康の内衆が先陣となり、そこに三好実休の重臣である篠原長房(しのはらながふさ)が加わって、明石城を包囲します。

対する明石城内は、徹底した籠城作戦でビクとも動かず・・・はなから真冬の時期(旧暦なので)という事もあって、攻める側もムリヤリな力攻めはしなかった事から、年内には大きな合戦に発展する事無く、新しい年=天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)を迎えますが、

その年の正月に、三好長慶自らが出陣して、太山寺(たいさんじ=兵庫県神戸市西区)に布陣して睨みを効かせた事から、この様子を知った明石城方が、大いに恐怖を感じたようで・・・

結局、天文二十四年(1555年)1月13日、
「色々懇望候て曖に成て和睦」(『細川両家記』より)
との城側からの降伏の申し出があり、明石城は赤松&三好の手に落ちたのでした。

とは言え、戦国の世は、明日の事もわからぬ世・・・

この4年後の永禄元年(1558年)に、赤松義祐は、姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)主の小寺政職(こでらまさもと=赤松の分家)の助けを得てクーデターを起こして赤松家内を掌握しますが、追われた父=赤松晴政が逃げ込んだ龍野城(たつのじょう=兵庫県たつの市)主=赤松政秀(まさひで=晴政の娘婿で義祐の義弟)と、長きに渡って対立する事となりました。

一方の三好長慶も、この同じ年=永禄元年(1558年)に勃発した白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、将軍=足利義輝と和睦し、義輝は5年ぶりに長慶のサポートで京都へと戻り(11月27日参照>>)、名実ともに将軍の座に返り咲いたわけです。

さらに、戦国の政情は変化を続け・・・

その翌年に、あの上杉謙信(うえすぎけんしん)関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みとなり(6月26日参照>>)、さらに、その翌年に、織田信長(おだのぶなが)が全国ネットに躍り出る桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)浅井長政(あざいながまさ)が六角氏から独立する野良田の戦い(8月18日参照>>)と続き・・・

戦国の世は、次の段階へと進むことになります。
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